episode 2.

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「馬鹿なことを言うな。司はまだ6つだぞ。それに、お前の娘を嫁になどできるわけがない」 夕食前に汗を流してくる。そう言って、司とパパは風呂場へと姿を消した。耳をすまさなくても、ご機嫌な鼻歌が2階にまで聞こえてくる。 以蔵を部屋に招き入れてドアを閉めると、可愛らしい鼻歌は向こう側に消えていった。 「何言ってるの? 司は大久保利通とその妾のおゆうの娘。世間の皆がそう思っているわ。血は繋がっていないけれど、司は年の離れた私の妹よ」 何か言いたげに口を開きかけた以蔵を遮るように、私は淡々と話し続ける。 「司を嫁にと言うのは冗談よ。16ならまだしも、6つの女子とは夫婦にはなれないでしょ? そもそも、パパが許してくれないわ。 分かるでしょう? 早くお見合いをして、伴侶を見つけるべきだって言ってるの。何度も同じことを言わせないで 」 「それは俺の台詞だ。俺の幸せを願って言ってくれてるのかもしれないが、完全にお門違いだ。 俺にはお前しかいないんだよ。もう、以前のように愛してくれとは言わない。ただ、お前の傍にいたい。それだけだ。 1番近くでお前を見守らせてくれよ。それ以上は何も望まない。 こんな気持ちを抱えて、お前以外の女と夫婦になどなれるわけがないだろ……。分かってくれよ」 以蔵の問いかけに、私は(おど)けたように肩を竦めてみせる。以蔵が苛立ったように髪をかき混ぜた。 パパに以蔵の見合い話を持ち掛けているのは私だ。以蔵は優しくて真面目だから、必ずや幸せな家庭を築くことができるだろう。 パパも私の意見に賛同してくれた。今やパパの優秀な部下である以蔵が、このまま未婚でいるなんて可笑しな話だ。私のことなど早く忘れてくれればいい。 ——誰とも結婚しないで……。これからも私だけを見ていて。もう1人の私がどこか遠くで叫んでいる。以蔵を抱きしめたいと叫んでいる。悲痛なほどに……。あぁ、可哀想なもう1人の私。 だけど、私は以蔵を抱きしめたりはしない。乱れた髪を元のように撫で付け、ニコリと微笑んで見せる。それだけだ。 「私は、もう昔の私じゃないの。以蔵のことを愛してはあげられないし、傍にいられるのも正直迷惑なのよ。 だから、早く私を忘れて誰かと幸せになって欲しいの。以蔵は私の気持ちを分かってはくれないの? 」 以蔵は苦し気に顔を歪め、分かりたくない。そう言って部屋を出て行った。 以蔵は一体いつから、あんなにも物わかりが悪くなったのだろう。昔は素直だったのに……。 私は小さく息を吐き、ドアに背を向け使い慣れた部屋の中をぐるりと見渡す。 いつもと何も変わらない。何も変わらないけれど——私がこの部屋で過ごすのは、今晩が最後だ。私は沖田さんの元に行く。そして、もう2度とここへは戻らない。
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