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第14話
ひとに刃物を向ける、というのは初めての経験だったが、蓮華の足元に据えた包丁は、震えたりはしなかった。
蓮水が一歩を踏み出すと、玄関の扉が邪魔をしてこれ以上下がりようのない蓮華が、ずるずると腰を抜かした。
彼の黒々とした瞳が、怯えの色をありありと浮かべて蓮水を見上げてくる。
そんな顔を、させたかったわけではないのに。
でも蓮華だって、淫花廓に戻るよりも、兄である蓮水と暮らしたほうがいいに決まっている。
「じっとしてろよ」
蓮水は囁く声音で、そう口にした。
蓮華がやめてというように、首を横に振った。
恐怖に強張った唇が、いやだ、と声もなく動いた。
へたり込む蓮華の前に、膝をついて。
男の左の足首を掴んだ。
着物の裾を割って、張りのあるふくらはぎが覗いた。
引きずって歩く右足よりも、左の方が太い。
その逞しい足で蓮水を蹴り飛ばせば、簡単に逃れられるだろうに、蓮華の思考は完全に止まってしまっているようで、彼はただ震えるだけだった。
上手く切れるだろうか。
どこの部位を狙えば腱が切れるのかなんて、まったくわかっていなかったけれど、蓮水は躊躇もなく逆手に持った包丁を振り上げた。
「やめなさい」
厳しい声とともに、背後から手首を掴まれた。
目だけをそちらに向けると、飯岡の端整な顔があった。
やめなさい、と男が繰り返した。
マネキンの、口だけが動いているかのような錯覚に陥り、蓮水は何度も瞬きをした。物の見え方がおかしい。目に映る世界が歪んでいる。
気づけば息が上がっていた。獣のような息遣いだと、他人事のように思った。
飯岡が、蓮水の手から包丁を奪った。
その瞬間に、蓮華が泣き出した。
うわあぁぁん、と、声を上げて、子どものように。
玄関が濡れている。
包丁を向けられた恐怖のためか、そこから解放された気の緩みのせいか、蓮華が失禁したのだった。
尿臭が鼻をついて、ああ掃除をしないとな、と蓮水は思った。
水を流して、雑巾できれいに拭き取らなければならない。
そう考えているのに、脱力した体が動かない。
先ほど壁にぶつけた頭部が、いまさらのように痛み出した。
ガンガンとした痛みの中、苦しくて苦しくて、胸を喘がせながら蓮水も泣いた。
兄弟二人して、玄関に座り込み、涙を流す。
していることは同じなのに、二人の間には果てもない隔たりが存在して。
蓮水は泣きながら、弟を見つめた。
蓮水と視線が合うと、蓮華は「ひっ」と肩をビクつかせ、両膝を抱え込んで大きな体を小さく丸めた。
「蓮水さん」
飯岡の手が、蓮水の腕を掴んで上へと引っ張った。
蓮水は男のちからを借りながら、萎えた足を踏ん張り、なんとか立ち上がった。
「頭を冷やして、寝てきなさい」
冷静な秘書の声にそう促されたが、視線が蓮華から離れてくれない。
いま、彼から目を逸らしたら。
弟がまた、どこかへ行ってしまいそうな気がして……蓮水は首を横へと振った。
「この方は私が見ておきます。風呂に入れて、部屋に連れていきます。あなたは先に寝てなさい」
「…………でも」
「蓮水さん。寝なさい」
飯岡が命じた。
その声の強さに引き寄せられるようにして、蓮水はようやく蓮華から視線を引きはがした。
ふと見ると、飯岡の手に包丁がない。
どこかに隠してきたのだろう。卒のないことだ。
蓮水は秘書に手を引かれ、寝室へと連れていかれた。
蓮華ひとりが玄関に残されていることが気がかりだったが、男に抗うだけの気力がどこからも湧いてこなかった。
ベッドに寝かされ、羽毛布団をかぶせられる。
部屋の明かりは落とされた。
暗闇の中、飯岡が無言で出ていった……と思ったら男はすぐに戻ってきて、蓮水の後頭部に手を差し込んで頭を持ち上げると、そこになにかを差し込んだ。
そっと、頭の位置が戻される。
頭皮にひんやりとした感触がした。アイスノンを置かれたのだと、気づいた。
頭を冷やして、とは、冷静になれということではなく、頭部をぶつけたから冷却しろという物理的な意味だったのだと、遅ればせながら蓮水は悟った。
「……れんげ、が」
「いいから寝なさい。ちゃんと引き留めておきますから」
飯岡にきっぱりと言い切られ、蓮水は瞼を下ろした。
泣きすぎて、目が熱い。
蓮水の前髪を、飯岡の指先がそっと掻き分けた。
ほのかな体温は、すぐに離れていった。
さびしい、と思った自分に、蓮水は驚いた。
誰でもいいから、いま、抱きしめてほしかった。
大丈夫だと言って、体温を分け与えてほしかった。
蓮水は布団の中で体を丸めた。
恐ろしいほどの虚脱が全身に圧し掛かっている。
息苦しさに耐え切れず、唇を開いた。
弱音が漏れそうだった。
固く目を閉じて、早く出て行ってくれ、と願う。
飯岡の気配が遠ざかり、パタン、と寝室のドアが閉じる音が聞こえた。
蓮水はホッと吐息した。
傍に居てほしい、なんて。
滑稽な望みを口にしなくてよかったと心底思う。
飯岡に言ったところでどうせ、「契約の範囲ではありません」と言われてしまうだけだ。
蓮水は両腕で自分を抱いた。
ここには蓮水しか居ないから。
自分で自分を抱きしめるしかなかった。
弟と一緒に居たい。
弟をしあわせにしたい。
蓮華を引き取ったことを……後悔なんてしたくない。
両親のように、捨てたりなんて絶対にしない。
そう、思うのに。
なぜもっと上手く振る舞うことができないのだろうか。
なぜ、やさしさだけを上手に掬って、こころの時間を止めてしまった弟へと差し出してあげることができないのだろうか。
目が覚めたら蓮華に謝罪する。
ちゃんと謝って……蓮華の背を、やさしく撫でてあげるのだ。
……般若が、そう、していたように。
蓮水は蓮華の兄だから。
それができる、はずだった。
瞼の奥がまた濡れた。
溢れる涙をシーツが吸うに任せて、蓮水は目を閉じ続けた。
次に目が覚めたときにはもっと、まともな自分になっているはずだと。 そのことだけに、望みを繋いで……。
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