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第15話
真夜中に覚醒した。
部屋の灯りを点けて、体を起こす。
側頭部がずきりと痛んで、そこをてのひらで覆った。瘤ができている。
寝室を出ると、リビングには壁際の間接照明だけがオレンジ色に灯っており、しんとした静けさに満ちていた。
蓮華はどうしたのだろうか……。
不安になって、蓮水は蓮華のために用意した部屋の扉を押し開けた。
リビングから漏れる光が、ドアの隙間から筋となってフローリングの床を這う。
蓮華のベッドには、小山のような盛り上がりがあった。
黒い短髪が布団から覗いており、健やかな寝息がそこから聞こえてくる。
弟が居なくなっていなかったことに、蓮水は安堵を感じた。
驚いたのは、床に布団を敷いて飯岡が寝ていることだ。
蓮華の見張りをしていてくれたのだろうか……。
整ったその寝顔に光が当たらないよう、蓮水は慌ててドアの隙間を小さくした。
室内に入ることも躊躇われて、蓮水はしばらくの間、寝ている二人を立ち尽くして見ていた。
ごそり、と蓮華が寝返りをうつ。
壁際からこちらと向きを変えたけれど、布団に隠れて顔は見えなかった。
蓮水は物音を立てぬよう、ひそやかな動きでドアを閉じた。
そして、自分の部屋から掛布団を持ってくると、蓮華の部屋の前に座り込み、布団で体を覆いドアにもたれて目を閉じた。
ここに居れば、朝になって蓮華が逃げようとしても気づけるだろう。
蓮水は子どもの頃の弟の顔を思い出しながら、眠りの世界が落ちてくるのを待った。
二度目の覚醒は、背を預けていた壁が急に動いたことで促された。
驚いて咄嗟に重心を移動させると、
「なにをしているんですか」
という呆れ声が降ってきた。
背後を振り仰ぐと、ドアの隙間から飯岡の顔が覗いていた。
「そんなとこに居ると邪魔ですよ」
蓮水がなぜドアの前で寝ていたのか、理由を問うことはせずに、秘書は常と変わらぬ口調でそう言った。
寝起きでも涼やかな目を、ほんの少し細めて。
飯岡が蓮水の顔を見て唇の端を歪めた。
「ひどい顔ですね。頭が大丈夫なようなら、シャワーを浴びてくるといい。朝食は作っておきますよ」
バスルームの方を指さされ、蓮水はのろのろと腰を上げた。
固い床の上に長時間座っていたので、あちこちが痛んだ。
「おさんどんは、契約の範囲なんだ?」
泊まり込みで蓮華を見張ってくれた男に、お礼の言葉を言うつもりだったのに、蓮水の口からぼそりと零れたのは憎まれ口で。
それを聞いた秘書が肩を揺らして笑った。
「さて、どうでしょうね。それより着替えを貸してください。確か、新品の衣類を用意してましたよね」
飯岡の言う通り、ここに弟を迎え入れるにあたり、フリーサイズの衣類などが準備してあった。
飯岡はスレンダーではあるが、蓮水よりは上背があり、蓮水のものではサイズが合わないだろう。
蓮水は視線をリビングの奥へと流し、荷物置きとなっている部屋を示した。
この家にあるものの大半は飯岡が手配したものなので、それを把握している男は勝手知ったる様子で遠慮もなくそちらへと足を運んで行った。
蓮水は自身の着替えを取りに一度自室へと戻り、浴室へと向かう。
洗面所の鏡に映った自分の顔を見て驚いた。
なるほど、ひどい顔と言われたわけだ。
蓮華に殴られた場所は青紫に変色し、唇も腫れていた。
おまけに目の下には隈が浮き、一晩で急に老け込んだ印象があった。
蓮水は鏡から目を背け、バスルームに入ると熱いシャワーを浴びた。
湯が、口角にできた傷に染みたが、構わずに髪と体を洗った。
ボディソープの泡とともに、昨日の醜い自分がすべて洗い流されればいいのに、と思った。
シャワーを終えた蓮水が洗い髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、テーブルについている広い背中が見えた。
蓮華が起きていたのだ。
和服からスウェットへと、彼のまとう服は変わっている。
そういえば飯岡が蓮華を風呂に入れると言っていたなと蓮水は思い出した。バスルームに行くときにちらと見た玄関もきれいになっていたし、失禁の匂いもまったく残っていなかった。
そのすべてを飯岡がしてくれたのだと思うと、この男に抱いていた印象が少し変わる気がした。
飯岡は財部の秘書で……つねに財部と行動をともにしていたような男で……蓮水のお目付け役で。
徹頭徹尾、契約書の内容に準じるような男であったから。
だから昨夜、この男が泊まり込んでくれたことが、蓮水にとっては心底意外な出来事だったのである。
その飯岡が、いまはカウンターキッチンの内側に居る。
男の手にはフライパンがあった。
飯岡が、蓮華になにか話し掛けるのが見えた。
「目玉焼き!」
蓮華の明るい声が響いた。
飯岡が頷き、卵を手に取った。
……と、ふと彼の目が動いて、リビングの入り口に佇む蓮水の方を見た。
「あなたはキッチンに立ち入り禁止ですよ」
発された言葉に、蓮水は眉を顰めた。
恐らくは蓮水がキッチンから包丁を持ち出したことを示しているのだろう。
蓮華の足の腱を切ろうとするなんて、考えれば考えるほど昨日の自分はまともではなかった、と蓮水はこみあげてくる苦い感情を舌の奥で磨り潰した。
飯岡の声につられたように、蓮華がこちらを振り向いた。
弟の黒い瞳が、一度見開かれ。
慌ただしく席を立った蓮華が、右足を引きずりながらキッチンへと駆け込んでゆき、飯岡の背に隠れた。
飯岡が小さく鼻を鳴らして肩を竦める。
「蓮華さん、離れてください。目玉焼きが作れませんよ」
「……だって、あいつ、ぼくのこといじめるから……」
「あいつじゃなくて、あなたのお兄さんですよ」
「……ちがうよ。あんなやつ、知らないもん」
パーツのはっきりした男らしい顔を不機嫌に歪めて、蓮華が唇を尖らせた。
その黒々とした目には拒絶と警戒の色がくっきりと宿っていて、蓮水は、自業自得とはいえ蓮華のその態度に深く傷ついた。
「自業自得ですよ」
充分に自覚していることを秘書に言葉にされて、頭にカッと血が上る。
しかし、怒りのままに行動しては昨日の二の舞になってしまう。
蓮水はゆるゆると息を吐きだして、昂る感情を逃がした。
蓮華が怯えないように、蓮水は静かな動作でテーブルへと足を運び、先ほど蓮華が座っていた席の斜め向かいに腰を下ろした。
そして、軽くテーブルを叩いて、
「蓮華、こっちへおいで」
と弟を呼ぶ。
飯岡の背後に隠れた蓮華は、むっつりと唇を曲げて、黙って首を横へと振った。
「一緒にご飯を食べよう。おいで、蓮華」
蓮水は落胆を声に乗せないように気を付けながら、もう一度彼を誘った。
しかし蓮華は動かない。
「席に座らないと、目玉焼きはあげませんよ」
飯岡が蓮華へと話しかけながら、卵をカンカンと二度叩いて、熱されたフライパンの上に落とした。
ジュッ、とそれが焼ける音がする。
続けて二個目、三個目の卵を飯岡が割った。
蓮華は、どんどんと白くなってゆく白身の部分を少しの間見ていたが、
「いらないっ」
と言うと、蓮水の方を見ることなく、自分の寝ていた部屋へと戻り、そこに閉じこもってしまった。
飯岡が皿を用意しながら、慰めるようにでもなく、蓮水へと淡々とした声を聞かせた。
「彼にしてみればほとんど誘拐と変わらないでしょうし、まぁ、長期戦を覚悟するんですね」
言われなくてもわかっている。
初動を失敗したのは蓮水自身だ。
蓮華だっていまはああだけれど……いずれわかってくれるはずだ。
淫花廓なんて場所よりも、蓮水のところに来たほうが良かったと、そう思ってくれるはずだ。
内心で自分に言い聞かせたけれど、未来の想像がまったくできずに蓮水は、ただ悄然と項垂れた。
いつか笑顔で蓮華と食卓を囲むことができるだろうか。
……かつてのように。
唇を噛み締めた蓮水の前に、白い皿が置かれた。
そこにはきれいな形の目玉焼きが乗っている。
まん丸のオレンジ色の半熟の黄身が、太陽のようだった。
蓮水はそこに、フォークを突き立てた。
形が崩れ、どろり、と中身が溢れて、皿を黄色く汚した。
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