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第11話
蓮華が泣き止むまで、蓮水は彼の頭を撫で続けた。
蓮華が子どもだったならば、蓮水の体ぜんぶで、抱きしめてあげれたのに。
いまは蓮華の方が大きくて。
蓮水はひょろひょろと細い自分の腕を憎んだ。
こんな手でハグしても、すぐに突き飛ばされて仕舞いだと思われた。
ドン、と容赦のないちからで突かれた胸の痛みは、まだ完全になくなってはいない。
だから余計に、怖かった。
さほど広くもない車の座席で、横並びに座っている。
距離は近いはずなのに、髪を撫でる以上の慰めを、与えることができない。
蓮華は、握りこんだ右手を唇の傍に持ってきて、べそべそと鼻をすすりながら、小さく口を動かしていた。
なにをしているのだろう?
不思議に思って、項垂れている男の横顔を凝視した。
また唇が動いた。
声もなく、蓮華がなにかを言っている。
たすけてください。
蓮華は、右手に握りしめたなにかに向かって、そう繰り返していた。
蓮水は泣きたくなった。
けれどそうはせずに、喘ぐように深呼吸をすると、もう一度蓮華の少し硬めの髪を撫でた。
「なにを、持ってるんだ?」
般若は、蓮華の宝物だと言っていたけれど……彼のこぶしの中になにが閉じ込められているのかが気になって、蓮水はやさしく問いかけた。
蓮華がハッと横目で蓮水を見て、手をますます強く握りこむ。
「見せて」
蓮水はパーにしたてのひらを上に向けて、蓮華の前に差し出した。
蓮華が躊躇もあらわに、蓮水の顔と自身の右手を交互に見た。
「盗らないから、見せて」
重ねてそう言うと、涙に濡れた黒い瞳が、三度瞬いて……蓮華が、おずおずと右手を開いた。
握ったそれを、蓮水のてのひらに乗せることはせずに。
関節の張り出した、男らしい指を、ゆっくりと緩めて。
蓮華の宝物を、蓮水に見せてくれた。
そこにあったのは、澄んだグリーンのビー玉だった。
「ぼ、ぼくの、宝物。こ、これに、お願い事すると、叶うの」
たどたどしい口調で話した蓮華が。
ビー玉をぎゅっと握って、また手の中に隠した。
そして、指に唇を付けて。
お願い事を、囁いた。
「ぼくを、お家にもどしてください」
その声を聞いた瞬間。
蓮水は激しい怒りを感じた。
血が沸騰したかのように、腹の奥がカッと熱くなる。
蓮水は衝動のままに蓮華に躍りかかった。
男の手首を掴んで、無理矢理に指をこじ開ける。
「なっ、なにするのっ」
蓮水の突然の暴挙に、面食らった蓮華が悲鳴を上げた。
「やめろっ、はなせっ、やだっ、やだっ」
蓮華の左手が、蓮水を押しのけようとしてくる。
しかし蓮水は、自分でも驚くほどのちからで、ビー玉を握る男の指を一本一本引きはがした。
蓮水はころりと丸いそれを、蓮華の手からもぎ取った。
勢いのまま、反対側のドアを探り、性急な手つきでウインドウを下げた。
音を立てて下りてゆく窓ガラスの、その隙間から。
蓮水は奪い取ったビー玉を、投げ捨てた。
背後から肩を掴まれる。
あ、と思う間もなく、ものすごいちからで引き倒された。
後部座席で、蓮水に圧し掛かる体制になった蓮華が、腕を振り上げた。
男のこぶしが、頬にめり込んだ。
ゴツッと殴打され、目の前に星が散る。
口の中が切れて、血が溢れた。
痛みにのたうつ蓮水を跨いで、蓮華が窓の隙間に指を突っ込んだ。
「うわぁぁっっ」
雄たけびのような声を上げてがむしゃらにそこを揺らす蓮華に、運転手が焦ったような目を向けてくる。
「止めてください」
飯岡の冷静なセリフが水の中のように奇妙に間延びして聞こえた。
蓮水は、殴られた頬を抑え、口腔内に広がる血を顔を横へ向けて吐き出した。
車がゆるやかに止まった。
さほど交通量のない、渓谷沿いの道だ。
歩行者なども居ないから、バンバンと窓を叩く蓮華を気にする目もなかった。
「開けろっ! 開けろっ!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、蓮華がちから任せに暴れていた。
それを、助手席からシートベルトを外した飯岡が、体を捻って制止しようとする。
「やめなさい。落ち着きなさい」
冷静な彼の声は、蓮華の耳には届いていない。
「ぼっ、ぼくのっ、ぼくの宝物っ」
窓を殴りながら泣く蓮華を、蓮水はぼやける視界の中で見上げた。
頬が熱い。じんじんと痺れている。
座席に半身を横たえている蓮水の口元は、真っ赤だ。このぶんではシートにも血がついているだろう。
背もたれ越しにこちらを見る飯岡と、目が合った。
飯岡は、呆れを隠さずに鼻を鳴らすと、
「なにをしてるんですか、あなたは」
と冷たい声を聞かせた。
蓮水は瞼を閉じた。
目の端から涙がこぼれおちた。水滴は血と混じり、赤い線を作って顎を伝ってゆく。
鉄の味が、気持ち悪かった。
蓮華はひとり、暴れ続けた。
車が壊れてしまうのではないかと運転手は肝を冷やしたようだが、頑丈な車内は傷つくこともなく、窓ガラスも割れたりはしなかった。
やがて、蓮華の息が上がり、体力が尽きた頃。
車から降りた飯岡が、蓮華とは反対側の後部座席のドアを外から開いた。
蓮華は窓の方を向いて深く項垂れたまま、動く気配を見せなかった。
飯岡は、蓮水の両脇の下へと腕を入れ、車中から蓮水を引っ張り出した。
よろよろと覚束ない足取りで立ち上がった蓮水を、助手席へと座らせ、シートベルトを装着し、ウェットティッシュを手に持たせると、今度は飯岡自身が蓮華の隣に腰を下ろした。
飯岡の手が、蓮華の和服の背を撫でる。
「いい加減、泣き止みなさい」
慰める色もなく、いつもの調子で男が言った。
飯岡がハンドタオルを蓮華の顔に押し付けるのを、蓮水はミラー越しに見ていた。
騒動が落ち着いたと判断した運転手が、エンジンを入れ、アクセルを踏んだ。
引っ張り出したウェットティッシュで口元を拭うと、それが真っ赤に汚れる。
蓮水は丸めたティッシュをカップホルダーの中に捨て、新しいものでもう一度拭いた。
冷たい感触が頬に心地よい。
早くも腫れてきたのだろうか、左の頬は皮膚が分厚くなったかのような変な感触であった。
蓮水が顔を清めている間に、飯岡は蓮華を手懐けていた。
後部座席の様子を伺うと、蓮華が飯岡にしがみついて泣いていたのである。
なぜだ、と蓮水は苦渋に目元を歪めた。
蓮水には縋ってこないくせに、なぜ、飯岡の肩で泣いているのだ。
蓮水の苛立ちが伝わったのか、飯岡が整った双眸をスッと細めて、唇を小さく動かした。
「あなたが意地悪をするから、敵だと思われているんですよ。あれがこのひとの宝物だと、知っていたでしょう?」
問われて、蓮水は視線を前へと戻した。
背もたれに深くもたれかかり、窓から捨ててしまった緑色のガラス玉に、思いを馳せた。
坂道を転がり落ちたビー玉は、どこへ行っただろうか。
道端の草に埋もれてしまっただろうか。
それとも崖を落下して、川にポチャンと落ちただろうか。
透明感のある、小さなグリーンのビー玉。
太陽の光を当てると、時折プリズムを放ち、虹色に輝く丸いガラス。
あれが宝物だと知って……我慢ができなかった。
だってあのビー玉は。
両親の死んだあの日に、れんげ畑に落ちているのを見つけて。
蓮水が弟に、あげたものだったから……。
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