野球少年 小学校編 2

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
野球少年 小学校編 2 目次 第三章  夢をつぐもの 第四章  夏の陽射し 第五章  岩松兄弟 第六章  祭の日 第三章 夢をつぐもの 1 翌日が大変だった。 僕のクツ箱にも、机の中にも、たくさんの手紙、つまりラブレターやらファンレターが入っていた。 そんなこと、初めてだった。 僕は坊主頭で真っ黒に日焼けしていて、映画にも遊園地にも行かない練習一途の日々を送ってきたのだ。女の子と楽しい話など一度もしたことないし、クリスマスもバレンタインも、ない。まあ、背は高い方だし、顔もけっこういけるかもと思ってトイレに行って鏡をのぞいて見たりした。 そこへ、橋本が入ってきた。 ニヤニヤしながら「あっただろ」と聞いてきた。 「何が」と僕はすまして答えた。 「ラブレターだよ」 「何それ」 僕はごまかした。すると橋本は明るい笑顔で「なんだ。おまえもか」と言った。橋本によると、ふうちゃんがダントツ両手一杯。次にやまちゃん12通。あとはレギュラー全員平均2~3通。ちなみに僕は7通あったから、平均をかなり上回った。内心「うっしっし」という気分だった。しかし、橋本には1通もなかったらしく「あの、まっちゃんでさえ1通あったんだぜ。なのに何で俺にはないんだ」と橋本は嘆いていた。だから僕も仲間だと思って嬉しかったらしい。 「藤井は仕方ないよな。エースだし、確かに昨日はカッコよかったし。それにもともといい男だし。でも松崎はゆるさねえ。俺の方が上にきまっているのに、世の中の女どもは見る目ないよなー」 橋本には気の毒だから、手紙は今日帰ってからゆっくり開いてみることにしよう。 そう思った時、校内放送があった。 「今日の給食後、12時50分には全員体育館に集合してください。野球部の表彰式を行います」 そういえば、2年前の優勝の時もそんなことがあった。壇上の6年生を見て、いつかは僕らも!と思ったものだ。 「おっ、お立ち台だ。そうこなくっちゃあな!言われた通りメダルもちゃんと持ってきたし!」 橋本ははしゃいでいた。まったくゲンキンなやつだ。 表彰式では、先ず教頭先生の挨拶と、吉井先生からの優勝報告があった。そして、表彰状が校長先生からキャプテンのはるちゃんに渡された。優勝旗はふうちゃんに渡されることになって、その名前が呼ばれた時、女の子たちから「キヤー!」という黄色い声があがった。ふうちゃんはもともと隠れファンクラブがあるほどの人気者だ。そしてトロフィーは背番号3の僕が受け取ることになり、名前が呼ばれた。ふうちゃんほどではなかったが、「キヤー」の声があがった。僕は橋本の冷たい視線を感じた。そして、全員が優勝メダルをかけて壇上にあがり、みんなから拍手で祝福された。最後には校長先生から、「みんなも野球部を見習って努力するように」という話があった。 いずれにしてもいい気分だった。 手紙もお立ち台も。 これが監督のいう「勝つよろこび」なんだなあと、その時は無邪気に思った。その日、クラスメイトのみんなには、メダルを見せろとか、手紙は何通もらった?だとか何かと騒がしかった。そんなこんなで、今日の学校は終わった。 2 今日から、1週間だけ野球部はお休みだ。 僕らは鬼監督のおかげで、日曜以外は毎日毎日猛練習をしている。だから、この長い休みがとても楽しみだった。いろいろやりたいことがあった。しかし、いざ休みとなると、何がしたかったのか思い出せない。仕方ないから、とりあえず投げ込みしておこうと思った。それしか、思いつかなかった。 静かなグランドに違和感を感じながら、校門を出ようとした時。 「谷山くん」と呼ぶ声が後ろから聞こえた。 振り返ると見覚えがあるようなないような女の子が立っていた。僕は思わず「誰?」と聞いた。女の子はちょっとむくれた。 「もう。隣のクラスの高浜です」 「高浜さん。で、何か用?」 「そんな言い方ないでしょう。私から声かけるの勇気いるんだからね」 何で話しをするだけなのに勇気がいるのだろうと思っていると、 「手紙、読んでくれた?」と言い出した。 「あ!」 僕の頭に血がのぼってきた。 「どうしたの?」 「あ、ごめん。まだ読んでないよ」 「野球部はすごいよね。優勝しちゃうんだもん」 「そうかなあ」 「そうよ。私は女子ミニバスケだけど1回戦突破がいいとこだよ」 「僕らにはふうちゃんがいるから」 「ふうちゃんて、藤井くんのこと?」 「うん」 「藤井くんは凄いよね。準決勝でノーヒットノーラン?」 「そう。凄かったよ。決勝ではホームラン2本も打つし」 「昨日、女バスのみんなと応援に行ったよ。感動したあ。で、今日もね、クラスの女の子たちが大騒ぎしてたよ」 「ふうちゃんは凄い奴だよ。何度も危機があったけど乗り越えたんだ」 「いいなあ。そんな熱血。私もがんばろうって思うもん」 この子も、バスケで僕らと同じ努力をしている子なのだろうと思った。僕だって、チームメイトががんばっているから、僕もがんばれるのだ。 「決勝で、ピンチになってもみんなで助け合っていて、あんな重くてきつい場面で、藤井くんがホームラン打って。みんながベンチから飛び出して。うらやましかったな」 「がんばれよ。高浜さん。がんばれば、きっとなんとかなるから」 高浜さんは、ぱっと明るく表情になって「そうだね」と笑った。その笑顔はとてもさわやかだった。 「あ、もう練習に行かなきゃ。じゃあね。谷山くん。手紙、読んでね」 そう言うと、高浜さんは笑顔で手を振りながら駆けていった。 感じのいい子だなと思った。色白で、ショートカット。そしてスマートで、さわやかだ。今まで一度も同じクラスになってないから気づかなかった。これからは、たぶんちょっと気になる存在になるという予感がした。 あ!でも、ちょっとまて。まさか手紙には、「この手紙を藤井くんに渡してください」とか書いてあったりしないよな。まさか、そんなオチはないよな。3組といえば、ふうちゃんと同じクラスなんだし。でも、僕はとても気になって、ダッシュして帰った。 家に帰ると、まだ陽が高いのでなんとなく落ち着かなかった。カバンから手紙を取り出してみたが、読む気にはならなかった。 やはり、僕はこれだ。 硬球を握ってグラブを持って再び学校に行った。 先ず、軽く3周ランニングした。 今日は僕の前にも後ろにも誰もいない。 ランニングのあと、いつもの準備体操をやった。 そして、5周の全力ランニングをやった。 やはりいつも通りでないと落ち着かない。でも、キャッチボールはできないから、投げ込みを始めた。今日は時間がたっぷりある。実戦を頭の中でイメージしながらケースバイケースの投球練習をしてみよう。 そうして、結局いつもの時間まで投げ込んだ。 夜。勉強も、いつもの通りにやった。 そうでないと落ち着かなかったからだ。 せっかくのお休みなのに。なあ。そんな気も、しないではなかった。 勉強を終えて、やっと落ち着いたので、手紙を開くことにした。真っ先に高浜さんの手紙を開いた。それにはこう書いてあった。 『谷山くん。はじめまして!6年3組の高浜恵です。 いきなりお手紙を書いてびっくりした?ごめんなさい。でもどうしても伝えたいことがあったから。 昨日私は、クラブ(女子バスケです)のみんなと応援に行きました。 優勝した瞬間は、とても感動したよ。 笑わないでね、実は涙がでてきたんだ。だって、優勝なんて私たちには雲の上のことだし、それに、私たちも遅くまで練習しているけど、野球部のみんなはそれ以上に遅くまでがんばっているよね。そんな姿を知っているから、とても人ごととは思えなかったの。でも私が一番感動したのは、谷山くんがピッチャーをやっていたことです。4年生の頃から本当に遅くまで毎日毎日一人で投球練習(というのかなあ)しているのを私は知っています。はじめは居残り練習をさせられているのだと思っていて、私も補欠だから同情してたんだ。でも「それは居残りじゃない」って春木くんに聞きました。「本人なりに一所懸命にやってるんだろう」って。同情なんかしていた私は恥ずかしくなりました。そして谷山くんが遅くまでがんばる姿を見て、私もがんばろう!と思うようになりました。だから、決勝戦のような大舞台で谷山くんがピッチャーやったのを見て私もうれしくなったんです。谷山くんは、がんばってコーチやチームメイトの信頼を得て、ピッチャーになったんだね。私も谷山くんのようにみんなから信頼される選手になりたいです。まだ補欠だけど、まだまだがんばって、夏の大会には出場したいです。 谷山くんもがんばれ!応援しています。 PS.返事ください!(がんばれ!って言ってくれるとうれしいな)』 「がんばれ!」って、もう、さっき言っちゃったよなあ。 あれでよかったのかなあ。 あれ?昨日僕はピッチャーやったっけ?? あ、ブルペンのことか。 相手を威嚇するだけの役割だったなんて、言えなくなったなあ。かっこわりィから黙っていよう。でも、人からそんなにほめられるのって、うれしいけど、てれくさいなあ。いつもは監督から怒鳴られてばかりだし。でも、高浜さんってやっぱり、いい感じだ。けっこう美人だったし。 その時はじめて僕の心の中に、今までになかった気持ちが芽生えたのかもしれない。 とにかく返事を書かなきゃ。 困ったなあ。なんて書いたらいいんだろう。決勝戦より大変だ! 翌朝、僕は寝不足だった。体が重くて熱っぽい。 返事を書くのに、悩みすぎて結局3時までかかった。でも、僕なりにがんばって書いたつもりだ。高浜さんに励まされたような気がしていたので、心は重くなかった。 登校中、いつものように、ゴムボールを握りながら、つま先立ちで歩いていると、偶然、橋本に会った。 「あら、トロフィーの谷山さんじゃありませんか」 橋本は変な挨拶をした。 僕は嫌な予感がした。 橋本は僕につめ寄ってきて、 「おまえ、トロフィーもらったからといっていい気になるなよ。ポジションがファーストで、背番号3だからなんだぞ」 「わかってるよ」 「いいや、わかってない。わかっていたら何で、手紙のこと俺に隠す?」 何の話かと思ったら、そのことか。 「別に隠してないよ」 「いいや、隠してる。おまえが壇上にあがった時、黄色い声があがっただろ」 「だから、なんだよ」 「俺の調査によると、おまえは6通もらってる。しかもそのうち1通は3組の高浜だ」 僕はあぜんとした。なんでそんなこと知ってるんだろう。正確には7通だが。 「聞いたぞ、昨日、校門のところで高浜と話していただろう」 「べつに」 「ほら!また隠してる!おまえたちできてるのか!」 「ばかなこと言うなよ!」 「むきになるところが怪しい」 「いいかげんにしろ、みんなに報告して、またフルチンするぞ!」 一瞬橋本がひるんだので、僕はダッシュして逃げた。橋本は追ってこなかった。あぶないところだった。 第一、高浜さんとは昨日はじめて話したばかりだし、できているとか、そんなこと考えたこともない。そんなこと、めちゃくちゃ恥ずかしい。 その日、橋本の目が妙に気になって、せっかく書いた返事を渡しそびれた。高浜さん、怒るかなあと思ったが、恥ずかしくもあり、「もう、いいや!」という気になってその日は下校しようと思った。 玄関で、靴を履いていると、「谷山くん」と呼び止められた。高浜さんだ。僕の心はざわめきたったが、わざとにぶい反応で答えた。 「ああ」 「手紙、読んでくれた?」 高浜さんは、笑顔だ。 「読んだよ」 「そう」 僕は気まずくなった。橋本から言われたこともあり、結局逃げようとした後ろめたさもあり。それで、二人はしばらく沈黙した。高浜さんは僕を見つめていた。僕は恥ずかしくてそっぽをむいていた。でも、返事をわたさなきゃ。僕はカバンから取り出した。そして、「応援してくれて、ありがとう。これ、返事だ」とかすれた声で言って渡した。 高浜さんはぱっと明るくなって、 「わあ、ありがとう」と言って受け取った。 「今朝、橋本から言われたんだよな。昨日高浜さんと話してたろうって」 「橋本くんって1組の?」 「うん」 「言わせておけばいいじゃない?」 「でも恥ずかしくないか?そんなの」 「私は、恥ずかしくないよ」 「でもさあ、」 僕は頭をかいた。 「谷山くんは私のこと嫌い?」 「は?いや、嫌いじゃないよ」 「よかったあ。私は谷山くんのこと、好きだよ。また手紙書くから、返事ちょうだいね」 そう言うと高浜さんは、ちょっとはにかむように笑って教室の方へ駆けて行った。 心臓が爆発しそうだった。 決勝戦よりしびれた。 僕の人生で初めてのことだった。 高浜さんのような子を積極的って言うのかなあ。 でも悪い気はしなかった。ちょっと落ち着くと、僕は辺りに橋本がいないか、見渡した。見つからないように、僕はダッシュして帰った。もともと寝不足だったこともあり、その日家に帰るなり、バッタリとベッドに倒れこんだ。 まだ、心臓がバクバクしていた。走って帰ってきたからじゃない。このへんな気持ちを、何と言ったらいいのだろう。大きく寝返りをうって、ふとんを頭からかぶった。どうしても、もやもやして、落ち着かなかった。 書いた返事の内容を思い返してみたりした。けっこう恥ずかしいこと、書いたかもしれない。顔が熱くなった。しばらく悶々としていた。どうしても落ち着かない。だから投げ込みに行くことにした。 いつものように投げ込んで、帰った時には、もうバッタリと眠ってしまった。 「ごめんなさいお母さん。今日だけは勉強できません。ゆるしてください…」 それから、高浜さんは毎日のように僕に手紙を持ってきた。いや、手紙というより交換日記だ。手紙からノートに変わっていた。 僕の日課が増えた。でも、高浜さんの日記を読んだり、僕が書いたりしていると、なんだか僕も「がんばろう」という気になった。 3 さて、練習再開の日。 5年生チームとの練習試合を行うことになった。 これから、5年生チームも対外試合を行う。だから、その調整の意味もあった。 ただし、5年生チームのピッチャーは、ふうちゃんだ。 そして、6年生チームのピッチャーは、僕だ。 僕の調整の意味もあるのかも知れない。 6年生が先攻だ。 1番ガンちゃんは、得意のセーフティをお見舞いした。 5年生は、まだ、うまく処理できないようだ。 ガンちゃんは楽々セーフになった。 2番まっちゃんの初球。 ガンちゃんは走った。 やはり、5年生キャッチャーでは、ガンちゃんの盗塁を阻止できない。 ノーアウト2塁。 6年生ベンチからは「ガンちゃん、お手柔らかに!」という声が上がった。 2球目、まっちゃんは送りバントしようとしたが、ふうちゃんの内角高めの速球を打ち上げてしまった。 ふうちゃんは動かず、3塁手にその捕球をまかせた。 ワンアウトになった。 3番のやまちゃんが打席に入った。 初球、やまちゃんは三遊間を抜くヒット。 ガンちゃんは一気に生還した。 6年チームはいつものように1点先制した。 今日の4番は、僕だ。 初球。 外角低めのストライク。 その球を見て、 「ああ、今日はふうちゃん、本気じゃないな。5年の守備練習のために打たせるつもりだ」 と思った。いつも1塁から見ているから良く分かる。 2球目。 やや外角高めの打ち頃の球がきた。 おそらく、浅い外野フライをねらった球だ。 でも、僕は遠慮しなかった。外野フライではつまらない。思いっきり叩いた。 その打球は、外野の金網を直撃し、ローカルルールでホームランとなった。 3塁をまわる時、ふうちゃんと目が合った。 ふうちゃんは、笑っていた。 ふうちゃんが心から笑うときに見せる、無心で涼しげな笑顔だった。僕も笑顔を返して、ガッツポーズした。 6年生チームは、これで3点だ。 5番は、田中だ。 ふうちゃんは、今度はひっかけさせる外角低めのストライクを投げた。しかし、田中は無理に引っ張らず、1・2塁間を抜く強い当たりを打って出塁した。 田中も気づいていたと思う。でも、遠慮していては僕らにも5年生にも練習にならない。 6番は、白石だ。 僕が4番ピッチャーに入ったため、白石が6番ライトに入り、橋本が8番1塁に入った。練習試合とは言え、白石には初めてのスタメンだ。やはり緊張していてふうちゃんの思う壷にはまってしまった。3球目。ショートゴロゲッツーになった。 白石は苦笑いしていた。 さて、僕の初先発だ。 5年のための練習試合とは言え、僕は遠慮しない。僕は、ふうちゃんのようなクールなタイプではない。僕にサインはない。ただ、はるちゃんのミットめがけて大きく振りかぶっておもいっきり投げた。 ズバンと真ん中真っすぐが決まった。 5年の1番バッターは、目が点になっていた。 僕は「よし!」と思った。 1番は、3球三振に倒れた。 2番も、3番も同じだった。 ふだんの練習よりも、僕は好調だった。 試合はその後、ふうちゃん得意の打たせて捕るピッチングに僕らも翻弄され、また、僕の投球も5年生は誰も打てず、こう着状態となった。 そして、4回表から、ふうちゃんに代わり5年生チームのエースが登板し、僕にも「打たせろ」という指示があったので、やや盛り上がってきた。 5年生チームもなかなかやる。 半年ではあるが、鬼監督のもと僕らと同じ練習メニューをこなしてきたのだ。でも、僕はここ一番では全力で投げて点はやらなかった。5年生チームから「ずるいー!」というブーイングがあがったが、僕は笑ってごまかした。 結局、6対0で僕らの勝ちだ。 僕らは、練習試合とはいえ、負けるつもりはなかった。 試合が終わって、今日の練習は終わりとなった。 僕は一旦家に帰り、例の硬球を持って学校に引き返した。いつものプール壁に行くと、そこに高浜さんがいた。 「高浜さん!」 高浜さんは僕に気づいて笑顔になった。 「谷山くん」 「どうしたの?こんな遅くに!」 僕はびっくりしてかけ寄った。 「だって、今日試合でピッチャーやっていたじゃない」 「そりゃ、そうだけど、でも」 「どうしても、おめでとうって言いたかったから」 「あ、ありがとう」 僕は頭をぽりぽり掻いた。 高浜さんは僕の顔をのぞき込むように聞いた。 「迷惑だった?」 「いや…」 「何?」 「だって、女の子がこんな遅くに外出しちゃだめだよ」 「あら、けっこうまじめなんだね。谷山くん」 高浜さんは明るく笑った。 僕は頭を掻いた。 「もう、帰るね。練習のじゃまだろうし」 「別にじゃまじゃないけど…」 「それ、私よろこんでいいの?」 僕は顔面から火が出そうになった。 だから、必死でうつむいた。 高浜さんは話題を変えるように言った。 「そうだ、日記に書いてあった奇跡の硬球って、今持ってる?」 僕はグローブから硬球を取り出して見せた。 「これかあ!」 高浜さんは明るく言った。 「ね、ちょっと持ってみていい?」 「ああ。いいよ。ほら」 僕は硬球を渡した。 「うわあ、ほんとに重いんだね」 「うん」 「これでピッチャーになれたのか」 高浜さんは硬球を両手で持って眺めていた。 「でもね、きっと、谷山くんのがんばりを見ていた神様のプレゼントだと思うよ」 高浜さんはいいこと言うなあと思って僕は笑った。 「じゃあ、私帰るね」 「あ、送っていくよ」 「いいよ。練習のじゃましたくないし、それに私の家は学校のすぐ近くだから」 「でも」 「いいよ。いいよ。じゃあね。心配してくれてありがとう」 そう言うと高浜さんはバイバイと手を振って帰っていった。 高浜さんの姿が見えなくなるまで僕は見送った。 僕は、高浜さんの言葉を思い返していた。 「神様のプレゼントか」 幸先いいものような気がして、「よし!これからもがんばろう!」と思った。 4 その日は、いきなりやってきた。 土曜日の放課後。 野球部に激震が走った。 ふうちゃんのいる3組が、その中心だった。 ふうちゃんが転校する! 終了のホームルームで先生から話があり、ふうちゃんからもあいさつがあったという。その話は次々リレーで伝わり、僕らは3組に全員集まった。しかし、ふうちゃんはいない。まっちゃんが、「職員室だ!」と叫び、僕らは全員ダッシュした。 ふうちゃんは僕らの大黒柱だ。ふうちゃんのいない僕らなんて想像できない。 なんで急にそんなことになるのか。 衝撃で、気分が重くなった。 案の定、ふうちゃんは、その母親に連れられて職員室で先生にあいさつしていた。その姿を見るなり、職員室の窓越しに、やまちゃんが「藤井!」と叫んだ。ふうちゃんは振り返り、僕らが全員そろっているのを見て驚いたようだった。 僕らはグランドに出た。 ふうちゃんは、みんなに取り囲まれていた。 「何で?」とか、「どこに?」とか、「何で言わなかったんだ!」とか、みんな興奮してふうちゃんを問い詰めていた。 はるちゃんが大声で言った。 「とにかく、聞けよ!ふうちゃんの話を!」 それでひとまず静かになった。 ふうちゃんは、しんみりとした口調で言った。 「ごめん。みんな一生懸命だったし、とても言えなかったんだ。俺は、アメリカに行く」 みんなからどよめきが起こった。 アメリカって何?現実離れしすぎて、僕らは、すぐには理解できなかった。 まっちゃんが、はるちゃんに聞いた。 「はるちゃんは知っていたのか?」 はるちゃんは首をたてに振り、そして言った。 「知っていたよ。3月頃から。ふうちゃんのお父さんが4月からアメリカへ転勤になったんだ。で、もう、ふうちゃんのお父さんはアメリカに行っている。でも、ふうちゃんはせめて春の大会だけでも俺たちと一緒に出たいと言って、今までこっちに残っていたんだ。もう大会も終わったから、明日、お母さんと一緒にアメリカへ行かなきゃならないんだ」 ふうちゃんのお父さんは、大きくて有名な会社に勤めていて、たびたび転校があったらしい。そんな事情は知っていた。 ふうちゃんは、転校生だった。 4年の時、東京の学校からこの学校に来た。 長髪で優男。どこかスマートなふうちゃんは、坊主頭で真っ黒な僕らから見ると、異質な存在だった。でも、嫌味がなく、優しい性格に僕らはうちとけ、野球の方も東京のリトルリーグにいただけあって、すぐに中心選手になった。ふうちゃんのうまいプレイを見て、僕らも「あんな風になりたい」と話し合ったものだ。ふうちゃんというあだ名は、藤井という名前にもあったが、本当は、そこに由来する。 でも、僕らが一軍になって、三連覇のうちの一つをとって、これからだと言うのに、何で?という気持ちはどうしようもなかった。僕らは、ふうちゃんと一緒に野球がしたかった。一緒に三連覇したかった。みんな唇をかみしめ、そんな気持ちを必死でこらえているようだった。 「監督も、コーチも、みんな知っているのか?」と、田中が聞いた。 はるちゃんも、ふうちゃんも、うなずいた。 「何で、言ってくれなかったんだよ」と橋本が言った。 「藤井君がいないと、僕たちは三連覇できないよ」と、新田が言った。 ふうちゃんは、黙ったままうつむいていた。 「藤井!何とか言えよ!」と、やまちゃんが怒鳴った。 ふうちゃんは、うつむいたまま小さな声で言った。 「ごめん。みんな。でも俺にはどうしても言えなかったんだ」 ふうちゃんも、相当つらかったんだ。ということはみんな察しがついた。みんな、沈黙した。遠くで見守っていたふうちゃんのお母さんが、声をかけてきた。 「亮!もういい?そろそろ行くよ。タクシーにも待ってもらっているのよ!」 亮とは、ふうちゃんの名前だ。 はるちゃんが、それに気づいてみんなに言った。 「ほら、もういいだろ。おばさんが呼んでいるから。みんなは、そろそろ練習のしたくをしろ!」 ふうちゃんは、みんなに「ごめん!」と言ってお母さんの方に走って行った。 僕らは一歩も動けなかった。 タクシーに乗り込む前、ふうちゃんは、僕らに向かってペコリと頭をさげた。 そして、ふうちゃんを乗せたタクシーは走り去っていった。 僕らはそれを、ただ見送るだけだった。 やまちゃんが、「勝手にしろ!」と言って教室に帰った。 僕らは、まだ動けなかった。 心にぽっかりと大きな穴があいた。 僕は泣きたくなったが、必死でこらえた。 新田は泣いていた。 まっちゃんは、首を横に2~3回振って、ぷいっと教室に帰って行った。 残った僕らは、ただ、ポツンとグランドに立ち尽くしていた。 その日の練習は、あじけないものだった。 淡々といつものメニューは消化されていったが、みんなどことなく気が抜けていた。 いつもピッチャーグループの中心で、僕や4・5年生ピッチャーにいろいろ教えてくれたふうちゃんはもういない。 「谷山、おまえすごい球投げるな。本格派投手だよ」 そう言って涼しげな笑顔を見せたふうちゃんは、もういないのだ。 くしゃくしゃの笑顔を見せたこともある。 決勝戦で、サヨナラホームランを打った時だ。 その姿を、もう二度と見ることはないのだと思うと、たまらなかった。せめて、いつも高浜さんが言ってくれるように、「ふうちゃんもがんばれ!」と言ってやりたかった。 その日の練習が終わった。 終了のミーティング。 吉井先生も来ていた。そして、ふうちゃんのことで説明があり、本人のたっての希望で今まで黙っていたことを詫びていた。僕らは、どこか空虚な気持ちで聞いていた。 監督が言った。 「おまえら、ちゃんと別れのあいさつをしたのか?」 僕らはうつむいて黙った。 監督は穏やかに言った。 「お別れを、言ってないのか」 僕らは黙ったままだった。 穏やかなまま、監督は話し始めた。 「藤井は、2月頃、私のところにご両親と一緒にあいさつにきた。その時あいつは、ぼろぼろぼろぼろ涙を流して、アメリカへは行きたくない。みんなと一緒に野球がしたい。三連覇したいと言っていたぞ。私もご両親も説得するのが大変だった」  ふうちゃんはどこか大人びていて、そんなに泣くなんて、よほどのことだ。 新田の、嗚咽の声があがった。 新田は4年の頃から同じクラスで、転校してきたふうちゃんと1番はじめに仲良くなった。 ほかに何人か、目頭をおさえていた。 監督は、続けて言った。 「春季大会に優勝し、この前練習試合をやった後も、母親と一緒に訪ねてきた。その時は、やっと決心がついたのか、今のチームは強いです。僕がいなくても、あいつらは三連覇してくれます。だから、僕は安心してアメリカへ行きます。監督、あいつらは、変なこともやるし、一緒にいて楽しいし、そして、野球が大好きです。そんな仲間と出会えたことが何よりうれしかったですと言っていたぞ」 うつむくと、涙がこぼれ落ちそうだったから、僕は空を見上げた。何人かは声を押し殺して泣いていた。吉井先生も、目頭を押さえていた。さすがの橋本も、この時ばかりは憎まれ口をきかなかった。 「ふうちゃん、カッコよすぎるよ。いつも、カッコよすぎる。僕だって、ふうちゃんがいてくれて良かったと思っているよ。そう、言いたかったよ」 しばらくして、監督が腕時計を見ながら言った。 「みんな涙をふけ。そして顔を上げろ」 泣いていたものは、グスグスしながらも、涙を止めようとした。 「今から駅に行く。そして藤井にちゃんとあいさつをしろ。8時の夜行列車で東京に行くから、まだ間に合う。吉井先生、よろしいですか?」 「もちろんです。私も行きます」 監督が指示した。 「では6年生は全員バス停まで走れ!4・5年生は残ってコーチの指示に従え。以上!」 僕らは駆け出した。 とにかく、もう一度ふうちゃんに会える。 ふうちゃんに会ったら、「ふうちゃんもがんばれ!」って言ってやりたい! 駅に向かうバスの中で、僕らは、ふうちゃんに会っても絶対泣かないことに決めた。 笑顔で送り出すんだ! 駅に着いた。 吉井先生が入場券を買ってくれ、僕らはホームにダッシュした。発車まで、あと5分。 夜行列車は、ホームに停まっていた。前後二手に分かれてみんなでふうちゃんを捜した。 目のいいガンちゃんが真っ先に見つけた。 「おい!こっちだ!」 声のする方に僕らは走った。 ふうちゃんも僕らに気づいて、列車から降りてきた。 「わざわざ来てくれたのか」 僕らは誰も話しを切り出せず、もじもじしていた。 はるちゃんが言い出した。 「俺たち、必ず三連覇するぞ。だから気にするな」 「気にするな」は、はるちゃんの口癖だ。いつもピンチの時に言う。それを聞いて僕らもちょっと落ち着いた。 にこっと笑って、ふうちゃんが言った。 「ああ。おまえたちは強い。大丈夫だよ」 「おれたちだろ?」と、まっちゃんが言った。 「そうだよ。おれたちだよ」と、田中が言った。 「いいか、アメリカに行っても、おまえは俺たちの仲間だ」と、やまちゃんが言った。 ふうちゃんは、目が真っ赤になってきた。ちょっとうつむいて、そしてゆっくり顔をあげ、こう言った。 「ああ。わかってる」 「まあ、向こうに行ったら手紙でもくれや。俺たちも書くから」と、まっちゃんが言った。 ふうちゃんは真っ赤な目をして、にこっと笑った。 「まあ、首を長くして待っていたら、三連覇の手紙がくるから」と、はるちゃんが言った。 「ああ。楽しみに待っているよ。それから、谷山」 ふうちゃんは、いきなり僕に話をふってきた。 「次のエースはおまえだ。俺たちの夢、三連覇、頼むぞ」 「まかせろ」と僕は答えた。 「よし、ふうちゃんの見送りだ。みんなでハイタッチしよう!」とはるちゃんが言った。 僕らは「よっしゃぁ!」と大声を出してハイタッチした。僕たちは、誰も泣かなかった。ちょっとさわぎすぎくらいに笑ってハイタッチした。 やがて、発車のベルが鳴り、ふうちゃんは列車に乗った。ふうちゃんの母親も乗車口にいた。ふうちゃんの後ろに立って、僕らにお辞儀をした。 ドアが閉まった。 僕と目が合ったふうちゃんは、パンチするように僕にこぶしをつきたてた。 「頼むぞ」と言っているようだった。 僕もこぶしをつきたてた。そして叫んだ。 「任せろ、俺に!だから、だから、ふうちゃんもがんばれ!」 ふうちゃんは、笑った。 あの涼しげな笑顔だった。 列車が、走り始めた。 僕らは、見えなくなるまで見送った。 結局、僕らは約束どおり誰も泣かなかった。みんな必死でこらえた。吉井先生だけが、目頭をおさえていた。 第四章 夏の陽射し 1 夏が近づいていた。 ふうちゃんが転校して、梅雨が終わって、そして、夏がやってくる。 その間、野球部の動きは、6年生はいつもの通りで、5年生は対外練習試合で遠征に出たりすることが多くなった。相変わらずのきつい練習だったが、今や、練習が楽しくないなどと言うものは一人もいない。みんな口には出さなかったが、三連覇を真剣に考えていた。 僕も、ピッチャーとして自信がついてきた。父さんのアドバイスもあり、下半身を鍛えなおすため、朝から走りこみをするようになった。そして、父さんも時間があるときは僕の遠投を手伝ってくれた。 部の練習では、主に配球やチェンジアップ、そしてフィールディングの指導を受けた。 夜はいつもの投げ込みだ。 たった2ヶ月の間だったが、なんとか形になってきたと自分でも思う。思えば、ふうちゃんは、こんなに大変なことを何気なくこなしていたのだ。隠れた努力をしていたのだろう。でなければ、試合で、あんなに活躍できるはずはなかった。僕は困った時、ふうちゃんならどうしていたか、頭の中でイメージすることにしていた。そのイメージの中でも、やはり、ふうちゃんはすごかった。僕がピッチャーになって、初めて思い知らされた。そして、いつかはふうちゃんを越えてやるという意識が芽生えはじめた。 高浜さんとは、相変わらず交換日記が続いている。 橋本に見つからないよう、こっそりと。 女子のミニバスケは、参加校が少ないこともあり、公式戦は、夏の大会1回しかないそうだ。2年間がんばってきたことを、思い残すことがないようにしたいと、最近書いていた。それは、僕も同じだ。後悔はしたくない。だから、監督の言うように、できることをひとつひとつ積み重ね、最後には勝つ。僕らは、絶対三連覇する。 夏の陽射しが照りつける空には、白い雲が浮かんでいた。 いよいよ、勝負の時が近づいている。 ある日の昼休み。 うだるような暑さの中、はるちゃんが重大なニュースを3つ持ってきた。 僕と白石、田中にガンちゃんがその話を聞いた。 ひとつ目は、ふうちゃんがいなくなったことが、僕らのライバル校にバレているらしいということだった。どうも5年生が遠征先でおしゃべりしているらしい。 「だから谷山。なめられないようしっかり頼んだぞ」とはるちゃんが言った。 ふたつ目は、今年から公式戦の方式が変わるらしいというものだ。春と夏はそのまま。しかし、秋の大会は、両リーグの春と夏のベスト8を中心に選抜された16校で行われるかもしれない。つまり、強いチームだけが集まって、市で1番のチームを決める戦いになる。とのことだった。 「ようするに日本シリーズのようなものかな?」と、田中が言った。 「春の選抜みたいだ」と、白石が言った。 僕らは好き勝手に憶測した。でも、大まかに言えば、「弱いチームとあたっても面白くないから、楽しみだ」という結論になった。 3つ目がまた、楽しみなニュースだった。 夏休みに入ったら、すぐに恒例合宿を行うということだった。 それは、はっきり言ってレクレーションだ。別に強化合宿ではない。山の上の涼しい高原で、旅館に泊まって、地元の小学校と交流試合をする。去年も、みんなで泊まって、うまいもの食って、楽しかった思い出がある。だが、ちょっと待て。今年は鬼監督だ。4年の時はどうだったか?というのが誰も思い出せない。思い出せないほどつらい合宿だったのではないかという声もあり、僕らはちょっと覚悟した。 2 夏空の強い日差しの中、1学期が終了した。 最後のホームルームが終わると、クラスメイトたちは、海に行くとか、山に行くとか言ってはしゃいでいた。普段の土日なら、そんな話、どこか遠い世界の話のようで僕には関係なかったが、今回だけは違っていた。明日から、合宿があるからだ。2泊3日の予定で、いつもの高原に行く。今年も、あの旅館に泊まる。お風呂は温泉らしく、赤い色をしていた。夕食は大広間でごちそうの並んだお膳がうれしかった。そんなこんなを想像しながら、練習に行く支度をしていると、高浜さんの呼ぶ声が聞こえた。まだクラスメイトもたくさんいる。いつもなら誰もいない廊下で話をしているのに、今日はどうしたんだろう。僕は慌てて、高浜さんを連れて人影のない階段の踊り場に行った。 高浜さんは、ちょっとむくれていた。 「だってもう、夏休みだよ。連絡するのにどうしたらいいか分からなかったの」 ああ。そうだ。本当にどうしたらいいんだろう。 僕は考えようとして、ちょっと視線を変えたら、その先に、橋本がいた。 よりによってまずい奴に見つかってしまった! 橋本は、ニヤリとした。 僕は慌てて、「違う!そんなんじゃない!」と叫んだ。 すると、今度は高浜さんが、 「違うってどういうこと?そんなんじゃないって何?」と言って怒った。僕はパニック起こして、しどろもどろで、「あ、いや、その」とか言っているだけだった。 高浜さんは駆け出し、階段を下りていった。僕は追いかけた。後ろから「今回俺は何も言ってねえぞ」という橋本の声が聞こえた。 階段を下りて、校舎裏へ出ようとするあたりで、僕は高浜さんをつかまえた。 僕が、「ごめん」と謝ると、高浜さんは、 「谷山くん、ずるいよ」と言った。 ずるいなんて言われたのは、初めてだ。 僕が呆然としていると、高浜さんは続けて言った。 「私は、谷山くんが好きだって言ったじゃない?どうして谷山くんは何も言ってくれないの?」 たしかにそうだ。日記はずっと続いているが、「好きだ」なんて言ったことも書いたこともない。 「でも、僕らは小学生だし、早くないか、そんなの」 「でも、私は好きだよ」 高浜さんは真っ赤な顔をしていた。そして、真剣に僕の目を見つめていた。 確かに、そんなセリフ、言うには勇気がいる。僕にはなかった。だから今まで言わなかった。でも、ずっと交換日記を続ける間に、僕も高浜さんが好きになっている。だから、今、はっきり言おうと決めた。 「僕も好きだ。今まで言わなくてごめん」 そう言って、僕は頭を下げた。 今朝起きたときは、まさかこんなことになるなんて思わなかったけど、間違いなく、僕にとって生まれてはじめての告白だった。 顔から火が出そうだった。 心臓が爆発しそうだった。 こんな恥ずかしい思いを、高浜さんはしていたのだということが、今、やっとわかった。 僕らは、とりあえず夏休みの間も交換日記を続けることにした。お互い部活があって、学校には来るから、くつ箱に入れておこうということになった。 僕は、恋愛なんてまだ早いと思っている。だから、これから先は、これからだ。ひとまず7月にある、近所の神社の縁日には「一緒に行こう」と約束させられた。 その日の練習中、橋本は何も言わなかった。ちょっとは、あいつも大人になったのかと思ったが、よけい気になったので、合間を見て話しかけてみた。 「橋本、今日のことは誰にも言うなよ」 橋本は何気ない顔で答えた。 「そうか?でもたぶんみんな知っているぞ。おまえらの交換日記は有名だから」 僕はハンマーで後頭部を叩かれた気分になった。漫画で言うところの『ガーン』という奴だ。 橋本は続けた。 「毎日やっていれば、そりゃあ、バレるよ」 僕はうつむいて沈黙した。 「でも、高浜の気持ちは本物だと思うよ。俺は4年の時、同じクラスだったから知ってる。おまえが毎晩毎晩投げ込みしているのを4年の頃から気にしていたから」 僕は、またハンマーで叩かれた。 僕が「かっこ悪いから」と思って隠していたことは、全部バレバレだったのか。 「だから、逆に俺は応援したいくらいだよ」 笑顔を見せながら、橋本は意外なことを言った。 やっぱり、僕らのチームメイトだ。根はいい奴なのだと、僕は橋本を見直した。 しかし、それが落とし穴だった。 橋本は、僕を油断させようとしていたのだった。 その日の練習は、明日からの合宿に備えて早めに切り上げられた。 合宿についての注意事項がコーチから説明された。監督からは、「まあ、夏の大会前の最後の息抜きだから、楽しみにしてこい」と言われ、僕らの心配がふっとんだ。 やはり、レクレーションだ! 今日は、とんでもない一日だったが、そんなことは全て忘れた!明日からの合宿だけが待ち遠しかった。 3 合宿の日。 朝7時半に駅集合だった。 その日も快晴で、まぶしい夏の日差しが照りつけていた。 セミもやかましく鳴いていた。 僕らはたくさんの荷物をつめこんだスポーツバックを抱え、がやがや言いながら三々五々集まってきた。 いつもの表情とは違う。みんな明るく、楽しそうだ。やはり、たまにはみんなでこうして遊びたい。僕らは野球だけの仲間じゃないんだ。難しい言葉は知らないけれど、普通のクラスメイトよりも信頼している。 橋本だけが「ガキの遠足じゃないんだぞ」と言っていた。 本当は自分も楽しみなくせに、橋本ばかりは、もう。それに、僕らはどう見てもガキだ。 僕らを乗せた列車が出発した。 父母会が準備してくれたお菓子をほおばりながら、平野から、山地へ、移り変わる車窓の風景に胸を躍らせ、みんなではしゃいだ。 列車に乗ること2時間半で目的の駅についた。 ホームに降り立つと、日差しは鋭かったが、風はさわやかだった。 辺りには一面の田園風景が広がっていた。 そこから、荷物を持ったまま軽いランニングして、交流試合をする小学校へ向かった。およそ15分。 学校には、既に野球部が来ていて、僕らを出迎えてくれた。監督同士、父母会同士、キャプテン同士が長々とあいさつしていた。その間、僕は相手チームの面々を見渡していた。どの顔にも見覚えがある。その中に、目つきが鋭くて四角い顔の双子がいた。 岩松兄弟だ。 さかんに僕らにガンとばしてくる。 この兄弟は、このチームの3番4番で、たしか弟が3番、兄が4番。去年の交流試合では、僕らの圧勝だった。彼らは、ふうちゃんの打たせて捕るピッチングにぐうの音も出なかった。最後の打席で二人とも凡打に終わり、二人とも「ちっくしょー」と叫んでバットを叩きつけた。その様子がおかしかったので、僕は名前を覚えていた。 僕に目が合うと、彼らは僕に近寄ってきた。そして兄が聞いた。 「おい、あの長髪野郎はきてないのか」 凄みをきかせるので、僕も負けるか!と思いながら返事した。 「長髪野郎って誰だ」 「ふざけるな、あのエースだよ」 「何だおまえ、それが人にものを尋ねる態度か?」 僕も負けてない。両者険悪になった。さすがに弟がわって入った。 「ごめん。君はたしか5番バッターだったね。あのエース、藤井君だっけ」 「ああ、ふうちゃんなら転校した」 「転校か!」と兄弟が同時に叫んだ。あっけにとられているようだったが、やがて弟が説明した。とにかく去年の、あの屈辱的敗北以来、ふうちゃんを倒すことだけを考えてやってきたらしい。 二人とも、しばらくの間ひどく落胆していて、何か二人でぶつぶつ言っていたが、やがて弟が僕に聞いてきた。 「じゃあ、次のエースは誰?」 僕は迷わず答えた。 「俺だ」 兄は笑った。 「おまえなんかがエースなら、今年は楽勝だ!おぼえてろよ」 兄がそう言うと、二人はチームメイトの方に帰っていった。そばにいた4年生が真っ青になって硬直していたので僕は「気にするな」と言った。4年生はうなずいたが、ちょっとビビッたようだった。 僕は岩松兄弟の方を見て、心の中で言った。 「そっちこそ、おぼえていろよ」 交流試合をする学校は、錦川小学校という。略して錦小だ。 僕らは体育館を借りて荷物をおろし、昼食をとることになった。錦小の父母会が手配してくれていた弁当だ。僕らは車座になって食べていた。その時、錦小の監督が来て鬼監督に相談した。 「今日は軽い練習の予定でしたが、みなさんは市内の大会で優勝された強いチームですから、ぜひ試合をしていただけませんか」 「すると、今日明日の連戦ですか」 「はい。今日は午後から6年生。明日が予定通り、午前が5年生、午後が6年生ではいかがでしょうか」 鬼監督は、コーチや父母会と相談した。 錦小の監督は、つけ加えて言った。 「なにぶんこんな田舎でして、市内で優勝されたようなチームとは、なかなか試合なんてできません。うちの父母会のみなさんも是非にと申しております」 監督たちは「子供たちがいいなら」という結論になった。 「おまえたちはどうだ?」と監督が聞いた。 僕らは「やります!」と答えた。 5年生はともかく、僕らはこのところ試合をしていなかった。だから、夏の大会を前にひとつでも試合ができるなら、そっちの方がいい。列車での疲れなんか僕らには疲れじゃない。 話はまとまって、今日も試合をすることになった。 あの生意気な岩松兄弟をやっつけるチャンスが1日早くやってきた! 第五章 岩松兄弟 1 試合は2時から行われることになった。 監督から指示があった。 「旅の疲れもあるだろうが、ここは、いつも通りの野球をやれ」 だから、僕らは疲れていません。と、僕は思った。チームメイトもみんな疲れている様子はなかった。 「ただし谷山。おまえはふだんの半分の力で投げろ。今日明日連戦になるから、ペース配分の練習だと思え。春木も、そのつもりでリードしろ。わかったな」 はるちゃんは「はい!」と答えたが、僕はおもしろくなかった。岩松兄弟をやっつけたかったからだ。いつもの半分となると、最近練習した、打たせて捕る、あのチマチマした投球になる。僕は1発で、奴らを黙らせたかった。しかし、監督が念を押すように、「わかったな?」と言ったので、僕もしかたなく「はい」と答えた。 さて、ビジターである僕らは先攻だ。 錦小のピッチャーが投球練習をしている。 去年も、このピッチャーだった。僕はホームランを打ったので覚えている。 しかし、何だこいつは。余計下手になっている。僕の見たところ上半身と下半身のバランスが悪く、手投げのようになっている。それでは威力のある球はこないし、低めにもこないから、僕らのチームを抑えることなんてできない。そう思って隣にいた新田に話してみた。すると新田は「そうかな?去年と同じだと思うよ。球も速いし」と、意外なことを言った。 ずいぶん後で気づいたが、それは、相手ピッチャーが下手になったのではなく、僕自身がピッチャーとして成長したのだった。 プレイボールがかかった。 1番ガンちゃんは、初球、ストライクを取りに来た甘い球を、いきなり打った。打球は左中間の深いところに飛んで行った。長打コースだ。 3塁打かなと思っていると、3塁コーチは大きく手を回し「まわれ、まわれ、まわれ!」と叫んでいた。 ガンちゃんも躊躇なく3塁をまわった。 ボールは中継プレイでバックホームされたが、ガンちゃんは、立ったままホームインした。 ランニングホームランだ。 あっという間に1点先制。 僕らのベンチは盛り上がった。 戻ってきたガンちゃんが「あのピッチャー、去年より速くなってるよ」と言ったから、僕にはやはり、意外な気がした。 続く2番のまっちゃんは、対照的に粘った。 2ー3まで粘ったが、セカンドゴロに倒れた。 3番は、やまちゃんだ。 自分もホームランと力みすぎたため、つい高めのつり球に手を出し、ショートフライに倒れた。 そして、4番は僕だ。 相手ピッチャーの、球筋も、速さも、リズムも見えていたから、簡単にレフト前ヒットを打った。 1塁手から「いい気になるなよ」と言われた。 ひょっとしてと思ってその顔を見ると、やはり岩松兄だった。僕も「この野郎」と思ったが、とりあえず無視した。 相手ピッチャーは、手投げなのに不思議とコントロールは良かった。 続く田中は、外角低めを引っかけてセカンドゴロ。 これで3アウトになった。 さて、僕はマウンドに上がった。 投球練習をした。 調子は、悪くない。 思えば、対外試合では初先発だ。 僕は深呼吸しようと、天を仰いだ。 空はどこまでも青く、雲は輝くように真っ白だった。 そう言えば、決勝戦の時、ふうちゃんもこうして空を見上げていたっけ。ふうちゃんはどんな気持ちで、こんな風景を見つめていたのか。 プレイボールがかかった。 僕の記念すべき第1球だ。 大きく振りかぶる。 下半身のバネを利かせる。 そして、腕を振った。 ボールは、まっすぐに、はるちゃんのミットへ突きささった。 別に全力では投げていない。 監督の指示があったからだ。 それでも、相手ベンチからどよめきが起こった。 僕とはるちゃんは、試しに、軽く真ん中へ3球投げた。 相手1番は、それでも、見送り三振だった。 僕らのベンチから、歓声が起こった。 静まり返った錦小のベンチでは、岩松兄が一人でわめいていた。 「相手は補欠のピッチャーだぞ。ビビるんじゃねえ!」 補欠?僕が? そうか、彼らにとって僕らのエースは、去年コテンパンにやられた、ふうちゃんなのだ。 おもしろい。補欠かどうか、見せてやる! 2番バッターも、真ん中で3球三振に切ってとった。 振り遅れていて、ボールから目が完全に離れていた。 3番は、岩松弟だ。 こいつは、兄と同じ顔をしているが、性格は悪くなさそうだ。でも、容赦はしない。3番だから、真ん中という訳にはいかないだろう。はるちゃんも、やや警戒していた。 1球目は、内角胸元へのストレート。 岩松弟は、ぐるんと大振りした。振り遅れの空振りだった。メットを叩き気合いを入れ、打席に入りなおした。 2球目は、外角高めのボールになるつり球。 これにも食らいついてきた。しかし、バックネットへのファールフライだった。タイミングは、そんなにずれていなかった。なかなかやる。 3球目。 外角低めをひっかけさせ、セカンドゴロに打ち取った。 この回、9球で終わった。 ベンチに引き上げながら、岩松弟は兄に大声で報告していた。 「にいちゃん、あいつの球、重いよ。真芯で打たないとだめだよ」 そんなこと、わざわざ大声で言わなくてもいいのに。僕らには勇気を与えるし、自分のチームからは勇気を奪う結果になるじゃないか。でも、僕は悪い気はせず、きっと、根は正直なのだろうと思った。 2回表。 僕らの攻撃だ。 6番、ライト白石。 白石も、対外試合初スタメンだ。 緊張してるだろうな。でも、がんばれ。 1球目。すっぽ抜けの球だった。白石は反応せず、ボール。 2球目。外角直球を1塁側へファール。 3球目、真ん中にきた失投を白石は見逃さなかった。見事に打ち返し、ショートの頭の上を越えた。白石は1塁上で、何事もなかったような顔をしているが、あいつは、これが初スタメン初ヒットだということに気づいているのだろうか。 続く、7番新田は、落ち着いて送りバントを決めた。3球目だった。 8番橋本は、せめて進塁打を打とうと2ー3まで粘ったものの、内角高め速球を見逃し、三振に倒れた。 打順は、ガンちゃんに戻った。 今日のガンちゃんは、よほど相性がいいのか、3球目を右中間へ運ぶ2ベースヒットした。白石は一気に生還し、これで2ー0になった。今のところ、全てガンちゃんの打点だ。 しかし、続くまっちゃんは、サードフライに倒れ、僕ら得意のつなぐ野球にはならなかった。 2回裏。 先頭バッターは、あの岩松兄だ。 ふつう、少年野球では打席に入る前、「お願いします!」とあいさつをするものだが、こいつだけは違った。「補欠!覚悟せぇ!」とわめきながら入ってきた。 それを聞いて「おまえだけは容赦しないぞ」と思った。だから、はるちゃんのサインにも首をたてに振らなかった。監督の指示も関係ない。全力で投げてやる。 僕は、大きく振りかぶり、渾身の力を込めて投げた。 パーンという、あのいつもの捕球音が響いた。 錦小ベンチからどよめきが起こった。 岩松兄は、一歩も動けず、ただ、目が点になっているようだった。 2球目も同じ全力投球。 岩松兄は、捕球音の後に大きな空振りをした。「ちっくしょー!」と叫んで、バットを叩きつけた。 3球目。 あきらかな振り遅れで3球三振にうちとった。 岩松兄は、真っ赤な顔して僕をにらみつけた。 僕もにらみ返した。一歩も引く気はない。 やがて岩松兄は、くるっと振り返ってベンチに帰りながら、 「あいつの球は手元ですごく伸びるぞ、なぜ早く言わなかったんだ!ちっとも打てんだろうが!」 大声で弟をしかりつけていた。 「この兄弟は、ばかだ」と僕は思った。兄弟そろって同じ間違いをしている。案の定、あとに続くバッターは二人とも萎縮して打席に入ってきたため簡単にうちとれた。 3回表。僕らの攻撃だ。 先頭バッターのやまちゃんは、簡単に打ち上げてしまった。 僕も、サードゴロに倒れた。 田中もセカンドゴロだった。 あっけなく終わった。 その裏、錦小の攻撃も僕が簡単に抑えた。 予定どおり半分の力で投げていたが、はるちゃんのリードの前に、誰もバットに当てることさえできなかった。 試合はその後、僕らが優勢に進め、結局4ー0で勝った。 最後のバッター、岩松弟をうちとると、ネクストバッターサークルの中にいた兄がバットを叩きつけて悔しがった。そして、「明日は勘弁しねえぞ!」と叫んでいた。僕は兄を無視しながら「勘弁しないのはこっちだ!」と思った。 試合後、錦小の監督とキャプテンがあいさつに来た。 「失礼なことを言う者がおりまして、申し訳ありません。でも、根はいい男ですから許してやってください」 鬼監督は「闘志があるのは、いいこと。しかし、プレイで見せて欲しいものです」と穏やかに言った。 「申し訳ありません。おっしゃる通りです。しかし、うちのチームは、去年のあの惨敗から東原さんに勝つことだけを目標にやってきたものですから、つい興奮したのだと思います。あとで充分言い聞かせておきます。口を慎むよう指導いたしますので、明日もまた、よろしくお願いします」 「明日も、お互いがんばりましょう」と鬼監督が言った。 僕は、「甘いよ」と思った。あんなばかは「退場させろよ」とも思った。 しかし僕の対外試合初先発は、まあまあだった。必ずしも自分のイメージどおりではなかったが、8割方はうまくいっただろう。監督の指示による力半分投球もうまくいった。もともと僕は変化球をもっていない。だから、ウィニングショットは豪速球が一番だと思っていたが、そうでもないらしい。球の組み立てをちゃんとやって、最後は低めに決めれば、力半分でも案外うちとれるようだ。 岩松兄の「勘弁しねえぞ」という悲痛な叫びが、僕にはなによりの賞賛のように感じられた。 それから僕らは、4・5年生を中心にした軽い練習をして、旅館に向かった。これからが、メインイベントだ! 2 僕らは8人ずつ、部屋に案内された。 僕の部屋のメンバーは全員レギュラーだったが、橋本だけが違う部屋になった。偶然だが、うるさい奴がいないので、僕はホッとした。 荷物を置いて着替えると、僕らは真っ先に風呂に向かった。今年もまた、赤い温泉だ。この地方は、わりと有名な温泉地であり、この旅館も比較的大きい。そして、風呂も大きいのだ。 僕らはザブンと飛び込んで、お湯のかけあい合戦をやったり、泳いだりしてさわいだ。手馴れたもので、円になって背中の流し合いもやった。 さわぎが落ち着いて、とりあえずのんびり湯船にひたっていると、となりにいた、はるちゃんが言った。 「おまえ、気づいてないだろ。今日はノーヒットノーランだったんだよ」 「あ、そうか」 「やっぱりね」と言ってはるちゃんが笑った。 「でも、練習試合だからね」 「練習試合でも、なかなか出来るもんじゃないよ。それに初先発だったんだから」 「それは、気づいていたよ。初めから。記念すべき日だなあと思って」 「そうか。幸先いいと思わないか?その調子で頼むぞ」 「ああ。分かっているよ。三連覇だ」 「うん」 「でもな、今日ははるちゃんのおかげだと思っているよ。まさか、僕がふうちゃんのように打たせて捕るピッチングができるなんて思わなかった」 「そうか」 はるちゃんはまた笑った。僕は調子にのって、ふうちゃんの声色を真似た。 「春木、頼むぞ」 「似てる、似てる」そう言ってはるちゃんは大笑いした。 全員が風呂をあがると、次は夕食だ。 僕らは支度の出来ている大広間へ行った。適当な席に座り、膳を眺めると、やはり、刺身やら肉やら、てんぷらが載っている。お子様らしく、ハンバーグや、スパゲッティもちょっとあった。目の前のご馳走に心が躍った。 今回の合宿は、クラブ活動の一環として学校公認だから、吉井先生が引率者として参加している。その他、監督、コーチ、そして世話係として父母会の代表者など、大人は8名いる。対して選手は3学年の合計で42名だ。監督は、おととしの合宿で、その目的を「同じ釜のめしを食って連帯意識を深める」と言っていた。当時の僕は4年生だったので、単語が難しくて、その意味がわからなかった。しかし、今なら分かる。つまり、一緒に、列車に乗って、試合して、風呂に入って、ご飯を食べて。そして笑って。そういう同じリズムで1日中行動することで、バラバラになりがちな心をひとつにすることなのだ。「勝つ」という心をみんなが持っていないと、チームとしては弱い。それは、おととしから今日までくぐり抜けてきた練習や試合を通じて僕にも分かってきていた。僕らが格下と思うチームは、ほんとうに各人がバラバラで、好き勝手なプレイをやっていた。逆に、僕らのライバル校である、白峰台や、中島小は、僕らと同じくらいまとまっていた。 さて、夕食は監督の挨拶から始まった。 案の定、「同じ釜の…」というくだりがあった。僕は笑いがこみ上げてきた。 「監督、僕らはもう、充分分かっていますよ…」 乾杯があった。大人は当然のようにビール。僕らはそれぞれ好きなジュース。僕は、ちょっとだけビールの真似もあったし、大好きだったからサイダーにした。 宴もたけなわとなった頃、父母会の一人が言い出した。 「藤井君が転校すると聞いた時には、正直言って、もう勝てないだろうと思っていました。でも、今日の試合を見て安心しました。監督、誰かが抜けても、誰かが必ずカバーする。これも、チームワークなのですね」 別の保護者も言った。 「そうそう、今日の谷山くんは良くがんばったと思います。監督、ほめてやってください」 僕は、思わず鼻が高くなった。当然、監督もほめてくれるだろうと思った。しかし、わずかに酒に酔い、赤い顔をした監督はこう言った。 「谷山。確かにおまえは藤井の穴を埋めるため、よくがんばってきた。しかし、今日はひとつだけ間違いがあるぞ。私は半分の力で行けと指示したのに、相手4番の最初の打席は、後先考えず、勝手に全力投球しただろう。闘志があるのはよろしい。だが、そんな自分勝手をやっているようじゃ、まだまだ藤井には及ばんぞ。以後、良く考えて行動するように」 やぶへびだ。 僕の高い鼻は急速にしぼんだ。監督は、やはり鬼だと思った。「ちょっとくらい…」とも思ったが、ここはひとまず、「同じ釜のめし」だと思い直した。 高浜さん。僕はちょっとだけ、大人になったかなあ。 夕食会が終わると、旅館の中を何人かで探検したあと、部屋へ引き上げた。そして、今日の試合の話や、その他学校での話などで盛り上がった。やがて、「消灯時間よ」という父母会の人の指示に従って寝ることにした。 どれくらい時間が経ったのだろう。僕がうつらうつらしていると、「谷山、谷山、」という、やまちゃんの声に起こされた。「何?」と言いながら寝ぼけまなこで起きると、いきなり、パッと明かりがつけられた。すると、みんなが揃っていて、僕を見下ろすように取り囲んでいた。「なに?どうしたの?」と僕は驚いた。 ニヤニヤしながら橋本が言った。 「判決!」 「え、ちょっと待って、判決って何?」 僕はいよいよ訳が分からなくなった。 やまちゃんが、僕の胸元をつかんで言った。 「おまえ、3組の高浜とできてるだろう!」 「あ!」 橋本、チクったな!と思ったが、既にもう遅い。 みんな、目がマジだった。 「高浜さんは、東原でベスト10に入るんだぞ」と、田中が言った。いつも大人しい田中まで… 「どこまで行った!Aか!」と、やまちゃんが怒鳴った。一瞬、みんなに緊張が走った。 「何言ってるんだよ。僕は、やまちゃんみたいにはもてないよ」 「うそをつけ!ひょっとしてBか!」 「Bって何?」 新田がすかさずみんなに聞いた。 みんなお互いの顔を見たが、誰も知らないようだった。やまちゃんも良くわかってないようだし、もちろん僕も知らない。 「ということは、Cだな!」と、やまちゃんが勝手に決めつけた。僕らは、その意味を誰も知らなかった。知らないまんま、僕に判決が下った。 「よって特別フルチン先輩の刑に処す!」と、橋本がうれしそうに言った。 「ちょっと待てよ、特別って何?どうなるの?」 「グランドじゃないから、逃げられないってことだよ」と、まっちゃんがニヤニヤしながら指をぺきぱきと鳴らした。 「ようい!ドン!」という、はるちゃんの掛け声とともに、僕は寝巻きをはぎとられ、いいように、くすぐられた。 田中は、「俺は高浜さんに憧れていたんだぞ」とわめいた。「俺もだ」という同調者が2~3人いた。 白石にいたっては、「うちの妹はおまえの嫁さんになるって言ってるんだぞ!いったいどうするんだ!」とわけの分からないことまでわめいていた。そんな話、僕は知らないよ。他の大多数は、フルチンの刑にしては珍しく、笑い声をあげながら参加していた。途中、「もう、騒いでないではやく寝なさい」と父母会の人に注意されたが、みんなは、「はーい」と小学生らしく明るく答え、その声とふとんで、僕の悲痛な叫びはかき消された。こんな時も、僕らはチームワーク抜群だ。 フルチン一歩手前で、僕が「いいかげんにしろよ!」と真剣に怒ったから、とりあえず収まった。徹底的に追い込まないのも、僕らの決まりだった。僕らは子供なりに、「ほどほど」というものを心得ていた。しかし、やられる方はたまらんなあと、初めてわかった。 3 翌朝、セミの鳴き声で目がさめた。 窓を開けてみると、ひんやりとした高原の空気に、早くも夏の日差しが差し込んでいて、いい天気だった。真っ青な空に、夏雲が浮かんでいる。 僕は昨日の悪夢など、すっかり忘れていた。 朝ごはんを済ませ、僕らは錦小に向かった。 今日は、午前に5年生の試合がある。手早く体をあたため、5年生中心の練習をした。 僕らの5年生も、けっこう強いチームだと思う。ふうちゃんのような打たせて捕るピッチングのエースを持ち、僕らのようにチームワークが良い。そういう僕らの伝統を、5年生も受け継いでいた。彼らの対外試合を見るのは初めてだ。これまでは全て遠征していたからだ。5年生の練習試合に6年生が帯同することはない。僕と仲良しで、ちょっと泣き虫の浦辺や、お調子ものの佐伯もレギュラーだ。彼らがどんな試合をするのか、僕は楽しみだった。 5年生の試合が始まった。 僕らのような鮮やかな試合運びではなかったが、いい試合だった。みんな一所懸命、声を出し、打って、走って、守った。2ー1で負けている緊迫した状況にも堂々としている。だから、負ける気がしなかった。 僕らは、夏の太陽が容赦なく照りつける中、父母会が準備してくれた冷たい麦茶を、「うまいうまい」と言って飲みながら、余裕の観戦を楽しんでいた。 それにしても、今日の岩松兄弟は沈黙している。ヤジの三つや四つは飛んでも不思議ではないのに、妙に大人しく観戦していた。それが、よけいに不気味だった。 試合は、6回表、ノーアウト2・3塁のチャンスに、味方の押せ押せムードに見事に乗った6番佐伯が、右中間に2点タイムリー2ベースを打って、結局これが決勝点となった。彼らは4ー2で勝った。さすがは、僕らの後輩だ。 よし!次は僕らの出番だ。今日こそ岩松兄弟とケリをつけてやる! 午後1時半。 青空の向こうに、大きな入道雲が湧き起こっていた。 予定通り僕ら6年生の試合が、プレイボールとなった。 1回表。 僕らは、いつものように足を絡めた攻撃で、鮮やかに1点先制した。そして、この日は5年生の活躍に僕らも発奮した。連打が止まらなかった。あっという間に6点とった。もう、試合は決まったも同じだ。1回表で、終わってしまった。錦小のベンチからため息が聞こえた。 その裏。 今日の監督の指示は「思い切っていけ」というものだった。だから、僕も遠慮しなかった。1番2番のバッターを3球三振、わずか6球でしとめた。 そして、3番。先ずは岩松弟だ。 僕は、「これでも食らえ!」という気持ちで全力で投げた。 伸びのある真っ直ぐが、はるちゃんのミットめがけてすっ飛んでいった。 岩松弟は、バントの構えをした。 ボールは、バットの上をかすり、ファールチップとなって弟の顔面を直撃した。瞬間の出来事だったので、弟はかわすこともできず、ボールを食らってもんどりうって倒れた。 「ほんとに食らいやがった!」 僕は、そう思っておかしかった。 起き上がった弟の鼻から、鼻血が出ていた。よほどの衝撃だったのだろう。僕は、笑えなくなった。でも、同情するつもりはない。これは、勝負だ。 止血の手当てをしている間、岩松兄は、真っ赤な顔をして、唇をかみしめて、弟の様子を見守った。 手当てを終え、ゲーム再開となった。岩松弟は、懲りずに2球目もバントした。今度は、バックネットへ届くファールとなった。 錦小の保護者からは、「もう、バントはあぶないからするな」という声が上がったが、しかし、3球目もバントしてファールとなり、3バント失敗となった。 僕は、岩松弟の執念に、何かおかしいと感じた。 2回表。 6点とっていたので、失礼なようだが、僕らの攻撃は、打撃練習に切り替えた。それは相手の配球を読み、狙い球を絞り、いい球だけを打つと言うものだった。狙い球がこなければ、三振でも構わない。という監督の指示だった。チームプレイに徹する時は、そんな余裕はない。とにかく来た球を良く見て、よくひきつけてから打っている。小学生の投げる球なんて、普通、球種も少ないし、あまり計算通りにはこないものだが、錦小のエースは比較的制球が良いこともあり、生きたボールを狙って打つ絶好の練習機会だった。めいめいが考え、そして思う存分バットを振った。 2回裏、錦小の攻撃だ。 とにかく僕は、岩松兄弟だけは容赦しないつもりだった。だから、初球からバントの構えをしている兄にも全力で投げた。兄も弟と同じように顔面直撃を食らった。 「この兄弟は、何を考えているんだ」 幸い、兄は当たり所がよかったらしく出血はしていなかった。 「もうバントはよせ!」という保護者の叫びも無視して2球目もバントした。ファールチップとなって、また顔面をかすった。 3球目もバントし、今度は足にあたって3バント失敗。 兄は、真っ赤な顔で僕をにらみつけながらベンチへ引き上げていった。 「まったく、この兄弟は…。あんな目の高さでバントして、怖くないのか」 3回4回は何事もなく終わりそうだったが、やはり、問題は岩松兄弟だった。 4回裏。3番目のバッターとして登場した弟は、懲りもせずバントの構えを見せた。僕は投げにくかったが、ここで気持ちが引いたら、彼らの思う壺にはまりそうな気がした。はるちゃんのサインは「思い切ってこい」というものだったし、監督も「行け」とでも言うようにうなずいていたので、僕も心を鬼にして投げ、結局3バント失敗にうちとった。 5回の裏も、同じだった。 先頭バッターが岩松兄だ。 ここまでしつこく、しかも闘志をむき出しにしてバントしてくる岩松兄弟には、何か作戦があるのだろう。その証拠に保護者が「やめろ」と言っても聞かないし、錦小の監督も止める気配がない。僕の気持ちは乱れ、多少ボール球が出たが、それでも結局は3バント失敗にうちとった。 ちょうどその時、にわかに雲が湧いてきて、パラパラと小ぶりの雨が落ちてきた。ゲームには支障がない程度の雨の中、5回6回が終わった。 そして、最終回の7回。 僕らの攻撃が終わった時、雨足がやや強くなってきた。 大人たちが、ここで終了とするかどうか話し合っていた。僕は正直、「終了になってくれ」と思った。この回には、あの岩松弟が登場するからだ。 結局、あと1回だからということで続行に決まった。 僕の心は、この雨空のように重くなった。 1番2番のバッターは、あっという間にうちとった。 そして、問題の岩松弟だ。 しかし弟は、バントの構えをしなかった。 僕はホッとした。 内野も前進守備をしなかった。 最終回だから慎重になっているのかと思った。だから、先ずは簡単にストライクを取るつもりで投げた。 しかし、それが弟の狙いだった。 僕が軽く投げた球を、見事に3塁線へセーフティバントした。 僕には逆方向でもあり、油断もあり、とっさに反応できなかった。3塁のやまちゃんが水たまりを蹴散らしながら猛然とダッシュして捕球したが、もう間に合わなかった。 僕が許した初めての内野安打だった。 僕は油断をつかれた悔しさもあり、疲れもあり、雨の中、ただ呆然とした。意外と足のある弟が、1塁上で「してやったり」と笑っていた。 はるちゃんがタイムをとりマウンドにやってきた。 内野手も集まってきた。雨足は、いっそう強くなった。 「すまん。油断した」と、やまちゃんが謝った。 「俺たちの勝ちはもう決まっている。ひとりくらい気にするな」と、はるちゃんが言った。 「あいつはセンターだろ?足が速かっただけさ」と、田中が言った。 「雨が降るから早くしてくれよ」と言った橋本に、まっちゃんが、グラブですかざず裏拳を入れた。 「とにかく、思い切ってこい。1点2点とられても、どおってことないから。バッター勝負だ」 はるちゃんがそう言って、僕らは守備に散った。 「よし、ここまで来たら岩松兄弟が何をしようと関係ない。あと一人で終わりだ!」と、僕は気を引き締めた。 大粒の雨が降りしきる中、僕と岩松兄との最後の戦いが始まった。 兄もバントの構えをせず、打ちにいくようだった。しかし今度は油断しない。3塁のやまちゃんも、やや前進守備をしている。 1球目。様子を見るために、外角低めのボール球を投げた。 兄は、反応しなかった。冷静に見ている。 2球目。低めのストライクを投げた。 ここで、兄もセーフティバントの構えを見せた。 しかし、結局外れてボール球になったので兄は冷静にバットを引いた。 0ー2となった。 「バントがある」と僕らバッテリーは警戒した。 でも、もうボール球は投げられない。ならば、何度もバント失敗した真ん中の威力のある球でバント失敗させてやる。そのつもりで投げた。しかしそれは、僕に真ん中速球を投げさせるための岩松兄の作戦だった。何度もバントしていたのは、目線の高さで僕の球筋を見るためだったようだ。 彼らは、最後の打席に全てをかけていたのだ。 岩松兄は、手元での伸びも充分見極めてジャストミートした。 その打球は、見事な放物線を描いた。 高々とレフトへあがった。 錦小のベンチが「わぁ」っと沸いた。 僕は、その行方を見つめた。 レフトの新田は、わずかにバックした。 そして、落ち着いて捕球した。ほぼ定位置だった。 僕の球の威力が結局勝った。高くあがったものの、つまった当たりの平凡なフライだった。僕は思わずグラブを叩いた。 ゲームセット。 その時、雷が鳴ったので、錦小監督の指示のもと、終了の挨拶もせず、みんな急いで体育館に避難した。 岩松兄は、1塁上で突っ伏したままだった。 かたわらで弟が見守っていた。 雨は、ざあざあと降っていた。 4 体育館で雨宿りをしている間、岩松兄弟はチームメイトの輪からも離れ、二人で何か話していた。 僕らは、錦小の何人かと話していた。 錦小のメンバーは、市のリーグがどんなものなのか興味があるらしく、さかんに聞いてくる。僕ら、特に橋本は調子に乗って答えていた。例えば、リーグと言っても総当り戦ではなく、トーナメントであること。大体1リーグ20~30校参加するから、5回くらい勝てば優勝するといったことだ。でも、僕らと同じくらい強いチームがいくつもあるから優勝するのは大変だと言うと、錦小のメンバーは、目を輝かせて「すげぇ」とか「やっぱり、都会の学校は違う」とか言って感心していた。 思えば僕らも、ふうちゃんのプレイを初めて見たとき、「やっぱり東京の選手は違うなあ」と感心したものだ。そして僕らには白峰台や中島小などのライバルがいて、お互い負けたくないから、がんばれる。でも、錦小のメンバーによると、この地方にはもともと小学校の数が少なく、また、東部リーグのようなしっかりとした組織もなく、ただ漫然と近くの学校同士で練習試合をするだけだから、市の東部リーグ優勝校である僕らとの試合は、何よりの楽しみだったらしい。 やっぱり、みんな野球が好きなんだ。 錦小の5年生らしい選手が言った。 「でも俺たち5年生はいい勝負だったから、来年もし勝ったら、市内のどの学校よりも強いことになるかな?」 殊勲打の佐伯が言った。 「来年は俺たちも、もっとパワーアップするから、絶対負けないよ」 「絶対だな?」と、錦小も負けていない。 「ああ絶対だ」 「じゃあ、俺たちは、絶対絶対強くなってやる!」 「じゃあ、俺たちは、絶対絶対絶対だ!」 周りにいた、僕ら6年生は笑っていた。 後輩たちの、そんなとりとめもない話を、僕もなんとなくうれしい気持ちで聞いていた。 雨は、そんなに長く続かなかった。 外に出てみると、夏草のむせるような香りが辺り一面を覆っていた。まぶしい夏の日差しも顔を出し、校庭の木々があざやかな影をつくっていた。雨の間鳴きやんでいたセミたちは、また大声で鳴き出した。 僕ら6年生は整列し、あらためてゲーム終了のあいさつをした。大人同士もあいさつし、今回の交流試合は終わった。 軽めの練習を終え、僕らが引き上げの準備をしていると、僕は岩松兄弟に呼び止められた。一瞬嫌な気がしたが、この時の兄弟には殺気がなかった。 「今回はやられたよ」と、弟がちょっと照れながら言った。 「次回は勝つからな。おぼえていろよ」と、兄が言った。 「次回?」僕が聞き返すと、 「ああ。高校になったら県大会があるからな」と、弟が言った。 「それまで、野球をやめたりするなよ」と、兄が言った。 「そんな先の話」と、僕は笑った。 「そんなに遠くない。たった4年後だ」と、兄が言った。 たしかに4年というのは、「たった4年」とも言えるかも知れないと僕は思った。 「あ、でも、にいちゃん。こいつまで転校したらどうする?」と弟が言った。 「おお!そうか!」と、兄が叫んだ。 兄は腕組みして、しばらく真剣に考えていたが「その時は、甲子園で勝負だ!」と言った。 僕は、目の前がパッと開けた気がした。 「甲子園・・・」 めくるめく夢の舞台へ、僕の気持ちは一気に飛翔した。 僕が、本気で甲子園を考えたのは、その時が初めてだったように思う。 「わかっているよ。でも、また俺の勝ちだ」と、僕が言った。さっきの5年生の話と同じような展開だ。 「二度も三度も補欠には負けん!」と、兄が真剣な顔で言った。 こいつは、まだわかってないのかと思うと、何やらおかしくなった。 「ちがうよ。にいちゃん。こいつはもう、エースだよ。じゃなきゃあんな球投げないよ」 「背番号が、1じゃないだろ。だから補欠のピッチャーだ」 僕の背番号は3のままだった。僕らのチームの背番号1は、永遠にふうちゃんだ。 「わかったよ。高校になったら1をつけて勝負してやるよ」 「おう。それなら認めてやる」 僕は笑った。 弟も笑った。 兄だけが腕組みし、真剣な表情をしていた。 第六章 祭の日 1 翌日は、本当にレクレーションの一日だった。 帰る前に、みんなで近くの渓流に行った。浅瀬を見つけて、川に入って遊んだ。昼食の弁当を、涼しい木陰で食べた。 帰りの列車でも、みんなではしゃぎまわったから、家に帰り着く頃にはもう、ぐったりしていた。でも、今日は高浜さんからの日記もあるはずだし、投げ込みに行くことにした。 学校に着くと、正面玄関が閉まっていたので少し慌てた。幸い、通用口だけは開いていたから校舎に入って、くつ箱の日記を受けとり、早速開いてみた。 先ず、「合宿おつかれさま!」と書いてあった。 そしていつものようにいろいろと書いてあって、最後に、「7月29日に縁日にいこうね」と書いてあった。たしか、あの神社では7月8月の9のつく日は縁日というか、夜店が並ぶ。学校近くの神社だけど、もうみんなに知られているから、今さら隠すこともない。それに、夏の大会まではまだ2週間あるから大丈夫だと思った。 さて、それじゃあさっさと投げ込みして帰ろう。そう思ってプール横の壁に行き、いつもの投げ込みを始めた。 30球くらい投げ込んだとき、父さんの声がした。 振り返ってみると、会社帰りの父さんがいた。 「おう、がんばっているようだな」と、父さんは笑っていた。 「どうしたの?」 「いや、今日は早く終わったからちょっと寄ってみた」 そう言うと、父さんは近寄ってきた。僕は、その辺に無造作に置いている日記が見つからないか、そっちの方が心配だった。 「いつも通りだから心配しないで。早く帰れる時くらい早く帰ったら?お母さんはいつも遅い遅いって怒っているから」 父さんは笑いながら言った。 「まあ、いいじゃないか。それより、合宿どうだった?」 「うん。楽しかったよ」 「試合は?」 「勝ったよ。僕らが負けるわけないだろ」 「そうか。おまえが投げたのか?」 「そうだよ。6年生には他にピッチャーいないもん」 「ちゃんと投げられたか?」 「もう、あたりまえだろ?いつもちゃんと練習してるんだから。それに1試合目はノーヒットノーランだったよ」 「ほんとか?そりゃあ、いくら小学生とはいえ、すごいな」 「わかったら、もういいだろ?」 「まあ、そう言うな。どうだ、父さんが受けてやる投げてみろ」 「いいよ。別に」 「いいからいいから。ちょっとグラブをかせ」 父さんはそう言って僕からグラブを取り上げ、さっさとキャッチャーの位置についた。 「そのグラブ、父さんには小さいだろ?僕の球、速いから危ないよ」 「大丈夫。これでも元高校球児だぞ。いいから投げてみろ」 「でも」 「いいから。本気で投げてみろ」 仕方ないから僕は投げることにした。でも硬球は危ないので軟球に変えた。 「いくよ、ちゃんと捕ってよ」 そう言って僕は全力で投げた。 いつもの速球が、真っ直ぐ父さんのグラブにつき刺さった。 父さんはびっくりしたようだった。 「だから、言ったでしょ。危ないって」 僕がそう言うと、父さんは笑いながら言った。 「ほんとだな。おまえすごい球投げるんだな。これなら確かに小学生には手も足も出ないだろう。たぶん100キロは出ている」 「白石はね、120キロくらいあるって」 「そうかもな」 父さんは、安心したのか、1球で「もういい」と言ってキャッチャーをやめ、僕に近寄って言った。 「よくがんばったな。腕のふりといい、下半身の使い方といい、申し分ないぞ。でも、無理して肩を壊したらいけないから、ほどほどにしとけよ」 「何なの?肩を壊すって?」 父さんはちょっと考えてから答えた。 「まあ、投げられなくなるってことだ」 「そうなの?」 「まあ、そういうことも、あるってことだ。だからほどほどがいいんだ。ある程度の間隔で休んだ方が筋肉も付くしな」 「ふーん、そうなのか」と僕が新たな知識に感心していると、父さんが日記を目ざとく見つけた。 「なんだこれ?」 そう言って、父さんは日記を開こうとした。 「あ!」と叫んで僕は日記を取り返そうとしたが、大人の身長にはかなわない。 「何だおまえ、交換日記しているのか!」 「もう!読むなよ」と、僕はふくれた。 父さんはちょっと離れて日記を読んでいた。 「なかなか感じのいい子じゃないか。今度家に連れてきなさい」 「絶対やだ」 「まあ、そう言うな。縁日行くんだろ?特別に小遣いやるから」 それだけは、予想外のラッキーだった。なにしろ僕らはお小遣いで大人に支配されている。 「本当?」 「ああ。本当だ。最近おまえは良くがんばっているし、ごほうびだ。母さんには俺から言っておく」 僕はめちゃくちゃうれしかった。やっぱりお金がないと高浜さんにいいとこみせられないし。 「しかしまあ、速球といい、ガールフレンドといい、おまえはどんどん成長しているんだな」 父さんはそう言って笑った。 2 7月29日になった。 その日、練習が終わると、ダッシュして帰った。夏休みの練習は、午後1時から5時半までだ。夜店は5時からだから、もうとっくに始まっているが、充分明るいうちに夜店に行ける。急いで帰って着替えをすませ、僕はお小遣いをポケットに突っ込んで出かけた。 父さんは、特別お小遣いを三千円もくれた。僕には夢のような大金だ。月々の倍額なのだ。結局、お母さんは怖いから言い出しにくかったようで、自分の小遣いの中から出してくれた。 「父さんの10日分の小遣いだぞ。心して使え」と、真剣な顔で言っていた。 神社に着いた頃には、辺りはもう薄暗くなっていた。 参道の両側に並ぶ夜店の明かりがきれいだった。 僕は人ごみをかき分けて、約束のこま犬のところに急いだ。 約束の時間は過ぎていたから、高浜さんはすでに来ていた。 「高浜さん!」 僕が声をかけると、高浜さんは僕に気づいて、ちょっとはにかんだような笑顔を浮かべて手を振った。 僕は高浜さんに駆け寄った。 「ごめん。ちょっと遅れて。練習後のミーティングで橋本がこっぴどく怒られて時間がかかって・・・」 そう弁明すると、高浜さんは、ちょっと浮かない表情をした。だから僕は「どうしたの?」と聞いた。「別に」と高浜さんは言うけれど、僕は気になった。いつもはもっと明るいのに。 高浜さんは、横を向いてうつむいた。 僕はとても気になって、高浜さんの顔をのぞきこんだ。その横顔は、確かに「かわいいや」などと思えた。東原ベスト10というのも、うそじゃないかも知れない。 「あ!」 僕は、そこでやっと気づいた。高浜さんは、浴衣を着ていた。 「浴衣、似合っているよ」と、僕は言った。 モノの本によると、こんな時は浴衣をほめないといけないらしい。 「谷山くん、おそいよ。でも、ゆるしてあげようかな」 高浜さんは、やっと笑った。まったく、女の子って難しいなあと僕は思った。でも、今日のためにちょっと予習していて良かった。 それから僕らは、たこ焼き、わたあめ、射的に金魚すくいで遊んだ。高浜さんはお金の心配していたが、僕は特別お小遣いのことを話し「だから今日は心配いらないよ」と言った。 父さん。ありがとう。父さんのおかげだ。でも、「家につれてこい」という話だけは絶対しないよ。 楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。 もう、8時になろうとしていたので、僕らは帰ることにした。 僕は高浜さんを送って行った。 ふたりで歩く夜道もけっこう楽しかった。 高浜さんの家は、本当に学校のすぐ近くだった。 「ちょっと寄っていかない?」と、高浜さんは言ったが、「これから投げ込みしたいから」と断った。 「谷山くん、まじめなんだね」 高浜さんは真顔で言った。 昔は、投げ込み以外適当にさぼっていたから、ちょっと耳が痛い。それにちょっと照れもあったので、「そんなんじゃないよ」と言った。 「でも、お父さんも感心な子供だって言っていたよ」 「何、それ?」 「だって、私の家、学校に近いでしょう?だから、夜お父さんと学校を通って散歩したりしていると、必ず谷山くんが投げ込みしてるんだよ。毎日毎日ね。だからお父さんも知っているの」 僕には思いもしなかったことだ。ひょっとすると、僕は投げ込みのおかげで、この辺りではちょっとした有名人かもしれない。 「それで、このあいだの試合で谷山くんがピッチャーやって、ノーヒットノーランを達成したよって言ったら、感心な子供だ。一度つれて来いっていうの。お父さんも野球好きだから」 確かにノーヒットノーランのことは日記に書いた。でもそれがよその家で話題になっているとは夢にも思わなかったし、「連れてこい」なんて、うちの父さんと同じことを言っている。大人って不思議だなあ。 「でもね、お母さんに言わせると、ほんとはお父さん、キャッチボールの相手が欲しいんでしょう?って言うんだ。うちには男の子がいないからって」 高浜さんには、4年生の妹しかいないことは知っている。でも、僕が何で?というか、どんな顔して高浜さんのお父さんとキャッチボールしたらいいんだろう? 「あ、谷山くん。またまじめに考えてるな?顔に出ているよ」 高浜さんは明るく笑った。 「いいのよ。お父さんのことなんて適当で」 だったら、「言うなよ」と思った。 「じゃあね。谷山くん。またね。投げ込み、遅くなるけど、気をつけてがんばってね」 そう言うと高浜さんは家の中に入って行った。僕は手を振っていた。 思えば、僕の初デートは、こんなものだった。何のドラマもなく、最後は、結局野球の話だった。でも、ポツンと一人取り残されると、何だかひどく寂しくなった。 夜店の喧騒と、さっきまでのあたたかい空気がうそみたいだ。 まあ、いいや!投げ込みに行こう! 僕はそう思い、街灯の照らす道を、駆けて帰った。 -野球少年 小学校編 3 へ続く-
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!