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第16話
蓮華をこの家に連れてきてから、蓮水の鈍感力は磨かれた。
たとえば、おはよう、という言葉に返事がなかったり。
朝に握ったおにぎりが、手つかずのままでテーブルの上に残っていたり。
買ってあげたばかりのゲーム機を壊されたり。
淫花廓から唯一身に着けてきた着物ばかりに袖を通したがったり。
そういった蓮華の行いにいちいち傷ついていては、生活が成り立たない。
だから蓮水は鈍感であろうと努め、蓮華に対しては笑顔で接することを意識した。
初日と同じ轍は踏まない。
これ以上蓮華に嫌われるような真似は絶対にするまいと、自身を律した。
飯岡が泊まり込んだのは最初の日だけだったが、それ以降彼は、日に一度は食事を作りにマンションを訪れた。
キッチンの包丁を没収したからである。
蓮華に刃物を向けるようなことは二度としない、と蓮水が誓ったにも関わらず飯岡は、
「あなたはカッとなるとなにをするかわかりませんからね」
と、半眼になってそう言った。
「大体あなたは、普段から感情をため込みすぎなんです。重役連中の前ではネコをかぶって大人しくしているくせに……あなたに弟の足を切ろうとする激しさがあるなんて、知りませんでしたよ」
腕まくりをして米をとぎながら、飯岡が感心しているのか苦言を呈しているのか判別のつかない口調で蓮水へと話しかけてくる。
蓮水は手持ち無沙汰にカウンターの前に立ち、眉を顰めた。
蓮華を連れてきてすでに二週間が経過しているが、この男にはきっとあのときの修羅場をこうして揶揄われ続けるのだろうなと思うと、気分が悪かった。
「オレが大人しくしてなかったら、おまえだって困るくせに」
蓮水はぼそりと、そう言い返した。
飯岡がとぎ汁をシンクに流しながら、片眉を上げてこちらを見てきた。
「なぜ私が困るんです?」
「オレが失脚したら、おまえも失業するし」
「……蓮水さんは私のためにいまの地位をまもっているのですか?」
「……違うけど」
真顔で問われて、蓮水は首を横に振った。
蓮水が財部正範の後継者という地位にあり続けるのは、飯岡の職をまもるためでは勿論ない。
蓮華を養うためだ。
こころの成長を止めてしまった、体だけは大人の、子どものままの弟を。
淫花廓を『家』だと言って、お家に帰りたいとべそをかくあの子は、まともな仕事になんて就けないだろうから。
彼の今後一生を、蓮水は背負う覚悟だった。
その蓮水だって、男娼として遊郭で二十四までを過ごしてきたため、学もなければ役に立つ資格もない。
使えるのはこの体だけで……いまのうちに将来の分も貯めておかなければならなかった。
蓮華にはなに不自由ない暮らしを、させてあげたいから……。
「蓮華さんのためなんでしょう?」
蓮水の考えなどすべてわかっているとでもいうような声で飯岡がそう口にして、にこりともせずに言葉を繋いだ。
「なら私の処遇まで気を回していただかなくても結構ですよ。それに私は、財部翁からたんまり給金をいただいてますからね。失業したところで痛くも痒くもない」
洗い終えた米を炊飯器にセットして、飯岡がスイッチを入れた。
そして、メニューの相談もなく今度は野菜を切りだした。
トントンとリズミカルに包丁を動かす男を、蓮水は見るともなく眺めた。
飯岡が財部にいくら貰っていたのか、財部の死後になにか金品は相続あったのか、彼に関してはわからないことだらけだ。
そもそも飯岡は会社に雇われたわけではなく財部個人が雇用しており、二人の間でどのような契約が交わされているのか、詳細は誰も把握していないのだった。
いまこうして食事の支度をしているのも契約の範囲なのだろうか?
蓮水は内心で首を傾げ、しかし男にそれを問うたところではぐらかされるだけだろうと、質問を飲み込んだ。
背後で物音がした。
蓮水が振り返ると、蓮華が部屋から出てきたところであった。
蓮華は、蓮水と目が合うと露骨に眉間にぎゅっとしわを寄せる。
けれど黒い瞳がおどおどと揺れていて、昨日のことを後悔しているのだなと蓮水は感じた。
昨日……蓮水は会議があるからと重役に呼び出され、行きたくもない会社に顔を出した帰りにケーキを買って帰ったのだ。
蓮華と一緒に食べようと思い、寝室にこもっている蓮華へとケーキの箱を抱えて声をかけ……飛んできた枕が当たって箱を落としてしまった。
落下したケーキはぐしゃぐしゃで、スポンジも生クリームも箱の中でつぶれていた。
それを見た蓮華は、悲しげに目を曇らせて……口をもごもごと動かした。
ごめんなさい、と言おうとしているのだと、蓮水にはわかった。
蓮華は……体は成長しているし、蓮水や家族のことは忘れてしまっているが……たぶん、根っこのところは蓮水の知る弟のままなのだと、蓮水は思う。
明るくて素直で……兄ちゃん兄ちゃんと懐いてきた、あの頃のままだと。
ただ単に蓮水が、そう思いたいだけなのかもしれない。
自分が見たいようにしか、ひとは世界を見ることができないから。
目の前にいる男と幼かった弟の共通点を無理やりに見つけ出して、やはりこれは弟だと自分を思い込まそうとしているだけなのかもしれなかった。
「蓮華。夕飯、なに食べたい?」
蓮水の問いかけに、蓮華がぷいっと顔を背ける。
そして、右足を引きずりながらキッチンへと入り、飯岡の手元を覗き込んでくんくんと鼻を鳴らした。
「なに作ってるの?」
「野菜炒めですよ」
「ぼく、人参嫌い~」
「嫌いなひとには倍入れますよ」
「嘘。好き~。大好き! ぼく人参大好き!」
「そんなに好きならたくさん入れてあげますね」
カウンターの内側で、飯岡と蓮華が他愛のない会話を交わしている。
蓮水のことは毛嫌いしているくせに、蓮華はすっかりと飯岡に懐いていた。
蓮水は、飯岡に向けられる蓮華の笑顔を、胸苦しいような思いで見つめた。
蓮華が笑っていて嬉しい。
その思い以上に、オレにも笑いかけてほしい、という浅ましい願いがふつふつと湧いてくる。
いつか蓮水にも笑ってくれるだろうか。
幼いころのように、えへへ、と顔いっぱいに浮かぶ笑顔を、蓮水に見せてくれるだろうか。
蓮水は無意識に、服の胸元を握り締めていた。
蓮水と、蓮華と飯岡の二人の間にあるカウンターが、どうしても超えられぬ壁のようにも思えて。
蓮水はゆっくりと瞬きをした。
鈍感でいろ、と自分に言い聞かせる。
オレはなにも感じていない。
傷ついたりはしない。
鈍感でいろ。
鈍感でいろ。
鈍感でいろ。
三度繰り返して瞼を持ち上げる。
見えた世界は、先ほどとなにひとつ変わってはいなかった。
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