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【極光を見たことはあるか】
紳士用のジャケットをミシンで縫っておりますと、ドアについたベルが鳴って、来客を知らせました。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、よく存じ上げるお方でしたので、私は自然と笑顔になっていました。
私がここに店を構えた当初からのお客様です、お会いするのは年に一度か二度ですが、いつも上質な服を所望される大切なお客様です。
伊藤蘭さまです。初めてお会いした時に「甘いお名前ですね」と思わずお声をかけると、すぐに「まあ、仕立て屋さんはお若く見えるのに、意外とお年を召しているのね」と笑われました。
お父様が一世を風靡した女の子三人組のアイドルグループの大ファンだったそうで、娘が生まれたら絶対つけようと思っていたのだと教えていただきました。蘭と言う名を嫌だと思ったことはないそうです、年配の方との話題に事欠かないのだとか。
「今日はいかがされますか?」
きりの良いところまで作業させていただいてから、私は立ち上がり聞きました。
「ええ、今日は」
蘭さまはにこりと微笑まれます、ふわりと優しい笑みは辺りに温かみを増すような気がします。
顔立ちもしかりですが、仕草や立ち振る舞いがとても上品な方なのです、深窓の令嬢とはこの方を指すのだと思ったほどです。
「コートを作っていただきたくて」
寒さが身に染みてくるようになった今日この頃です。晴れた日は暑さもありますが、それも陽が高い時間だけのこと。15時を過ぎると途端に冷えてきます。
今から作れば、本格的な冬を迎えるまでには完成できるでしょう。
「承ります」
念の為採寸から致しました。まだお若いので、そう体形は変わりません。
それからデザインや生地を選ぶため、奥のソファーへご案内いたしました。
アウターのデザイン集をお渡しし、それから紅茶をお出しします。蘭さまはコーヒーより紅茶がお好きなのです。
「どれにしようかしら……」
あれでもない、これでもない、と考えている様すら可愛らしいです。
「これかしら」
指さすそのデザインを見て、私は微笑みます。
「それは、二年前に作ったものとよく似ています」
そう、一昨年の冬にも作ったのです。たった二年で次のものとは……決して流行を追っている訳ではないのですが、まあ、需要はそれぞれですので構いません。
「あら、そうだったかしら。じゃあ、やめましょう」
そう言ってページを捲りますが、また似たようなデザインをお選びです。
そのあとも2,3、そんなことがあり、蘭さまは「うーん」と考え込みます。
「きっとこういうのが好きなのね。いっそのこと、あまり好みじゃないものを……」
「だからと言ってあまり冒険なさるのも。どうせでしたらお気に入りにしていただいて、長く愛用していただきたいです」
好き、イコール大事、と言うものです。ちょっと好みではないものは、そのイコールが消える可能性があります。
「そうよね、うん、そうだわ、もう似たようなものでいいわよね……生地を変えるから」
「もちろん、それは良い手ですが。なぜそうまでして新しいコートを?」
聞くと途端に恥ずかしそうに頬を染めました、こちらまで恥ずかしくなる程です。
「とても寒い所へ行くの」
「とても寒い? ご旅行ですか? どちらへ?」
旅行の為だけにコートを作るとは。重ね着でも良さそうですし、そこまで寒いのでしたらダウンコートのほうが良いのでは。今はかなり値段もお手頃です。
そんな心配をよそに、蘭さまは微笑まれます。
「旅行じゃないわ、永住なのよ。彼が住んでいるの、プロポーズをされたから、彼の腕に飛び込みに」
言われて、私は言葉が出ませんでした。一瞬笑顔にすらなれませんでした。
何故でしょう、彼女が遠くへ行ってしまう。物理的にも心情的にも遥か遠くへ──手が届かない存在になってしまうと思った途端、とても淋しい気持ちになりました。
「──蘭さまにそのような方がいらしたとは」
なんとか声を絞り出しました。
「高校の同級生なんです、特に付き合ったりとは無かったんですけど。彼は高校を出ると写真家として世界を飛び回るようになりました。帰国する度、逢ってはいたんですけど……ああ、ふたりきりの時もありましたけど、大抵は仲間とですよ。その度に世界で見聞きしたものを話してくれたり、お土産をくれたりもして、楽しそうだなって思ってました。そしたら先日、オーロラを見に来ないかと誘われたんです。彼、今イエローナイフに居て」
「イエローナイフ……オーロラで有名なところですね。それは素晴らしい」
「ええ、私も写真でしか見た事なかったから、是非行きたいと答えたんです。そうしたら、来るなら、もう帰さないからその覚悟で、なんて言うのよ」
桃色だった肌を、更に赤くして蘭さまはおっしゃいます。
「でも私、どうもマイペースでしょう? やあね、帰るわよって答えたら怒られてしまったわ。お前にはほのめかすとか匂わせるとか通用しないなって」
笑顔はとてもとても、幸せそうです。
「かっこいいプロポーズくらいさせろよ、なんて」
言ってから、きゃあと言って顔を両手で覆います。まさしく顔から火が出ている事でしょう。
「──オーロラは、極寒の地で、寒い時期ほど綺麗に見えると言いますからね」
私は少しでも話題を変えようと、そんな事を言ってました。
「見たことはあって?」
蘭さまは幸せを顔に張り付けたままおっしゃいます。
「いいえ、私も写真やテレビでしか」
「そうですよね、見れたらご連絡しますわね」
「お待ちしています」
聞いたところで、とは思ったのに、せめてあなたの声を聞けたらなどと思ってしまいました。
「イエローナイフは平均気温でもマイナス20何度なんですって。ですから、ロシアの方が着ているみたいな毛皮のコートみたいのがいいのかしら」
「毛皮は意外と寒いですよ、防風には優れていますけど。多少劣りますが、フェイクファーでよければお作りしましょう。空気の層が蘭さまを守ってくれます。それと発熱素材の中綿を入れて」
「まあ、ありがとうございます」
「いっそのこと、南極越冬隊並みのダウンジャケットがいいとは思うですが」
「それは現地で買ったらいいと、あの人が言っていたわ」
「そうですか、それでしたら……」
それからデザインや生地の話を詰めました。
手元にはない生地でしたので発注します、それが届いてからのお代となることをお伝えし、蘭さまを送り出しました。
蘭さまがいなくなると、明かりが、いえ暖房が切れたような気がしました。元々明かりも暖房もついてはいなかったのですが。
さて、なにはともあれ型紙から始めましょう。なにやらぽっかりと空いてしまった心を埋めるには働くのが一番のようです。
遠い異国の地で、あなたをしっかり温めるコートを──あなたが凍えないよう、真心こめてお作りします。
終
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