51人が本棚に入れています
本棚に追加
3
「あ、北城さん」
男は休憩室で先輩の北城を見つけて声を掛けた。休憩室のテーブルには海外のファッション誌が置かれ、その一冊に手をかけていた北城が顔を上げる。
「時田、なんだよニット帽なんか被って。今日は休みか? あ、飯貝さんに呼び出されたか。あの人、お前のことお気に入りだからなぁ。俺が持っていったイタリア製のストールさ、お前が持っていったら買ったんだろ? あからさま過ぎねぇ?」
有名デパートの外商の先輩後輩の仲である。会えば何が流行るとか情報交換もするが、先輩の北城はもっぱら客の愚痴になる。それを笑顔でかわして、時田はポケットから指輪を取り出して北城の前に置いた。
「見てもらえますか?」
時田が言うのとほぼ同時に北城の手は大振りの指輪を掴んでいた。そして、内側の刻印やら、石の輝きをチェックしだす。
「うわ、なんでこれ石にキズついてんだよ。勿体ねぇ。ジュエリーヤマって老舗のあれだろ?」
「敵対的TOBで買収されたところですよね」
「そうそう。四代目の娘が社長に就いて直ぐに乗っ取られたって話だよな」
北城は指輪を掴んだまま、これまたテーブルに置いてあった新聞を引き寄せて、その記事を人差し指で叩く。
記事自体はそこまで大きくはないが、外商の端くれであれば知らないはずはない。交通事故で亡くなった先代夫婦の一人娘が老舗のジュエリーブランドを急遽任された話。ドタバタしている隙に乗じて、アメリカの大手企業に買収されたのだ。
追い出された若き女社長は新ブランドを立ち上げる予定だと記事は締め括られていた。
「海外でデザインの勉強して帰ってきたらこれだもんな……ちょっと気の毒だ。しかも美人らしいよ、その人。今頃泣いてるんじゃない? 慰めてやりてーわ」
時田は指輪を返してもらう為に手を差し出した。北城は「本物だよ。キズが残念すぎるけど」とダイヤモンドに走った傷を無念そうに見つめていた。
あんな場所から投げるから……。時田はダイヤモンドに付いたキズを親指でなぞってから、元のポケットにしまいこんだ。
泣いてはいなかった。むしろ笑い上戸の酔っぱらいだった。
繊細な光を放つ、強き石のように美しい女性だ。少々ツンツンしているのもそれっぽい。
「キズも味です。個性ですよ」
時田が言うと北城が訝しげに「あ? お前、頭大丈夫か?」と本気で心配するから、時田は力を抜くように笑いを洩らした。
「あ、先輩。チョコレートの旨いやつ手にいれたいんですけど、オススメありますか?」
「ん? 『これまで誰も味わったことのない、最高のチョコレートを探してる』とか言うなよな。そう言うことは客だけでお腹一杯だ」
「あはは。そんなかんじです。自分で探しますけどね、一年あるし」
「期限付きなのか? 一年あればなんとかなるか?」
返された指輪をそっと握りながら「一年って案外短いですけど」と時田は微笑んだ。
頑張ると力強く誓ったあの人に最高のご褒美を。時田は指輪をしまいながら、来年のクリスマスを心待にしている自分に苦笑いし、持っていたチャコールのニット帽を被り直した。
364日。
次に会う日までのカウントダウンが始まった。
人生はなにがおこるかわからない。だから楽しい。
時田は足取り軽く休憩室を後にした。
最初のコメントを投稿しよう!