第一章 楽園

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「……失礼なことを言って、すみませんでした。けれど私は、どうしても薬を持って帰らなければいけないんです。私は、あなたの役に立てませんか? 家政婦はいなくなってしまったんですよね? ならば、私を雇ってくれませんか? 報酬として、薬を譲ってください。掃除も洗濯も料理もなんでもします。お願いします! 私を雇ってください!」    要はプライドを捨てて頭を床につける。けれど男はなかなか口を開こうとしなかった。だから要も頭を上げられない。  沈黙の中、空調の音がやけに室内に響いていた。 「あいにく、掃除や洗濯や料理をするやつにはもうあてがある。お前など必要ないと言いたいところだけれど、試してみる価値はあるかもしれないな」  男の言葉を聞いて、要はゆっくりと頭を上げた。 「お前には捨て駒になる覚悟があるか?」 「捨て駒?」 「俺は元々動ける人間を探していた。だからこそお前を中に招き入れたんだ」 「そういえば、最初に会った時、人間違いって言っていましたね」 「ああ。依頼するならば男がいいと考えていた。お前の格好を見て男だと思ったが、女だと知って幻滅した。けれど男も女も覚悟があれば一緒かもしれないと今思い直した」 「私、そこら辺の男の人よりも動ける自信があります!」 「みたいだな。少なくとも俺より体力がありそうだ。それで本題だが、お前にはある荷物を取りに行ってほしい。母親から人形を送ってもらったのだが、途中で配送事故にあいこの家に届かないままなんだ」 「……人形を、迎えに行くんですか?」 「そうだ。それがあると色々と便利なんだ。俺にとって必要なモノで、この先生き残れるかどうかを左右する存在でもある。本当はもっと早く手に入れたかったが、俺は絶対に外に出ないと決めている。だから俺の代わりに取りに行ってくれる人間を探していた」 「その、人形を、どこに迎えに行けばいいんですか?」 「中央公園に落下したようだ。数週間前、無人機が墜落したという噂を耳にしなかったか?」 「そういえば、飛行機が飛んでいると思ったら次の瞬間ものすごい音がしていました。あれは救援物資を運んでいる飛行機が墜落したと思っていたんですけど、その様子じゃ違うんですね」 「ある意味救援物資だ。俺個人あてのな」 「だけど、墜落してしまったのならば物資もグチャグチャになってしまっているんじゃないですか? 中央公園のほうから煙が上がっているのを見ました。だからすべて燃えつきてしまっているかもしれません。仮に無事に残っている物があるとして、もう誰かに回収されているかもしれませんよ。中には様子を見に行った人がいるはずです」  救援物質を運んでいると思ったのは要だけではないだろう。近くに避難していた人が散らばった物資を強奪していても不思議ではなかった。 「安心しろ。人形が入っているケースは重くて、人の力ではとても動かせないし、鍵がなければ開けられない。鍵は後で渡す。とりあえず、物資が無事だと思えなくても行ってもらわなければ困る。報酬は薬と食料と水だ。ちゃんと任務を遂行できれば、他にも上乗せしていい。それで、お前はこの依頼を引き受けるのか? 断るのか?」  要は訊ねられて考える。  この混乱が始まって以来中央公園には近づいていない。今どうなっているのか想像がつかなかった。  だけど、そこにどんな危険があるとしても、薬局やスーパーを転々と回って薬や食料などを探すよりも、男に従ったほうが確実に必要なものを手に入れられた。 「引き受けます。直ぐに行って、帰ってきます」  要が答えると、男は初めて薄い笑みを見せた。 「ならばとりあえず、シャワーを浴びてこい。お前の服は洗濯している。三十分後には乾燥が終わるだろう。身なりが整ってから鍵を渡そう。その恰好で外に出ていくのはただの馬鹿だ」  男は言って要から目を逸らす。  要はそれでようやくシーツがはだけてしまっていることに気づいた。  男はあえてなにも言わないけれど微妙な表情をしている。  要は恥ずかしいし気まずいしで早く男の傍を離れたかった。  シーツを頭から被り、男に言われたバスルームに向かおうと立ち上がる。それから扉に手をかけて、一度男のほうを振り向いた。 「あの、まだ名前を聞いていなかったんですけど、教えていただけませんか?」 「工藤雫だ」 「工藤、雫さん。工藤さんですね」 「雫でいい。今後は敬称も敬語もいらない」 「わかった。私のことは、要と呼んで」  要が言うと、男、雫は小さく頷く。  要は今度こそ扉を開けて、シャワーを浴びにリビングを出た。  ペタペタと足音が響く。  大理石の廊下は冷たくて気持ちがよかった。  今朝まで家の中でも息を潜めて暮らしていたのが嘘みたいに、雫の家では堂々と歩くことができた。  雫は変人だが、この場は楽園に間違いない。  要は色々なことが信じられなくて、どこか夢心地だった。
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