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第1話
好色な目が、向けられている。
蓮水はそれに構わずに、配られた資料に目を落とした。
書かれている内容は、正直よくわからない。
けれど、この会社の役員会で、一番の上座を与えられる立場上、資料を手に取らないわけにはいかなかった。
蓮水のその虚勢を、ここに居る全員がわかっている。
だから、縦長の長方形のテーブルにずらりと並んで座っている狸爺たちの口元には、なんとも言えぬ嘲笑が浮かんでいるのだった。
蓮水は今月頭に突然死した、財部正範の後継者として、いまこの場に座していた。
財部ホールディングスと言えば、百貨店事業や専門店事業などで名を馳せ、安定した収益を挙げている巨大企業である。
蓮水は、齢二十七にして、取締役会会長のポジションを与えられた。
完全なる、お飾りの会長であった。
蓮水が分不相応な椅子に座っている理由は、ここに居る全員が知っている。
故・財部正範が巨額を投じて買い上げた、元男娼。
愚かにも男娼に入れあげた財部は、周囲の反対を押し切り、養子として蓮水を財部の籍へと入れた。
そして、自分になにかあったときはこの養子にすべてを託す、という遺書をご丁寧に残し、ある朝冷たくなっていたのだった。
斯くして蓮水は、ただ財部の一存のみで、望みもしないこの地位を与えられたわけである。
他の役員連中が、財部の遺言とはいえあまりに無謀なこの人事を受け入れたのは、蓮水が無知であること、傀儡として利用しやすいこと、そして……蓮水自身を好きに『使える』ことが理由であった。
蓮水は、A社の株価がどうの、M&Aがどうの、という退屈で意味不明な会議の終了を、陰鬱な思いで待つ。
今日はこの後、何人の爺どもを相手にしなければならないのだろうか。
会社に来たっていいことなどひとつもない。
こんなろくでもない場所で時間を費やすよりも……『あの家』にずっと閉じこもっていたかった。
蓮水は家に残してきた男のことを想って、ふ、と唇をわずかにほころばせた。
彼は甘いものが好きだから、生クリームたっぷりのケーキを買って帰ろう、とこころに決める。
チョコレートも、プリンも、最高級のものを用意しよう。
両手に抱えきれないほどのお土産を持って帰れば……。
今日こそは、彼の笑顔を見られるかもしれない。
蓮水は束の間、瞼を閉じた。
彼の笑った顔を思い浮かべようとして……失敗する。
つらくなって、苦悶に眉を寄せた。
バサリ。
紙の音が響いた。
驚いて目を開けると、絨毯の上に資料が落ちていた。
いけない。
呆っとしていた。
蓮水の右斜め前の席に座っていた60代の男が立ち上がり、ゆったりと歩み寄ってくると、蓮水の代わりに落ちた紙の束を拾い上げた。
すみません、と小さく頭を下げると、近付いてきた男の唇が、耳元でささやいた。
「ずいぶんと気を散らしているね。この後のお楽しみのことでも考えているのかな」
くく、と喉奥で笑った男の手が、いやらしい手つきで蓮水の肩を撫でた。
そして、ついでのように鎖骨の下へと滑り、スーツの襟元から忍び込んだ手が、シャツ越しに胸の粒を探る動きを見せた。
蓮水が身じろぐと、何事もなかったかのように男の手が離れてゆく。
その様を、テーブルを囲む全員が目を細めて観察していた。
蓮水は暗澹たる吐息を、そっと漏らした。
早く帰りたいという蓮水の願いは、叶いそうにもなかった……。
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