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第8話
コトリ、と目の前にいい香りのする紅茶が置かれた。
誰にどう連れて来られたのか、いつの間にか備品管理庫からゆうずい邸の一室へと場所が移っていた。
アンティークな細工の施された長方形のテーブルを、楼主、般若、怪士、飯岡、そして蓮水で囲んでいる。
能面を着けている男衆を除いた三名の前には、薔薇の紋様のティーカップが配され、そこから湯気が立ち上っていた。
蓮水はそれに口を付けるでもなく、ただ、爪を噛んでいた。
カリ、カリ、と歯を当てて、大して伸びてもいない薬指の爪を齧る。
やめなさい、と隣から伸びてくる手があった。
「みっともないですよ」
そう言ったのは飯岡だ。
書類上だけは蓮水の秘書という位置づけの男は、整った顔に特段の感情を乗せることもなく、ただ淡々と、蓮水の唇から手を遠ざけさせた。
蓮水は落ち着きなく視線をうろつかせた。
なにをどう見ていいのかわからない。
これは現実なのだろうか。
今日という日を……弟と再会する日を、蓮水は何度も思い描いてきた。
大人になった弟を上手く想像できずに、頭の中では彼は子どもの姿のままだった。
蓮水とはあまり似ていない、勝気そうな瞳。
その目を、涙で濡らしながら。
兄ちゃん! と叫んで一目散に駆け寄ってきて……ぎゅっと、蓮水に抱き着いてくる弟。
迎えに来るのが遅いよ、と怒った顔をして。それでも顔いっぱいで笑ってくれる弟。
そんな空想しか、できていなくて。
忘れられてるなんて。
一度たりとも考えたことがなかった。
あんなふうに突き飛ばされるなんて……。
「わかったか」
不意に低い声で問われて、蓮水はハッと正面に座る男を見た。
気づけば口元にはまた指先があって、無意識に爪を噛んでいたのだと気づく。
蓮水は肉の色が見えそうな手を遠ざけ、煙管をゆらゆらと動かしている楼主を睨みつけた。
「なにがですか」
「手前の弟は、男娼じゃなく、男衆として雇ってんだ。男衆は売買の対象にはなりゃしねぇ。身請けなんて、そもそもできねぇんだよ」
ふぅ、と紫煙を吐いた酷薄な唇が、そう言った。
蓮水はこぶしをテーブルへと振り下ろした。ダンッ、と鈍い音が鳴り、ティーカップの中の液体が揺れた。
「説明しろっ」
しゃがれた声が、喉奥から漏れた。
「蓮水さん」
飯岡が、咎めるように蓮水を呼んだが無視した。
「どういうことか、説明しろっ」
もう一度、こぶしを叩きつける。
今度は紅茶が零れた。
びしゃっと飛び出たそれが、蓮水の手に掛かった。
「暴れるんじゃないよ。まったく……会わせる前に説明でもしてあげてれば、少しはこころ構えができただろうに……」
般若の窘める言葉の後半は、楼主に向けられたものだった。
目元をひくりと撓めて、楼主が吸い口に唇を寄せた。
「言ったって信じやしなかったろうさ。この手のタイプには現実を見せるのが手っ取り早い。なぁ、レンゲ。おかげでよくわかっただろう? 弟は手前を待っちゃいなかったってことが」
弟は蓮水を待っていなかった。
それどころか兄の存在を忘れていた。
それをくっきりと告げられて、蓮水の心臓は鋭く貫かれた。
胸の痛みに、体が震えだす。
なぜ、という疑問だけがぐるぐると脳裏で渦巻いていて、思考が上手く働かなかった。
「嘘だよ」
とろりと甘い声が、耳に吹き込まれた。
なにを言われたのかがわからずに、蓮水は茫然と顔を上げた。
視線の先には、般若が居る。
彼は、紬の袂から白いハンカチを取り出し、それを蓮水へと差し出してきた。
そうされて初めて、自身の頬が涙で濡れていることを知る。
蓮水の代わりに、飯岡がそれを受け取り、やわらかな布地を蓮水の目元に押し当ててきた。
「あの子はきみを待っていなかったわけじゃない」
あの子、と弟をそう表して、般若が面越しに声を聞かせた。
「般若。余計なことを言うんじゃねぇよ」
「レンゲに自殺でもされたら、あなたも夢見が悪いでしょう。いいかい、レンゲ。あの子は」
「般若!」
楼主がよく通る響きで般若を叱責した。
しかし、鬼女の面の男は黙らなかった。
白い手をひらりと動かし、長い髪をかき上げて。
彼は静かな口調でそれを蓮水へと教えてくれた。
「あの子はゆうずい邸に連れて来られて間もなく、風邪をこじらせて高熱を出したそうだよ。色んなことが重なって、肉体も精神も限界だったんだろうね。意識不明の状態が一週間ほど続いて……目を覚ましたときには、これまでの記憶をきれいさっぱり失くしていたんだってさ」
蓮水は、涙で濡れた目を見開いたまま、般若の言葉を聞いた。
弟が、記憶を失っていた……。
蓮水だけでなく……両親のことも忘れたのか。
幼い兄弟を残して、自分たちだけで旅立ってしまった、両親のことも。
「そのときの高熱が原因で、右足に麻痺が残った。それから……知能の遅れも見られている。きみもさっき彼と話して思っただろう? アンバランスな話し方だって。医者によると、彼の知能は十歳に満たない程度だそうだよ」
記憶喪失、という衝撃を消化しきれていない蓮水へと、般若がさらに新たな事実を告げてくる。
蓮水は息苦しくなり、胸を大きく喘がせた。
父と母が首を吊って死んでいる場面を目撃し。
なにが起こっているかよくわからぬままに淫花廓へと連れて来られ。
兄とは引き離されて。
たった、ひとりで。
高熱にうなされ、たったひとりきりで……どれほどこころ細かったことだろう。
幼い弟の苦しむ姿が眼裏にありありと思い起こされて、蓮水は肩を震わせて泣いた。
泣きながら、他人事のような顔をしている楼主へと、中身の入ったままのカップを投げつけた。
楼主は余裕の表情で、飛んでくるカップを避けた。
壁にぶつかって、白い陶器が割れる。
紅茶が、壁面を伝って絨毯へと流れた。
「危ねぇなぁ」
「なぜ」
「あん?」
「なぜ、弟がそんな目に遭っているときに……オレを呼んでくれなかったんですかっ」
ふつふつと湧いてくる怒りで、目の前が赤く染まるかのようだった。
「なぜオレに会わせなかったっ! し、知っていればオレは……」
「手前になにができた」
冴え冴えとした刃を連想させる声音で、男が吐き捨てた。
「医者でもねぇ手前に、なにができたって言うんだ? 過去のことをグダグダ言ってんじゃねぇよ。おまえが駆け付けたところで、なにが変わるわけでもねぇ。時間を戻せるわけでもねぇんだ。しょうもねぇことで煩うな」
この男は……。
蓮水は楼主の、この世の深淵を覗き込むかのような深い色の瞳を凝視したまま、唇を噛み締めた。
この男は、ひとでなしだ。
そう思った。
ひとではないから、蓮水の痛みがわからないのだ。
蓮水はふと、昔よく耳にした楼主の口癖を思い出した。
『男娼は商品だ。ひとじゃねぇ』
そうだった。
蓮水も散々、物扱いをされてきた。
男娼がひとではないのなら。
それを管理するこの男もまた、ひとであることを辞めたのだ。
ひとでなしだから……いまも平然とした顔で、温度のない目で、蓮水のことを眺めているのだ。
「レンゲ」
能面のごとく、感情を見せない表情で。
男が煙管をカツっと灰皿に打ち付けて、蓮水を呼んだ。
「手前の弟はもう居ねぇんだ。諦めな」
ひとでなしが、静かな声で囁いた。
悪魔のように、いっそ、やさしげに……。
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