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第一章 楽園
ザクリと、髪を切り落とす。
息を潜めることを意識しているからか、その音はやけに大きく響く。窓を閉め切っているため家の中はとにかく暑くて、ただでさえ緊張している藤崎要の額から大粒の汗がすべり落ちた。
鏡に映るショートカットの女は、要をじっと睨んでいる。
真っ直ぐ切れずにごめんと、要は心の中で女に謝った。
洗面台には通常では考えられないほどの量の髪が山になっている。それは要が小学生の頃から高校二年生の今朝まで伸ばしていた髪だった。痛みにも気をつかっていて、染めたりパーマをかけたりしたことは一度もなかった。親にねだって高いシャンプーを買ってもらっていたし、月に一度は美容院に行って日頃のケアについてのアドバイスをもらっていた。
友達はもちろん、初対面の人に髪が綺麗だねと言われるのが嬉しかった。けれど今、それはすべて過去の話だった。
腰の辺りまで伸びていた髪は、今の要には不要だった。
気合いを入れるため、身を守るために、大切にしていたものをバッサリと切り捨てる覚悟は前日のうちに決めていた。
そしていざ切るにしても、いつもの美容院に行って毛先を揃えてもらう暇などはなかった。そもそも美容院は、随分前に閉店していた。
「要ちゃん、大丈夫?」
背後から声をかけられて、要は軽く下唇を噛む。それから無理に笑顔を作って振り向いた。
「余裕だよ。すごくさっぱりした。涼しいし、今の時期にはちょうどいい。思いっきりいった結果、ちょっと曲がっちゃったけどね。髪を切るのって、結構難しいや」
要は明るく言う。けれど傍に立つ紺野涼吾の表情は硬かった。
涼吾は要の幼馴染である。幼稚園の頃からの知り合いで、クラスは違うものの高校も同じ学校に通っていた。涼吾は今いる要の家から徒歩数分のマンションに住んでいた。
身長は百八十以上あるけれど気は小さい。今も要を心配そうな顔をして見つめていた。一方で涼吾は頭がよく、誰にでも優しい男である。高校では涼吾にアピールする女子がたくさんいた。放課後、他校の女子が校門付近で涼吾を待ち伏せていることもあった。
彼女たちは今、どこでなにをしているのだろうか。
要は高校に通っていた日々のことを思い出して、たった一カ月前のことが懐かしくてしかたなくなった。
八月の初旬、時期としては夏休みの最中で、学校から足が遠のくのも当然である。そうじゃなくても、たぶんもう二度と登校しない。
高校も、先月閉鎖されてしまった。
「……似合ってるよ」
涼吾はようやく現実を受け止めたのか、目を少しだけ細めて言った。
涼吾は元々要が髪を切ることに乗り気じゃなかった。今だって本当は気に入らないのだろう。要は涼吾の不満を察して肩を竦ませる。要にしてみれば、涼吾の言葉が本音でも嘘でもどちらでもよかった。これはファッションじゃない。要は髪を切る必然性があるから切ったのだ。涼吾だってしぶしぶだけれど一度は納得したはずだった。
「髪はいつか伸びるからね。今日からまた伸ばせばいいんだ」
続けて自分を納得させるように呟く涼吾に要は内心呆れていた。
「そうだ。この機会だから、僕も髪を切ろうかな」
涼吾はうっとうしそうに自身の前髪を摘まんだ。涼吾の髪は色素が薄く癖が強い。汗で額やら首にひっついていて、確かに暑苦しいかもしれないと要は思った。
「せっかくだから人生初の坊主にしてみる?」
「いや、涼しそうではあるけど、流石に坊主は嫌だな。里穂はスキンヘッドの人が苦手だし。坊主にしたら嫌われちゃうよ。それに、おじさんの真似をしたみたいになるじゃん。次会った時に絶対からかわれるよ」
要と涼吾はある人物を思い浮かべて、小さく噴きだした。
里穂は涼吾の妹で、まだ六歳だ。里穂が苦手なスキンヘッドの人とは要の父親のことだった。
藤崎家と紺野家は家族ぐるみの付き合いをしていて、月に数回夕食を共にしていた。赤ん坊の頃から顔を合わせているのに、里穂は要の父親に慣れず、抱かれると必ず泣きだしていた。泣かれてうろたえている父親の様子はおかしくて、要と涼吾はいつも笑っていた。
今も記憶は鮮明で、何度思い出しても笑える。
一方で、思い出となった過去は要にとって苦痛でもあった。
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