野球少年 小学校編 3

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野球少年 小学校編 3 第七章  熱 戦 第八章  夏のおわりに 第九章  秋 風 第七章 熱 戦 1 僕は変化球を覚えなかった。試しに投げてみたことは、ある。ちゃんとカーブした。はるちゃんは「初めてにしては良く曲がったな」と言っていた。監督は、「今から覚えても小学校の間はどうせ使い物にならん。かえって速球をダメにすることだってある。だから覚えなくてもいい。そのかわり、しっかりチェンジアップを覚えろ」と言っていた。だから、例のチマチマした野球になるけれど、それでも合宿の交流試合で成功したこともあり、緩急と制球中心の練習を続けた。直球だけでも、僕は「誰にも負けない」という自信をつけ始めていた。 2 いよいよ夏の大会が始まった。 夏の大会は、お盆休みを中心に行われる。春のように間の休みはなく、基本的に連戦だ。しかし、参加校は1日1試合しか行わないよう配慮してあり、西部リーグとのかねあいで市民球場だけでは足りないから、各小学校に試合会場が割り当ててある。 僕らはDブロックで、東原小は1・2回戦の試合会場となる。ライバルの中島小はAブロック。白峰台はBブロックで、それぞれシードされている。僕らの東原は、昨年ベスト4になっていないのでシードされておらず、1回戦から戦うことになる。 開会式は、春と同じ市民球場で行われた。 式典も終わり、移動の準備をしていると、中島小のキャプテンとエースが僕らのところにやって来た。キャプテンは殊勝な態度であいさつし、そしてこう言った。 「春の雪辱戦をしたいから、ぜひ、決勝まで残ってください。僕らもがんばります。決勝で会いましょう」 たしかに彼らとは決勝戦まであたらない。 はるちゃんが答えた。 「お互いがんばろうね。でも、そちらと準決勝であたる白峰台は強いよ」 「知っています。でも、僕らの目標は打倒東原さんです。春以来それを励みにしてきました」 中島小は、いわゆる私立のエスカレーター式お坊ちゃん学校だ。しつけも厳しいらしく、礼儀がいい。野球部にも一流のコーチ陣がついているし、高等部は甲子園の常連校だ。よほど自信をつけたから、こうして大見得きりにきたのだと思った。物言いは穏やかでも、その表情の端々に不敵な自信が垣間見えた。 「恥の上塗り」と、橋本がこっそり言った。 中島小のキャプテンにも聞こえたらしく、さすがにちょっとムッとしていた。まっちゃんがとりなすように言った。 「あ、ごめん。あいつはバカだから気にしないで」 ちょっと険しい表情で中島小のキャプテンが言った。 「そちらも準決勝であたる池上小には気をつけてください。今年が初参加だけど、強いですよ」 「池上小?」聞いたこともない学校なので、僕には疑問だった。中島小のキャプテンは、さらに教えてくれた。 「とにかくノリのいい選手が揃っています。各選手が天才的というか、一度打ち出すと止まらなくなるそうです」 「それを、わざわざ言いに来てくれたのか?」と、ガンちゃんが聞いた。 「そうです。そんなところで止まって欲しくはないから」 「わざわざありがとう」と、はるちゃんが言った。 「ところで新しいエースの谷山君は、どなたですか?」 中島小は、僕の名前まで知っているのにちょっと驚いたが、落ち着いて答えた。 「僕だ」 「ああ、やはり君か。春の大会で最後にホームへ突入した人ですね」 「勝算は、あったよ」 「そうですね。タイミング的にもセーフでした」 「ああ」 「球も速いそうですね」 「たぶん」 「変化球はないのですか?」 いきなりど真ん中の質問だ。探りを入れている。はるちゃんが首を横に振ってこっちを見たので、僕はとぼけて答えた。 「さあ、どうだろう。良く曲がるけどね」 中島小の二人は顔を見合わせた。 「まあ、いいです。でも池上小は速球には強いそうですよ」 僕はわざと鈍い反応をした。 「ふーん。そうなの」 はるちゃんが場を打ち切るように言った。 「じゃあ、僕らこれから移動するから。決勝では、おてやわらかに」 「そちらこそ。楽しみに待っています」 そう言って中島小の二人は引き上げていった。 まったく中島小は、殊勝なのか、不敵なのか、わからない。僕らのブロックはたいした敵はいないけど、彼らは白峰台とあたる。白峰台は半端な敵ではないのに、もう決勝に行くつもりでいるらしい。それにしても、僕らにマークが付いているのは確かだ。 はるちゃんが言った。 「気にするな。みんな。僕らはいつものようにやれば、絶対負けないから」 当然だ。僕は、負けるつもりなんてハナからない。 市民球場をあとにして、僕らの学校に着くと、僕らは荷物を降ろして、さっそくウォーミングアップの練習を始めた。そして、それが終わる頃、相手チームがやって来たので、僕らは練習を切り上げ、グランドを譲った。彼らが練習を始めると、僕らは校庭の適当なところに陣取って、その様子眺めながらいろいろ論評しつつ分析したが、僕らが脅威を感じるようなチームではないという結論になった。 お昼を挟んで、1時半から試合が始まった。 「よし行け!」という掛け声が父母会の一人からあがった。僕らは強い。だから、僕らは試合が楽しくて仕方ない。父母会も、強い僕らの活躍が楽しみなのだろう。 僕らは後攻だった。 まっさらなマウンドに僕があがった。 僕の先発投手としての公式戦デビューだ。 小さい頃から投手に憧れ、ひとり黙々と投げ込みしてきた僕には、感慨深い。 投球練習が終わると、僕は錦小の時と同じように天を仰いだ。あの時と同じ青空が広がっている。 「よし!」 心の中で気合いを入れて、僕は大きく振りかぶった。 初球は、ど真ん中豪速球だと、はるちゃんと決めていた。 足を上げ、下半身のバネを利かせながら大きくテイクバックした。腰を入れて踏み込み、そして思い切って右腕をふりきった。僕の手を離れたボールは、シュウシュウと空気を切り裂く音をたて、真っ直ぐに飛んでいく。 パーン!といういつもの捕球音とともに、はるちゃんのミットに突き刺さった。 両ベンチからどよめきが起こった。 今日は僕らの学校での試合なので、父母会の人たちが大勢来ているが、僕の速球をまのあたりにするのは初めての人が多い。でも、チームメイトは全学年とも僕の速球を知っているから、「よーし!」という声援があがった。2球目の前に、そんな様子をちらっと見ると観客の中に高浜さんがいた。いっぱいの笑顔で僕に手を振っていた。バスケの練習着だったから、練習を抜けてきたのだろう。 さて、2球目だ。 はるちゃんのサインは、外角低めへ、やまなりの遅いボール球というものだった。僕がその通りに投げると、バッターは見事にひっかかり、ボテボテのセカンドゴロに倒れた。 ちなみに監督から、豪速球は1回に1球しか投げるなと言われている。この頃には『遅い球』『速球』『豪速球』と3種類をはっきり区別して使い分けていた。つまり、基本的には『速球』と『遅い球』でピッチングを組み立てろということだった。父さんの言った『肩を壊す』ことと何か関係があるのかも知れないと思い、その指示に従うことにしていた。5年生エースの吉田には、「どうしてストレートだけであんなに緩急がつけられるのか不思議だ。同じフォームだし」とも言われるが、僕にも何故だかわからない。僕の場合、はじめからできていた。 さて後続のバッターも、はるちゃんの指示通りに投げてうちとった。3分かからずに交替だ。僕も野手だったから分かるけど、守備時間が短いほど調子にのれる。「よし!攻撃がんばろう!」という気になる。逆に、四球を連発したり、だらだらと投球されると野手もつい嫌気がさし、攻撃まで散漫になってくる。 さて、1番は僕らの切り込み隊長ガンちゃんだ。 1球目からバントの構えをした。しかし、相手チームは前進守備をしなかった。深読みしてバスター警戒なのか、それともレベルが低いのか。 相手ピッチャーが、第1球を投げた。 ボール球だったので、ガンちゃんは落ち着いてバットを引き、ボールとなったが、相手チームはダッシュもせず、ただボール球になったことに対して「ドンマイドンマイ」とか、「おしいおしい」とか励ましあっているだけだった。 僕には分かった。このチームはレベルが低い。 確かに、励ましあうこと、一所懸命やることは大切だが、勝つためのごく基礎的なことすらできていない。僕らとはレベルの違いすぎるチームだ。僕らは、鬼監督のしごきに耐え、ふうちゃんのうまいプレイを手本にし、今や父母会の人から「中学生チームと試合しても勝てる」と言われるほどの圧倒的なチーム力なのだ。まあ1回戦だから仕方ない。でも、この試合はもうもらった。そう思っている間に、ガンちゃんがしっかりとセーフティバントを決め、いつものように出塁した。 僕も攻撃の準備をしようとヘルメットをかぶると、「谷山くん」という高浜さんの声が聞こえた。振り返ると、ベンチの人ごみからちょっと離れたところで高浜さんが手を振っている。その隣には見知らぬおじさんが立っていた。高浜さんが「父さんよ」と言っているようだった。それに気づいた僕はつくり笑顔でぺこんとお辞儀をしたものの、内心慌てた。「連れてくるなよ」と思った。でも、感じのいい親父さんで、僕に笑顔を見せ、軽くお辞儀をしていた。今日は休日だから見物に来ているのだろう。僕の両親はちょっと用事があって来ていないのが何よりの救いだった。ただ、橋本と田中の冷たい視線が突き刺さった。 その間、試合はガンちゃんの盗塁、まっちゃんの送りバント成功など、着々と勝つために動いていた。僕はネクストバッターサークルに立ち、2・3回素振りをした。気持ちを切り替えてゲームに集中しなければ。 3番やまちゃんが、センターオーバーのタイムリー2ベースヒットを打った。 よし、僕も「続こう」と思って打席に入った。 相手ピッチャーの球筋も見えている。 僕は、ホームランを打った。 全力疾走で1塁を駆け抜ける時、僕はホームランの判定を確認した。3塁をまわる頃、相手ピッチャーの呆然とした様子と、その向こうで両手を叩いてはしゃいでいる高浜さんが見えた。 試合は、8ー0で僕らのコールド勝ちだった。 僕も遅い球を2本ヒットされたが、別にそんなのはどうでも良かった。とにかくチームが勝てば、それでいい。 その日の日記に、「谷山くん、カッコよかったよ」と書いてあったのが何よりの励ましだった。しかし、続きがあって、「父さんも、小学生とは思えない強いチームだな。みんなが良く野球を知っていて、通好みの試合だった。これからはちょくちょく応援に行こうと言っていたよ。父さんも野球好きだから」とあった。僕は思わず「うそ」と声を上げた。「こなくていいのに」とも思った。よけい緊張するし、田中の視線も気になるから。 翌日は2回戦だ。 1回戦の相手とそんなに変わらないレベルのチームだった。確かに、レベルの違う相手と試合をしても面白くはなかった。秋の大会は強いチームだけの戦いになるかも知れないというが、その方が面白そうだ。   この日も僕らはなんなく勝った。 その次の日。 3回戦だ。 準々決勝になるので、場所が変わり、市民球場で行われる。 僕らの移動は、基本的に父母会の有志が車を出してくれるのだが、移動中、運転していた父母会のおじさんに、「3連戦目だからそろそろ疲れが溜まっていないか?」と聞かれた。乗り合わせた5人は顔を見合わせたが、声をそろえて「いいえ」と答え、「普段の練習の方がきつい」と新田が言った。 僕もそう思った。夏の大会中、試合の他は軽めの練習しかしないからいつもより楽なくらいだし、僕らは連勝中で気分も乗っている。それに、大人はよく「疲れ」うんぬん言うけれど、僕には「疲れがたまる」というものが実はよく分からなかった。その日きつくても、一晩寝れば、翌日はケロッとしている。 市民球場に着いた。 今日の対戦相手である昨年のベストフォー里中小学校は既に来ていて、練習していた。さすがにベストフォーだけあって、動きがいい。声も良く出ている。今日は面白い試合になりそうだ。 僕らの練習も終わり、いよいよ試合開始だ。 先攻は、僕らだ。 1番ガンちゃんがバントの構えをすると、前進守備はなかったが、投球とともに1塁手と3塁手がダッシュしてきた。ガンちゃんはバットを引いたが、判定はストライクだった。 2球目。 バントの構えはしなかったが、3塁手がやや浅い位置にいた。 ガンちゃんは、ヒッティングし、ファールになった。 これで2ー0。3塁手は定位置に戻った。 3球目。 ボールになった。高めのつり球にガンちゃんは反応しなかった。よく見ている。落ち着いているなと僕は思った。 そして、4球目。 ガンちゃんは3バントを試みたが、内角高めの速球をとらえきれず、3バント失敗になった。ガンちゃんにしては珍しい失敗だった。里中は、さすが昨年のベストフォーだけはある。 そしてこれが、これより決勝まで続くことになる熱戦の火蓋となった。 2番まっちゃんも、左右をつく丁寧なピッチングに翻弄され、結局セカンドゴロになった。 3番やまちゃんは、速球に押され平凡なライトフライに倒れ、攻守交代。 僕らの守りだ。 初球、僕らは様子を見るため外角低めへ遅い球を選択したのだが、わずかに高く入り、ライト前へきれいにはじき返された。 里中小と僕らは初対戦だった。ただ弱くはないとしか知らなかった。でも、こうして失投を見逃さないあたり、なかなかのチームだと思わざるを得ない。 はるちゃんもそう思ったのか、「速球でいく」というサインだった。僕はうなずいた。そしてサイン通り、内角への速球を投げた。 相手2番は見送り、ストライクになった。 2球目。また内角へ速球を投げたが、落ち着いて送りバントを決められた。そんなに甘くはなかったのに。 1アウト2塁。 3番バッターは、6球目、高め速球のつり球に引っかかり、ショートフライにうちとった。 そして4番。 粘りに粘られ、12球目でようやくセカンドゴロにうちとった。これで3アウト。 なかなかしんどい相手だ。 2回表は僕の打順からだ。 左右高低を丁寧につかれたが、捉えられないことはなさそうだと粘るうちにわかった。ストレートとカーブではリリースポイントが違うし、球は速いが軽そうだ。きちんとミートするだけで、外野まで行くだろう。僕はそう思って、8球目のストレートをよくひきつけてから、センター前へはじき返した。 続く5番の田中が送りバントを決め、僕は2塁に進んだ。 6番は白石だ。 例の集中した顔つきだったので、僕はまたホームを突いてやるつもりだった。案の定、白石がセンター前に打ったので、僕はホームへ突入した。しかし、センター正面の浅い打球を猛ダッシュしてきたセンターがワンバウンドで押さえ、真っ直ぐホームへダイレクト送球し、僕はタッチアウトになった。そしてキャッチャーは、すぐさま2塁へ送球した。バックホームを見た白石が2塁へ走ったからだ。白石もタッチアウト。僕も白石も足はある方なのだが、一瞬にして3アウトになった。 僕らのベンチから落胆のどよめきが起こった。 もちろん里中ベンチからは歓声だ。 里中バッテリーはハイタッチをしていた。 ノーマークだったが、なかなかの敵だと思った。 2回裏。 初球。 僕は外角低め遅い球から入った。 5番バッターは、見送ったが、ストライクだった。 2球目。 僕は、今度は速球で同じコースのややボール球を投げた。バッターは食らいついてきて、ファールになった。 3球目。 はるちゃんの指示通り、外角低めで遅い明らかなボール球を投げた。バッターは見送り、ボールになった。 4球目。 内角高め、ボールくさい速球を決めた。バッターは大振りしての三振に倒れた。これで1アウト。 次は6番バッターだ。 初球。また外角低めへ速球を投げた。バッターは、ファールでカットした。 2球目。外角低めへ遅いストライク。バッターはタイミングを逃し、見送った。 3球目。外角低めへ速球を投げた。バッターは、1球外すと思っていたようで、慌てて振ってバットの先っぽにひっかけ、セカンドゴロに倒れた。 はるちゃんのリードが勝った。 次は下位打線の7番だ。 はるちゃんは1球で決めるつもりのようだ。真ん中高め遅い球という危険なところを要求した。下位打線相手なら、遅い真ん中の球でも僕の球威が勝つと見たのだろう。 はるちゃんもなかなかの勝負師だ。 おもしろい。 僕は、はるちゃんのミットめがけて要求通りの球を投げた。 バッターは、まんまとひっかかった。何でもないショートフライにうちとった。 しかし、息が詰まる。コースミスは許されそうにない。こんな投球がいつまで続くのか。でも、不思議と負ける気がしなかった。 その後、試合は膠着状態になった。 僕と、里中小エースの投げあいのようになった。 試合を押していたのは僕らだ。何度も出塁したが、要所をしめられ、得点に結びつかなかった。 今ひとつ、流れをつかみかねていた。 そして最終回。 先頭バッターの新田が、6球粘ったあと高めの失投を右中間へ2ベースヒットした。誰も期待しておらず、延長も見えてきたこの回、伏兵の一撃に僕らのベンチは俄然盛り上がった。 続く8番橋本は、ファーボール狙いのようで、さかんにカットして粘った。とうとうピッチャーが根負けしてファーボールとなった。 橋本なりに真剣だ。 里中小は、タイムをとり、内野がマウンドに集まった。何やら相談しているが、もう遅い。ここで登場するのは得点圏打率3割6分のはるちゃんだ。 はるちゃんは、打席の前で鋭いスイングをして気合いを入れていた。 やがて里中小は守備につき試合再開となった。しかし、よく見ると、ピッチャーの顔は真っ青になっている。僕らを相手に、ここまでがんばってきたのだから無理もない。 でも、僕らは遠慮しない。 この辺りで決めてやる。 里中バッテリーは、ゲッツー狙いのようで盛んに低めに投げてくる。でも、もう球に切れがなく、そんな球に引っかかるようなはるちゃんではない。ボールを見極め、打てる球を冷静に待っていた。 その球が来た。 外角高めに抜けた失投だ。はるちゃんは、踏み込み、右中間へはじき返した。しかし浅い当たりだったので、3塁走塁コーチは新田を止めた。あのセンターは強肩だからだ。 ノーアウト満塁。 僕らベンチの押せ押せムードは頂点に達した。 ここから僕らは上位打線の登場だ。 大量得点の予感があった。もちろん、ここでガンちゃんが続くことができれば、だ。 0ー2からの3球目。 ガンちゃんはバントの構えを見せ、相手内野手の前進守備をさそった。判定はストライク。 1ー2からの4球目。 またバントの構えをしたので投球とともに相手内野手がダッシュしてきた。しかし、バッテリーはウェストしたのでバットを引いて、これで1ー3。 5球目。 またバントの構えをしていたが、もうボール球は投げられず、内野手もダッシュしてきた。ガンちゃんの作戦は、その頭を超える、バスターだった。見事に決まって1点先制。しかもまだノーアウト満塁。 浮き足立ったピッチャーは、もう僕らの敵ではなかった。続くまっちゃんも、やまちゃんも、僕も、連打を重ねた。 結局、その回だけで打者1巡の猛攻。 6得点のビッグイニングとなった。 その裏。 里中小最後の攻撃は、悲壮な覚悟の攻撃だった。 先頭打者は、初球をバントしてファール。 2球目もバントして失敗。 3球目もバントを試みたが、キャッチャーフライに倒れた。 続く第2打者の3番バッターも、2ストライクまでバントした。 あの岩松兄弟を思い出させる。 しかし最後はセカンドゴロに倒れた。 そして4番バッターの登場だ。 さすがに4番は、バントの構えをしていない。 もう勝負は決まっているから、ここはおそらく、大きい当たりを狙っているだろう。 だから、先ずは用心のため外角低めへ投げた。 ファールになった。 2球目。 内角高めボールくさい速球。見事にひっかかって空振り。 3球目。 はるちゃんの要求はど真ん中へ豪速球というものだった。 おもしろい。 今日はまだ1球も投げていない。おそらく、秋の大会も視野に入れたはるちゃんの計算なのだろう。僕らへの恐怖心を植えつけるための。 「よし!」 僕は腹に力を入れ、そしてこれまで以上に大きく振りかぶった。 僕は、速球と遅い球のフォームは全く同じになるよう練習してきたが、豪速球だけはどうしてもやや大振りな動作になる。 そして、全身の力を込めて投げた。 それが、ゲームセットの1球になった。 3 試合が終わると、僕らは学校へ戻った。 ちょうど整理運動のように、軽めの練習をした。 ランニングや、シートノックだ。 シートノックを4年生エースが受けているとき、5年生エースの吉田が僕に話しかけてきた。 「先輩、先輩はどうしてあんなにコントロールがいいのですか?」 僕はハッとした。 そう言えば、なぜだろう。僕はもともとコントロールは悪い方だった。 「わからん」と正直に答えた。 「ふつう、あんなに決まらないですよ」 「そうかな」 「何か秘訣があるなら教えてください」 僕は困った。あまりコントロールは意識していない。ただ、はるちゃんの言うとおり投げているだけだと言うと、吉田は「絶対うそだ」といって信じなかった。 「じゃあ、おまえはどうだ?いいカーブを持っているけど、意識しているか?」 「まあ、覚え始めの頃は意識して練習しましたけど、今はしてないですね」 「そうだろう?」 ちょっとだけ、思い出した。それは、まだ小さかった頃、白石の親父さんから聞いたことだ。 「そうそう、ひじを下げないことと、腕が体の軸線から横方向にぶれないことくらいかなあ」 僕よりも投手歴が長い吉田に教えるなんてちょっと恥ずかしかったが、後輩のためだと思い、小さい頃から続けた投げ込みのことを話した。そして、走り込みや、遠投、ゴムボールのことも話した。どれも、野球の本には載っている、ごく常識的な話だ。吉田はいちいちうなずいて「先輩はすごいや」などど言いつつ耳を傾けていた。しかし僕は、奇跡の硬球のことだけは話さなかった。本当はあの重い球をきれいに投げられるようにいろいろと努力した結果なのだとその時自分ではわかっていたが、何かうさんくさい話と思われたくなかったし、野球を知っているものに話すとあの硬球がくれた魔法のような力が消えてしまうような気がした。 確かにあの硬球は、僕が憧れのピッチャーになるという奇跡を起こしてくれた。でも、それはきっかけに過ぎなかったことも自覚している。鬼監督も言っているように、「練習は裏切らない」ということを僕は自覚し始めている。しかし、その一方で、奇跡の力を信じたいという思いもあり、その両方の狭間で、僕は折り合いをつけかねていた。 ひとつだけ確かなことは、僕は、いや僕らは、絶対三連覇するということをなんの疑いもなく信じていることだけだ。 さて、翌日は準決勝だ。 夏の大会は、市民球場で行われる。 対戦相手は中島小の情報通り、池上小だ。 彼らは不思議なチームだった。 先ず、坊主頭の選手がいない。それに、僕らと違って楽しそうに練習していた。打撃練習で誰かが空振りすれば、手を叩いて冷やかす者もいるし、守備でトスに失敗しても、みんなで笑っている。それは陰湿な笑いではなく、ミスした本人も一緒に笑っている。ひどくリラックスしているようで、のびのびとやっていた。一方僕らは、気合いの入った声出しに、統制のとれたシステマチックな練習だ。中島小も、白峰台も僕らと同じだ。池上小は今までの敵とは違うタイプのようで、あんなのびのびムードで準決勝までくるのだから、確かに要注意の敵かもしれない。 僕らの後攻で試合が始まった。 第1球。 僕らは外角低めのボールになる速球から入って様子を見ることにした。 1番バッターは、そのボール球に手を出して、へっぴり腰で大きな空振りをした。 池上小のベンチから、ドッと笑いや冷やかしが沸き起こった。バッターもベンチを見て舌を出しては苦笑いしていた。 どうも、調子の狂う敵だ。 2球目は胸元へ速球をスバっと決め、手が出ないようだった。 3球目。外角低め、ストライクの遅い球。 予定では三振かセカンドゴロだったのに、すくい上げるような見事なバッティングでライト前に運ばれた。池上小のベンチは歓声にわいた。 1番バッターは、1塁上で白い歯を見せてガッツポーズをしていた。 あの球を逆らわずにうまく流し打ちするあたり、確かにこいつらは天才的かもしれない。油断は禁物だ。僕は気合いを入れなおした。 2番バッター。 1ー2からの4球目。1塁ランナーが盗塁してきた。はるちゃんもすかさず反応したが、まんまと盗塁されてしまった。ランナーは、笑顔で右手を突き上げ、ベンチにアピールしていた。 しかし、カウントは2ー2。 これで、たぶん送りバントはない。というか、彼らにはハナからバントのつもりはないようだ。 インハイ速球のボールになる釣り球で、2番バッターは三振にうちとった。池上小ベンチからは味方へのブーイング。でも2番バッターは堂々と笑いながら引き上げていった。 3番バッターは、ちょっとこのチームには珍しい熱血男のようだった。太い眉毛の間に3本くらいのしわを寄せて打席に入ってきた。僕らには、こういう選手の方が理解しやすい。案の定、簡単に三振を取れた。 そして、4番。 長身で面長のニヤついた男だ。 ニヤニヤしながら打席に入ってきた。 ボール球は冷静に見送られ、ストライクはカットされた。 なかなかのバッターだ。2ー3のフルカウントまで行って、四球覚悟でインローボールの速球を投げた。失投ではなかった。でもその球は見事にすくい上げられ、レフトへ高々と上がった。 「わぁ」っと池上小ベンチから歓声が上がった。 新田が懸命にバックした。 僕には信じられなかった。 まさか僕の速球がこんなに飛ぶなんて。 2塁ランナーはスタートしていたからホームインした。僕らの視線は、その滞空時間の長い打球に集まった。新田の足が止まった。そして両手でがっちり捕球した。僕はホッとした。池上小からためいきが上がり、僕らのベンチからは歓声があがった。4番バッターは2塁をまわった辺りで、立ち止まり、ヘルメットを地面に叩きつけた。 ニヤついているけど、意外にホットな奴だと僕は思った。 ベンチに戻ると、はるちゃんが話しかけてきた。 「まだわからないけど、ひょっとすると彼らは低めの速球に強いのかもしれないよ」 「そうなの?」 「うん。なんかみんな低めを狙っている感じだ。だから、次はちょっと探りを入れてみるから」 「わかった」 ふつう、どのピッチャーも低めを意識している。 低めだと大きな当たりにはならないから、勝負所では、必ず低めを投げる。しかし、その低めを狙い打ちできるとなると、これは問題だ。彼らの強さの秘密が見えてきたような気がした。そうこうしている内に、ガンちゃんがレフト前ヒットで出塁した。 僕らの1番バッターも負けてない。 僕らのベンチも盛り上がった。 まっちゃんが、「よっしゃー!」と大声をあげ、2回大きな素振りをして打席に入った。 送りバントするぞの合図だ。僕らは、監督の指示がない分、選手同士で意思疎通のための合図を決めている。池上小のピッチャーは、左投手なので盗塁は難しいと判断したのだろう。 いつものようにあっさりと1球で送りバントを決めた。 1アウト2塁。 バッターはやまちゃんだ。 やまちゃんも大声をあげ、気合いを入れて打席に入った。 何度も何度も言うが、やまちゃんの場合、演技ではない。本当にただ気合いを入れているだけだ。しかし、今回は気合いを入れたかいもあり、ベースカバーのため空いていた1・2塁間を破るヒットを打った。 これで1アウト1・3塁だ。 「よし!つなごう!」 そう思って僕は打席に入った。 池上小のピッチャーは、制球はよさそうだが、球威はない。僕はあっさりとレフト前ヒットを打ち、1点先制した。しかも、1アウト1・2塁。 レフトからの返球を受けたショートがボールを持ってマウンドに行くと、いきなりピッチャーに向かって笑いながら「打たれるなボケぇ」と言っていた。ピッチャーも笑いながら何か言い返していた。 やはり彼らの世界は独特すぎる。僕にはついていけない。 彼らはタイムをとりマウンドに集まっていた。 そして何やら相談していたが、やがて守備について試合再開となった。 プレイがかかって、やまちゃんと僕がリードをとったその時、ショートの選手がするするとベースカバーに入り、やまちゃんにタッチした。何事だろうと思うと、それは、隠し球だった。ショートは、ボールの入ったグラブを高々と掲げ、審判にアピールした。 審判が、アウトの判定をした。 すかさずショートは、1塁に送球した。 ボケッとしていた僕を刺すつもりだ。 僕は慌てて帰塁して助かったが、ぎりぎりだった。その一瞬の出来事をやまちゃんもベンチも理解した頃には、相手ベンチは大きく盛り上がっていた。しかし油断も隙もない奴らだ。まるでガキ大将の草野球を臆面もなくそのままやっている。言い方を変えると、彼らは枠にとらわれず、自由にゲームを創造している。今までとはまったく違う強さを持った敵だった。 これで2アウトになったこともあり、僕はリードを少なめにし、慎重にいくことにした。 そして、池上小を観察することにした。 というのも、自由にゲームを組み立てるには、卓越した個人技がなければならない。しかし9人とも卓越しているかというとその確率は低い。ならば、何人かのキーマンがいるはずだ。さっきの隠し球をする度胸と見事な送球を見せたショートは、その一人だ。もう一度その顔を見ると彼はさっきヒットを打った1番バッターだった。 僕はその時すでにミスを犯していた。 走者でありながら、目の前のゲームに集中せず前記のようなことをあれこれ考えていたのだ。振りかぶった相手投手が投げた先は、ホームではなく、1塁だった。 タッチアウトになった。 池上小のピッチャーは、マウンドで吼えた。 僕は呆然と1塁に立ちつくし、歓声をあげながらベンチへ引き上げる池上小ナインの後ろ姿を見送った。アウトになった悔しさもあり、けん制で刺されたという恥ずかしさもあった。 しかし、投げる球はたいしたことはないが、あの投手も要注意の一人であると思った。これで、1番バッター、4番バッター、それにあの投手の3人は要注意選手であることが分かった。 2回の表。 池上小の攻撃は5番バッターから。打席にはあの投手が入った。 さっそく、要注意の一人が登場した。 僕とはるちゃんは、示し合わせたとおり、高低をついて様子を見た。やはり、低めの方が反応がいい。最後は、速球が外角低めいっぱいに決まったこともあり、サードゴロにうちとった。 続く6番は、キャッチャーだ。 やはり高めには反応せず、低めに手を出す。しかし、なぜだろう。ふつう低めをヒットするのは難しい。 彼らには自信があるというのか。 ちょうど、はるちゃんのサインが低めの速球ボール球というものだったので、僕はストライクにして試してみることにした。 真ん中低めに行った球を、6番は、やや遅れながらもはじき返した。セカンドの頭を越えるライト前ヒットだった。 これではっきりした。 僕の球速と球威にやや押されてはいるが、彼らは低めの球をすくいあげるようにして打つのが得意なローボールヒッターが揃っているのだ。 僕は、昔のことをちょっと思い返した。 ふうちゃんが初めて僕らの前に現れた時のことだ。 あの涼しげな笑顔のまま見せるリズムの良い華麗な守備。そしてボールを良く見てひきつけてからはじき返すうまいバッティング。 僕らは、ふうちゃんのプレイを手本に努力してきた。おそらく、彼らにもそういう本当のキープレイヤーがいるのだろう。自由に好き勝手にやっているように見えるが、みんなから信頼され、みんなの手本になる選手が、きっといるはずだ。それは誰だろう。そいつを早く見つけ出して叩かないと、彼らを黙らせることはできない。 続く7番8番は、やはり低めを狙ってきたが、それは身についたスイングではなく、ただなんとなく低めに手を出しているだけだったので簡単にうちとった。 僕はベンチに帰ると、キープレイヤーのことをはるちゃんに話した。はるちゃんも同意見だった。傍で話を聞いていたやまちゃんが言った。 「それは、たぶん4番のセンターだよ」 はるちゃんが聞いた。 「なんでそう思うの?」 「おまえらバッテリーは勝負で頭がいっぱいだったんだよ。俺はまさかあんなに打たれるとは思ってなかったから冷静に見てたんだ。ニヤついていて変な奴だけど、奴はセンスいいぜ。それに気迫が他の奴とは違う」 たしかに言われてみるとそうかもしれない。僕の速球は、僕らのレギュラーでさえあんなに打てない。それに、勝負で頭がいっぱいで、相手バッターの気迫とか、心の動きまでは注意していない。 打席に入っていた田中がレフト前へヒットを打った。 はるちゃんが言った。 「俺、打席に入ったらなんとかセンター方向に打って、試してみるよ」 やまちゃんが言った。 「たぶん、それで奴のセンスの良さがわかるぜ」 そのチャンスは意外と早くやってきた。 6番白石がライト前ヒットで続き、今回7番に入っている橋本は送りバント。ワンアウト2・3塁のピンチに緊張しすぎた相手ピッチャーは8番新田に四球を与えた。 ワンアウト満塁で、はるちゃんが打席に入った。 はるちゃんは粘って、真ん中高めの失投を待っているようだった。なんとかセンター方向に持っていこうとしているのだろう。そして真ん中ではなかったが、高めの球を、はるちゃんはセンターへ打ち上げた。ほぼ定位置のフライだったから、余裕でタッチアップできそうなところだ。僕は「よし、2点目もらった」と思った。各ランナーも、タッチアップに備え塁に戻った。センターのニヤついた男は、前進しながら捕球すると、その勢いのままバックホーム。 3塁ランナーの田中は当然スタート。 しかし、矢のような送球がノーバウンドでホーム上に構えていた捕手のミットに収まり、田中はタッチアウトになった。 僕らは、呆然とした。あっという間に3アウトだ。 池上小のナインは手をたたいて喜んでいる。 守備に就こうとした時、橋本が僕に言った。 「敵チームにもおまえのような奴がいるなあ」 僕は意味がわからず聞き返した。 「なんで?」 「おまえだって、白峰台との練習試合で、ファールをとってバックホームしただろ?」 そうだった。でも、あの時僕は返球に自信があった。センターのニヤついた男も自信があったのだろう。彼の個人技が卓越しているのは間違いない。あとは、あいつが本当にキーマンなのかどうかだ。しかし、基本の低めに投げると打たれる。攻撃では、基本のセンター返しをすれば刺される。基本を忠実にやればやるほど、彼らの思う壺にはまっていく。難しい敵だと思った。でも、彼らのチームの正体が分かってきたような気がしたことだけは、明るい材料だ。 3回表。 池上小の攻撃は9番からだ。 やはり、下位打線はたいしたことはなく、簡単にアウトをとった。問題は、上位打線だ。その打線がここから登場する。彼らの狙いは大体分かったので、僕らは配球を変えた。 1番バッターに対する第1球。外角低めのボールになるさそい球。 案の定、手を出してきて、バットが届かず空振りになった。 2球目。内角遅い球。 タイミングが違ったようで見逃しストライク。 3球目。僕らは3球勝負と決め、内角高めストライクの速球を投げた。 1番バッターは、ボールとかけ離れた大きな空振りに倒れた。 「よし!」と僕は思った。勝負所では、こういう配球でいけばいいという確信になった。 続く2番バッターもうちとり、チェンジになった。 3回裏。 僕らは1番からの好打順だ。ここらで追加点をとって中押ししたいところだ。 初球。 ガンちゃんは、あの神業セーフティをお見舞いした。意表をつかれた3塁手は、1塁へ大暴投。すかさず、ガンちゃんは2塁へ進んだ。 よし。やっと僕らの形になってきた。 続くまっちゃんは冷静に送りバントを決め、ワンアウト3塁になった。 3番のやまちゃんは、粘りはしたが、三振に倒れた。 打席に向かう僕とすれ違う時、やまちゃんが、悔しそうな顔で「頼むぞ」と言った。僕は無言でうなずいた。 ゲームの流れをつかむための追加点は僕にかかっている。とにかくつなぐつもりで打席に入った。 1球目。外角のボールだった。 2球目。また、同じくボール。 ひょっとすると、勝負を避けているのかも知れない。 結局四球になった。 続く田中が、センター前へ猛烈な当たりのヒットを打った。 僕は「よし!」と思って2塁へダッシュしたが、センターから矢のような送球で、フォースアウトになった。 打球の球足が速すぎたのだ。3塁ランナーのガンちゃんがホームインする前だったので結局無得点に終わった。小学生の野球では、たまにこういう外野ゴロがあるが、めちゃくちゃ悔しかった。 センターのニヤついた男は、ベンチからハイタッチで迎えられていた。 やはり、このチームにセンター返しは効かない。 「なんとかしないと」という焦りさえ覚えた。 マウンドに向かう僕の足取りは、正直言って重かった。そして、ちょっとよろけた。はるちゃんが「どうした?大丈夫か?」と大声で聞いてきた。僕は「大丈夫だ」と答えたが、体も心も重かった。「弱気になった時、疲れが一気に襲ってくるぞ」と父さんが言っていたのはこのことかも知れない。いつものように加点できない焦りに加え、この夏の暑さが僕の体力を想像以上に奪っていたのだろう。真夏の炎天下で、今日が4連戦目だ。「気を引き締めなきゃ」と思っても、どうしても気合いが入らなくなった。僕は、熱にうなされたような浮ついた気分のまま、3番バッターにヒットを打たれ、4番を迎えた。 「ああ、こいつだけは要注意だ」と思いながらも、やはり力が入らない。 僕は、夢の中で投げているようだった。 目が覚めたのは、ライトへ大きな当たりを打たれた時だった。 振り向くと、白石が懸命にバックしていた。 ガンちゃんも必死で走っていた。 1塁ランナーは、2塁を蹴って3塁へ向かった。ヒットエンドランだったのだろう。 滞空時間の長い打球だった。 まっちゃんも打球方向に走りながら「捕ってくれー!」と叫んでいた。 走りに走った白石が、仮設フェンスの直前でランニングキャッチ。1塁ランナーは、3塁走塁コーチに止められ、捕られたことに気づいて懸命に戻った。1塁ランナーも速い速い。白石は体勢を崩しながら、カバーに来ていたガンちゃんにトスした。ガンちゃんは、トスを受けると、1塁ランナーを刺すため、まっちゃんへ送球した。まっちゃんは、ちょうど1塁との直線上にポジションを取っていて、送球を受けると、すかさず1塁へ投げた。1塁ランナーはヘッドスライディングを見せた。 土ぼこりが舞い上がった。 審判の手は、大きく天をついた。 アウトだ。 僕らのベンチから「わぁ」っと歓声があがった。 1塁ランナーは、ベース上にうつぶせたまま、悔しそうに何度もベースを叩いていた。 僕は念のためホームのカバーに来ていたが「よし!」と声をあげ、はるちゃんとハイタッチした。さっきまでの重い気分が吹っ飛んだ。僕には、こんなに頼りになる仲間がいる。内野でボールを回しているチームメイトの得意げな笑顔が、うれしかった。一人であれこれ悩まず、この仲間たちと共に戦おう。 続く5番は、外角低め速球のボールくさい球でセカンドゴロにうちとりチェンジとなった。 4回裏。 攻撃前僕らは円陣を組んだ。敵チームの正体をはるちゃんが説明した。センター返しは危ない。ならば左右のどちらかを狙おう。どっちが穴か?という話になり、下位打線であるセカンドとライトが穴じゃないかということになった。僕らは右打ちを決めた。 最後にはるちゃんが、掛け声をかけた。 「ひがしー!」 みんなで声を揃えた。 「ファイト!よおし!」 打順は、6番白石からだった。 白石は、明らかに右ねらいの構えをしていた。 その意図が見え見えだったので相手バッテリーもたやすく打たれないように攻めてくる。5年の頃からレギュラーだった僕らは意図を隠して狙い打ちする技を持っている。それは、先ず投手のリリースポイントからよく見て、どこに球がくるか予測する。そして好球が来ると思った時、踏み出す足の位置を変えてフルスイングできるスイングの速さと下半身の強さが必要だ。それも、ふうちゃんが簡単にやっていたのを見て、僕らが「あんな風になりたい」と思って練習してきたことだ。しかし、ずっと補欠だった白石には、まだそんな技術はないようだ。でも、白石はガムシャラだった。必死になって粘っていた。 やがて、ふらっとあがったフライが、ラッキーなポテンヒットとなって2塁とライトの間に落ちた。 僕らのベンチは盛り上がった。 1塁上で白石が、苦笑いのような、照れ笑いのような笑顔を見せていた。 「白石の気迫に続け!」と、監督が檄をとばした。 「よし!」橋本もヘルメットを叩き、気合いを入れて打席に入った。 1ー2からの4球目。 橋本は、ベースについていたために空いていた1塁方向へ、痛烈なヒットを打った。大きくライト線へ転がり、その処理にライトが手間取っているのを見て、白石も橋本も、ひとつ先の塁へ走った。ノーアウト2・3塁。 次は新田だ。 新田も意図を隠す技術がなかった。というより度胸がなかった。だから初めから右狙いの構えだ。それを見て、相手ピッチャーは、ちょっと嫌そうな顔をした。ひょっとすると、僕らが「穴だ」と判断した右方向は、本当に穴なのかも知れない。投げづらそうで、結局四球になった。ノーアウト満塁だ。 僕らのベンチは、俄然盛り上がった。 ここで、チャンスにはめっぽう強いはるちゃんが登場する。池上小の内野がマウンドに集まり、何やら話し合っていた。そして、キャッチャーがピッチャーの腰のあたりを2~3回軽く叩き、守備に戻った。しかし、ピッチャーの動揺は収まらないようで、結局はるちゃんにも四球を与え、押し出しになった。これで2ー0。僕らには待望の追加点だ。 池上小ベンチがタイムを取った。そして、ピッチャー交替を告げた。誰が出てくるのだろうと思っていると、あのセンターが、マウンドに上がった。ピッチャーはレフトに入り、レフトがセンターに入った。 僕らのベンチからどよめきが起こった。 あのニヤついた男は、ピッチャーだったのだ。 投球練習を見ると、勢いのある速球がどんどん決まっている。僕の速球とあまり変わらない。池上小は、こんな切り札を隠していたのだ。 ニヤついた男は、マウンド上で躍動していた。 1球決まる度に「よっしゃー!」と楽しそうな声をあげ、まわりの選手もそれにつられ歓声を上げた。彼の登板が、池上小の重かった空気を一変させた。やはりあの男が、本当のキーマンだ。 僕らの頼れる1・2・3番があっという間にうちとられた。三者残塁となり、それ以上の追加点はなかった。 5回の表。 池上小の攻撃は、6番からだった。 彼らの狙いは、僕らには分かっていたので、簡単に三者凡退にうちとった。 5回の裏。 僕の打順からだった。 ニヤついた男の球は確かに速かった。でも、その弱点を僕は見抜いていた。体重が乗っていない、軽い球だということだ。それに僕のように低めにはこないし、悪く言えば棒球だ。 芯で捉えれば、飛ぶ。そう思って、僕は絶好球がくるまで粘った。ここで、この男を叩いておかねばならない。 その球が来た。 真ん中高めの、おそらく失投だ。 僕は、自分でも驚くくらい冷静に、その球をはじき返した。 打球は、勢いよく青空へ飛び出していった。 そして、フェンスを越えた。 ホームランだ。 僕らのベンチは沸きあがったが、僕は、そんな浮かれた気持ちにはなれなかった。淡々とベースを回って、ホームに戻った。5番の田中とハイタッチした時、ニヤついた男を見た。彼はマウンドに立ち尽くし、僕を見つめていた。やはりニヤついていたが、それは笑顔ではなかった。 その後、僕らの5・6・7番はうちとられ、6回は、表裏とも動きはなかった。 最終回の7回。 池上小は攻撃前に円陣を組んで気合いを入れていた。この回彼らのクリーンアップが登場する。 先ず、3番バッター。 僕がひそかに熱血男と思っているバッターだ。常に打ち気満々だから、料理しやすかった。結局、空振り三振にとった。 そして4番バッター。 あのニヤついた男だ。 こいつは要注意だ。 池上小の応援団から大きな声援があがった。 1球目。 内角高めをズバンとついた。ストライクだ。 彼は、ニヤついた顔で、僕をにらみつけてきた。僕はそ知らぬ顔で、2球目も内角高めをついた。これは外れてボールになった。 3球目。 内角低めボールになる遅いさそい球を投げた。彼はひっかけ、3塁線へのファールになった。 2ー1と追い込んだ。 池上小の応援はいよいよ大きくなった。はるちゃんは、内角高め速球のサインを送ってきた。僕は首を横に振った。こいつとの勝負は、豪速球で決めたかった。僕がサインでそう言うと、はるちゃんもしぶしぶ了解した。 「よし、勝負だ」 僕はそう思って、一層大きく振りかぶった。 ニヤついた男も、「くる!」と感じたのか、ピンと集中した。 僕は下半身のバネを利かせながら大きくテイクバックし、そして、全体重を乗せて、思い切り振り切った。 シュルシュルという空気を切り裂く音とともに、僕の豪速球がはるちゃんのミットに突き刺さった。ニヤついた男は、大きく振り遅れの空振りをし、体勢を崩して倒れた。 池上小ベンチから、どよめきと悲鳴があがった。 ニヤついた男は、ようやく立ち上がり、ベンチへ引き上げた。 続く5番もサードゴロにうちとって、ゲームセット。 終了の整列時、池上小の3番バッターは泣いていた。他の数人も、目を赤くしていた。彼らも勝つために、真剣に努力してきたのだろう。その気持ちは僕にも分かる。 あいさつ後の握手で、ニヤついた男が言った。 「決勝でも、がんばってくれ。絶対負けないでくれ」 隣にいた熱血男も、「俺たちの分まで頼む」と言った。 僕は、その真剣な目を見て、黙ってうなずいた。 はるちゃんが言った。 「当然だ。僕たちは必ず優勝するよ」 4 試合後、僕らは学校に戻って軽めの練習をすることになったが、僕だけは、休むよう言われた。だからベンチで手持ち無沙汰だったが、改めて僕らのチームを眺めることができた。 さすがに、4年生は話にならない。まだあどけない顔をしたちび選手たちは、ボールを追うのに精一杯だ。5年生になるとまとまってきているし、6年生は顔つきから違う。これまで、春と夏の公式戦を戦って、いくものチームを見てきたが、やはり僕らのチームは強いチームだと思った。各人の動きに無駄がないし、誰もさぼっていない。 今までに対戦してきた各チームの選手たちも、僕らと同じように野球が好きで、僕らと同じように勝ちたいと思って練習してきたはずだ。今日の池上小もそうだった。しかし、彼らの夢も希望も全て僕らが蹴散らしてきたのだ。そのことが、本当によかったことなのかどうか、今日の池上小の涙を見て、僕には迷いが出てきた。今までは、考えもしなかったことだ。僕は、罪悪感という言葉は知らなかったけれど、気持ちは深い淵の底にもぐってしまいそうだった。 そうだ。 バスケをやっている高浜さんなら、どう言うのだろうかと思った。僕らは交換日記で、お互い正直に思ったことを書いている。高浜さんなら、何て書くのだろう。 練習が終わり、僕らは解散した。 僕は、いったん家に帰って硬球を持つと、、すぐに投げ込みへ出かけた。疲れを残すなという監督の指示だったが、やはり、投げ込みをしないと落ち着かない。だから、軽めにやっておくつもりだった。 プール横の壁につくと、そこには、高浜さんがいた。 僕は、話したいこともあり、嬉しくなって駆け寄った。 「今日は、どうだったの?勝ったの?」 「もちろんだよ。僕らが負けるわけないよ」 「いいなあ。強いチームは。これで決勝だね。私たちも来週夏の大会があるけど、けっこう強い相手だから、たぶん1回戦で終わりだもんね」 「でね、高浜さん。…」 僕は、さっき悩んだことを高浜さんに話した。高浜さんならどう思うか聞きたかった。 高浜さんは、さわやかに笑って答えた。 「ぜいたくな悩みだね。私たちのような弱小チームからは想像もできないよ。でもね、私たちがどんな弱小でも、相手に手抜きはされたくないなあ。そんなので勝ってもうれしくないよ。精一杯戦って、どうしても手の届かない相手だったとしても、またがんばろうって思うもん。またがんばっていつかは勝てるようになればいいやって思うよ」 「そうかな」 「そうだよ。反則とかじゃなくて正々堂々と戦えば、それでいいのだと思うよ。同情なんてされたくない」 その言葉に、僕は輝きを感じた。 たしかに、試合で同情することの方がよくない。お互いに正々堂々勝負すること。それが大切なのだと改めて気づいた。高浜さんは、僕よりずっと大人のような気がした。 「よし。わかった。ありがとう高浜さん。明日もがんばるよ」 「がんばってね。明日はお父さんと応援に行くからね」 「はあ?」 僕にはそれだけは意外だった。できれば恥ずかしいから来て欲しくない。 「ひょっとするとね、お母さんと妹もくるかもよ」 「何それ」 「へへ、実はね、明日私の誕生日なんだ。だから家族で応援に行って、帰りにレストランで食事でもって話があるんだ」 「そうなの?知らなかった。おめでとう」 「それだけ?」 「へ?」 「プレゼントは?」 「あ、そうか。どうしよう。何がいい?」 「う~ん。やっぱり優勝かな」 正直僕はホッとした。今月のお小遣いはもうないからだ。 「うん。わかった」 「わかったって、簡単に言うんだね。優勝なんてすごいことだよ」 「そう言えば、そうだ。明日は中島小が相手だから」 「春に苦戦したところでしょう?」 「うん。でもきっと勝つよ」 「がんばってね。お母さんも、ボーイフレンドの顔が見たいって言っているし、妹も、お姉ちゃんの彼氏が常勝野球部のエースだって、クラスで鼻が高いらしいから」 「はあ?」 僕は赤面した。一体、高浜さんの家庭ってどうなっているのだろう。僕らはまだ小学生なのに。僕の家でガールフレンドなんて話をしたら、たぶんお母さんに「まだ早い!」って怒られる。 高浜さんが僕の顔をのぞきこんで言った。 「谷山くん、赤くなってる。またまじめにいろいろ考えたんでしょう?」 僕は照れくさくなって、頭をかいた。そこに、白石の声が聞こえた。 「おーい、谷山ぁ」 振り返ると、白石がなおちゃんと一緒に来ていた。それに気づいた高浜さんは「じゃあ、もう帰るね。明日、がんばってね」といって帰った。 ちょうど入れ替わりで白石がやってきた。 「じゃまだったかな」 「いや、別に」 「すまん。ちょっと用事があったから」 「で、何?」 「いや、明日も県営だから」 そうだ。明日の決勝戦は、また県営球場で行われる。 「谷山のおかげで俺も県営のグランドに立てそうだから、お礼が言いたくて」 白石の、正直な気持ちなのだろう。春の大会では、白石は補欠だったから、試合には出ていない。 「でも今日、あのニヤついた男の打球を白石が捕ってくれなかったら、わからなかったよ」と、僕が言うと、白石は「外野として当然の仕事さ」と言った。そんな適当な話をしばらくした後、白石は、遠くをみるような目で言った。 「あのな谷山。実は父さんが昔言っていたんだ。おまえには才能があるって。甲子園も狙えるだろうって。だから俺はガムシャラに努力して、おまえを支えろって。そして、ふたりで甲子園に立ってくれって」 「親父さんがそう言っていたのか?」 「ああ。父さんは、死ぬまで甲子園の話をしていたよ」 僕の胸に重く感じる話だった。目には、熱いものがこみ上げてきた。僕にとって白石の親父さんは、お菓子を買ってくれたり、ピッチャーをやってくれたり、いつもかわいがってくれる、優しいだけの存在だった。 「俺には信じられない話だったよ。適当にさぼっているおまえなんかに才能があるはずないって」 確かに僕はさぼるための言い訳を、いつも白石に伝言していた。 「でもな、このところのおまえを見ていると、やはり父さんの言うことは本当だったんだなあって思うよ。藤井が転校してどうなるかと思ったけど、おまえががんばってくれている。みんなも認めているぜ。おまえのこと」 僕は、黙ってうつむいて白石の話を聞いていた。うかつに顔をあげると、熱いものがほほを伝いそうだった。 「明日も頼むぜ。そしてその先に行こうな」 白石は僕の肩をポンと叩いた。 熱いものが飛び出しそうだったので、僕はあわてて顔を押さえた。すると、なおちゃんにつっこまれた。 「あれ?勇太にいちゃん、泣いてるの?」 僕は恥ずかしくて、よけいに顔をあげられなくなった。 「あのね、勇太兄ちゃん。男の子が泣くものじゃありません。ってお母さんが言っているよ」 5 翌日。決勝戦の日だ。 試合は1時半から行われる。 僕らは午前中に県営球場に入り、練習を始めた。中島小チームも既に来ていて、僕らの練習を見学していた。 「おー、偵察されとる。ビシッと決めてビビらしたろう」と、まっちゃんがつぶやいていた。 みんなは、いつものように淡々と冷静に練習した。 次に中島小の練習になった。今度は僕らが偵察する番だ。彼らも、落ち着いて練習していた。 ここまできて、慌てるとことも恐れることもないはずだが、どうしても試合前は、相手が強いように感じられ、不安とかこのままでいいのかという焦燥にかられるものだ。 僕らは早目の昼食をとり、一休みし、ベンチに入って試合開始の時を待った。 コーチが、「監督に注目!」と声をかけた。 「これは、ふだんの試合と何も変わりはない。球場は立派だが、相手が特別立派というわけではない。おまえらと同じ小学生だ。いつもの野球をやれば、必ず勝てる。落ち着いていけ。以上だ」 監督は、僕らをリラックスさせようと、ことさら「ふだんの」とか「いつもの」とか言ったが、意識するなという方が無理だ。試合前、確かに不安はあった。しかし今はそれを超えて、逆に早く試合がしたいというワクワクするような不思議な感情が湧き出ていた。この日のために、みんな嫌と言うほど対中島小用の変化球対策を練習してきた。やれることは全てやってきた。その自信が僕らにはあった。 審判団がホーム前に現れたので、僕らはベンチ前で円陣を組んだ。 はるちゃんが言った。 「いいか。僕たちはうんと練習してきた。あいつらの変化球なんて、もう僕たちには通用しない。そのことを、思い知らせてやろう」 「ああ、わかっているよ」というようなことをみんなが口々に言った。 「絶対勝つ。チームのために。そして、高浜さんへのプレゼントだ」僕はその決意を固めていた。 主審が「両校整列!」と号令した。 はるちゃんが掛け声をかけた。 「ひがしー!」 みんなが応えた。 「ファイト!よおし!」 整列場所へダッシュした。 中島小は強敵だが、ここで負けると、僕らの道はなくなる。三連覇の道の、ふたつめをかけた大一番の始まりだ。 僕らは先攻だった。 1番ガンちゃんが打席に入った。投手は、前と同じ1番手投手だった。内野は、1・3塁がやや浅めの守備をしていて、いつでもダッシュできるよう、腰をおとしていた。 第1球を投げた。 ガンちゃんは、セーフティバントの構えを見せた。1・3塁手は猛然とダッシュしてきた。外角低めボールだと、ガンちゃんは判断したようで、バットをひいたが、判定はストライク。 2球目。 ガンちゃんは、またセーフティバントの構えを見せたが、内角へえぐるようなカーブが来たので、バットをひいて、のけぞるようによけた。判定はボール。 「変化球が鋭くなっている」と僕は思った。 隣にいたはるちゃんもこう言った。 「前より、よく曲がるようになったね」 3球目。 内角低めへ、ワンバウンドするような遅いカーブが来た。さすがに、これには僕らも驚いた。緩急を身につけている!タイミングを狂わされたら、かなり厳しい。やはり中島小は、簡単には勝たせてくれそうにない。 判定ボールの4球目。 1ー2のバッティングカウントだ。 内角低めの速球で、簡単にストライクを取られ、ガンちゃんは、追い込まれた。 僕らは、何とか塁に出て欲しかった。 5球目。 内角高めの速球を、ネットへのファールで逃れた。 6球目。 外角低めの速球を流し打ちしたが、ファールになった。いきなり1番から息をもつまる展開だ。 7球目。 あの遅いカーブがきた。 ガンちゃんは、充分ひきつけ、ライト前へはじき返した。 僕らのベンチから「わぁ」っと歓声があがった。 3球速い球を見せた後の遅いカーブとはいえ、真ん中やや低めに入ってくる失投だった。ガンちゃんの粘り勝ちだ。中島小の投手は、悔しそうな表情を見せた。彼の遅いカーブはたしかに脅威だが、あせらず、ひきつければ充分打てることをガンちゃんが証明してくれた。1塁上のガンちゃんは、相変わらずのポーカーフェイスだった。 2番まっちゃんの、0ー2からの3球目。 ガンちゃんが盗塁を決めた。援護のため、まっちゃんは空振りしたので、これで1ー2。ここは当然送りバントだ。まっちゃんは3塁線へ、見事な送りバントを決めた。 ワンアウト3塁。 いつも通り。僕らの形だ。 3番やまちゃんは、四球を選んだ。 ワンアウト1・3塁。 中島小投手は、動揺している。ここで一気に畳み掛けるべきだ。「絶対つなぐ」そう決めて僕は打席に入ろうとした。すると、僕らの応援席から、「谷山くーん!」という高浜さんの声が聞こえた。 不思議なもので、これだけ騒がしい球場でも、知り合いの声は聞こえる。その方向を見ると、高浜さんと、その家族らしい3人が見えた。やはり家族全員で来ている。高浜さんはもちろん、お母さんらしい人も笑顔で軽く手を振っている。僕は赤面しそうになった。とにかく軽くお辞儀をして目の前の勝負に集中するよう、自分に言い聞かせた。 やはり、中島小投手は動揺しているようだ。 遅いカーブも、速球も決まらなかった。 0ー2からの3球目。 ここは、たぶん彼の1番自信のある、あの速くて鋭いカーブがくる。僕はそう思った。そしてそれは正解だった。僕はその球を、逆らわずに流して、1・2塁間を抜けるタイムリーヒットを打った。 ガンちゃんがゆっくりとホームインした。 やまちゃんは2塁をまわったところで止まった。 僕らのベンチや応援席から歓声があがった。前回あれほどてこずった中島小から、早くも1点取った。 続く5番の職人田中。 1ー2からの4球目、あのカーブに逆らわず打ったが、2塁やや左のライナーとなった。ベースカバーのため2塁近くにいたセカンドに逆シングルでキャッチされ、セカンドはベースに入ったショートにトスして、2塁ランナーやまちゃんは戻りきれずアウトになった。 僕らの応援席からはため息もあがったが、相手は中島小だ。これくらいの守備は当然だ。 その裏。 中島小の先頭打者だけは、全力で倒すと決めていた。 当然はるちゃんのサインもど真ん中豪速球だった。 僕は「よし!」と思って大きく振りかぶった。 僕の投げた球は空気を切り裂く音とともに、はるちゃんのミットで快音をたてた。 中島小の1番バッターは手が出ず、ただ見送った。 中島小ベンチからどよめきが起こった。彼らは、僕の豪速球を見るのは初めてのはずだ。 3球続けて豪速球を投げ、3球三振にとった。 僕らバッテリーの思惑どおり、中島小のベンチを黙らせ、僕らのチームには活気を与えた。 2番バッターには、いつもの通りの攻め方をした。 いくら豪速球でも、連投すれば、いつかはつかまるからだ。結局セカンドゴロにうちとった。 3番は、サードへボテボテのゴロ。 やまちゃんが軽いステップでさばいて、チェンジになった。 2回表。 先頭バッターは、白石からだ。 白石は、打席の前で長いことうつむいていた。そして天を仰ぎ、何やらつぶやいていた。僕には、分かるような気がした。彼にとって、親父さんに続く道は、今日、ここから始まったのだ。僕は白石を見つめて、「がんばれ」と思った。 1球目。 外角へ逃げるカーブを空振りした。白石は、正々堂々の勝負をするつもりだ。県営での初打席だからといって、慎重にいくつもりなどない。 「おにいちゃん、かんばれー」というなおちゃんの声援が、ベンチにいた僕にも聞こえた。 白石には聞こえているのだろうか。 2球目。 内角速球をファールした。やはり、思い切ったスイングだった。 3球目。 ワンバウンドになりそうな遅くて落ちるカーブを、待ちきれずに空振りした。 3球三振に倒れた。 白石は、紅潮した真剣な顔で引き上げてきた。「興奮しすぎだ」と僕は思った。無理もないけど、あとでちょっとからかってやろう。 続く7番橋本は、打力はないが、さすがにずっとレギュラーだけあって、打席の中では落ち着いていて、ストライクとボールの見極めはできていた。でも、2ー2と追い込まれてからは、やはりあの遅いカーブを待ちきれず三振した。 続く8番。 僕らの中で一番幼い顔つきの新田だ。 打席の中で緊張しているのか、やや震えているようだ。予選の時はふつうだったが、決勝戦ともなると、気弱な性格が出てしまう。 ここだけの話、あくまでも噂だけど、本来外野のレギュラーは白石のはずだった。でも父親が実力者だったので先代の優しい監督が遠慮して新田をレギュラーに据えたらしい。僕らも初めはそんな噂をなんとなく信じていたので新田を見下していた。しかし新田は気が弱いけれど粘りがあった。ヘタなりに、コツコツと人一倍努力していた。そして、打力はないが、守備なら十分任せられるまでになった。今や新田も僕らの大切な仲間だ。 でも、残念ながらこの打席は、速球だけで攻められ、セカンドゴロに倒れた。 2回裏。 中島小の攻撃は4番からだ。 顔も体もゴツイ男で、番長と呼ぶのにふさわしい風貌だ。技巧派でスマートな感じの選手が多い中島小では、3番と、この4番だけが威圧感のある選手だ。打席から、眼光鋭く僕をにらみつけてくる。僕はムカついた。でも、そ知らぬ顔で冷静に僕の投球をすることが、僕の役割だと言い聞かせた。 「おまえは顔に出すぎる」と、以前監督から注意された。 「野手ならいいが、投手になったからには一喜一憂を顔に出すな」 その言葉を僕は守るつもりだ。ふうちゃんがそうだった。どんなピンチでも、その表情は僕らに悲壮感を与えなかった。 僕らバッテリーは、速球勝負に決めた。 この4番を力でねじ伏せなければ、中島小を黙らせることはできない。 1球目。 内角を速球で突いた。 4番は手が出ず、見逃しストライク。 2球目。 外角のボールになる速球。4番は当ててきたが、前には飛ばずファール。 3球目。相手の反応を見極めるため、もう1球同じ速球。しかし、ボールなので4番は手を出さなかった。さすが4番だ。球が見えてきている。 ならば。 はるちゃんのサインは豪速球だ。 僕は迷わずうなずき、全身の力を込めて投げた。 いつものように空気を切り裂き、はるちゃんのミットが快音を発する時には、4番は見当違いの大きな空振りをし、体勢を崩した。 僕らのベンチと応援席から歓声があがった。 はるちゃんが機敏な動きでマスクを払いのけ、大きな笑顔と掛け声で、ボールをサードに投げた。 「ワンダンワンダン!」 みんなも「よっしゃー!」と応えながら軽快にボールを回した。 僕が一喜一憂の表情をしなくても、はるちゃんが笑顔で僕らを盛り上げてくれている。 僕らは、チームだ。 結局、5番6番も内野ゴロにうちとり、その回を終えた。 まぶしい夏の光が、地面に濃い影を作っている。 山並みの向こうに、大きな入道雲が見えた。 そして、蒸し暑くてたまらないグランドで、僕らの試合が淡々と進行していった。 汗が、帽子からしたたり落ちそうだ。 現在の常識とは違い、当時は『バテる』という理由で試合中に水を飲むことは厳禁だった。僕らは父母会が準備してくれた冷たい水でうがいしながらグランドに立った。 4回裏。 中島小は攻撃前に円陣を組んだ。監督が身振り手振りしながら何か説明していた。 最後には彼らも僕らと同じように「なかしまー!ファイトよおし!」と気合いを入れた。 打順は1番からだった。 1球目。 僕らは様子を見るための、外角低め速球から入った。ボールになったので、1番は手を出さなかった。 2球目。 内角速球。振り遅れの大きな空振り。彼らは円陣を組んでいたが、特別な作戦はなさそうだと思った。いつものようにうちとってやろうと思った。それが、油断というのもだったのかも知れない。中島小が誘ったのだ。 3球目。 外角低めへの速球。 それを、1番バッターは、しゃにむに1塁線へセーフティバントした。球は勢いよく転がった。僕は元1塁手だ。だから「これは1塁手の守備範囲だ」と決めつけ、1塁ベースに向かって走った。しかし、1塁手の橋本は、何を考えたのか、ダッシュしてこなかった。1塁に突っ立っていた。途中でそれに気づき、方向転換して僕が打球をキャッチしたが、もう間に合わなかった。 橋本は塁上で「何やってんだよ」と言っていた。僕はムカつき、言い返そうかと思った時、ベンチにいたコーチが「今のは1塁が捕れ!」と怒鳴った。 1番バッターは塁上で笑っていた。 中島小が初めてランナーを出した。 橋本はコーチから注意され萎縮したのか、真っ青な顔をしていた。こんな橋本のところに牽制球を送るのは危ないと思ったが、2番バッターは送りバントの構えをしているし、ランナーもリードが大きかったので牽制球を投げた。その球は、わずかに右へそれ、橋本がはじいてしまった。ファールグランドをボールが転々としている間に、ランナーは2塁に進んだ。 僕は目の前が真っ暗になった。 僕はピッチャーになりたてで、フィールディングもけん制もうまいほうではない。その弱点を中島小は突いてきた。 ノーアウト2塁だ。 中島小のベンチと応援団が俄然盛り上がった。 その歓声が、僕を威圧した。 太陽が、まぶしく感じた。 汗が、重たく感じた。 でも、準決勝の時のように弱気になれば、中島小は一気に攻めてくるだろう。彼らは甘い敵ではない。 「正々堂々全力で戦う」僕は気を引き締めた。 1球目。内角高め速球。 2番バッターはバント失敗。ファールになった。 2球目。同じく内角高め速球。 同じくバント失敗。 ここで、バントの構えを解いた。 3球目は外角低めへ1球外す遅い球。それが失投で甘いところへ入ってしまった。2番は、逃さず流し打ちした。僕は「しまった」と思って打球方向を見た。 速い打球が、ベースカバーのため広く空いていた1・2塁間をやぶった。ライトの白石は、あらかじめ前進守備していた。猛ダッシュしてきて捕球すると、すかさず2塁のまっちゃんへ返球した。おかげで、2塁ランナーは3塁をまわったところで止まった。 正直ホッとした。 それでも、ノーアウト1・3塁のピンチだ。 はるちゃんがタイムをとり、内野が集まってきた。 「1塁は必ず走ってくるから注意しろよ」と、はるちゃんが言った。 「どうする?1点覚悟のゲッツーねらいか?」と、田中が言った。 「1点もやらん」と、やまちゃんが言った。 「豪速球でうちとればいいじゃん」と、橋本が言った。 「いくら豪速球でも、もし3人ともバントしてくればそのうち一人くらいは成功するぜ。敵は中島小なんだ」と、まっちゃん。 「危険な賭けだけど、ここは前進守備だ。1点もやらんという気迫を見せつけよう。その代わり、豪速球中心に組み立てて、内野の頭を越えないようすればいい」と、はるちゃん。 「みんな、ぎりぎりのプレイになるぞ。しまっていこうぜ」と、まっちゃんが言った。 その時、補欠の田村が監督の指示を伝えに来た。 「監督は、おまえらにまかせた。思う通り思い切ってやれ。って言っているよ」 はるちゃんが笑って言った。 「僕たちは信頼されているよ」 「当然だ。俺たちは強いから」 まっちゃんがそう返すと、みんなの表情が緩み空気が軽くなった。 「とにかく俺たちは三連覇するんだ。こんなところでやられてたまるか!」と、やまちゃん。 「よし、しまっていこう!」 はるちゃんの掛け声とともにみんな守備にちった。 はるちゃんはポジションにつくと、外野にも前進守備の指示を送った。僕は、一人ではない。いつも監督が言うように、チームとともにあるのだと自分に言い聞かせた。 中島小3番バッターへの第1球。 はるちゃんのサインは豪速球だった。 僕はうなずいて、投げた。 3番は、手が出ず見送った。 2球目。 外角低めへの速球。 3番は見送り、ボールになった。 3球目。 内角高め速球のつり球。 またしても見られてボールになった。 やはり、さすが中島小のクリーンアップだ。 僕の速球はそろそろ見えてきている。 カウント1ー2。 中島小が何か仕掛けるには絶好のカウントだ。様子を見ようと、はるちゃんが、けん制のサインをした。僕が気合いを入れて牽制球を1塁へ投げると、なんと1塁ランナーが飛び出した。 ランナーは1・2塁間にはさまれ、ボールが橋本からまっちゃんに送られたその時、3塁ランナーが猛然とダッシュした。 「走った!」 僕は思わずそう叫んだが、まっちゃんは反応せず、冷静に1塁ランナーを1塁へ追い込んだ。2塁上にいた田中がたまらず「バックホーム!」と叫んだが、まっちゃんはお構いなしだ。そして、1塁ランナーをギリギリ押し返し、3塁ランナーがもう引き返せないタイミングになった時、見事な送球をはるちゃんに送った。送球は、はるちゃんの構えたところに決まった。 クロスプレイ。舞い上がる土埃。 審判はボールがこぼれていないことを確認した上で「アウト!」とコールした。しかしその前、はるちゃんは、すかさず2塁へ送球した。押し返された1塁ランナーがバックホームを見て2塁に走ったからだ。 1塁ランナーは、ヘッドスライディングした。 送球は、これも田中の構えたところに決まった。 タッチアウト! ゲッツーだ! 僕らのベンチは踊りあがった。 中島小は、1塁ランナーが挟まれている間に3塁ランナーがホームインするという作戦だった。僕らも練習ではやっているが、本番ではまだ一度もやったことがない。中島小は果敢にチャレンジしてきたが、失敗に終わった。僕らは一気にピンチを脱した。響くような歓声と、同じくらいのため息の中で、まっちゃんは静かにガッツポーズをした。あそこで慌ててホームに投げていたら、良くても1アウト2塁。場合によってはノーアウト2・3塁。最悪1点プラス2塁だ。まっちゃんがよく辛抱して、ぎりぎりのプレイをやってのけた。そして、はるちゃんも田中も、冷静に、正確にプレイした。 一喜一憂するなと言われても、この時ばかりはどうしようもなく笑顔がこぼれた。 3番バッターをうちとって、ベンチに引き上げる時、僕らは控えの選手からハイタッチで迎えられた。 太陽が容赦なく照りつける中、5・6回が何事もなく終わった。 いよいよ最終回。 僕らの攻撃だ。 ダメ押し点が何としても欲しいところだ。 打順は3番やまちゃんから。 この回から前回同様3番目のピッチャーが登場する。 中島小のシステムは、1番手ピッチャーが右。2番手が左。3番手が右。というふうにジグザグの投手リレーとなる。1番手はカーブが得意だ。2番手もカーブが得意だが、右打者からはシュートになる。そして、3番手もカーブを投げるが、持ち味は、ストレートの速球だ。このシステムにかかれば、小学生レベルでは手も足も出ない。現に僕らのライバルのひとつ白峰台でさえ、準決勝で2ー0で敗れた。疲れが出る最終回、しかも、のらりくらりのカーブに慣れた目からは、3番手の速球についていけない。しかし、この回クリーンナップからの攻撃だから何とかしておかないと、どんな結末になるかわからない。やまちゃんは、握り締めたバットを見つめて「よし!」と気合いを入れて打席に入った。 ベンチから、「やまちゃん頼むー!」とまっちゃんが叫んだ。 「山村先輩!ファイト!」というベンチ入り5年生もいた。 先頭バッターが大切だと、みんな知っていた。それは中島小も同じで、何とかうちとりにかかる。 やまちゃんは、2ー2からの高め速球つり球に手を出し、空振り三振に倒れた。味方ベンチと応援団からため息がもれた。 次は僕だ。 「何とか塁に出てやる」 あのニヤついた男の速球に比べれば、たいしたことはない。実際、球の速さはニヤついた男の勝ちだ。でも、打席に立って改めて見ると、このピッチャーの方が洗練されている。ニヤついた男は荒れ球だったが、こいつはまとまっている。失投もなさそうだ。 2ー3まで僕は粘った。 最後はたぶん、自信のある速球でくるだろう。それも低めに。僕に高めのつり球は効かない。そう思ってヤマをはっていると、リリースの時、カーブの握りが見えた。 「しまったカーブだ」と思い、しかし「なんとかなる」と瞬間的に思いなおした。このピッチャーは外角を狙う時、ややスリークォーターのようになる。この時もそうだった。 「外角だ」 僕は、テイクバックし、足を右側に踏み込み、逆らわずに、流し打ちした。 打球は、右中間を破った。 僕は1塁を蹴って2塁へ。 ツーベースヒットだ。 味方から歓声があがった。僕は景気づけのために高々と右手を突き上げガッツポーズした。 中島小は内外野とも前進守備を敷いた。1点もやらない構えだ。春の大会で僕にホームインされた記憶もあるからだろう。 5番田中は、4球目をひっかけ、どんづまりのセカンドゴロになった。 タッチプレイが必要なため、僕は迷わず3塁に走った。 2アウト3塁になった。 バッターは、白石だ。 中島小から見ると僕ら二人の組み合わせは、二度と見たくなかった悪夢だろう。 嫌なイメージが残っているはずだ。 打席に入る前、白石は僕を見た。僕は、右のこぶしを突き出し、「いけ!」というようなジェスチャーをした。 白石は、うなずいた。 2~3度、大きなスイングをして打席に入った。 白石は、ガムシャラに粘った。くさい球は全てカットした。 9球目。 しかし、最後は内角を速球で衝かれ、空振り三振に倒れた。 白石は、両ひざをついてうなだれた。 中島小ナインはハイタッチしながらベンチへ引き上げた。 「よし、ドンマイだ!」と僕は白石に言った。 「すまん」と白石は言った。 「だから、気にするな。あとは俺がなんとかする」 僕は最後のマウンドに上がった。 中島小は1番からの好打順だ。味方の応援席から、悲痛な応援の声があがっていた。 初球。 外角低めをつく速球を1番バッターが1・2塁間へ痛烈にはじき返した。深めに守っていたまっちゃんがギリギリ追いついてシングルキャッチ。間一髪間に合ってアウトになった。 僕らのベンチから歓声が起こった。 危なかったが、1球で決まって助かった。正直、気が楽になった。 続く2番バッターも、右狙いのようだった。 僕の球威に逆らわない作戦のようだ。ならば、と、はるちゃんが内角速球を要求した。 1球目。スバンと胸元へのストライク。バッターは、見逃した。 2球目も同じ。しかし、ボールになった。 3球目も同じ。また見逃したが、ストライクになった。 4球目。はるちゃんのサインは「外角低めボール遅い球」だった。バッターは、まんまとひっかかり、またセカンドゴロになった。 2アウトだ。僕らのベンチと応援団からひときわ大きな歓声があがった。「あと一人」コールも起こった。春の時のようだ。しかし、春と違うのは、「あと一人コール」の通りに僕らが勝つことだ。 3番バッターは、豪速球で3球三振にうちとった。 審判の手が高々と上がった時、僕らは優勝した。 はるちゃんがマウンドに走ってきた。 ナインも駆け寄ってきた。 控えもベンチから飛び出してきた。 僕は、みんなにもみくちゃにされた。 スタンドから「よくやったー!」という声があがり、大きな拍手がわき起こった。 僕らは、二度目の優勝を果たした。 第八章 夏のおわりに 1 翌日は月曜日だった。 夏休みだから、曜日は関係ないけれど、夏休みも残すところあとおよそ2週間。その間、野球部は休みになった。監督から「谷山、おまえは特にちゃんと休養をとるように」と言われた。また、「これから2週間の休みで、みんなそれぞれ夏休みの宿題をちゃんとやっておくように。そして、6年生は小学校最後の夏休みなのだから、思い残さないように、精一杯遊んでよろしい」とも言われた。 みんなから歓声があがった。 初めて監督が「遊んでいい」などと言ったからだ。 コーチが隣で「よく学び、よく遊べだ」と言って笑った。 それにしても、2週間もの休みは、僕らには思いがけないボーナスのようなものだ。誰かが、「市民プールに行こう」と言った。別の者は、「おばあちゃんとこに行こう」と言った。「花火花火」と言う者もいた。みんな海に行ったり山に行ったりしたいのを我慢してきた。夏の溶けそうな暑さの中、黙々と野球をやってきたのだ。このご褒美は、ことのほかみんなを喜ばせた。 橋本がこっそり「鬼の目にも涙」とつぶやいた。 周りにいた数人が、こっそり笑った。 夕方。僕はいつもの投げ込みのため学校に行った。 そして先ず下駄箱から高浜さんの日記を抜き取った。 「優勝おめでとう」と、大きくイラスト入りで書いてあった。僕はやはり、うれしくなった。 「父さんもすごいチームだって感心していたよ。相手も、うちもね。両校とも小学生のレベルを超えているって。そして、あの暑い中で、しかも1点差の厳しい展開で、気持ちを切らずによくがんばったって、谷山くんをほめていたよ。お母さんは野球は知らないらしいけど、谷山くんが打って点をとって、谷山くんが投げて1点もやらなかったことは分かったようで、はしゃいでいたよ。妹はカッコイイって言っていたし」 僕はその時、みっともないくらい表情がゆるんでいたのではないかと思う。ほめすぎじゃないかとも思ったが、やっぱりここは素直にうれしかった。僕の家では、父さんがビールで祝杯をあげたけど、「4回のあの守備の乱れは何だ」と、結局しかられた。お母さんはにこにこして「よくがんばったんだから」と言ってくれたが、父さんからは「まだまだだな」と言われた。 それにしても、この日記からは、うれしさに躍動した高浜さんの気持ちが感じられる。 僕は、日記じゃ嫌だと思った。 会って話しがしたいと思った。 思えば、これが本当の恋の始まりなのだろうが、当時の僕にはそんな整理がついている筈もなく、ただなんとなくそう思っていたにすぎなかった。その抑えがたい思いを胸にしまって、僕は投げ込みをしようと、プールの壁に向かった。 プールの壁の前には、はるちゃんがいた。 珍しい客だなと思った。大体いつもここにいるのは白石兄妹か、高浜さんなのだ。僕は声をかけた。 「どうしたの」 「いや、とりあえずおまえと祝杯でもあげようかと思って」 はるちゃんはそう言うと、紙袋の中からサイダーを2本取り出した。栓を抜き、僕らは乾杯した。 「僕がここにいるってよくわかったね」 「うん。白石から聞いていたからね。夕方はここにいるって」 「で、何かあったの?」 「とりあえず、優勝したよって、ふうちゃんに手紙書いておいたから」 「うん」 「で、合宿の時、フルチンして悪かったね」 僕は笑った。 「何だあのことか。気にするなよ。あれは恨みっこなしのゲームだろ?それにみんな真剣に僕を憎んでいるわけじゃないし」 「うん。今はみんなそうだけど、あの時は田中とやまちゃんが本気だったから」 「田中はともかく、やまちゃんが?いつも2~3人のガールフレンドがいるって話なのに?」 「やまちゃんの本命は高浜さんだったらしいよ」 僕には意外だった。 「おまえを便所に呼びつけて殴るって騒いでいたし、だから、とにかくフルチンにしようって話になったんだ」 僕の知らない舞台裏でそんな恐ろしい話になっていたのだと思った。僕は呆然とした。 「裏で橋本が糸を引いていたしな」 やはり、橋本か。 「でも、今はやまちゃんも、グチグチ言うのは男らしくない。おまえに譲るって言っているし、気を悪くしないでくれ」 譲るも何も、高浜さんは高浜さんだし、そんな問題かなあと思った。それにしても、やまちゃんといい、橋本といい、鉄壁に見えた僕らのチームにもいろいろあったんだ。 「まあ、橋本ははじめからあんな奴だしね。でもあいつなりに野球はがんばっているし、もうみんなわだかまりはないから、これからも頼むね。みんな谷山を頼りにしてるんだから」 僕は笑って答えた。 「だから、僕は初めから気にしてないよ。それに事情もわかったし、もうじゅうぶんだよ」 はるちゃんも笑った。 「よかった。これで心の重荷がとれた」 はるちゃんは、はるちゃんなりに悩んでいたのだろうと思った。 「あ、それから」と、はるちゃんは話題を変えた。 はるちゃんの話では、やはり、秋の大会はシステムが変わって、両リーグのベスト16校を選抜して行われることに決まったらしいと言うことだ。強豪だけの戦いとなる。1回戦から気が抜けない。三連覇のためには、そいつらをまとめてなぎ倒す覚悟が必要のようだ。 2 次の日記を受けとった時、 「明日、私の試合があるから応援にきてほしいな」と書いてあった。 「私のチームは弱小だから恥ずかしくて、応援に来てと言うかどうか迷ったんだけど、最後の試合だと思うし、後悔しないようがんばるつもりだから、応援にきてね」 僕は、迷わず行こうと思った。 いつも高浜さんは僕を応援してくれている。それは、ぼくにとって大きな励みになっている。今度は、僕の番だ。 会場の市民体育館につくと、結構多くの車やバイクがとめてあって、僕はチャリンコを止める場所を探すのに苦労した。 参加校は市内全体で20校くらいらしいのだが、市民体育館がおんぼろで狭いので、人の密度が高かった。おまけにクーラーも入っていないか、そうでなければ壊れている。だから、館内は蒸し風呂のようだった。炎天下のグランドとはまた違った暑さとの戦いがある。 アリーナを4面に区切ってあって、各チームの試合が行われていた。 東原小は、Bブロックの第2試合なので、そろそろ選手が入場してくるはずだ。そう思って、2階席で待っていると、5分もたたないうちに、両校の選手が入場してきた。その中に、高浜さんがいた。 「高浜さーん!がんばれー!」と、僕は立ち上がって叫んだ。 それに気づいて、高浜さんは僕を見上げた。そして、ちょっとはにかんだ笑顔で手を振った。僕は、こぶしを突き出し、ガッツポーズした。高浜さんは、まわりのチームメイトから冷やかされていた。ちょっと、恥ずかしかったかもしれない。でも、大声を出さないと聞こえないだろうし、ガッツポーズは僕ら野球部伝統の気合いの入れ方だ。 練習が始まったので、僕が席に座ると、 「よう谷山」という、やまちゃんの声が聞こえた。 「あ、やまちゃんも応援に来たの?」 「ああ。今日は美樹の応援だ」 やまちゃんは、僕の隣に座った。 「美樹って誰?」 「4組の古川だよ。知っているだろ?」 僕はちょっと考えた。 「あ、3・4年の時同じクラスだった古川美樹さん?」 「ああ」 僕と、やまちゃんと古川さんは、3・4年の時同じクラスだった。こいつらできていたのかと思った。 古川さんも、結構かわいい女の子だ。でも、性格がちょっときつい。 「美樹は、フォワードで、スタメンだ」 「あ、そうなの。でも、ポジションとか僕わからないよ」 「まあ、点をとる係だな」 「ふーん」 「ふーんって、本当に知らないようだな。ちなみに高浜はガードだよ」 「ガードって何?」 「まあ、守備係だな。司令塔の場合もある」 「じゃあ、はるちゃんみたいなもの?」 「そうかもな」 「うわ、大変なポジションだ」 その時、「谷山くん?」という高浜さんに似た声が聞こえた。ふり向くと、そこに年下のようだが髪の長いきれいな感じの女の子が、友達らしい二人とともに立っていた。 「はい?」 「やっぱり、谷山くんね。私、高浜です。妹です」 「ああ、高浜さんの」と、僕が言うと、後ろにいた友達らしい女の子たちが騒いだ。 「やっぱり野球部の谷山さんと、山村さんだ!」 「隣に座っていいですか?一緒に応援していいですか?」 やまちゃんが、「ああ。いいよ」と言った。 女の子たちは席に座るなり、 「私たち、春も夏も応援に行きました。優勝おめでとうございます」 「ああ。ありがとう」 「で、谷山さんは、高浜さんの応援ですか?」 「うん。そうだよ」 「やっぱりー。残念だな。噂は本当だったんだ。谷山さんは今一番人気なんですよ」 やまちゃんがムッとしていた。 「山村さんは?」 と、別の一人が言ったので、やまちゃんは、ちょっと機嫌を直して答えた。 「いや、俺はこいつのつきあいだ」 やまちゃんは、すげぇ。よくもまあしゃあしゃあと。 「よかったー、山村さんもファンの子多いですから」 しかし、女の子はよくそんな話をできるものだと思った。僕には、恥ずかしくて無理だ。 妹さんは、二人の話には加わらず黙っていた。4年生のはずなのに、他の子のように「さん」とつけず、「くん」と呼んでいたし、それに落ち着いているというか、冷めているというか、どこか遠くを見ているような不思議な雰囲気の女の子だ。 さて、試合が始まった。 高浜さんはベンチスタートだ。 よく分からないが、相手チームのボールになった。ボールを持った相手選手は見事なドリブルでディフェンスをかわし、鋭いカットインで内側に入りこみシュートを決めた。 ものの6秒くらいでもう2点だ。 野球ならプレイボールホームランでも1点なのにと思っているうちに味方がボールをスティールされ、また2点とられた。あっという間に4点だ。 僕もスポーツ選手だからバスケは知らなくても、のっぴきならない実力差が両チームの間にあるということは分かった。相手選手につめ寄るクイックネスとスピード。正確なパスが回せる確信を持ったポジションどり。東原の選手が浮き足だっている間に、前へ前へとプレッシャーをかけてくる。 やまちゃんは、「ダメだな」と言って、女の子たちをがっかりさせていた。「もっと腰を落とさないと」という解説もしていた。僕は、そんなこまかな技術は知らない。でも高浜さんが日記に書いていたように、彼女たちにとって最後の夏なのだから、先ず「勝ちたい」と思うほうが先だと思った。気持ちが負けると、本当にそこで終わってしまう。 思わず席を立ち上がり「勝て!東原!」と叫んでいた。 やがて前半が終了した。 スコアは22ー8。やまちゃんによるともう絶望的な点差だそうだ。 休憩時間に、やまちゃんはみんなの飲み物を買いに行った。やまちゃんは女の子には優しいようだ。うそもつけばカッコつけて解説もする。しかし、こういうこともよく気がつく奴だ。 後半が始まった。 開始2分であっという間に8点とられた。 これで、30ー8。 僕は、悔しくなった。 どうしても手の届かないもどかしさがあった。なんとかしろよと思った時、選手交代があった。3人交代した。その中に高浜さんがいた。 妹が言った。 「お姉ちゃんが出るなんて、もう試合をあきらめたのかな」 たしかに常識的にはそうだ。6年生最後の試合なのだから。でも僕は、ちょっと笑って言い返した。 「そんなことはないよ。高浜さんはがんばってきたんだ。きっとなんとかしてくれるよ」 そして席を立って叫んだ。 「かんばれ!高浜さん!」 高浜さんはゲームに集中していた。 相手のインサイドへのパスをカットし、すかさずフロントコートに送った。走っていた古川さんがパスを受け取り、ドリブルで強引に突っ込んでシュートした。ようやく後半の得点が入った。やまちゃんも「よっしゃー!カウンターだ!」と、野球の試合中のように吼えた。 東原の選手は、ハイタッチしていた。 ベンチも盛り上がってきた。 さらに、疲れの見えてきた相手選手のボールを、東原の選手がスティールし、そのままパスをつないで得点した。東原にがぜん勢いがきた。そして、相手のシュートミスを高浜さんが拾い、味方にパスした。パスを回して古川さんが決めた。3連続得点だ。これで30ー14。残り時間は、3分弱。 やまちゃんが、「いける」と言った。 僕もそれを信じて応援の声を張り上げた。 4年生の女の子たちも、大きな声援を送った。 高浜さんも古川さんも、みんながんばった。 必死になって追い上げた。 そして、あと4点というところで、残念ながら試合終了となった。そのブザーを聞きながら、僕らはスタンドで立ち尽くし「あ~」とため息をついた。 ベンチに引き上げた高浜さんは、汗をふくようにタオルを使っていたが、その目は真っ赤になっていた。 僕も何だか、涙が出てきそうで、ちょっと困った。 でも、どうしても言いたくて「いい試合だったー」と叫んだ。 高浜さんの小学校最後の試合は終わった。 3 「私はもう引退したからヒマなんだ。谷山くん。ちょっとつきあわない?」 あの後の日記に高浜さんが、そう書いてきた。なんだろうと思って読むと、 「夏休み最後の日曜日、家族で海に行ってバーベキューしようと計画しているけど、家族全員一致で谷山くんも招待することに決まりました」 僕は「うそ」と思った。 何で高浜家のレクレーションに僕が参加するのだろう。 「谷山くんも、夏休みの間、野球部の練習はないでしょう?だからおいでよ。断ったら絶交だよ」 僕は何とかうまい言い訳を考えようとした。親戚が一人か二人亡くなったことにするとか、お母さんが病気とか。でも、バレバレだろうなあ。ぜんぜんうまくない。しかし、遠出するとなると親に言わないといけないし、ガールフレンドなんて話をしたら、お母さんは絶対怒るし、宿題も残っているし。宿題はなんとかなるとして、やはり問題は親だよなあ。ちょっと恥ずかしいけど、ここは男同士、父さんに話してみるか。父さんは高浜さんのこと知っているし。 その夜、僕は投げ込みから帰るとさっさと夕食を済ませ、居間でテレビを見ているふりをして、父さんが帰ってくるのを待った。父さんが晩酌を始めて、ほろ酔いかげんの時が、たぶんチャンスだ。僕はそう見ていた。 やがて、父さんが帰ってきた。 僕は「よし」と思った。 いつもならすぐ晩酌を始める。 しかし、その日は、いきなり「風呂が先だ」と言って、風呂に入ってしまった。 これで、あと30分は作戦延期だ。お母さんの台所作業が終わってしまわないか、それが不安の種だった。なかなかうまくいかないなあと思っていると、お母さんが父さんの食事の支度を整え、居間にやってきて、僕と一緒にテレビを見始めた。「よし!」と僕は思った。今始まった番組はお母さんの好きなドラマだ。「いける」。 やがて父さんが風呂から上がってきて「ビールだ」と言った。 お母さんは「自分でやってください」と言った。 僕はチャンス到来とばかり、「僕がついであげるよ」と言って冷蔵庫を開けた。 「なんだ、珍しいこともあるんだな。おまえもやるか?」と父さんが言った。 「冗談はやめてください」とお母さんは言ったが、食卓にやってくる気配はない。 僕は「まあまあ、先ずは一杯どうぞ」と父さんに酌をした。 父さんは訝しんで「こづかいならやらんぞ」と言って、先ずは一気飲みした。うまそうに飲み干したあと、「さあ、どうぞどうぞ」と僕は言って2杯目を注いだ。父さんは上機嫌で、「あと何年したら、おまえとさしで飲めるかなあ」とか言っていた。僕はニコニコしていたが、内心、今はそんなことどうでもいい。早く酔っ払えと思った。 頃合を見て切り出した。 「父さん、相談があるんだ」 「やっぱりそうか。で、どうした?」 「あのね。今度の日曜日、海でバーベキューするからおいでって高浜さんから招待されたんだ」 「たかはま・・・。ああ、あの交換日記のガールフレンドか」 「どうしよう」 「それは、向こうのご両親と一緒なのか?」 「そうだよ」 「いいよ。行ってこい。向こうのご両親には俺からご挨拶しておくから」 「お母さんには?」 「言わない方がいいだろ。ガールフレンドなんてまだ早いって怒るから」 僕はニヤッと笑った。 「やっぱり、父さんもそう思う?」 「ああ。間違いない」 「じゃあ、あとで高浜さんとこの電話番号教えるからお願いだよ」 「ああ。男と男の約束だ」 父さんも、なんか嬉しそうにビールを飲もうとした。 その時、いきなりビールを噴き出した。 父さんの目線の先にはお母さんがいた。 「あら、二人で何か楽しそうね」 「あ、いや、まあ・・・」 父さんはしどろもどろだった。 「ガールフレンドがどうしたって?」 「あ、いや、その」 「聞いたわよ。人様から招待されて、母親が知らない訳にはいかないでしょう」 「そうだな」 父さんは、力なく笑った。 「とにかく、ガールフレンドうんぬんなんて、まだ早すぎます」 やぶへびだ。余計お母さんを怒らせたようだ。 「でも、おまえ・・・」と、父さんが言ったが、 「とにかく早すぎます!」と、お母さんに一喝されてしまった。 「でも、向こうのご両親が一緒だから、今回は特別に許可します」 僕はホッとした。 「明日にでも私からご挨拶しておくから、勇太、あとで電話番号を教えなさい」 「うん」 「何かお礼も考えないといけないね。そうだ。10月は勇太の誕生日だから、誕生会に招待しましょう」 「それがいい」と、すかさず父さんがよいしょした。僕には話がややこしくなった。でも、最悪の結果にはならなかったから、よしとしよう。 「まったくもう、男二人で、本当に・・・」 などと捨て台詞を残してお母さんは居間に戻った。 僕と父さんは、顔を見あわせて笑った。 4 バーベキューの日。 僕は高浜さんの家に行った。 玄関に行こうとすると、車庫から親父さんが出てきた。 「ああ。谷山君。今日はよろしくな」 唐突な出現だったので僕は驚いたが、お母さんに教えられた通りにあいさつした。 「はじめまして。谷山勇太です。今日はよろしくお願いします」 親父さんはうなずきながら、 「今日がはじめてじゃないよ。試合で君の活躍は見ているし、君も何度かおじぎをしてくれただろう」 お母さんはその事情を知らない。「しまった」と思って顔が赤くなった。 親父さんはお構いなしに家の中に向かって、 「おーい、谷山君が来たぞ。早く出てきなさい」 すると、玄関から高浜さんのお母さんが出てきた。 「あら。谷山君。こんにちは。今日はよろしくね。娘たちも楽しみにしているから」 「はじめまして。谷山勇太です。今日はよろしくお願いします」 僕はまたそう言ってしまって、恥ずかしさもあって深々と頭をさげた。 「あら、お母さんのしつけがいいのね」 そう言うと、おばさんは上品に笑った。 高浜さんも、妹も、このお母さん似なのだと思った。 それに、親父さんもけっこう二枚目だ。 しかも、昼間見ると大きな家だった。うちとは大違いだ。うちには自家用車もないし。高浜家は裕福な家なのだなと思った。 高浜さんが出てきた。 白いポロシャツに、ジーンズ姿。 「谷山くん。こんにちは」 「やあ。今日はよろしくね」 やっと、ふつうのあいさつができた。よし。この調子だ。 「美咲!早くしなさい」と、親父さんが言った。 家の奥から「はーい」という返事が聞こえ、やがて、妹が出てきた。白いワンピース姿で、長い髪にマッチしていた。まるで人形のような美少女だ。先日は標準服姿だったが、今回はまるでイメージが違うので僕は驚いた。女の子って不思議だ。 「谷山くん。よろしくね」 「あ、ああ。よろしく」 「美咲、谷山さんか、谷山先輩と言いなさい」と、親父さんが言った。 妹がちょっとむくれたので、 「いいじゃないですか、お父さん。お姉ちゃんの真似をしているのですよ」と、おばさんが言った。 「そうよ。お父さんは古いんだから」と、高浜さんも言った。 実は僕もちょっと気になっていたが、旗色が悪いので、ひたすら笑ってごまかした。 「まいったなあ。まあいいか。それより、出発だ」と、親父さんが言った。 僕らを乗せた車は快調に走っていた。 「いつかは・・・」とかCMしている車だった。 子供3人は、後席に乗り、僕が真ん中だった。 車内で、お互いの呼び名を決めた。僕以外全員「高浜さん」だからだ。それじゃ、不便でしょうからと、おばさんが言い出した。 親父さんはお父さん。 おばさんはお母さん。 高浜さんは恵ちゃん。 妹は美咲ちゃん。 僕は、勇太の名前から「ゆうちゃん」と呼ばれることになった。 「なんか、家族になったみたいだね」と高浜さん、いや、恵ちゃんは笑っていた。 「でも、ゆうちゃんはグランドに立っている時とまるで印象が違うわね」と、お母さんが言った。 「そうですか?」 「そうよ。グランドではものすごくたくましく見えて、堂々としているのに、今日は普通の小学生だもの」 「ああ。それはお父さんも思うな」 「そうですか」 「でもね、ちょっと安心したのよ。もしかして乱暴な子だったら困るから」 「もー、お母さん、そんなんじゃないってば」 「あー、乱暴っていうのはちょっと違うかな。グランドでも冷静に自分を抑えているようだから。たぶん自信の表れなんだよ」 お父さんは、そう言った。確かに自信はある。大人はそんなところまで見ているのか。 「いいなあ。私もそんな選手になりたかったな」と、恵ちゃんが言った。 「でも、恵ちゃんは、いい動きしていたと思うよ。あの怒涛の追走劇も、もともと、恵ちゃんのパスカットからなんだし」 「へへ、そうかな」恵ちゃんは笑った。 「お姉ちゃん、どうするの?中学ではやらないの?」 「実はちょっと迷っているんだ」 「続けようよ。僕も野球はやめないし」 「ゆうちゃんは、続けるの?」 「当然だよ。僕は甲子園に行くんだ」 「甲子園!?」みんなから驚きの声があがった。 「でも大変だよ。なんでそこまでするの?」 僕は白石の親父さんの話をした。 みんな、しんみりと聞いていた。 おまけに、岩松兄弟との約束まで話した。 「熱血だね」と恵ちゃんが言った。 「いいわね。若い人は夢があって」 「ゆうちゃん、がんばれ」と、美咲ちゃんが言った。 「よし。じゃあお父さんも応援するかな」 海についた。 青い空にあおい海。天気に恵まれたこともあって、まさに絵に描いたような海岸風景だ。 駐車場から浜まで、僕とお父さんで重い荷物を運んだ。お父さんはコンロを組み立て、その中の炭に、器用に点火した。僕が、うちわで風をおくって火をまわす係になった。お父さんはテーブルや椅子を並べ、そして、紅白チェック柄のテーブルクロスを広げた。僕には初めての体験だったので、全部が目新しく面白かった。 女性陣は、食材の準備をしていた。あらかじめ準備してあったので、手早かった。 そして火にかける。 やがてじゅうじゅうと音がして、いいにおいがしてきた。僕はもう腹ペコで、待ち遠しかった。 「よし。もういいだろう」と、お父さんが言ったので始めることにした。 お父さんと僕ら子供はジュース。 お母さんだけビールだった。 それぞれグラスを持った。 「じゃあ、恵の12歳と、谷山君の優勝を祝して、かんぱーい!」と、お父さんが言った。 僕らも「かんぱーい!」と復唱して、バーベキューが始まった。 屋外でのバーベキューなんて、当時は珍しく、僕は初めての体験だった。 「あちぃ」とか「うまいうまい」などとはしゃいでいた。 「たくさん食べてね。いっぱいあるから」と、お母さんが言っていた。 その食材も残り少なくなった頃、僕はおなかいっぱいになった。 「やっぱり男の子はよく食べるわね」と、お母さんが目を細めて言った。 「ね、ゆうちゃん、海に入らない?」と、恵ちゃんが聞いてきた。 「よし。いこう」 「あ、私も行く」と、美咲ちゃんが言った。 「じゃあ、水着とってくるからお父さん、車の鍵かして」 「ああ、はい。これだ」 鍵を受けとると、僕らは車に行った。 水着を取り出して、更衣室に行った。 僕の着替えなんて早かったので、二人より先に浜辺に戻った。 お父さんとお母さんが何か楽しそうに話していた。僕に気づくと、お母さんが「あ、ゆうちゃん早かったわね。こっちにおいで」と言ったので席に着いた。 「ねえ、ゆうちゃんは知っているの?」とお母さんが聞いてきた。 「何をですか?」 「恵はね、4年の頃からあなたのこと好きだったみたいよ」 僕はちょっと赤くなった。 「うちでも、よく壁に向かって黙々とボールを投げる練習をしている男の子のことを話していたし。それが、ゆうちゃんね」 「はい。たぶん」 「でね、5年になる時、最後のクラス替えがあったでしょう。その時一緒になれますようにって祈っていたのよ」 僕は真っ赤になりすぎたのでうつむいた。 「でも、結局一緒になれなくて、あの子泣いていたもの」 そうなんだ。僕にとって「好きだ」というのは突然だったけど、恵ちゃんには、長い時間があったんだ。 お父さんは笑いながら聞いていた。 「初めてあなたからの手紙の返事をもらった時のあの子のはしゃぎようは、そりゃ大変だったわよ」 僕はいよいよ顔を上げられなくなった。 「で、どうなの?あなたは好き?」 「おまえ、ちょっと酔っているぞ」と、お父さんがたしなめた。 「あら、娘の幸せを願っちゃいけないの?」 「幸せとか・・・」 「で、どうなのゆうちゃん。白状しなさい」 僕はうつむいたままだった。 「ゆうちゃん!」 「はい。あの。好きです」 「それだけ?」 お母さんはふだんは上品で優しいけど、お酒が入ると恐そうだ。 「それだけ?」と、つめ寄られた。 「はい。あ、その、大好きです。恵ちゃんにも言いました」 「よろしい」 「あのでも、僕らはまだ小学生で、まだ早くないですか・・・」 「あら、人を好きになるのは素敵なことよ。早いも遅いもないわ。ゆうちゃんは真面目なんだね」 お母さんは笑った。 恵ちゃんと同じことをいう。まったく。 「谷山君。すまんな。気を悪くしないでくれ」 「はい。悪くなんかなってないんです」僕は動転していて、よくわからない日本語で答えた。 「どうしたの?みんな」と、恵ちゃんがやってきた。 「いや、ちょっとお母さんが酔ってるみたいだから。さ、海に行ってきなさい」 お母さんは酔いつぶれていた。 「うん。でも、お母さん大丈夫?」 「大丈夫だよ。心配しないでいいから。この時期は、くらげが多いから沖には行くなよ。波打ち際を注意して泳ぐんだぞ」 「はーい」 「じゃあ、ゆうちゃん、行こう」 「うん」 穏やかな風が、海から吹いていた。 波は定期的なリズムで、優しいサウンドを奏でていた。 「潮の香りって、いいね」と、恵ちゃんが言った。 「塩?」と、僕は聞き返した。 「そう。潮の香り」 「うん。でも塩に香りなんてあるの?」 「だって、今・・・」 「あ、ゆうちゃん、しお違いだよ」と、美咲ちゃんが言った。 「え?」 「お姉ちゃんが言っているのは、海の潮のことで、ゆうちゃんが言っているのは、食卓の塩のことだよ」 僕は『潮』という字を知らなかったし、その意味も知らなかった。 「塩って海からつくるんじゃないの?」 恵ちゃんと、美咲ちゃんは顔を見あわせて笑った。 「あのね。ゆうちゃん。潮っていうのはこう書くの」 恵ちゃんはそう言って、砂浜に『潮』の字を書いた。 「でね、食卓の塩は、こう書くの」 美咲ちゃんが『塩』と書いた。 「あ、違う」と、僕は正直に言った。 「海水のことを潮っていうの」と、恵ちゃんが言った。 「だからね、潮の香りは、海の臭いってことなの」と、美咲ちゃんが言った。 「だめだね。6年にもなって」と、恵ちゃん。 「だめだね」と、美咲ちゃん。 そう言われても不思議と僕は腹が立たなかった。それよりも、二人のコンビプレイがなんとも可笑しくて、大きな声で笑った。二人も笑い出した。 「よーし、泳ぐぞ」と、僕は言って、着ていたTシャツを脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。二人も、肩にかけていたバスタオルを浜に置いて、海に飛び込んできた。僕は二人を待ち構えていて、やってくるなり、バシャバシャと思いっきり海水をかけてやった。みんな、キャッキャ言いながら海水の掛け合いになった。 小一時間ほど経った頃、僕と恵ちゃんは浜で一休みした。美咲ちゃんは日焼けが痛いからと、日焼け止めをとりに行った。 「恵ちゃんは、日焼け止めはいいの?」 「うん。美咲が持ってきたらちょっとわけてもらう」 「鼻の頭が赤くなってるよ」 「えー、本当?ショックだなー」 「トナカイさんだ」 「もう、そんなこと」 「ごめんごめん」 二人で笑った。 実は、さっきから気になっていたのだが、水着で見ると、恵ちゃんはけっこう胸が大きい。でも、そのことを考えると、妙な気分になるので、こうして並んで座っていても、なるべく見ないようにしていた。この妙な気分は、今まで体験したことがなく、どうしたらいいのか、見当がつかなかった。それは、何と言うか、罪悪感のような、少年らしくないような、『健康第一』がモットーの僕の主義に反するような… 「どうしたの?」と、急に僕の顔をのぞきこんで恵ちゃんが言った。 僕は慌てて「あ、いや、別に」と、そっぽを向いて言った。 「変なの」 「ごめん」僕は恵ちゃんに顔を向けられない。 「はあ?何であやまるの?」 「あ、いや、ごめん」 「だから・・・、でも、まあいいか。それよりね、今日はきてくれてありがとう」 「うん」 「今日は、二人がそろって初めて海に来た記念日だね」 「うん」 「大きくなったら、ふたりでこようね」 「うん」 「うん、うんって、ちゃんと聞いてる?」 「うん」 「ほら、また」 「うん、あ、ごめん」 恵ちゃんは笑った。 「まあ、いいや。でも約束だよ」 「うん。いや、はい。わかりました」 恵ちゃんは、また笑った。 第九章 秋 風 1 9月になると、めっきり冷え込んできた。 夏休みが終わって、新学期が始まり、クラスメイトたちと久々の対面をした。 みんな日に焼けて真っ黒だった。僕はもともと日焼けで真っ黒だったので、「この痛み、わかんねぇだろうなあ」と一人が言った。 そうそう。始業式の最後に、僕らの表彰式があった。 表彰状をはるちゃんが受け取り、僕が優勝旗。トロフィーは、背番号4のまっちゃんが受けとったので橋本が悔しがっていた。1塁手だから、かなり期待していたそうだ。しかも、ファンレターがやまちゃんをはじめみんなに来ていたのに、やはり橋本には1通もなかったらしい。僕はなるべく橋本と出会わないようにした。 さて、練習の方は、6年生中心のものに変わった。 秋季大会が、選抜大会になるからだ。強豪ひしめく中で勝ち抜くためには特訓もしかたない。でも、僕らはいつも特訓だ。「いまさら何を」と思っていると、打撃中心の練習になった。いつもは、平日にはフリーバッティングをしないが、9月から3班に分かれて徹底的に練習した。 上位打線にはコーチがピッチャーをした。 下位打線には5年生エースが投げた。 僕らクリーンアップがふつうのホームベースを使った。 その他の打順は両翼の奥の方に打席を仮設し、間のグランドに、4・5年生が散らばり守備をした。事故がないよう、見張り係も立った。小学校の部活は時間が短いし日が落ちるのも早くなってきているから、こういう分散した形になった。 監督は、「客観的に見て、うちは他の強豪校より打撃が弱い。だから、その弱点を補強する」と言った。 そんなに弱いかなあ?でも確かにあれだけ対中島小用の変化球対策をしたにもかかわらず、打点をあげたのは結局僕だけだったから、そんなに強くはないのかもしれない。もともと、監督の方針は守備重視だったし、これは仕方のないところだ。でも仕方ないと放置していても前には進めない。それに、バントに足をからめる僕らのスタイルは、もうどこの学校にも知れわたっているはずだ。たしかに監督のいう「もう一段のレベルアップ」を果たさないといけない。 「この頃、野球部の練習は気合入っているね」と、恵ちゃんが言った。 恵ちゃんは、引退したので時間があるらしく、僕の投げ込みに毎日つきあうようになった。僕と恵ちゃんは、両親『公認』の『お友達』だから、別に怒られない。その代わり帰りは必ず僕が恵ちゃんを家まで送っていく。 「何で?」 「だって、目つきが違うよ」 「そうかなあ」 「そうだよ。山村君とか恐い感じ」 「ああ、やまちゃんはもともと気が強いからね」 野球部ナンバーワンプレイボーイのやまちゃんもかたなしだ。元本命の人から「恐い」と言われている。 「新田君もそうだよ」 「新田が?」 「うん」 「そうかな。離れて練習しているから僕はわからないけど」 「最後の大会だもんね」 「うん。恵ちゃんはどうだった?」 「そりゃあもう、気合入っていたよ。みんな」 「だから、あんなすごい追走劇ができたんじゃないかな」 「あの時は無我夢中だったからよく憶えてないの。でも、何とか勝ちたいって思ってた」 「うん」 「そうだ、あの時ゆうちゃんは、勝て!東原!なんて言っていたでしょう?」 「聞こえていないのかと思ってた」 「聞こえているよ。でも不思議だね。あんなにうるさい中で、知り合いの声は聞こえるんだもの」 「それは、僕も思う。あの県営球場の広いところでも恵ちゃんの声はわかるよ」 「そうなんだ」 恵ちゃんは笑った。 僕は投げながら話をしているけど、こうしてふたりでいることが最近自然に感じられるようになった。そして、投げ込みが終わり、恵ちゃんを家に送り届けると、急にポツンと一人になって、むしょうに寂しくなる。秋風が、とても冷たく感じられるようになるのだ。 僕は、外灯の照らす道をダッシュして帰る。 ある朝。 ちょっと早めに朝の日課である走り込みに出かけた。 その日はなぜか、いつもより早く目が覚めたので、まだ暗い時間だったが、ぶらぶらしていても退屈だったし、「朝なら補導されないだろう」と思った。 僕は、6年になってから毎朝4キロランニングしている。 日曜日は父さんと遠投をしているのでちょっと減らして2キロだ。決して楽ではない、というか、本当は泣き出したいくらいつらいのだが、なんとか続いている。 秋の朝は、寒いと言うより、もう冷たかった。 川沿いの土手道を走っている時、新聞屋さんのチャリンコが僕を追い抜いていった。やがて、キーというブレーキの音をたて、遠方で止まった。振り返って僕を見ている。 「誰だろう」と思ったが、暗くてよく見えない。ランニングを続けて近づくと、それは白石だった。 「よう、谷山何やってんだ」 「おまえこそ、何やってんだよ」 「新聞配達だ」 「いいのか?小学生なのに?」 「いいわけないだろ。内緒だぜ。おまえはうちの事情を知っているだろ」 僕はまずい時に出会ってしまったと思った。白石の家は、親父さんの治療費がかさみ、たくさんの借金をしている。保険のきかない高い薬もずいぶん使ったらしい。 僕は「ごめん」と言った。 「同情なんてするなよ」と、白石が言った。 「わかっているよ」 「とにかく、俺は俺の仕事をする。この後は牛乳配達にも行くぞ」 「おまえ、すごいな」と、僕はポツリとこぼした。 「おまえはランニングか?」 「うん。毎朝だよ」 「それにしては初めて会ったな。俺はこの道毎朝通っているぞ」 「うん。いつもはね、もっと遅い時間だから」 「そうか。おまえはおまえの仕事をしているんだな」と白石は笑った。 「とにかく、俺は野球を続けたいんだ。だから部費くらいは自分で稼ぐ」 部費は、確かに安くはなかった。でも、その心配を僕はしたことはない。 「おまえ、えらいな」と僕はうつむいて言った。 「おまえだって、えらいじゃないか。藤井がいなくなって、正直みんな優勝なんて無理だと思ったぞ。おまえのおかげなんだ」 そんなこと、白石の現実の前には、小さな小石だ。僕はうつむいたままだった。 「だから、同情なんてするな。うちだって、母さんが新聞配達なんかするな、それくらい、私が残業するからって言うのを俺が押し切ったんだ。俺は俺の仕事をする。だから、おまえはおまえの仕事をしてくれ。秋の大会も頼んだぞ」 そう言うと、時間がないからと白石は走り去っていった。 僕は、白石の事情を他の誰よりも知っている。 親父さんが元気だった頃。 日に焼けたたくましい親父さんがいて、優しいおばさんが笑っていた。なおちゃんはまだ幼稚園児であどけなく、夏の夜には、僕らはみんなでスイカを食べた。僕と白石が種のとばしあいをやった。花火もやった。線香花火の火花が顔に飛び散って、なおちゃんが泣き出した。 あの頃。 たった4年前なのに、もう二度と手が届かない。 だから、むしょうに涙がこぼれた。 ボロボロボロボロとあふれてきた。 感情の起伏が激しい僕に監督は「その感情を抑えろ」というが、そんなこと、本当に僕にできるのか?辺りが暗いのが、幸いだった。僕の顔は、涙と鼻水でくしゃくしゃになっていた。秋風が僕のほほを伝うたびに、急激に熱を奪い取っていった。 「どうして秋風ってこんなに冷たいのだろう」 昼休み。 はるちゃんが組み合わせ抽選の結果を教えてくれた。 近くにいた数人がその話の輪に加わった。 両リーグから8校ずつ選抜され、合計16校の戦いになる。 1回戦が西部リーグで夏に優勝した吉川小学校。1年前は楽勝だったが、かなり実力をつけてきたらしい。 2回戦が、あの池上小学校。夏の復讐に燃えているのは間違いない。 3回戦。これは準決勝になるが、白峰台。 決勝戦は、また中島小になるのだ。 もちろん、西部リーグのことを知らないので、順当にいけばの話だが、想像以上に厳しい組み合わせだ。しかも、1・2回戦は市民球場でのダブルヘッダー。準決勝と決勝は、県営球場でのダブルヘッダーだ。いくら涼しくなっても、「ちょっときついなー」というのがみんなの感想だ。 「でも、これで優勝すれば、初代王者だよな」と、プロレス好きのまっちゃんが言った。 「そうだね。西と東に分かれてから初めてなのだし、初の市内王者だね」と、はるちゃん。 「王者か」そう僕がつぶやいた。いい響きだ。 「でも、何で急に選抜大会になったのかな?」と、田中。 「その方が面白いからだろ?強豪校だけでのバトルロイヤルだ!」と、まっちゃん。 はるちゃんは、ちょっと顔をしかめたが、コーチである父親から聞いた話をしてくれた。 実は、参加校の多い野球大会を維持するには大変なお金がかかるらしかった。それは、市の助成金や、各チームからの参加費で賄われている。その負担に対して、強いチームは不満はないが、1回戦で終わるようなチームには「1回戦しか出ないのに大金を払いたくない」という不平不満が多かったらしい。それに、選手を支える父母会の活動も、強いチームと弱いチームでは雲泥の差があって、弱いチームは、はっきり言ってやる気がないそうだ。そんな中、年3回も大会を開催する必要があるのかという話になって、「それなら選抜大会という形で意欲のあるチームだけで大会を開催すればいい」「しかも、あまり費用をかけずに」という結論になったという。だから日程もぎりぎりなのだ。えらい大人たちは、「一石二鳥いや三鳥の名案」と喜んで話がまとまったという。 「みんなには内緒だよ。父さんから口止めされているから」と、はるちゃんが最後につけ加えた。 僕には、そんな話は大人の世界の出来事のようで、なんだかよく分からなかった。でも、今朝の白石のこともあり、「また金の話か」という憎たらしい気分になった。僕たちは、ただ野球が好きだから、やりたいだけなのに。 ともあれ、決まったからには全力で戦う。 10月の第1と第2日曜日に開催されるから、あと10日。僕らが3年もやってきたことの全てをぶつける最後の大舞台だ。 恵ちゃんの言うとおり、僕らの練習には気合いが入っていた。秋の大会が終わると僕らは引退だ。あと、およそ10日で全てが終わる。悔いは残したくない。徹底した打撃練習も身についてきた。クリーンアップ以外は、全員バットを短くもって、やわらかく打ち返すようにと指導を受けた。これなら、どんな球でも食いついていける。何も大きいのを狙う必要はない。内野の頭を越えれば充分だ。監督が弱点と言った打撃にも、みんな自信をつけ始めていた。 それを試す日は、どんどん近づいている。 2 「いよいよだね」と、恵ちゃんが言った。投げ込みの時だ。 「ゆうちゃんは、怖くない?」 僕は、ちょっと考えた。カッコ悪いかもしれないけれど、正直に答えた。 「こわいよ」 「うそ。ゆうちゃんでも怖いの?」 「うん」 「ちょっと意外だなあ」 「本当だよ。マウンドに立って、試合が始まるまでは、怖くてしょうがない」 「ふーん。試合が始まったら?」 「試合に集中しているから。でも夢中になりすぎて、気づいたら打たれていたことは、あるよ」 「はは。何それ。でもね、私は補欠だったけど怖くてしかたなかった」 「ふーん」 「でね、私、ゆちゃんに謝らないといけないかなあって思っていたことがあるの」 「何?」 「ほら、私、いつもいつも無責任にがんばれがんばれって言っていたでしょう。あれって、ゆうちゃんの負担になったんじゃないかなあって」 「はあ?」 「私ね、友達に誘われてバスケ部に入ったの。でも、ちっともうまくならなくて、みんなに置いていかれて、だから、やめたいやめたいって思っていて、でも、親からは、とにかくがんばれとしか言われなくて」 「でも、他に励ましようがないよ」 「そうなのよね。それは頭では分かっているけど、でも実際にやらない人が無責任なこと言うなって思ってた」 恵ちゃんは意外なことを言った。恵ちゃんは、いつも明るくて前向きな女の子だと思っていたからだ。 「でも、結局最後までがんばったんじゃないか」 「だから、それはゆうちゃんのおかげだって。初めて見たとき、居残りさせられているような人でさえがんばっているんだからって思えたもん」 「ああ。そうだったね」 「でもほんとうに、人に言うときは、どんなに伝えたいことがあっても、かんばれっていうありふれたことしかいえないんだね」 「だから、僕のことは気にしないで。少なくとも僕は、恵ちゃんにがんばれって言われてうれしかったよ」 「ほんとう?」 「本当だよ。目指せ!三連覇って言われるより、恵ちゃんにがんばれって言われる方が気合いが入るから」 その時口から出た言葉は僕の本心だった。実は、「がんばれ」よりも、「三連覇」の方が重荷になっていた。僕の球が打たれて三連覇できなかったらどうしようという怖さが日に日に大きくなってきていた。みんなから「豪速球さえあれば」とはやしたてられても、現に、中島小のクリーンアップや、ニヤついた男は、僕の球を打てる男たちだ。でも、そんな具体的な恐怖を誰にも話すわけにはいかない。もちろん、恵ちゃんにもだ。 その時、ふたりの間を風が吹き抜けた。 秋風は、相変わらず冷たかった。 -野球少年 小学校編 4 へ続く-
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