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麺のこし
二週間ほど経ったころだろうか、変化は突然現れた。私はいつものように店のドアを開けた。
カランカラン。
「イラッシャ、イマセ……」
おいおい、どうした? かちこちになって。
今日のあんちゃんはまるでオープン当日かというような、緊張して強張った表情をしている。
「中で」
私がこのとき葱抜きと言わなかったのは、ただのいたずら心である。今日はあんちゃんが出すそのままのうどんを食べてみたい。なんとなく、そう思ったのだ。
それは爆弾となって返ってきた。
――なにこれ。
目の前に置かれたどんぶりを見て、開いた口が塞がらなかった。汁が全く見えないほどに葱が山盛りになっている。
え、これ何かの間違い? と思って店内を見回しても、よりによって今日は客が私しかいない。
あんちゃんを見ると、店の入り口の方をちらちらと見ながら落ち着きなく動いていて、私の視線には気づきそうもなかった。
仕方がないから、そのまま口にする。
こしが強い。強すぎる。噛むたびに口のなかがぎゅっぎゅっと鳴る。噛みすぎて顎が痛い。それなのに、出汁は薄すぎるくらい薄くって、なんだかちぐはぐな味。
正直言ってあまり美味しくはない。いままでこの店でいろいろな味を口にしてきたけれど、一度も美味しくないと思ったことはなかった。
あんちゃんの緊張がうどんからじかに伝わってくる。こっちまでどきどきしてきた。
あらあら、こんなに緊張しちゃって、いったい……
そのときだった。カランカラン、という音と同時にあんちゃんの視線が入り口に釘付けになったのは。
「…………」
謎の沈黙が店内に流れる。
「……どうも」
あんちゃんが何も言わないので、お客さんの方から挨拶がされた。店の入り口に立っているのは、私と同じくらいの歳の育ちの良さそうなお嬢さん。
それがあんちゃんの意中の人だとは、すぐに分かった。なぜなら、あんちゃんの顔が耳まで真っ赤だから。
「ひっ、いっ、いいいいらっしゃいませ」
あんちゃんは硬直したまま、それだけ言った。あらまあ、声裏返しちゃって。
「えっと、おすすめので」
あら、お嬢さんにはメニューがないこと言ってないのね?
「は、はいっ。サイズは?」
「小で」
「かしこまりました!」
なんで敬礼してんのよ! 私は吹き出しそうになるのを必死で堪え、自分のうどんを急いで平らげた。
かたくてかたくて、顎が悲鳴をあげそうだったけれど、そんなのはおかまいなしだ。
本当はすごーく気になるけれど、せっかく他の客もいないことだし、邪魔者はさっさと退散しないとね。
ごちそうさまを言いながら、彼女の前で口にするわけにもいかないので、私はあんちゃんに心の中でエールを送る。
あんちゃん、がんばれ。
空気を読まずに流れている"Love Me Do"をバックに、私は店を出た。
オフィスに戻ってから、洗面所で痛い顎を開けていつもより念入りに歯を磨いた。じゃないと、私のあだ名は今日から葱女になってしまう。
鏡に映った歯ブラシを咥えた自分の顔を見ながら、私はもう一度心の中でエールを送った。
あんちゃん、がんばれ。
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