第9話

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第9話

 蓮水(ハスミ)は肩で息をした。  乱れた呼気がなかなか戻らない。  苦しい。   息が、苦しい。  目元に押し当てられていた白いハンカチを、飯岡の手から奪い取る。  乱暴にそれを投げ捨てて、蓮水は秘書の脇にあったバッグを掴んだ。  中身をぶちまけるようにして探り、目当ての通帳を見つけるなり、楼主へとそれを放った。    和服の男の胸に、パシっとぶつかった通帳が、膝の上へと落下した。  楼主がそれをつまみ上げ、 「なんの真似だ」  と低く問うてくる。  蓮水は椅子をガタリと鳴らして立ち上がった。  涙で濡れた目で、ひとでなしの男を睥睨し、口を開く。 「弟は、連れて帰る」 「手前(テメェ)に耳はついてねぇのか。男衆の売買はできねぇって言ってんだ」 「は男娼だ」 「あん?」  楼主の眉が、怪訝に寄せられた。  蓮水は握りしめたこぶしで勝手に流れる涙を拭うと、テーブルに身を乗り出し、腕を伸ばして向かいの楼主の胸倉を掴んだ。  枯野(かれの)色の和服に、しわが寄るのも構わずに、強く強く締め上げる。  楼主は平然とした顔をしていた。    音もなく立ち上がった怪士(あやかし)面の男を、てのひらで制して。  楼主が蓮水の目を見返してくる。  蓮水は半身を卓上にほとんど乗り上げて、男の耳元で低く囁いた。 「あなたなら、男衆ひとりの処遇ぐらい、好きにできるでしょう」 「どうしろってんだ」 「弟を男娼にしてください。オレはそれを買う。金はいくらでも用意できる」 「……図体がでかいだけのガキを、背負(しょ)い込めんのか」  切り込むような鋭さで、楼主がそう言った。   「財部(たてべ)の莫大な資産を継いだばかりの手前の周りは、敵だらけだろうが。そんな状況で、あいつを背負い込めんのか」  蓮水は至近距離で男と睨みあった。  襟首を掴んでいる手が、細かく震えている。   「手前を兄と認識もできねぇ、大人なのは見た目だけのガキだぞ。そんな奴に巨額をつぎ込むなんざ、馬鹿のすることだ。いまのおまえにゃ過ぎる荷物だろうが。引け。引いて、あれのことは忘れろ」 「オレの弟だっ!」  苛烈な叫びで、蓮水は楼主の言葉を遮った。  男の胸倉を揺さぶって、同じセリフを繰り返す。 「オレの、弟だ」  涙がぼとぼとと落ちた。 「だからオレが買う。オレと同じ値段でいい。足りないなら、いくらでも払う。だからオレに……家族を返してくれ……」  これでは泣き落としだ。  そう自覚したが、目から零れるしずくを止めることもできずに、蓮水はひくっと喉を詰まらせながら、楼主へと懇願した。  男の鋭い双眸が、不快げに歪んだ。  チッと舌打ちを漏らした楼主に、肩を突かれる。  背後から伸びてきた手に、両の手首を掴まれた。怪士面の男衆だ。  巨躯の男に背後から抱き込まれるような形で、蓮水は楼主から引きはがされた。 「手前が決めな」    ちからなくされるがままに元の席へと座り込んだ蓮水へと、楼主の恬淡とした声が向けられた。 「…………え?」 「男衆に名はねぇ。奴を男娼として買うというのなら、あいつの男娼名は手前で決めろ」    蓮水は茫然と、涙の膜で揺らぐ視界に、楼主の酷薄な顔を映した。    どういう意味だろうか。  蓮水に、弟の身柄を渡してくれるという意味だろうか。  蓮水は咄嗟に、馴染んだ音を口にしていた。 「れ、レンゲ、で……」  楼主の片眉が軽く持ち上がった。  不機嫌な色を眉間の辺りに漂わせたままで、男が小さく鼻を鳴らした。 「ふん……。あのガタイだ。所属はゆうずい邸になるから、漢字表記だな。……蓮華なんて色はねぇだろうが……まぁいいだろう。書類を作らせる。しばらく此処で待ってな」  楼主はおもむろに立ち上がると、なめらかな身のこなしで退室していった。  パタンと閉まる扉を、蓮水はただただ見つめていた。    飯岡が、楼主がテーブルに残していった通帳を拾い上げ、蓮水が散らかしたカバンから実印などを取り出して、契約の準備をし始める。  整った顔には特段の感情は浮かんでおらず、取り乱しているのは自分だけなのだと蓮水は強く意識した。    そうだ。  誰も彼も部外者だ。  蓮水の気持ちは……どうしても弟を取り戻したいという想いは、誰にもわかってもらえない。  蓮水はひとりだ。  縋りつく相手なんて居ない。  震える唇を噛み締め、蓮水は目元を拭うと、背すじを伸ばして姿勢を整えた。  何度も深呼吸をしているうちに、(たかぶ)っていた神経が平らになってゆく。 「あのひとはね」  とろりと甘い声が、静かに響いた。  般若面の男が、こちらを向いている。面に邪魔されて、その視線の向く先は曖昧だ。  テーブルに軽く肘を置き、頬杖をついた格好で、般若が口を開く。 「楼主は、男娼が大事なんだよ」     楼主を擁護するようにそう告げた般若を、胡乱な目で蓮水は眺めた。  あのひとでなしの男が、たかが商品を大事に思っているはずがない。  蓮水の内心の呟きが聞こえたのか、細い肩を揺らして般若が小さく笑う。 「確かに、男娼は商品だと言うような碌でもない男だけれどね。金儲けのことしか考えていない守銭奴だと、僕もかつては思っていたよ」  ふふ、と吐息するような笑い方と、その声に、やはり既視感を覚えて、蓮水は目を細めた。  誰だろう。この男は。  蓮水の知っている人物なのだろうか。 「あのひとは、男娼に不要な荷物を背負(せお)わせたくないんだ。淫花廓(ここ)では、規律(ルール)をまもる限りあの男の庇護下にある。楼主に、まもられているんだよ」  般若の言葉に蓮水は冷笑を漏らした。  蓮水が『レンゲ』だった頃、まもられているなんて、欠片も感じたことなどなかった。  それともひとではなく商品(モノ)扱いをすることが、まもることだとでも言いたいのか。   「男娼は、楼主のものだからね。他の誰にも傷つけられないように、目を光らせている。それは、身請けされた後も同じだよ」  能面の、くりぬかれた孔の向こうの目が、自分のそれと合っているのかどうかもわからずに、蓮水は彼の嫋やかな印象の指がひらりと動くのを見た。  般若の面が、彼自身の手によって、上へとゆっくりとずらされた。  隠れていた赤い唇が、あらわになる。  般若の口元は、艶美な微笑みを浮かべていた。 「楼主はおまえに、覚悟を問うたんだよ、レンゲ」  唇の端に、ホクロがある。  白い肌と、赤い唇と、黒いホクロ。  それらすべてから、滴るような色香が感じられた。  これは……。  この、口元は……。 「……アザミ、さん……?」  眉を顰めて、蓮水は問いかけた。  ふふ……と般若がまた笑う。  すぐに元の位置へと戻された面に覆い隠されてしまったけれど……ホクロが特徴的なあの口元は、かつてのしずい邸の一番手だった、アザミのものだった。    けれど般若はそうだとも違うとも答えずに、カタリと音を立てて立ち上がる。 「僕も昔、あの男に覚悟を問われた。欲しかったものに、安直に手を伸ばした僕に……(くるわ)の規律を破るだけの覚悟があるのかどうか、試されたものだよ。淫花廓で、軽々しく火遊びをして……火傷を負うのは男娼自身なんだ。楼主はそんな要らぬ傷を男娼に作りたくないんだよ。レンゲ。楼主の言う通り、おまえの弟はもはや弟にはなり得ない。おまえのことを忘れてしまっている、体だけは成熟した子どもの存在は、おまえには重荷になるだけだよ」  (さと)すような般若の言葉に、蓮水はつっけんどんな口調で返した。 「余計なお世話です。あなたはあのひとでなしの味方なんですね」 「楼主の擁護をしているつもりはない。レンゲ。僕はおまえを諦めさせるために呼ばれて、ここに居るんだよ」 「…………なぜそれをオレに暴露するんです」 「ふふ……。僕は常々、あの男は過保護だと思っていたからね」  過保護、とは楼主のことだろうか。  あまりに似つかわしくない単語に、蓮水は呆気にとられてしまう。 「おまえはずっと、弟のことを思って生きてきたんだろう? それを他人に諦めさせられるなんて、あんまりだよね」  蓮水の傍らまで歩み寄ってきた般若が、白い手を、蓮水の頭の上に乗せた。  子どもにするように、髪をやわらかく撫でられて。  蓮水は咄嗟にその手を振り払おうとしたけれど、しなやかな感触が、思いのほか心地よかったから。  ただ、鬼女の面の恐ろしげな金色の瞳を、見つめることしかできなかった。   「おまえには、傷つく権利がある」    般若の声が、鼓膜を揺らす。  傷つくことを前提に話され、蓮水はゆるく首を振った。 「一緒に暮らせば……弟は、オレを思い出すかも」  ポツリと漏れたのは、期待だった。  そうだ。蓮水は期待をしている。  離れ離れになっていたから、弟は蓮水を忘れてしまったのだ。  離れていた時間を埋めるほどに、蓮水が傍に居続ければ、きっと……。 「その可能性は低いよ」  甘やかな声で、般若が無慈悲なことを言った。 「おまえの弟だった期間よりも、男衆として淫花廓に居た時間の方が長いんだ。ここまでくると、記憶は戻らない可能性の方が高いと、医者も言っている」 「でも! でも、オレは……」 「レンゲ。だから(・・・)楼主は、おまえを遠ざけようとしたんだよ。……いまならまだ、間に合う。諦めても、誰もおまえを責めないよ。おまえ自身が、決めていい」  弟を買い取るという話を白紙にするかどうかを問われ、蓮水は今度こそ般若の手を払いのけた。  パシっと鋭い音が鳴る。  一歩を下がった般若の肩を、いつの間にそこに居たのか、巨躯の怪士面の男が支え、蓮水から般若を隠すように立ちはだかった。  蓮水は椅子に座ったままで、ふたりの男衆を睨み上げた。 「オレの弟です。オレが引き取ります」  きっぱりとした声音で宣言する。  そこに迷いはない。  ない、はずだ。  蓮水は両のこぶしを握り締めた。 「……どうにもならなくなる前に、頼っておいで。淫花廓(ここ)は、だから」  怪士の背に隠されたままで、般若が声だけを聞かせた。  彼の放つ音は甘く……怪士に隔たれたからだろうか、奇妙に遠くにとろりと響いた……。  
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