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香る出汁の匂い
はあ、まったく課長は人遣い荒すぎ。女だから細かい作業得意だろって、いつの時代の偏見よ。
悪態をなんとか脳内に閉じ込め、ため息をつきながらオフィスを出るのは、もう日常茶飯事となってしまった。
入社して三か月。最初のころは歓迎会だなんだといろいろ行事もあったが、もうさすがに落ち着いている。
朝八時から働いて、正午からのお昼休みには外に出るのが私の日課。最近の行き先はもっぱら、あのお店。
カランカラン。
ドアを開けると同時に鼻の奥まで香ってくるかつお出汁の匂い。それだけでいくらでも涎が垂れてきそう。
「イラッシャイマセッ」
全然似合ってない頭にタオルを巻いたあんちゃんが、勢いよく挨拶してくる。
狭い店内に流れる、ビートルズの曲。この店は、元ヤンが抜けきっていない感じのこの若いあんちゃんが、一人でやっている。
「中。葱抜きで」
私はいつもと同じように注文をして、空いている席に座った。カウンターしかなくて、席は全部で十。いまは四人が座っている。うどんを食べているのが二人と、出来上がるのを待っているのが二人。この人数なら五分もすれば出てくるかな。
二か月前、はじめてこの店にきたときは、注文の仕方が分からずに戸惑ったものだ。何せこの店にはどこにもメニューが書かれていないのだから。
この店のメニューは毎日変わる。そして一日たった一種類。
決まっているのは、うどん、ということだけ。つまり、毎日日替わりうどんしかメニューがないのだ。
逆に言えば、来るたびに味が変わり、それも注文して出来上がるまで何が出てくるか分からない。他の客が食べているのでだいたいの予想はつくけれど、味は食べてみないと分からない。
かつお出汁が香る薄めの味。ショウガの強く効いたきつい味。山椒のぴりぴり効いたしびれる味。ざるうどんの日やカレーうどんの日もある。食べるまでのお楽しみ。それが楽しくて、飽きずに毎日このお店に来てしまう理由のひとつであった。
はじめて来たあの日は、新入社員説明会では猫を被って優しそうにしていた上司の、化けの皮が剥がれた日だった。理不尽なことを言われて落ち込んでいた私は、ここの担々うどんが辛すぎて、出てきた鼻水と涙をそのせいにしたんだっけ。
以来、私はこの店の常連となっている。
私がこの店に通いつめてしまうもうひとつの理由は、このあんちゃん。実年齢は知らないけれど、見た目がちょうど私の弟くらいで、ついついかわいく見えてしまう。
それに加えて、この店のうどんの味は、あんちゃんの感情が駄々洩れなのである。少し食べれば、ああ昨日はいいことがあったのねとか、誰かと喧嘩してちょっと怒ってるねとか、すぐ分かってしまうのだ。気になって仕方がない。
ふんふん、と客前でも気にもせずにビートルズの鼻歌を歌っているところも、また何ともほほえましい。いまは"Let It Be"、日本語でいうと、あるがままに。まさにこの店らしい曲で、噴き出してしまいそうになる。
プロとしてはどうかという意見もあるのだろうが、ともかく私はここのうどんとあんちゃんが気に入ってしまい、ほぼ毎日通ってはうどんの味を楽しみながらあんちゃんをこっそり見守っている。
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