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第7話
庫内は広々としていた。
蓮水がしずい邸で男娼として働いていた頃は特に疑問に感じたことなどなかったが、廓で暮らす人間が居る以上、日用品類などが収納される倉庫があって当然だった。
しかし、淫花廓は現世からは隔たれた世界である。
その空間を演出するために、生活感のあるものは、客はもちろん、男娼の目からも巧みに隠されていたのだった。
たとえば、呉服屋の車を見ることはあっても、八百屋や肉屋などが納品してくる場面に出くわしたことがない。
食料品だけでなく、日常で使う消耗品なども、誰かが買い出しに行ったり、白いスーパーの袋を下げていたりするのを目撃したことなど、ただの一度もなかった。
恐らくは、専用の通路などがどこかに用意されていて、そこを通って運搬されたものが、この物資管理庫に集められているのだろう。
蓮水はしかし、自分がなぜこのような場所に連れてこられたのかがわからずに、無意味に倉庫の中へと視線をうろつかせた。
数名の能面姿の男衆が、帳簿を見たり棚卸をしたりと動き回っている。
その中にひとり、右足を引きずって歩いている男が目に入った。
足が悪いのなら、重い荷物など運ぶのは難しいだろうに……。
そんなことを思いながら、蓮水は男の広い背中を眺めていた。
「おい」
楼主の発した呼び声が、空気を震わせた。
男がビクっと肩を跳ねさせる、オーバーなリアクションを見せた。
「こっちへ来な」
楼主が指先で男を招く。
「は、はい」
どもりながら返事をした男が、ずり、ずり、と不自由な歩き方でこちらへと歩み寄ってきた。
怪士の面で顔は見えないが、声は意外と若かった。
足が悪いようだから、てっきり年嵩なのかと思ったが……。そういえば面からはみ出ている頭髪も、黒々としている。
……髪……そうだ、この男衆も般若に付き従っている怪士と同じく、髪を生やしている。
蓮水がしずい邸に居た頃と、システムが変わったのだろうか?
けれど他の男衆は皆、頭髪をきれいにそり上げた揃いの外見をしているが……。
なぜ、この男は蓄髪がゆるされているのだろうか。
蓮水の疑問を悟ったのか、般若が吐息のように笑った。
「ふふ……。彼は髪を剃られるのを嫌がってぐずるからね。仕方なく、ああして短くそろえるだけにしているんだよ」
ぐずる……まるで子どもに言うみたいな言葉だな、と蓮水はぼんやりと感じた。
能面の男が、楼主と向かいあう位置で立ち止まった。
楼主も偉丈夫で、着流しのよく似合う体躯をしているが、短髪のこの男衆は、楼主よりもひとまわり大柄であった。般若の連れている黒衣の男よりはそれでも劣ったが、男衆の中でも逞しい部類に入るのではないかと蓮水は思った。
その、立派な体格の男が。
なぜかビクビクと肩を縮めて、体の前で組み合わせた手をもじもじと動かした。
「ぼ、ぼく、叱られる?」
声変わりなどとうに済んでいる低い男の声に、まったく似つかわしくない言葉が、面の下から発された。
それがあまりに意外で、蓮水は呆気にとられた。
しかし楼主は平然とした様子で、般若などは軽い笑い声すら上げている。
「叱られるようなことしてんのか」
楼主の問いに、男がぶんぶんと首を横に振った。
「してないっ。な、なんにもしてないっ」
「ふん……まぁいい。その面を取りな」
「え?」
「顔を見せろって言ってんだよ」
「でも、こないだ、お面してないって怒られた」
「俺がやれって言ったことはつべこべ言わずにするんだよ」
楼主が顎をしゃくって促すと、釈然としないとばかりに黙り込んだ男が、またもじもじと手を動かした。
その、組み合わせた指の動きに、なにか、既視感があるような気がして。
蓮水は爪の短い男の指を見つめた。
「いいから外してごらん。誰も怒らないから」
般若が宥めるようなやさしい声を発した。
それに勇気づけられたのか、男の手が持ち上がり、面のふちに掛かった。
心臓が、ドキドキと鳴っている。
これは、期待なのか不安なのか。
自分の感情がわからずに、蓮水は我知らず息を飲んだ。
怪士の面が。
ゆっくりと、外される。
その下から現れたのは……。
精悍な、若い男の顔で。
蓮水は呼吸すらできずに、その黒々とした瞳を凝視した。
弟だ、と。
そう思った。
彼のどこか幼いような印象の目が、くるりと動いて。
蓮水の視線と、ぶつかった。
喉が熱いもので塞がれ、声が出ない。
ごめん、とも、迎えに来た、とも言葉にできずに。
蓮水はただ、唇を鯉のように開閉させた。
涙が自然と溢れた。
名前を呼びたかったけれど、喉奥が震えて、発音できない。
よろめくように一歩、蓮水は前へ出た。
不意に、肩を掴まれた。
蓮水は体を捩ったけれど、その手は離れなかった。
苛立ちを隠しもせずに背後を振り仰ぐと、怪士面の男の太い腕があった。黒衣の男は手のちからを緩めることなく、蓮水へと静かに首を振ってみせた。
離せ、と、蓮水が怒鳴る前に。
般若のたおやかな声が、響いた。
「そのひと、誰だかわかるかい?」
問われた男が、きょとんと目を丸くして、難しいことを言われたとばかりに首を傾げた。
「え? だれ? ぼくを知ってるひと?」
パチパチと、黒い瞳が瞬く。
激しい落胆が、蓮水を襲った。
わからないのか。
蓮水の顔を、忘れてしまったのか……。
けれど、兄弟が引き離されたとき、弟はたったの七歳だった。
忘れていたった仕方ない。
「お、オレだよ」
喉に絡む声を、蓮水は無理やり押し出した。
「オレだよ。蓮水だよ。おまえの、兄ちゃんだよ」
泣きながら、蓮水は微笑んで。
怪士の腕を振り払って、両手を広げた。
おいで、と言ってこうすれば、弟はいつだって蓮水のところへ駆け戻ってくれたから。
いまも、彼が蓮水を思い出して、飛びついてきてくれると、思っていた。
しかし。
「だれ?」
弟の、困ったように寄せられた眉間のしわは、ゆるむどころかますます深くなり。
本気で蓮水のことがわからない、という表情を、男はしていた。
蓮水の、左右に開いた手が、小さく震えだす。
「は、蓮水だってば。わかるだろ? なんだよ、兄ちゃんの顔忘れちゃった?」
口角を無理やり上げて、蓮水は笑顔を作った。
そのまま、一歩、二歩と弟へ近づく。
蓮水が埋めた距離を、ジリ……と彼は後退することでまた開いた。
蓮水は、ほとんど悲鳴のように、弟の名を口にした。
そうしながら、男へと駆け寄って、がっしりとした二の腕をすがりつく強さで掴んだ。
「お、オレがすぐに迎えに行かなかったから拗ねてるんだろ? なぁ! 変な意地悪やめてくれよ! 兄ちゃんのこと、わかるだろっ?」
蓮水は泣きながら、弟を揺さぶった。
ドン! と激しいちからが胸に当たった。
蓮水は後方によろめいた。
転ぶ前に支えてくれたのは飯岡だった。
蓮水は唖然と、目の前の弟を見つめた。
彼が、蓮水を突き飛ばしたのだ。
「お、大きな声出したら、こ、怖いからっ。あんたなんか知らないっ。知らないから、あっち行けっ」
幼い仕草で、地団駄を踏んで。
男がそう言って踵を返した。
視界が涙で歪んでいる。
足元の床が抜けたような気がして、蓮水は立っていられずに、ずるずるとその場に頽れた。
蓮水の動きに合わせて、飯岡も膝をついた。
彼が後ろから蓮水の肩を支えていなければ、たぶん蓮水は地面に横たわっていただろうと思う。
それほどに、体にちからが入っていなかった。
弟が、早足で蓮水から遠ざかってゆく。
右足を引きずっているから、それでも動きは鈍かった。
いますぐ追いかければすぐに追いつくだろうことは、予測がついた。
けれど萎えた蓮水の足は。
立ち上がる勇気を喪い、ただただ床に、投げされていたのだった……。
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