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野球少年 小学校編 4
第十章 1週間
第十一章 死 闘
最終章 天高く
第十章 1週間
1
大会の日程は、やはり厳しいものだった。
なにしろ1ブロックで3試合も行われるのだから、朝8時に開会式があり、9時には第1試合が始まった。少年野球にナイターはない。遅くとも4時頃までには終わらないといけない。
僕らは、Aブロックの第1試合だ。
久しぶりに見る吉川小学校のメンバーは、より日焼けしていてたくましそうになっていたが、僕らとあたることに気後れしているようにも見えた。視線をベンチの後ろに移すと、そこに父母会をはじめ、応援団が陣取っていた。恵ちゃんも、美咲ちゃんも来ていた。僕に気づくと二人とも笑顔で手を振った。僕は軽く会釈をした。いよいよ最後の大会が始まる。ここまできたら、僕に迷いはない。とにかく全力で戦う。
その、つもりだった。
先攻は、僕らだ。
1番のガンちゃんが打席に入った。別に緊張もせず、ふだんの様子だ。
内野はやや浅めの守備をしていた。吉川小のピッチャーは、1年前と同じ。ガンちゃんのセーフティバントからリズムを狂わせた経験もあり、今回はやや慎重のようだ。
初球は、内角高めをついてきた。
ガンちゃんは冷静に見極めボールになったが、その球の速さは昨年以上だ。しかも、このピッチャーの球は重い。しかし、打席のガンちゃんは落ち着いていた。何かを考えるように一度打席を外して素振りをした。僕らが調子に乗れるかどうか、先頭バッターのガンちゃんにかかっている。
「頼むぞー」と、補欠の田村が大声を上げていた。
2球目。
外角低めの球にガンちゃんは大きく空振りした。ややリズムを掴みかねているようだ。急ごしらえで打撃フォームの改造をしたのが、裏目に出たのかもしれない。
3球目。
今度は内角低めをズバッとついてきた。ガンちゃんは手が出ずに見送り、ストライク。これで2ー1。それでも、浅い守りに変更はなかった。
4球目。
外角低め。しかし、ガンちゃんは見送り、ボールになった。球が見えているかどうかはともかく、落ち着いているようだ。
5球目。
同じく外角低め。今度はストライクだ。ガンちゃんは、ファールでカットした。
6球目。
また低めの、やや真ん中だったが、これも自打球を足にあてそうなファールになった。試合開始早々、ガンちゃんも粘るが、吉川小のピッチャーも負けてない。お互いに負けられない戦いだ。
7球目。
内角やや中ぎみの高めの速球が来た。ガンちゃんは、狙いすましたように、叩きつけるバッティングをやった。打球は、大きくバウンドして三遊間の深いところに行った。ショートが、ボールを掴んだころには、ガンちゃんは1塁を駆け抜けていた。ベンチと応援席から歓声があがった。
これだ。
実はガンちゃんが「もう一段のレベルアップ」のために練習してきた『大根切り』だ。
ガンちゃんのセーフティはもう各校に知られている。だから、バントしにくい内角高めを攻められる。ならば、その球を叩きつけるように打ち返し、高いバウンド球にする。相手が捕球するころには、ガンちゃんは足を生かして1塁を駆け抜ける。内角高め攻めに苦しんでいたガンちゃんに、監督が授けた秘策だった。初めて実戦で試す機会にうまくいったので、ガンちゃんもうれしかったのだろう。珍しく1塁上で、笑顔を見せていた。
続く2番のまっちゃんに、秘策はなかった。というより、もともと秘策のかたまりのような男だ。やはり何かを企んでいるようで、珍しく黙って打席に入った。そして、あたりまえのように送りバントの構えをした。相手投手は、ガンちゃんの足をかなり警戒しているようで、初球の前に、牽制球を送った。
そして1球目。ガンちゃんはスタートのポーズをみせた。投球は外れてボールになった。
2球目。
またスタートのポーズと、バントの構えをやった。ピッチャーはまたボールを投げた。
これで、0ー2。
3球目。
本当に、ガンちゃんが走った。
ガンちゃんはダッシュがうまいから、警戒されていても、スライディングセーフだ。投球は、ランナーを刺すためにウェストしたから、ボールになった。相手ピッチャーは、すでに肩で息をしていた。
4球目も外れて4球になった。
ノーアウト1・2塁。僕らのベンチサイドは俄然盛り上がりを見せ、相手投手はいよいよ苦しそうに見えた。
ここで登場する3番やまちゃんは、「よっしゃー!」と吼えながら打席に入った。
やまちゃんは、「いつも力みすぎだ」という監督の指摘を受けて、スタンスをわずかに短くし、上体を楽に、そして軸回転でのバッティングを練習していた。もともとやまちゃんにはパワーがあり、当たれば飛ぶので、ボールを呼び込むことのできるこのスタンスは、やまちゃんに向いているように思われた。あとは、結果が出せるかどうかだ。
3番バッターとはいえ、少年野球なのだから、ここは送りバントのサインが出ることもある。でも、鬼監督は僕らも不思議なくらい試合ではサインを出さない。いつもベンチ前面で腕組みをして仁王立ちしているだけだ。やまちゃんは、念のためベンチを見ていたが、やはりサインはない。コーチがサインの真似をしているだけだ。
相手投手は、真っ赤に上気していたが、それでも、気合いの入ったボールを投げてきた。
やまちゃんは、大きな空振りをした。
「振りが大きいぞ」とコーチがどなった。
やまちゃんは、苦笑いした。そして打席を外し、一度大きな深呼吸をして打席に入りなおした。
その時、あの特訓したフォームになった。
相手投手は警戒したようで、外角に外してきた。やまちゃんは、ピクッと反応したが、バットは止まった。
次の球も、内角低めへ外してきた。いつものやまちゃんなら、空振りしそうな球だ。しかし、今日は手を出さなかった。
これで1ー2。
ネクストサークルにいる僕でさえ、次はカーブでストライクを取りにくるだろうと予測した。打席にいるやまちゃんは、どう考えたのだろう。とにかく、来たカーブをうまい具合に捉え、センター前ヒットとなった。
ガンちゃんが、3塁をまわる!
走塁コーチの右腕もぐるぐる回っていた!
センターは、捕球すると、バックホームせず、2塁に投げた。僕らが1点先制だ。幸先よし!
東原サイドから歓声があがった。
1塁ランナーは2塁止まりになったが、またノーアウト1・2塁だ。
ここで、必要なのは、とにかく「1発決めること!」ではない。「冷静につなぐこと」なんだ。
監督は練習の時、口をすっぱくしてそう言う。
「チャンスの時は、1発狙いで三振かホームランかではなく、コンパクトに振って、次につなぐこと。それが打線だ」
僕らクリーンアップには、徹底してそのことを指導していた。僕は監督の言葉を全て理解しているわけではないけれど、打者が次々と連打することの大切さは今までの試合の中で感じていた。いつものように「よし、つなぐぞ!」と決めて、打席に入った。
吉川の投手は投げにくそうだった。僕の春夏での4割近いアベレージを見れば当然かもしれない。
敬遠気味の4球になった。
4球でも、OKだ。
僕らの目標はチームが勝つことだ。
ノーアウト満塁で5番の田中が打席に入った。
僕らクリーンアップは他の打順とは違い、義務ではなかったが、バットを短く持って入った。投手は、もう崩壊寸前だ。見ていて気の毒だったが、ここでたたみかける必要がある。
初球。
とにかくストライクをとりにきた甘い球を逃さずはじき返した。打球はセカンドの頭を越え、右中間に転がった。3塁ランナーが生還。2点目。2塁ランナーも生還。これで3点。そして、僕も3塁を回ったが、走塁コーチに止められた。
僕らのベンチサイドから大歓声が沸き起こった。3点とってなおもノーアウト1・3塁!
特訓は正解だった。バントもなしに、こんなに一気に得点できるなんて。「もう1段のレベルアップ」を成し遂げた手応えがあった。
田中は、1塁上からベンチを見て、右腕を突き上げていた。
その後、白石はセカンドゴロゲッツーに倒れたが、その間に僕が生還して4ー0。
続く新田も当たりそこないのサードゴロに倒れてチェンジとなった。
4点もらえれば、もう大丈夫だ。1・2本打たれても、じゅうぶん勝てる。僕は気が楽になった。
「こんな時」
監督は、練習の時に言った。
「こんな時大切なのは、味方への流れを投手が断ち切らないことだ。そのためにはチェンジ後の先頭打者を全力でうちとること」
だから、僕とはるちゃんは、全力で決めるつもりだった。豪速球で、3球三振を狙う。
第1球を、大きく振りかぶって投げた。
その球は、うなりをあげながら飛び、快音を発してはるちゃんのミットに収まった。初めて見る僕の豪速球に、吉川小の1番バッターは言葉を失っていた。吉川小のベンチもどよめいていた。
「これが、中島小を倒した速球か」という吉川小の選手もいた。
東原サイドからは歓声があがり、ナインからは「ナイスピッチ!」という声があがった。
「そして、投手がリズムをつくれ」
と、監督は言う。
沸きあがるこの歓声を味方に、僕らはリズムを掴んだ。
1番は予定通り3球三振。
2番は、いつもどおり、緩急の組み合わせでセカンドゴロ。
3番も、同じく緩急でサードへのファールフライにうちとった。
リズムよく攻撃に移る僕らとは対照的に、吉川小サイドは暗かった。
「あんな球が小学生に打てるのか?」
「中島小が負けても不思議はない」
そういう声が途切れ途切れに聞こえてきた。もちろん、大部分は、「うちだって、西部リーグで優勝したんだ!みんながんばれ!」というような応援だった。
しかし吉川小の動揺は収まらず、8番の橋本が、ショートのエラーで出塁した。エラーではあっても、たまにしか出塁しない橋本は、満面の笑顔で1塁上にいた。それに、ショート強襲の当たりだったから、相手もはじいたのだ。
9番のはるちゃんが送りバントを決めると、吉川小は後手後手に回り、結局この回も僕らが1点とった。
5回コールドまで、あと2点。
吉川小が弱いのか、それとも僕らが強いのか。
西部リーグは主に市内の旧市街を中心に形成していて、東部リーグのような新興の住宅地ではないため、伝統校が多く、その中で優勝した吉川小が弱いとは考えられない。僕らの特訓の成果に加え、やはり、僕らとあたることで気後れした彼らの心理的な面が大きく作用しているようだ。
3回に入ると、試合の展開はやや落ち着いたものになってきた。僕はふうちゃんのような打たせてとるピッチングが、すっかり板についてきていたし、吉川ナインも、試合に集中しはじめていた。そうなると、優勝校らしく吉川ナインにもよく声が出て、あの機敏な動きも出始めた。僕らも追加点が取れずに、最終回までいった。しかし序盤の5点は大きく、おかげで気楽に戦えた僕らが、結局5ー0で勝った。
最後のあいさつを終え、ベンチに戻った吉川小の選手たちは、みんな悔しそうで、泣いている選手もいた。2年も前から見知っている選手たちだ。他人事とは思えない。僕はその様子を遠くから見ていて、涙がこぼれそうになった。僕が涙もろいのは、父さんゆずりだと、お母さんが言ったことがある。
ともかく、彼らの少年野球は、今終わったのだ。暑い日も寒い日も、僕らと同じように彼らもがんばってきたのだ。
僕は、何回敵の涙を見てきたのだろう。
心が押しつぶされそうだった。
2回戦の練習が、午後2時から始まった。
対戦相手は、やはり池上小だ。
先に彼らが練習を始めたので、僕らは見学した。彼らは、いつものようにのびのびとプレイしていた。僕らも特に慌てることはない。いつもの通り、正々堂々戦うだけだ。僕は自分に、そう言い聞かせた。
プレイボールは、午後3時。
「ようやく始まるよ」と、まっちゃんが言った。その、間の抜けたような言い方がおかしくて数人がクスッと笑った。僕らも落ち着いている。池上小に負けてない。
僕らは、また先攻だった。
マウンドには、あのニヤついた男が上がっていた。今日は最初からいくらしい。
1番のガンちゃんが、高めに浮いた速球を大根切りし、三遊間を抜けるヒットを放った。
「いまのは捕ってくれよ!」と、ニヤついた男が笑いながらショートに言った。
「捕れるかあんなのが!おまえこそ打たれるなよ、ボケェ!」と、笑いながら言い返した。
やれやれ、まったくこのチームは…。
2番のまっちゃんが送りバントしようとしたが、高め速球を打ち上げ、ピッチャーへライナー性の小フライになった。ニヤついた男が「よっシャー!」とわめきながら、脱兎のごとくマウンドを降りてきて捕球した。ガンちゃんは、失敗などないと思い込んでダッシュしていたため、戻りきれずアウトになった。池上小の1塁手が「よおし!」と大声をあげ、内野手も声を合わせて、全員が両手を天に突き上げた。
「勝どきを上げているようだな」と、はるちゃんが言った。
「また、負けるとも知らずに」と、橋本がつぶやいた。
ゲッツーにはなったが、橋本の一言が、僕らを暗くさせなかった。たまには橋本の毒舌も役にたつ。
3番やまちゃんは、高めの速球にどうしても合わないようで、簡単に三振してしまった。
1回裏。
あのニヤついた男が1番に入った。
とにかく打てる可能性のある男を、1番打席がまわるところに置いたのだ。僕らのチームでは考えられない。しかし、彼らの自由な発想のもとでは、当たり前なのかもしれない。チームメイトたちも、嫌そうな顔をしている者は一人もいない。ただ冷やかしているだけだ。
でも、僕は嫌だった。
封印したはずの重たい不安が、急に甦り、僕の心を支配した。監督を見ると、黙って穏やかにうなづいた。「問題ない」と言っているようだった。
投球練習を終え、はるちゃんが2塁へ送球練習した。まっちゃんは、そのボールを受け取って、タッチプレイの練習をすると、サードにボールを投げた。やまちゃんが捕球し、軽いステップで1塁に投げた。橋本は捕球して、ショートの田中にまわし、田中が、僕にボールを返した。それを見届けて、はるちゃんが声をかけた。
「落ち着いていこう!」
「落ち着いてと、言われても…」
僕は、ニヤついた男にホームランを打たれる夢を見たことがある。彼の存在は、僕にとってそれなりにプレッシャーなのだ。それが1番にいることは、はっきり言って恐怖だ。僕はマウンドに立って初めて恐いと思った。それは、いつも試合前に感じるこわさとは異質のこわさだった。
初球。
ストライクを取りにいった速球を軽々とレフト前へ運ばれた。
僕は、動揺した。
続く2番バッターに対して1ー2となったところで、ニヤついた男が盗塁を決めた。
カウントは1ー3。
5球目。
2番バッターは、送りバントを決めた。
これで1アウトを取って、多少落ち着けたものの、続く3番は要注意の、あのショートだ。打順が変わっている。彼に低めは禁物だ。
1球目。
胸元への速球。
ここは、やはり手が出ないようで、ストライクを取った。
2球目。
同じく胸元へ。
しかし、当てられて、ファールになった。まいった。もうあわせてきている。どこに投げればいいのだろう。僕がそう思っていると、はるちゃんは外角高めのボール球を要求してきた。とりあえず、1球外すのだろう。はるちゃんの言うとおり投げた。
3番バッターは、冷静に見ていた。
ボールになった。
はるちゃんが、「オーライオーライ」と言いながら、返球してきた。
カウントは、2ー1。
その時、僕はランナーに対する警戒を怠っていた。ニヤついた男は、その隙を突いてきた。
三盗だ。
打席の3番バッターも驚いて、援護の空振りをした。はるちゃんが3塁へ送球した時には、ニヤついた男は3塁へ滑り込んでいた。
セーフだ。
池上小サイドから歓声があがった。僕は、ニヤついた男を見た。彼も真剣なまなざしで僕を見ていた。
やまちゃんがタイムをとって、マウンドにボールを持ってきた。
「どうしたんだ。らしくねえぞ。落ち着いていけよ」
「わかっているよ」
「なら、いいけど。1・2点くらいすぐに取り返してやるから、楽にいけ」
やまちゃんは、そう言って引き上げた。カンの鋭いやまちゃんに、僕の隠しておきたい内面を見透かされたようで、居心地の悪さを感じた。
はるちゃんが立ち上がり「ツーダンツーダン!」と掛け声をかけた。
4番には、あの熱血男が入った。
料理しやすい相手であるはずなのに、その時僕の気持ちは負けていたのだと思う。高々と、レフトオーバーを打たれた。僕の心臓は止まりそうになった。打球のゆくえを見つめた。新田が懸命にバックしている。まっちゃんが、「捕ってくれー!」と叫んでいる。東原サイドからは悲鳴があがった。ニヤついた男は、ホームインしていた。ノリのよい池上小相手に先に得点を与えると、流れは一気に向こうに流れる。
高々と上がった打球。
新田が飛びついた。
そして転んだ。
僕らは息をのんだ。
新田を見つめた。
しかし、ボールは離してなかった。
捕った!アウトだ!
やまちゃんが躍り上がった。
「よっしゃー!」と、はるちゃんがガッツポーズした。
東原サイドから歓声があがった。熱血男は、ヘルメットを叩きつけた。
ベンチに戻ってくる新田は、心から笑っていた。
みんなから、ハイタッチで迎えられた。
それでも、急に僕の動揺がおさまるはずはなかった。一度逃げた気持ちは、簡単には戻らない。打席でも三振で、マウンドにあがっても、ピリッとしない。4球でランナーをたびたび出したものの、バックの堅い守りに支えられてなんとか得点は与えなかった。しかし、いつ気持ちが切れても不思議ではなかった。
0ー0のまま、4回表の攻撃を迎えた。
ベンチ前で、円陣を組んだ。
監督が言った。
「いいか。そろそろ谷山を楽にしてやれ。とんな形でも点をとるんだ」
橋本が、陰口をこっそり叩いた。
「そんなに楽じゃないつーの」
監督に聞こえたかどうかは分からないが、監督は調子を変えず続けた。
「確かにあの投手の荒れ球には手を焼くだろう。しかし、そのためにこの1ヶ月特訓してきたのだ。それぞれが、指導されたことを思い出せ。力まず、球を呼び込んで、弾き返せ。以上だ」
はるちゃんが掛け声をかけた。
「ひがしー」
みんなが声を合わせた。
「ファイトよおし!」
打順は、1番からの好打順だ。
ガンちゃんが打席に入った時、僕は監督に呼ばれた。
「きついか」と、監督は訊ねた。
僕は、なんと言っていいか分からず黙っていた。
「ダブルヘッダーなのだし、無理もない」
僕はうつむいた。
「でも、チームメイトはみんなおまえを信じている。おまえも、みんなを信じろ。しかし無理にとは言わん。どうしてもきついなら、いつでも交替させる」
5年生エースの吉田が、ギョッとした顔でこっちを見た。
「どうだ、まだやれるか?」
僕に疲れはなかった。気候も涼しくなっていたし、体力的にはまだまだ余裕があった。でも、どうしても気持ちが入らない。今までに体験したことのない不思議な出来事だった。
ガンちゃんがヒットを打った。
歓声があがった。
でも、それは僕には関係のない遠い場所の出来事のようだった。
コーチが口を挟んだ。
「フォームはいつもと変わらないのにおかしいな。気持ちの問題か?」
その通りだと思う。
ニヤついた男が1番に入っただけだったのに、僕に潜在していた恐怖をたたき起こした。僕は、何も言わず、ただうつむいていた。
監督が笑った。
「そうか。谷山も一人前のピッチャーになったということだ」
僕は、意外な言葉に驚いて顔をあげた。
「いいか、谷山。怖いものを知ってはじめて一人前のピッチャーだ。怖いもの知らずで無鉄砲なだけでは一人前とは言えん。しかし、その怖さを抑え、乗り越えて初めて本物のピッチャーになれるものだ。では、どうすれば乗り越えられるか、知りたいか?」
僕は、黙ったまま監督を見つめた。
「答えは、グランドにある」
また、監督は分からないことを言った。
「ただし、ヒントはやろう。迷わず、恐れず、練習してきたことをマウンドでやればいい。それだけのことだ」
その時、まっちゃんもヒットを打って、チャンスが広がった。
応援団から、また歓声があがった。
「いいか、谷山。迷うな。練習してきたことを全力でやるだけだ。さあ、打席の準備をしろ」
僕は監督に促されて、ヘルメットをかぶり、バットを持ってネクストサークルに向かった。
「もっと、わかりやすく言ってくれないと」
僕は、そう思った。納得できなかった。ネクストサークルの中でしゃがんでいた僕は、どこか遠くを見るように、やまちゃんの打席を見ていた。
やまちゃんが、レフト前ヒットを打った。
ノーアウト満塁になった。
東原サイドの応援も、池上サイドの悲鳴も、僕には遠い世界のように感じた。
ニヤついた男は、躍り上がるように投げてくる。その掛け声も、みんなの熱気も、もう、どうでもいい。
「こいつらを倒してまで勝ちたくない。もう涙はみたくない。僕は、僕は、こわい」
気がつくと、見送り三振になっていた。
東原サイドから悲鳴のようなため息があがった。
僕がベンチに引き上げる時、打席に向かう田中がすれ違いざまに、「ドンマイだ」と言った。
結局、田中がショートゴロゲッツーに倒れ、僕らは絶好のチャンスをつぶしてしまった。
その裏、先頭バッターを出してしまった。
鮮やかに右中間へ持っていかれた。
ノーアウト2塁。
はるちゃんが、タイムをとって、内野手がマウンドに集まってきた。
やまちゃんが僕のむなぐらを掴んで叫んだ。
「ピリッとしろよ!どうしたんだ!勝ちたくないのか!」
僕はムッとした。
はるちゃんが、わって入ってなだめた。
「今日の谷山はおかしいよ」と、田中が言った。
「化けの皮がはがれたってこと?」と言う橋本に、まっちゃんが、また裏拳を入れた。
「どにかく、ふざけるなよ。勝ちたくないなら、降りちまえ」と、やまちゃん。
「いいすぎだ」と、まっちゃん。
はるちゃんは、どうしたものかと困った表情をしているだけだった。
「どこか、悪いの?」と、田中が聞いてきた。
僕は首を横に振った。
「じゃあ、ぼちぼちいこうや。慌てることはない」と、まっちゃんが言った。
「これからは下位打線だから、なんとかするよ」と、はるちゃん。
それを聞いて、守備に散ろうとした時、まっちゃんが僕の肩を軽く叩いて言った。
「俺たちがなんとかするから、気楽にいってくれ」
まっちゃんは、笑っていた。
僕は、その笑顔を正視することができなかった。
7番バッターへの攻めは、低めの速球から入ってファールを誘い、高めでうちとろうとしたのだが、甘い高さに行ってしまった。
猛烈なゴロが、セカンドへ飛んだ。
僕は、「しまった」と思った。抜ければ1点取られる。
池上小サイドから歓声があがった。
しかし、まっちゃんが飛びついて捕った。そしてすかさず起き上がりサードへ送球。
タッチアウトだ。
まっちゃんは、右手を高々とあげ、人差し指を突きたてた。ワンアウトの意味だ。
東原サイドがわあっと沸いた。
打球の球足が速かったからでもあるが、あの抜けそうな当たりを普通なら3塁アウトにできない。まっちゃんの機敏な動きのおかげだ。
まっちゃんは、笑顔を見せた。
続く8番もセカンドゴロとなり、ゲッツーを取った。
ベンチの中で、白石が「おまえは、おまえの仕事をしてくれ」と言って、打席に向かった。
「わかっているよ」と、僕は心の中で答えた。
吉田が、僕のところに来て言った。
「先輩、頼みます。僕には無理です。僕のせいで負けたら、僕はもう野球はできません」
その顔は真顔だった。
新田も言った。
「谷山君。フルチンを恨んでいるの?だったらあやまるよ。だから、お願いだよ。僕もがんばるから」
やまちゃんが離れたところから叫んだ。
「しっかりしろよ!おまえは、エースで4番なんだ!」
みんなは、なぜ僕にかまうのだろう?なぜほっといてくれないのだろう。僕のことなんか、ほっといてほしい。
「エースで4番は、チームにひとりしかいないんだぜ」と、まっちゃんが言った。
何をあたりまえのことをと、僕が思った時、白石がホームランを打った。
ベンチも応援団も、沸きあがった。
やっと、得点できた。
みんなベンチから飛び出して出迎えた。
盛り上がるベンチとは対照的に、白石は淡々としていた。そして、僕に言った。
「俺は、俺の仕事をする」
そのホームランが、東原を勢いづけた。
新田も、粘りに粘って、8球目をライト前へヒットした。
橋本は送りバント成功。
はるちゃんは冷静に四球を選んだ。
そして、ガンちゃんが、2塁へ大根切りをお見舞いして、自分もセーフになった。
1アウト満塁。
ピンチのはずなのに、ニヤついた男は、マウンドで笑っていた。
なぜ、笑う?
僕は、そう思った。
あきらめたのか?
いや、そうじゃない。
心が強いからだ。
「強くなれ。ふたりとも」
遠い日、白石の親父さんは僕ら二人に言った。
でも、親父さん。強くなった先にあったものは、「他人の涙」なんです。その時の僕は、初めて感じた怖さと、心の動揺が混在していた。自分でもよく整理がつかないまま、気持ちが逃げていたことは確かだった。
まっちゃんが、フォースプレイを恐れず果敢にスクイズを決めた。
2点目を取った。
2アウト2・3塁となり、打席にはやまちゃんが入った。やまちゃんの軸回転打法は、思いのほかやまちゃんに合っていた。真ん中に入ってきた失投を逃さず、やまちゃんはホームランを打った。
東原サイドは沸きに沸いた。
ニヤついた男は、頭を抱えてマウンドにうずくまった。
僕は、打席に入ってニヤついた男を見つめていた。
「打たれるな、ボケェ」と、例のショートが笑っていた。
ニヤついた男は、起き上がり「しょーがねぇなあ」と言って笑った。
なぜ笑える?
僕には不思議だった。
僕は三振し、チェンジとなった。
5点もとられたのに、僕をうちとったからか、池上小ナインは明るくハイタッチしながらベンチへ引き上げた。どうして、こんなにやられているのに、彼らはあんなに明るくできるのか。僕だったら、泣きたくなるに違いない。
その裏。
先ずは9番バッターをうちとった。
はるちゃんが、「その調子」と声をかけてきた。
1番は、あのニヤついた男だ。
僕は投げにくくて、2球ボールが続いた。
「真剣にやれよ!」と、ニヤついた男がわめいた。
僕は、ハッとした。
「この男は何を言っているのだろう?敵なのに?」
「4球じゃあ、つまらんぞ!」
僕は黙って彼の顔を見つめた。
「勝負しろ!勝負だ!」
はるちゃんが、豪速球のサインを出した。
僕はうなずいた。
重い心とはまるで無関係のように、自然と体が動いた。大きく振りかぶり、渾身の力で投げた。パーン!という快音とともに、ニヤついた男は、崩れ落ちた。大きく空振りをして、体勢をくずしたのだ。すぐに立ち上がり、そして、ニヤリと笑った。
はるちゃんは、また豪速球のサインを出した。監督の指示もあるので、僕は「いいのかな」と思った。しかし、さっきの豪速球がことのほか決まったこともあり、僕は首をたてに振った。
2球目も豪速球を投げると、ニヤついた男は、またも空振りした。しかも、ボールとバットが大きく離れていた。それでも、ニヤついた男は悔しがらず、目をらんらんと輝かせていた。
3球目も豪速球を使って、ニヤついた男を空振り三振に斬ってとった。
東原サイドから、大きな歓声があがった。
ニヤついた男は、ニヤつきながらベンチに引き上げていった。
2番バッターも、豪速球で三振をとった。
不思議なもので、豪速球を投げている時だけ、僕の重い心が軽くなって、無心で投げられた。
東原のナインが、「ナイスピッチ!」と言いながら引き上げていく。
その後の配球は、豪速球中心に変わった。
不思議なことに、池上小の選手は、歓声を上げながらうちとられていく。
みんな楽しそうに見えた。
最終回。
ニヤついた男に打席が回ったが、そのまま僕らが逃げ切り、5ー0で勝った。
ニヤついた男は、今日は泣いていなかった。
最後の挨拶のあと、ニヤついた男が僕のところにやってきて言った。
「俺たちは、できるだけのことはやったから、今日は全く悔しくない。おまえたちは強いチームだよ。また優勝してくれ。それから、中学の大会でまた会おう」
その態度は、さばさばして、まぶしいくらいさわやかだ。試合が終わっても、まだ心が晴れない僕とは極めて対照的だった。
2
「あんな苦しそうなゆうちゃんは初めて見たよ」と、恵ちゃんが言った。
翌日の月曜日。投げ込みの時だ。
僕はその話は無視して投げ込みを続けた。
「どうしたの?」
恵ちゃんは真剣に聞いてくるが、僕は答えず黙っていたから、恵ちゃんは話を続けた。
「春木くんに聞いたよ。あいつは昔からとんでもないファインプレイをするかと思うと、なんでもないエラーをすることもある。だから気にしないで。って」
それは、たぶん外野をやっていた頃の話だろう。正面のフライが苦手だった。
「それに、時々練習をさぼったりしていたし、才能だけでやっているようなところがあるからって」
恵ちゃんは何が言いたいのだろう。僕はだんだん腹がたってきた。
「でもね、才能なら誰にも負けないとも言っていたよ。僕にも、ふうちゃんにも、って」
それは、意外だった。あの二人の方が僕よりうまいと思っていた。
「ねえ、何とか言ってよ」
恵ちゃんは声を荒げた。
僕は、投球をやめ、ちょっと考えてから、こう言った。
「勝ちたいと、思わなくなった」
恵ちゃんには、意外な答えだったようだ。目を丸くしていた。
「うそ。あんなに勝ちたいって言っていたでしょう。春木くんはこう言っていたよ。練習をさぼったりするけど妙なところが生真面目だったりするから、失敗した時のことを考えているじゃないかって。思い切っていけばいいのにって」
僕は、恵ちゃんとは顔をあわせず、プールの壁に向いたままだった。
恵ちゃんは僕のそばにしゃがんで僕を見上げている。
しばらく、沈黙の時間が流れた。
やがて、恵ちゃんがうつむいて言った。
「やっぱり、強豪校同士の大会だから大変なんだね」
僕は黙ったままだった。
「それって、私のせい?私がこわくない?なんて聞いたから、ゆうちゃんにプレッシャーがかかったの?」
僕はうつむいた。多少はあたっている。あの時、ちょっとは気になった。
「やっぱり。私のせいなんだ。私が余計なことを言ったから」
僕は、黙ったままだった。
恵ちゃんも急に話さなくなった。
ふと見ると、しゃがんだまま、恵ちゃんは泣いていた。
「ゆうちゃん、ごめんね。私が無責任に変なこと言ったから・・・」
僕は、どうしたらいいかわからず、ただ呆然と突っ立っていた。恵ちゃんは両手で顔を覆いながら言った。
「私のせいなんだね。それで、ゆうちゃんがあんなに苦しそうだったんだね」
それは、もう涙声だった。
僕は、いたたまれなくなってこう言った。
「違うよ。恵ちゃんのせいじゃない。本当に勝ちたいと思わなくなったんだ」
「ちがうよ。私のせいなんだよ」
「もう、泣くなよ。恵ちゃんのせいじゃないったら」
僕は、なんとかしようと思って、思いつくまま話した。
「恵ちゃんのせいじゃないよ。本当だよ。僕らが強くなりすぎたんだ。簡単に勝ちすぎるんだ。だから、面白いって思わなくなったんだ。だって、相手のチームだってがんばってきたのに、僕らは必ず勝つんだよ。相手のチームがかわいそうだろ。僕らに負けて、何人も泣いたんだよ。そんなの見ていたら、やっぱり・・・」
恵ちゃんは、グスグスしながら言った。
「その話?だって同情は良くないって」
「ああ。そうだよ。同情は良くないんだよ。だから、だから、」
僕は、自分でおかしなことを言っているのに気づいていた。恵ちゃんが泣くとは思わなかったから、動転していたのだと思う。だから、何か他のものに責任をなすりつけようとした。その矛先が、その時握りしめていた奇跡の硬球に向いた。
「こいつのせいだ!」
僕はそう叫んで、奇跡の硬球を遠くに放り投げた。
「だめだよ!そんなことしちゃ」
恵ちゃんはそう言って、ボールが飛んだ方へ駆け出した。
外野フェンス下の生垣の辺りに飛んだはずだが、もう暗くなっているので、よくわからない。
恵ちゃんは、泣きながら「見つからないよ」と言いながら一所懸命に捜していた。僕はふてくされて「探すなよ!」と怒鳴った。
「あれのせいなんだ。あれがなければ、こんなことにはならなかったんだ!」
「ちがうよ。あれは神様のプレゼントなんだよ」
恵ちゃんはそう叫ぶと、茂みの中に入っていった。
「勝手にしろ!」
僕はそう言って、家に帰った。
何もかも、全てのことが腹立たしかった。
僕は家に帰るなり食事もとらずベッドにもぐり込んだ。
もう、なにもかもどうでも良くなった。どうにでもなれと思った。そうして、しばらくまどろんでいると、雨が窓をたたく音が聞こえてきた。ふとんから顔を出してその気配を確かめた。やがて、大粒の強い雨になってきた。
僕は時計を見た。
9時になっていた。
恵ちゃんのことが気になった。まさか、まだ探しているのか?でも、「関係ない」と思い、ふとんを頭からかぶった。しばらくそのままにしていると、時計の針の音が異常に大きく響いて聞こえてきた。
「いくらなのでも、もう帰ったはずだ」
そう思ったものの、どうしても恵ちゃんのことが気になった。僕はベッドから跳ね起きて、傘もささずに家を飛び出した。
雨の中、学校へと走った。
どうしてこんなことになったのか、よくわからずに、ただ、悔しかった。
学校に着いた。
「恵ちゃん!いるのか?いたら返事してくれ!」
僕はやみくもに叫んでまわった。
「恵ちゃんのせいじゃないし、あのボールがなくても僕は優勝するから、だから、もういいよ」
しかし、どこにも恵ちゃんはいなかった。
僕は、下着までずぶ濡れになって、その姿を探していた。
翌日、恵ちゃんは学校を休んだ。
「僕のせいだ」
そうとしか、思えなかった。
学校が終わると、すぐに恵ちゃんの家に行った。でも、中に入る勇気がなくて、家の周りをうろうろしていた。しばらくそうしていたが、やがて僕は覚悟を決めた。ドアホンを押そうとした時、後ろから、声が聞こえた。
「ゆうちゃん?何をしているの?」
僕の5メートルくらい後ろに、目を丸くした美咲ちゃんが立っていた。ふいうちを食らったようで、僕はたじろいだ。
「あ、いや。その…」
僕の気持ちなど無視するように、美咲ちゃんは僕にどんどん近づいてきた。
「お姉ちゃんに会いに来たの?」
「まあ、うん」
「だめだよ。お姉ちゃんは風邪ひているし、それに、昨日何か泣いて帰ってきたし。ゆうちゃんとけんかしたんだろうってお父さんもお母さんも言っていたし」
「風邪はひどいの?」
「うん。熱もあるよ」
「会わせてもらえないか?」
「だから、だめだって。あんなひどい雨なのにお姉ちゃんほおっておくなんて許せないってお母さんも言っていたし」
「だから、謝りたいんだ。ごめんって言いたいんだ。だから、頼むよ」
「だって、お母さんに怒られるよ。だめだって」
僕は、うつむいた。
なんだか、取り返しのつかないことをしてしまったようで、僕は泣きたくなった。
「わかった。じゃあ、おだいじにって伝えて」
「うん」
「そして、ごめんねって伝えて」
僕の声はかすれて言葉にならなかった。
大切なものを失くしたような気がして心が重くなった。
僕は、ダッシュして帰った。
その日、久しぶりに練習をサボった。
お母さんには適当に言い訳して、僕はふとんにもぐりこんでいた。もう全てのことがどうでもよかった。ただ、心に大きな穴が開いたような痛みを感じていた。意味のない時間が過ぎて行った。それは、とても長い時間だった。
練習が終わった頃の時間に、白石が訪ねてきた。
玄関先で何かお母さんと話しているのが聞こえてきた。そして、僕の部屋に入ってきた。
「またサボりなんだろ?」
部屋に入るなり、白石が笑いながら言った。
僕は白石にそっぽを向いたまま答えなかった。
「俺はそう思ったから心配していないけど、チームのみんなは心配してるぜ」
僕は黙ったままだ。
「とにかく、新田もガンちゃんも田中も、まっちゃんも、みんなオロオロしていたぞ。5年の吉田なんか死にそうな顔していたぞ。とにかく、おまえはエースなんだから、しっかりしろよ。昔みたいに好き勝手するなよ」
「だったら、もうエースはやめる」
「また、そんなことを。いったい何があったんだ?」
「白石にはわからないよ」
「そうか。それならもう聞かないから。でも、明日からはちゃんと練習にこいよ」
「いかない」
白石は怒った。
「ばか言うな!最後の試合まで、あと1週間もないんだぞ」
「関係ない」
「おまえ、本気で言っているのか?」
僕は黙った。
やがて、白石は気を取り直して言った。
「あのな、谷山。おまえは、天才だ。俺の親父がそう言っていた。天才には天才なりの悩みも苦労もあるから、俺がおまえを支えろ、って親父が言っていた。だから、俺は何があってもおまえを支える。明日の練習にも、おまえを連れて行く」
僕は、何も言わず黙っていた。
「野球をずっと続けていけば、壁は何度もやってくる。それを乗り越える勇気が必要だと親父は言っていた。幸い俺には壁らしいものはまだないけど、天才のおまえには、壁らしきものが見えているんじゃないか?」
僕には、壁とか、そんなものは理解できなかった。しかし、もとはといえば、「打たれて負けて、僕のせいで三連覇できなかったらどうしよう」という漠然とした不安はあった。
「親父はな」と、白石が続けた。
「壁にあたったら、逃げちゃだめだ。とにかく真っ直ぐ突き進めといっていたぞ。必死になって夢中で突き進むうちにいつの間にか壁なんか越えているってね。だから、おまえにもいろいろあるだろう。怖いと思うこともあるだろう。それは外野で見ていてもわかる。何しろ強敵が寄ってたかって俺たちをマークしているんだから。でも、言い訳したり、サボったりしても、突き進むことはできないと思うから、とにかく、明日から練習に来てくれ。頼む」
僕は答えず、ふとんを頭からかぶった。
「あのな、谷山。実は俺も怖いんだ。俺が最後のバッターになって、三振して負けたり、エラーしたらどうしようなんて思っているし、それは、みんなも同じだと思うぞ。やまちゃんだけだろうな。そんなことこれっぽっちも考えていないのは」
白石がちょっとおどけて言ったので、僕もつい口をはさんだ。
「あと、橋本」
「わはは。そうかもな。あいつは自分が悪いなんて考えない奴だから」
よく分からない難しい話だった。
壁って何だろう。でも、みんな本当は怖いんだと思うと、心の中の重荷がひとつ消えたような気がして、ちょっとは楽になった。
帰り際、白石が何気なく聞いてきた。
「おまえの投球フォーム、最近うちの親父に似てきたぞ。何か教えてもらったのか?」
特別教えてもらった訳ではない。ただ、小さかった頃、今投げ込みをしているプール横の壁で、たまに見せてくれた、あの全力投球のイメージが強烈に残っているだけだ。
「いや、別に」
「そうか。思い過ごしか。じゃ、とにかく明日から頼むぜ」
僕は返事をしなかった。帰っていく白石の後ろ姿をただぼんやりと見送った。
今日の白石は、いつになくおしゃべりだった。
翌朝。
いつもの走り込みの時間に、目は覚めていた。
しかし、気分が重く、ベッドの中から起き出せないでいた。明るくなっていく外の光が、ゆっくりと室内を照らしはじめていた。僕は、何度も寝返りをうちながら、落ち着かない気分を紛らわしていた。
今日は、学校にも行かないと決めた。
お母さんは、「おとといずぶ濡れになって帰って来たからね。風邪でもひいたのかしら」と言ってたいして気にしていないようだった。言い訳に困っていた僕は、拍子抜けするほど簡単に休むことが出来た。
いつも何かと忙しくしている僕には、不思議な時間だった。ベッドの上から天井を見つめていると、いろいろなことが頭の中を駆けめぐる。
野球のこと。
チームのみんな。
ふうちゃん。
白石の親父さん。
そう言えば、岩松兄弟は今どうしているんだろう。
無邪気に甲子園を約束したことが、もうずいぶん昔のことのように感じる。
恵ちゃん。
甲子園の約束は、恵ちゃんにも話したことがある。
僕は、この前のこと、あやまらないといけない。
そのことだけが頭の中を支配し始めた。
恵ちゃんの泣き顔は、もう見たくない。
やがて僕はうたた寝をしていたようで、気がつくと黄金色の夕日が部屋の中に差し込んでいた。
ベッドから起きだして窓をあけた。
冷たいが、さわやかな風が吹き込んできた。
僕には、やらないといけないことがたくさんある。
白石、俺は逃げないよ。
そう、思った。
3
翌朝、僕は登校した。
足取りは重くなかった。
やらなきゃならないことを、ひとつひとつ片づけるつもりだった。
だから、昼休み、迷わず恵ちゃんの教室に行った。
席に座って、友達とおしゃべりしていた恵ちゃんを見つけて僕は声をかけた。
「恵ちゃん、ちょっといい?」
恵ちゃんは、きょとんとした顔で僕を見た。僕は笑顔を見せて手を振った。恵ちゃんは、うつむきながら小走りに駆けてきた。僕は恵ちゃんを階段の踊り場に連れて行った。
「この前は、ごめん」
僕は大きな声であやまり、深々と頭をさげた。恵ちゃんは黙っていた。
「あの後、風邪をひいたそうだね。雨なのにほったらかして僕だけ帰ったりして悪かったと思っているよ」
恵ちゃんはやはり黙ったままで僕を見つめていた。その意外なリアクションに、僕はあわてた。てっきりすぐに笑ってくれると思っていた。しかし現実に、気まずい空気が流れている。
僕はおしゃべりを重ねた。
「許して欲しいと思うよ。でも、どうしても許せないなら許さなくてもかまわないから」
恵ちゃんは、うつむいた。
しばらく時間が流れた。
やがて、また僕が口を開いた。
「僕の調子が悪かったこと、あれは絶対恵ちゃんのせいじゃないよ。僕が迷っていただけなんだ。でも、もう迷わない。三連覇するんだ。心配かけてごめん」
恵ちゃんの意外な反応に驚き、とまどい、その場に居づらくて、僕はそう言うと、自分の教室に駆けて帰った。
もう、昔の二人には戻れないのかも知れない。
さて放課後。
野球部のみんなはあたたかく迎えてくれると思ったのに、どちらかというと、チャカされた。それでも反応があるだけ、まだましだった。5年生エースの吉田だけは満面の笑顔を見せてくれた。
部では、いつもの様に練習した。恵ちゃんのことは気になるけれど、野球に夢中の時だけ気が紛れていい。今は、とにかく投球のことだけ考えることにした。
三連覇は目前なんだ。
その夜。
練習後の投げ込み。
いつもより、ちょっと気合いが入っていた。というより、何かおかしくて、いつもの感じじゃなかった。僕は、2日も練習をサボったせいだと思った。肩は軽いのだが、どうしても手首の抑えが効かず、球にキレがない。今日の練習で、はるちゃんに指摘された。自分でも、そう思う。2時間くらい投げ込みしたが、どうしても納得いかなかった。何故なのかわからないまま、その夜は切り上げた。
恵ちゃんも、とうとう来なかった。
翌、木曜日。
一度だけ廊下で恵ちゃんとすれ違ったけれど、僕に気づくと目を伏せて行った。それって、ドラマとかで言う、「破局」ってヤツなのか?
心が、どうしても重かった。
そして、放課後。
練習だ。
他のみんなは気合いが入っていて、それぞれ前回試した新しい技に磨きをかけているようだった。しかし僕は、どうしてもキレが戻らず、うんざりしていた。そのままの気分で投げ込みをしたせいか、本当にどうしたらいいかわからなくなってきた。試合が近いのに、一体どうしたんだろう。たった2日休んだだけなのに、こんなにおかしくなるものだろうか。せっかく気持ちは前向きになったのに、ボールは言うことをきいてくれない。投球といい、恵ちゃんといい、「うまくいかないなあ」と何度も心の中でつぶやいた。
翌、金曜日。
学校で見るチームメイトたちは、落ち着いていた。
三連覇がかかっているというのに、いつもと変わらず、雑談したりしていた。あと2日後には勝つか負けるか決まるのに、みんな怖くないのかと思いつつも、僕も表面は落ち着いているふりをしていた。
とにかく問題は、キレを戻すことだ。
うすうす、奇跡の硬球がないと、あのキレは戻らないと気づき始めていた。でも、それを言っても仕方がないから、他の方法がないものか考えあぐねていた。
「キレはなくても、低めをきっちりつけば、問題ないから」
はるちゃんはそう言うけれど、そんなに甘い敵ではないことぐらい僕にもわかっている。煮え切らない気分のまま、戦いが始まりそうだ。
夜。
僕は投げ込みの途中で、もう、やけを起こした。
「どうにでもなれ!」そんなすてばちな気分になった。
ボールを投げ捨て、グラブを叩きつけ、大の字になって寝転んだ。
しばらく夜空を眺めていると、オリオン座が出ているのに気づいた。夜風が冷たいことに気づいた。
「僕は何をやっているのだろう」
天才だとか、エースだとかほめられて、調子にのってここまできたけれど、僕の力なんてこんなものだったんだ。奇跡の硬球がないだけで、何ひとつできなかったんだ。ごめんよ、みんな。ふうちゃん。僕は約束を守れないかもしれない。そう思うと不覚にも涙があふれてきた。ぽろぽろと、ふきだしてきた。誰もいないから、かまわない。泣くだけ泣いてやれ。と思った。
その時、「ゆうちゃん、どうしたの?」という恵ちゃんの声が聞こえた。
僕は上半身を起こして声の方にむこうとしたが、涙が流れ落ちそうだったので、慌てて反対の方を向いた。恵ちゃんに背中を見せた格好で僕はうつむき、顔をこする様な仕草をしながらばれないように涙を拭いた。
「ねえ、どうしたの?大丈夫?」
僕の顔を覗き込もうとする気配を感じて、僕はさらに反対方向に向いた。
「何でもないよ、ちょっと一休みしていただけだよ」
僕はうつむいたまま、そう答えた。
「そう」
「で、恵ちゃんこそどうしたの?」
やっと、涙を拭き終えて、恵ちゃんの方を向くことができた。
「わたしはね、」
恵ちゃんは気恥ずかしそうにしていた。
「わたしもね、あやまらなきゃって思ってきたの」
「何で?恵ちゃんは悪くはないよ」
僕がそう言うと、恵ちゃんはちょっとはにかんだように笑った。
「はい、これ」
恵ちゃんは、そう言って後ろ手に持っていた奇跡の硬球を差し出した。
「あ!」
僕は思わず叫んでいた。
どうしても見つけたかったボールだ。
「ありがとう。どこにあったの?これ」
「外野フェンス下の茂みの中だって。お父さんが見つけてくれたの」
「おじさんが?」
「うん。あの日ね、私はとうとう見つけられなくて、泣いて帰って、家中が大騒ぎになったんだけど、お父さんが散歩の帰りに、見つけたよ、これだろう?って何気なく拾ってきてくれたの」
「おじさんが。でも、あの日は雨だったよ。散歩なの?」
「お母さんは何か怒っていたし、わたしはボールが見つからないって泣き叫んでいたし、なんとなく足が向いたんだろうね」
美咲ちゃんも、おばさんが怒っていたと言っていた。
「お父さんが言っていたよ。ボールを見つけて帰ろうとしていた時に、何やらどこかの男の子が、すごい剣幕で走ってきて、恵ちゃんは悪くないからって叫んでまわっていたぞって」
僕のことだ。
恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
「お父さんはね、おまえからこのボールをちゃんと返して、仲直りしなさいって」
僕は恥ずかしさが抜けず、頭をぼりぼり掻きつづけていた。
「ごめんね、ゆうちゃん。私は、なんか意地を張っていて、素直になれなくて」
「いや、まあ」
「でも、春木くんから聞いたの。ゆうちゃんがおかしいって。球にキレがなくて悩んでいるって。だから、早くこのボールを返さなきゃって思ってたんだけど、どうしても」
「うん」
「だから、今日は本当に勇気がいったんだよ」
「うん」
「うん。じゃなくって、」
「ありがとう。このボール、ないと困るなあって本当に思っていたんだ。もう二度と捨てたりしないから」
「それだけ?」
恵ちゃんは笑いながらそう言った。
「それだけって?」
「見つけてくれたお父さんと、勇気を出して持ってきた私にお返しは?」
時々、恵ちゃんはそういう言い方をする。恵ちゃんのお母さんゆずりだ。
さて、答えは何だろうと考えた。
「あ、優勝するから」
僕は気がついて、そう答えた。
恵ちゃんはにこっと笑った。
「50点だね」
「え?50点なの?」
「そうだよ。でも、まあいいか。あとの50点は、そのうちね」
恵ちゃんは明るく笑った。
やっと恵ちゃんらしくなった。
正解は分からなかったが、僕も笑った。
とにかく、仲直りもできた。奇跡の硬球も戻った。万全の体制で戦える。
それはそうと、何やら波の激しい1週間だった。でも、結局もとに戻った。もう、「本当に迷うな」と、自分に言い聞かせた。
第十一章 死 闘
1
準決勝の相手は、あの白峰台を打ち破った西部リーグのチームだ。
金町小学校という。
全員が小柄で、組織的野球に定評があるらしい。僕らも同じようなカラーだが、僕ら以上に全員足が速く、3番4番だろうが、どこからでも走ってくるそうだ。まっちゃんは、「なあに、豪速球さえあれば塁にすら出られないさ」と言って笑っていた。
そうかも、しれない。
岩松兄弟も、バントすらろくにできなかった。その頼みの豪速球も、奇跡の硬球のおかげで、やや復調している。今やすっかりなじんだ県営球場のブルペンで、そんなことを考えていると、
「おい、負けるんじゃねえぞ」
という聞き覚えのある嫌な声が聞こえた。
まさかと思って客席の方を見ると、そこにはやはり、金網にへばりつくように岩松兄がいた。その後ろには、岩松弟が笑いながら立っていた。
「あ、」
「あ、じゃねえ。ここまできたら本当に三連覇してみろ。俺たちが倒すまで、誰にも負けるんじゃねえぞ」
「なんで、ここにいるの?」
「それは、」
岩松兄は言葉につまった。弟が代わりに答えた。
「応援だよ。おまえは、俺たちのライバルだからな」
「ライバルの応援をするの?」
僕がそう聞くと、ふたりそろって考え込んだ。
兄が言った。
「ちがうぞ。おまえが負けるところを見にきたんだ」
「あ、でも、にいちゃん。さっきは負けるなって」
「いや、だから、なんて言うか」
この二人の相手はしていられない。結局応援に来てくれたのだろうけど、勝手にしてくれ。そう思って投球練習を再開しようとした時、「ゆうちゃん、お友達?」という声が聞こえた。恵ちゃんだ。まずい時に。
「ねえ、ゆうちゃん、お友達なの?学校では見ないけど」
「はい!岩松文喜、6年生です」と、岩松兄が大声で答えていた。その顔は真っ赤で、しかも、ニヤついた男以上にニヤついていた。要するに鼻の下をのばしていた。僕は目頭を押さえてうつむいた。要するに頭が痛くなった。
「こちらは?」
「はい。岩松文知。6年生です」
弟も真っ赤な顔をしていた。
「双子なの?」
岩松兄弟は、声をそろえて答えた。
「はい!」
「でも、うちの学校じゃないでしょう?」
「はい。錦川小学校です。谷山君とはライバルです!」
「あら、ライバルだって。いいね。男の子は。私は高浜恵です。谷山君のガールフレンドです」
「ガ、ガールフレンドお!?」
僕まで一緒になって叫んでいた。
「なによ、ゆうちゃんまで、そんなに驚くこと?」
岩松兄弟は僕を睨みつけた。
僕は帽子を目深にかぶり直し、投球練習を再開した。岩松兄弟は、真っ赤な顔をして、どこかに走り去っていった。遠くから、「ばかやろー」という兄の声が聞こえてきた。
「なに?あの人たち」
「恵ちゃんが好きなんじゃない?」
「ちょっと。ふざけないでよ」
僕は笑いながら、投球練習を続けた。
しかし、まあ、初めて対戦する相手を前に、せっかくの緊張感が台無しだ。でも、おかげでリラックスできた。
試合が始まった。
先攻は金町小だ。
先頭バッターのセーフティ率は高いらしいので、初球は豪速球から入ることにしていた。
僕は渾身の力で投げた。
いつもより、さらにキレのある球がど真ん中に決まった。僕の復活がうれしかったのか、はるちゃんが、マスクを脱いで立ち上がり「よっしゃー!」と叫んだ。内野のみんなも、「よっしゃー!」と声を揃え、拳をつきあげた。
「いける」。僕はそう思った。
2球目。低めの速球で、ストライクをとった。
3球目。高め速球のつり球で、三振にきってとった。
僕はもう迷わない、止まらない。このまま次の中島小まで、力で押し切ってやる。
3回までは、特に動きもなく試合が進んだ。
金町小の投手は、速さはないが、精密なコントロールの持ち主だった。僕らの弱点をきっちりついてくる。さすがあの白峰台を破ったチームだ。僕も、相手の出塁を許さず、投手戦のようになってきた。
そして、4回裏。
僕らの攻撃だ。
打順はちょうど一回りしたので1番ガンちゃんからだ。ガンちゃんが2打席連続で出塁しないことなどないから、この回が勝負だと思った。
ガンちゃんは、打席でバントの構えをした。
理由はわからない。もちろん監督は何も指示していない。
金町小の投手は、様子を見るために、外角高めのボール球を投げてきた。その時、ごく微妙にバスターの構えを見せて、それから慌てて完全にバットをひいた。目のいいガンちゃんが、見誤るはずはない。あのバスターの構えは、恵ちゃんから聞いた表現で言うと、フェイクだ。やはりガンちゃんは何か勝負を仕掛けようとしている。
案の定と言っていいかも知れない。
2球目、バスター警戒の相手バッテリーは内角低めを速球でついてきた。しかしやや真ん中あたりの球となり、内野のダッシュもほどほどだったので、ガンちゃんは1塁側のピッチャー前、うまいところにバントを決めた。久々の神業セーフティだ。
東原サイドから歓声があがった。
「大根切りもいいけど、やっぱりガンちゃんは、これだよな」と、田中が言った。
「よし、ここからだ!」と、はるちゃんが言った。
1塁上のガンちゃんは、それでも気をゆるめていないようだ。真剣な眼差しで相手投手の挙動を見つめていた。
「よっしゃー」と大声をあげ、豪快なスイングをしながらまっちゃんが打席に入った。
これもまた久々の光景だ。
最近、僕らのスタイルが読まれていて、なかなか思うように事が運ばなかったけれど、金町小は初対戦だ。僕らの全てを知っているはずはない。僕ら本来のスタイルを取り戻せたようで、僕らのベンチ内は俄然盛り上がった。
初球。
相手投手は驚くほどクイックモーションで投げてきた。基本に忠実なヤツだ。
まっちゃんは豪快に空振りした。
2球目。
ガンちゃんが走った。
相手バッテリーはそれに気づいてウェストしてきた。
まっちゃんは、援護の空振りをした。
捕手からの送球が、わずかに左へそれたこともあり、ガンちゃんは盗塁に成功した。
3球目、動転したのか、セオリー通りなのかは知らないが、外角低めに外してきた。でも、相手投手は真っ赤な顔をしていたから、ちょっとは動揺しているのだろう。これまで全く表情を変えずに淡々と投げていたのに。
「チャンスだ」と、田中が言った。
田中も、僕と同じようなことを考えていたのだろう。やはり3年も一緒にやっているとそうなるのかも知れない。
このチームで、ずっと一緒に野球がしたいと思った。
さて、今は相手が動揺している。このスキをついて一気にたたみかけるべきだ。そんなこと、まっちゃんも百も承知だ。だから、慎重に送りバントを決めた。
ワンアウト3塁になった。
次はやまちゃんだ。
チャンスなのに珍しく黙って打席に入った。静かにホームランでも狙っているような雰囲気があった。
やまちゃんは、初球から大振りした。
ここで、そんなマネしたら、相手投手が息を吹き返す。
「コンパクトにいけー!」と、ベンチに戻ったばかりのまっちゃんが叫んだ。
その通りだ。コンパクトに軸回転打法を心がけるだけで十分外野に届く。やまちゃんは、バットの先を見つめ、何かぶつぶつ言いながら、何かを確認しているようだ。
2球目。
外角低めへボール。
3球目。
これも外角低めだが、ストライクになった。
東原の応援団からため息がもれた。
4球目。
ややボールくさいが、高めの球を強引に引っ張って打った。打球は高々と上がり、レフトの頭をこえるかと思われたが、急に失速。レフトが追いつきアウトになった。でも、犠牲フライには十分だった。ガンちゃんが生還し、待望の先制点をもぎとった。相手投手は、それでも顔色を変えず淡々としていたから、もう、動揺はおさまったと見ていい。簡単には打たせてくれないだろうと思いつつ打席に入った。
僕の苦手な内角高めを徹底的に攻められた。
僕もファールでカットして粘ったが、結局、空振り三振。ベンチに引き上げる、相手投手の淡々としたその背中が見えた。彼らとは初対戦なので名前も知らない男だが、その冷静な態度に僕は感心した。感情の起伏が激しいと言われる僕には手本となる投手だ。
さて、5回の表。
点をもらった直後の回は要注意だ。きっちり押さえないと、流れが相手に行ってしまう。僕はそう思いつつ、はるちゃんの要求どおり、外角低めへ、遅い球から入った。打ち気にはやった4番だ。悪くない選択だと思った。しかし、相手は必死だった。
点をとられたらただちに取り返さないといけない。
4番打者なのに、セーフティバントしてきた。
意表をつかれたが、はるちゃんが、落ち着いて処理し、アウトになるはずだった。
でも、その送球を橋本がエラーしてしまった。
ライトの白石がしっかりカバーしていたから、それ以上の進塁はなかったことがせめてもの救いだ。湧きあがる、金町小サイドの歓声でよく聞こえなかったが、
「送球が悪い!ランナーと重なったら見えんだろうが!」と、橋本は叫んでいるようだった。
「まったく、橋本ばかりは」と、僕は思った。そんなに悪い送球ではなかったのに。たぶん、正式な記録は1塁のエラーになるはずだ。それはそうと現に先頭バッターを出してしまった。その時、金町小はクリーンアップでも走ってくるという重要な情報を僕は忘れていた。
内角速球で簡単にストライクをとったあと、内角低めへの遅い球を、たいしてランナー警戒もせずに投げてしまった。狙っていたのか、すかさずランナーが走った。打者は援護の空振りをした。はるちゃんは2塁へ送球した。でも、ゆうゆうセーフだった。
速い。
4番打者なのに。
その時、初めて金町小チームの底知れない力を思い知った。こうなれば、豪速球で勝負だと思った。しかし、はるちゃんの選択は違った。内角高め速球ストライクだった。相手は5番打者なのにと、半信半疑のまま投げた。
打者は、3バントを失敗した。
必ずバントしてくると読んだはるちゃんの勝ちだった。
金町小サイドからため息がもれた。
僕は、少し落ち着いた。これでワンアウト2塁。とにかく、後続を断つ必要がある。
続く6番。
金町小ナインの場合、打順による力の差はあまりないという。どこからでも、打ってくるし、バントもすれば、走りもする。まったく気が抜けない相手だ。
初球。
バントしてきたが、ファールになった。
2球目もバントの構えだった。
しかし、また失敗した。さすがに、3バントはあきらめたようで、ふつうの構えに戻った。そこで、はるちゃんは内角低め速球を要求してきた。その通りに投げると、打者はまんまとひっかかってくれて、ピッチャーゴロになった。
「オーライオーライ」と声をあげ、僕が捕球した。
2塁ランナーを牽制しようとすると、彼はスタートをきっていた。はるちゃんは、1塁を指示したが、僕は動転して3塁に投げようとした。しかし、3塁やまちゃんは、バントもありえると判断していたのか僕のカバーに来ていたし、ショートの田中が懸命に3塁へ走っていた。ちょうどランナーと追っかけっこのようだった。
わずかに、僕らの守備が乱れた瞬間だった。
僕は3塁をあきらめ、振り返って1塁へ投げたが、もう間に合わなかった。
彼らは、やはり速い。
わずかなミスが致命傷になりかねない。
湧きあがる金町サイドの歓声の中、はるちゃんがタイムをとってマウンドに来た。内野手も集まってきた。
やまちゃんが、真っ先にあやまった。
次に田中があやまった。
僕もあやまった。
でも、「そうじゃない」と、はるちゃんが言った。
「彼らは、足が速すぎる」とも言った。
「足に自信がなきゃ、あんな場面でスタートしないぜ」と、まっちゃんが言った。
「その通りだ。だから、あの足を計算に入れないとだめだ」
「じゃあ、どうするんだ?」と、橋本が言った。珍しく文句を言わず、真剣に考えているようだ。それだけ、厳しい場面なのだと言えるかも知れない。
「ゲッツー狙いもいいけど、ヤツらの足を考えると、危険な賭けだな」と、まっちゃん。
はるちゃんが作戦の説明を始めた。
「とにかく、3塁はくぎづけにしよう。ヤツにはホームを踏ませない。でも1塁ランナーは無視だ。勝手に2塁に行けばいい。そして、豪速球中心に切り替える。いけるか?谷山?」
「もちろんだ」
「よし、決まりだ。この後、中島との試合もあるけど、ここで、踏ん張らなきゃあ、次はない。谷山、頼んだぞ」
「まかせろ」
まっちゃんが口をはさんだ。
「俺たちも、しっかり守ろうぜ。わずかなミスが命取りにならないよう、確実な動作と、連携だ」
田中も言った。
「先ずは前進守備だ。とにかく1点もやらない」
はるちゃんが言った。
「よし、じゃあ、気合いを入れよう。声出しだ」
その場にいたみんなが、中腰になり、はるちゃんがかけ声をかけた。
「ひがしー!」
「ファイ!よおし!」
守備に散る時、「ワインドアップでいいからな」と、はるちゃんが耳打ちした。僕はうなずいた。その方が、よりキレが出る。
初球、僕は大きく振りかぶって投げた。
豪速球が、うなりをあげてど真ん中に決まった。
6番打者は、顔色ひとつかえず、ベンチを見、次の指示を受けていた。ひょっとすると、豪速球中心になるだろうことを予測していたのかも知れない。
2球目。
僕が大きく振りかぶると、各ランナーが一斉にスタートした。
「走った!」と、橋本が叫んだが、「確実な動作だ」と僕は思い、おかまいなしに豪速球を投げ込んだ。1塁ランナーはそのまま2塁に進んだが、3塁ランナーは途中で止まった。打者は空振り。
3球目も、豪速球を投げ、三振にとった。
東原サイドから歓声があがった。
金町サイドはため息だ。
続く7番打者にも、豪速球を投げた。
かすることもできずに、空振りした。ここまでは、はるちゃんの作戦通りだった。ただ違ったのは、2球目だった。
金町小はセーフティスクイズを仕掛けてきた。
しかし、手元での目測を誤った打者は、かすることもできずに、豪速球がはるちゃんのミットに収まった。3塁ランナーは、三本間に挟まれた。僕らの内野陣に追い込まれ、タッチアウトになった。
僕らの勝ちだ。
みんな思わずガッツポーズした。そして笑顔でベンチに帰った。「策士、策におぼれる」と、橋本が言った。どこでそんな言葉を覚えたのだろう。でも確かに、足に自信がありすぎた結果なのかも知れない。それは、豪速球に頼りすぎる僕らにも言えることだが、その時の僕は、そんなこと考えもしなかった。
試合は結局、1ー0で僕らが勝った。
4回5回の攻防がポイントだった。踏ん張れたものと、踏ん張れなかったもの。その明暗が勝敗となって現れる。金町ナインには、泣いているものもいた。小学校最後の試合だ。無理もない。
でも、僕はもう迷わない。
あとから思うと、僕は、自分の不安を敵の涙のせいにしていたのかも知れない。
整列し、あいさつを終えた僕らは、東原の応援団から拍手で迎えられた。
父母会の人たちが口々にほめてくれる。
そんな見慣れた光景の中に、二人だけ、
「ふん、俺たちなら10点は取れたぞ」
と、いきがる兄弟がいた。
もちろん岩松兄弟だ。
今までは嫌な奴らだと思っていたが、この時は勝利の余韻も手伝って、別に腹が立たなかった。むしろ、憎めないキャラクターだなと思った。考えてみると第1試合は朝早いので、彼らはかなり無理をして来てくれているのだ。学校の友達すら、まだ集まりが悪いというのに。でも、僕はちょっとからかってやった。
「だまって俺たちが優勝するところを見てろよ」
兄弟も負けてない。言い返してきた。
「ばかやろう、ガールフレンドがいるような不良が優勝なんて、できるもんか!」
不良?僕が?
やっぱり、こいつらの相手をするのはやめにした。
2
準決勝の第2試合が行われている間、僕らは休憩の時間だった。もちろん、あの中島小が決勝進出をかけて西部リーグの染屋町小学校と戦っている。まだお昼には早いので、僕らはその様子を見学していた。中島小は、相変わらず強かった。
慌てず騒がず、着実につなぐ打線。そして、相手にスキを見せない計算された投球。どうして小学校レベルでこんな精密な野球ができるのだろう。準決勝まであがってきたチームを相手に、まるで横綱相撲をとっている。彼らに2回も勝ったなんて、まるで奇跡だとしか思えない。
「でも、あまり進歩はないようだね」と、はるちゃんが言った。
「そうだな。どちらかというと、染小が名前負けしているようだ」と、ガンちゃん。
「ああ、いつもの中島だ。驚くことはねえ」と、やまちゃん。
「おまえら、こんなチームに勝ったのか?」と、岩松兄が言った。
唐突な登場だったので、みんな驚いた。
「まるで隙がない」と、岩松弟も言った。
岩松兄弟は、さすがに野球のセンスはあるのだと僕は思った。素人だったら見抜けない。
「おい、サル兄弟、どうしてここにいるんだ?」と、やまちゃんが言った。
「なんだと?あ?」
岩松兄が凄んで見せた。
「やまちゃん、サル兄弟はひどいよ」と、はるちゃんがたしなめた。
「ひどかねえよ。こいつらの名前がそうなんだ」
「誰に聞いたんだ?」
「遠征の時、おまえらのチームメイトが言っていたぜ。兄がふみよし。漢字は、文に喜ぶ。つまりモンキーで、弟がふみとも、文に知るの字で、モンチー。だってな」
岩松兄弟は、みるみる顔が真っ赤になった。
僕はちょっとかわいそうになった。
「ごめん、でも僕らはサルだなんて思ってないから。やまちゃん、ひどいよ。せっかく応援にきてくれたのに」
「俺らがサルなら、おまえはゴリラだ!」
そう言い残して、兄弟はまたどこかに走り去ってしまった。
僕らは一斉にやまちゃんの顔を覗き込んだ。
「な、なんだおまえら」
やまちゃんはそう言った。
みんなまじまじとやまちゃんの顔を覗き込んで、
「ゴリラだ」と口々に言った。
野球部きっての2枚目だと思っていたが、そのほりの深い風貌は、確かにゴリラなのかも知れない。
「うるせー、おまえら、今度言ったらぶっとばすぞ!」と、やまちゃんはマジで怒った。
みんな笑いをかみ殺した。
さて、試合はあっけなく中島小が勝った。
やはり、中島小だ。
試合が早く終わったこともあり、ちょっと早めの昼食になった。今日は最後の試合だから、それぞれが家族とともに昼食をとることが許されていた。球場の隣が公園になっていて、それぞれ思い思いの場所に陣取り昼食をとった。
僕は恵ちゃんも誘っていて一緒に食べていた。すると、どこからともなく、岩松弟が現れた。
「どうしたの?昼食には行かないの?」
僕が聞くと、弟はもじもじしていた。
「親と一緒じゃないの?」と僕は重ねて聞いた。
「ちがう」と、弟はぶっきらぼうに答えた。
「え、じゃあ、どうやってきたの?」
「親の財布から電車賃分くすねて、それで始発に飛び乗って、それで、」
「あら、ご両親は心配なさっているわよ」と、お母さんが言った。
「それは、いいんだ。ライバルの決勝戦を見に行くって、ちゃんと書き置きしてきたから。でも・・・」
「おなかすいているの?」と、恵ちゃんが聞いた。
弟は、もじもじして黙った。
「じゃあ、一緒に食べなさい。たくさんあるから」と、お母さんが言った。
弟は急に明るく笑ってうなずいた。そして、「にいちゃん、おいでよ」と、向こうの木の陰にいた兄を誘った。兄は照れくさそうにやってきた。
「食べ終わったら、お家に電話しようね。きっと心配なさっているから。おばさんからも一言、言ってあげるからね」
兄弟は憎めない笑顔をみせて「はーい」と言った。
それから、一緒に昼食を食べながら、「こいつらと甲子園の約束をしたんだよ」ということを恵ちゃんに教えた。そして、夏の対戦の話で盛り上がった。
最後に、兄が言った。
「気をつけろよ。中島小のヤツらは、きっと何かを隠しているぞ」
3
試合は、午後1時半からだ。
先に僕らが練習を始めた。
これといって緊張しなかった。いつものように、声を出し、走り、投げて、打った。疲れも夏ほどではない。グランドも、あんなに憧れていた県営球場が、まるで僕のホームグランドのように感じる。不思議なものだ。小学校最後の試合なのに、三連覇のかかった大事な試合なのに、そして、あれほど恐れていたのに、どうしても「はやく試合がしたい」という気持ちが湧きあがってくる。前にも一度感じた事のある、「武者ぶるい」というやつなのだろう。
負ける気がしなかった。
僕らの練習も、中島小の練習も終わり、ダッグアウトの中で試合開始を待っていた。応援席から、盛んに応援やひやかしの声が聞こえる。仲のいいクラスメイトである、鈴木や山田の声も聞こえる。もちろん、恵ちゃんの声も聞こえる。でも、岩松兄弟の声はあまり聞きたくなかった。
「負けたら許してやるぞー」
「ちがうよ、にいちゃん、負けても許してやるからがんばれ!だろ?」
好きにしてくれと、僕は思った。
白石が、声をかけてきた。
「いけるところまで、いこうぜ」
その時、主審が「両校整列!」と号令をかけた。僕らは円陣を組み、いつものかけ声をかけた。
「ひがしー!」
「ファイ!よおし!」
そして、ダッシュした。
中島小と対面した時、そのキャプテンが「ケリをつけましょう」と、不敵に笑った。僕は思わず、「おもしれぇ」と言った。
「もう、ケリはついてんだよ」と、やまちゃん。
「また負けるとも知らないで」と、橋本。
「なんだと?」と、例のごつい4番打者。
主審がわって入った。
「両校、静かに!それでは、これより、秋期選抜大会決勝戦、中島小学校対東原小学校の試合を始めます!一同、礼!」
「お願いしまーす!」
いつになく、あいさつからみんな気合いが入っていた。
先攻は、僕らだ。
相手投手は、いつもの一番手投手だった。さっきの試合を見るかぎり、夏の時ほどの成長はないようだ。緩急と、落差のあるカーブ。これが彼の持ち味だ。でも、その対策は、十分練習してきた。落ちるカーブは先ず決まらない。だから、絶対手を出さない。カウント球のストレートか、勝負にきた速いカーブを狙う。どちらにしても、速い球にタイミングをあわせようと、打ち合わせていた。
ガンちゃんは、大きく大根切りのスイングをして、打席に入った。それを見て、相手内野陣は、中間守備の態勢をとった。
しかし、その初球。
大きく縦に割れるような遅いカーブが外角低めに決まった。
中島サイドから歓声があがった。
僕らには意表をつかれたような感じだった。さっきの試合でも、あんなカーブはなかった。左打者のガンちゃんから見ると、外角のとんでもないボール球がするすると切れ込んできて一杯に決まるのだ。これでは、手が出ない。
今度はガンちゃんがバントの構えをとった。すると、内角高めへ、速球を投げ込んできた。わずかに外れてボールになった。
ガンちゃんは、一度打席を外し、素振りをした。何かを考えているようだった。打席に入り直したガンちゃんは、ヒッティングの構えに戻した。すると、またあの遅いカーブを投げてきて、外角低めへ決まった。
カウント2ー1。
早々と追い込まれた。
ダッグアウトの中はどよめいた。右打者なら、当たると思ってよけそうな球が入るのだ。僕らの目論見は、まったく外れてしまった。彼らもやはり成長している。
監督が、タイムをとった。ガンちゃんとまっちゃんを呼び、何か指示を与えた。それは、初めて見る光景だった。「試合になって対策しても、もう遅い」とし、「ふだんの練習で、私の意思は伝えている」らしく、試合の時はなにも言わない監督が初めて動いた。ガンちゃんが大きくうなずいた。まっちゃんは、やや緊張したようだ。何を言ったのだろう。
試合が再開した。
真ん中高め速球ボールのつり球だったが、ガンちゃんは、カットして逃れた。
次の内角低め速球も、カットした。
次の外角低めへ外す球は、見送り、これでカウント2ー2。たちあがりから、息もつかせぬ展開だ。相手投手がマウンド上で深呼吸した。まっちゃんは、ネクストバッターズサークルで、盛んに、内角低めを振り上げるように、大きな素振りをしている。
7球目。
わずかにスライドするような速いカーブが、ガンちゃんの胸元を襲った。手が出ず見送ったが、判定ボールになり、東原ベンチから歓声があがった。投手は、露骨に嫌な顔をした。
カウント2ー3。
8球目。
あの、大きな遅いカーブだ。しかし、ガンちゃんは落ち着いてカットした。
9球目。
内角高めへ、あの速いカーブがきた。目のいいガンちゃんは、今度は懸命にバットにあて、ファールチップとなって、足元に弾んだ。相手投手は、帽子をとって汗をぬぐった。ガンちゃんも、一度打席を外して素振りをした。
10球目。
あの遅いカーブが初めて外れて、ファーボールとなった。
僕らは歓声をあげた。
監督が言った。「いいかみんな、とにかく粘れ!」
まっちゃんが打席に入った。
はるちゃんが、ネクストサークルに向かうやまちゃんに言った。
「投手の手の握力がなくなるから、とにかく粘って、あの制球力を奪うんだ」
打席の準備をしていた僕は「なるほど」と思った。疲れてくれば、手首のスナップが効かなくなる。まして、あの大きなカーブはよほど神経を使うはずだ。
まっちゃんは、バントの構えをした。
1球、牽制球がいった。
もちろん、セーフ。
また、牽制球がいった。
また、セーフだ。
そして、まっちゃんへの1球目。
よほどガンちゃんの足を警戒しているのだろう。ウェストしてきた。
判定はもちろんボール。
2球目。速球が胸元をついたが、ボールになった。
それにしても、のっけから勝負所のような厳しい攻めにあっている。彼らは投手が3人もいるからできるのだ。
まっちゃんは、バントの構えを続けている。その度にダッシュしてくる相手投手の息が弾んできた。
3人もいるからこそ、一人一人つぶしていかなければならない。
3球目。
今度は内角高めを速球でついてきて、ストライクになった。
カウント1ー2。平行カウント。仕掛けるには絶好のカウントだから、ここでまた1球、牽制球が入った。
監督から「盗塁まて」のサインがいった。
何故だろう?
はるちゃんが小声で解説してくれた。
「1塁にいた方が揺さぶれるし、相手はあの遅いカーブを投げられない」
既に、ぎりぎりの勝負が始まっていることは確かだ。
まっちゃんは、バントの構えだ。
相手内野陣は前進守備。
内角高めを速球でついてきて、ボールになった。
まっちゃんは、一度打席を外した。そして、大きく素振りをした。打席に入り直した時、バントの構えをやめた。
1ー3なのに?
僕は不思議に思った。
しかし、相手バッテリーはその様子を見て盗塁を予想したようだ。続けざまに2球、けん制を入れた。投手は、もう完全に目一杯だった。真っ赤な顔をして、肩で息をしている。そんな時、はるちゃんなら、必ずタイムをとるか、リラックスしろのジェスチャーをするのだが、中島小の捕手は何もしなかった。
5球目、ガンちゃんはスタートの構えをみせた。
高めの速球を、まっちゃんはファールにした。
6球目。
外角低め速球。
くさい球だったので、まっちゃんは、カットした。
7球目。
同じく、カットした。
相手投手は、ぎりぎりのところながら気持ちを切らずにがんばっている。でも、まっちゃんも、それ以上にタフだ。監督の指示通り、なんとか粘っている。目には見えない、力と力のぶつかり合いだ。すごい戦いの中にいられることが、なんだかうれしくなってきた。
バッテリーのサイン交換が長かった。なにか仕掛けてくるかもしれない。
そして8球目。
あの遅いカーブをついに投げてきた。
すかさず、ガンちゃんが走った。
ボールは、まっちゃんにぶつかるかのような軌道を描いて内角低めに入ってきた。しかしまっちゃんは、落ち着いてバントした。しかも、ランナーがいるためダッシュが遅れる1塁側に。
1塁手は慌ててダッシュした。
投手も慌ててボールを追った。
そして、投手が捕球し、1塁に投げようとしたが、ガンちゃんのスタートにつられた2塁手は、1塁に間に合わなかった。まっちゃんも、足はあるほうだ。
オールセーフになった。
僕らの応援団が、大歓声をあげた。
中島小はタイムをとった。内野陣がマウンドに集まった。ベンチからは、伝令が走った。いいぞ。完全に僕らのペースだ。意外だったのは、ここであっさりと投手交代したことだ。
ベンチから、見慣れない投手が出てきた。
5年生エースの吉田が、「あ!」と叫んだ。
「先輩、川上ですよ。5年生ですよ」
「そうなのか?」と、田中が聞いた。
「はい。あのノッポは多分そうです。白峰台と練習試合した時に話を聞きました。中島には俺たちの代に、ノッポの豪速球投手がいるって」
「たしかに、夏まではいなかったね」と、はるちゃんが言った。
「こんな場面で出てくるなんて、よほど自信があるのだろう」と、白石。
「谷山くんと、どっちがすごいのかな?」と、新田。
「谷山レベルだったら、もう打てないな」と、橋本。
確かに、とてもスムーズな投球動作で、キレのある球を投げ込んでいる。僕は、ネクストバッターズサークルで素振りをしながら、タイミングを見極めようと思った。それにしても、まったく中島は、あの大きなカーブといい、5年生エースといい、いったいどれだけ隠し球があるのだろう。岩松兄のいう「何か隠している」というようなレベルを超えている。
投球練習が終わり、打席にやまちゃんが入った。
監督からは、「粘れ」のサインだ。
1球目。
ど真ん中に速い球が決まった。
僕らのベンチがどよめいた。
でも、僕はそんなに驚かなかった。速さは、あのニヤついた男が本気で投げる時と同じくらいだ。軽そうなところも似ているし、ニヤついた男ほど荒れ球ではなさそうだ。どんなに速くても、軽くて、しかもまとまっていれば、打ちやすい。
「あとは、やはりタイミングだ」と僕は思った。
やまちゃんも、そこは心得ているようで、後続に球を見させるため、懸命に粘った。何度もファールがあり、「球は重くない」というサインを送ってきた。
7球粘ったが、ついに打ち損ないのゴロが、2塁手の正面にいってしまい、ゲッツーになった。
僕らの応援団から、ため息がもれた。
さて、僕の番だ。
僕には、「打て」のサインがきた。僕はうなずいた。確かに速いが、決して打てない球じゃない。
4球目。
僕は、わずかに打ち損なった。
それで、レフトフェンスいっぱいのところでキャッチされ、レフトフライに倒れた。
僕らの応援団から、悲鳴があがった。
打ち損なった嫌な気分をさっさと切り替えて、僕はマウンドにあがらなければならない。なのに橋本は「いつもいつもおまえにばかりいいかっこされちゃたまらんからな」と憎まれ口をきいて守備に向かった。僕はムカついたまま、投球練習を始めた。でも、キレは悪くないし、いけると思った。今日は小学校最後の試合だ。明日倒れても大丈夫。だから、白石の言う通り「行けるところまで行ってやる!」
「プレイボール!」
主審が号令した。
僕は、空を見上げた。
今日は、あいにく曇り空だ。天気予報では夕方から雨らしい。その雲の向こうに、あの暑かった夏の青空が見えたような気がした。みんなと懸命にやってきた。
「ふうちゃん、僕らはこんなところまで来てしまったよ」
イメージの中のふうちゃんは、僕に笑顔を見せながら「谷山。頼むぞ」と言っていた。
「まかせろ!俺に!」
この時も僕はそう思って、全力で第1球を投げた。
今まで以上の豪速球が、はるちゃんのミットに収まった。
中島小のベンチからどよめきが起った。
はるちゃんが、立ち上がってタイムをとり、グラブを外して久々の「イテテ」をやった。そのままベンチへ行って、軍手をグラブの下につけた。
はるちゃんには悪いけど、僕は悪い気がしなかった。
2球目も豪速球。
3球目もだ。
中島の1番打者は手も足も出ず、見送り三振した。
2番と3番の打者には、緩急でおいこんで、豪速球を決め球に使った。
3分とかからずに、1回裏を終わらせた。
ダッグアウトに戻ると、ガンちゃんが声をかけてきた。
「まるで別人だな」
僕は、何のことだろうと思った。
「ここ最近、あんなに決まっていなかったじゃないか」
豪速球のことだ。
「うん。でも、もう大丈夫だ」
ガンちゃんは、にこっと笑った。
「こんな大事な試合に間に合わせてくるなんて、先輩はすごいや」
5年生エースの吉田が口をはさんできた。
なんのことはない。奇跡の硬球のおかげなんだ。でも、そのことは誰にも話していない。僕と恵ちゃんだけの秘密だ。
「吉田、俺のことはともかく、おまえ、しっかりしろよ。来年はあいつと投げ合うんだぞ」
そう言って、僕はマウンドで投球練習している川上を指差した。
「無理です。もうわかりました。あいつに投げ合いでは勝てません。だから、打ち崩す方法を教えてください」
吉田は、投手をやるだけあってセンスがある。たった1回で見抜いている。確かに投げ合いになったら吉田では勝てないだろう。しかし吉田は頭がいいから、さっそく作戦を切替え、打撃戦に持ち込む青写真を描いているようだ。
「先輩、頼みます。さっきあんなにいい当たりしたじゃないですか」
「そうだな。あいつは、制球もいいしスピードもある」
「わかってますよ、そんなこと」
「だから、そこが狙い目なんだ。スピードに自信があるから、来年もあまり変化球は練習しないだろう。カーブをわずかに使うくらいだと思う。しかも、自慢のスピードも、普通より半テンポ早く始動するくらいだ。それか、スィングのスピードを速くすることだ。どちらかと言えば、スィング速度をあげた方が、球をよく見られるからいいと思う。手元でも伸びるし」
「わぁ、じゃあ、走り込みと素振りを増やさないと」
「球質は軽いぞ。パワーをつければ勝ちだな。なにしろ制球がいいから狙いやすいし」
そんな話をしているうちに、田中、白石、新田が簡単に打ち取られてしまった。
僕は、急ぎマウンドに向かった。
2回裏は、あの番長のようなごつい4番からだ。中島打線では、こいつだけが要注意だ。初球から豪速球を投げた。ど真ん中に決まった球を4番は見送った。
手が出ないのか?
いや、違う。球筋を見極めているようだ。ならば、と、外角低めの遅い球でカウントをかせぎ、2ー0とした。
3球目は、内角高め速球のボール球。
カウント2ー1。
そして、4球目のサインは、内角低め豪速球だった。
今まで、豪速球でコースをついたことはなかった。でも、対中島用に、ひそかに豪速球が低めにいくように練習してきた。一時、スナップが効かず悩んだのも、せっかく練習してきた低めに行かなくなったことが大きい。まだ実戦では投げたことがない。初舞台だ。中島サイドの反応が楽しみだ。
「よし!」
僕はそうつぶやいて大きく振りかぶった。
全身のバネを効かせて、全力で投げた。
パーン!
快音とともに、はるちゃんが構えたところに決まった。
ストライクだ。
4番のバットは大きく空をきった。空回りしてそのまま倒れた。
4番打者が三振。
東原サイドからは歓声があがり、中島サイドからはため息がもれた。でも、中島ベンチは静まり返っていた。僕はてっきり悲鳴があがると思っていたのに、意外なリアクションだった。
まあ、いい。
僕だって、成長してるんだ!
5番6番は、はるちゃんの要求どおり左右高低緩急で揺さぶったあげく豪速球でうちとった。また、3分とかからずに終わった。どうやらこの試合も投手戦になるようだ。
3回の表。
橋本が打席に入った。
もともと橋本は7番だったが、新田の方が足があるため打順が変わっている。3人ずつで攻撃終了の時、先頭打者が7番になるためだが、今回は先頭だ。あまり期待していなかったが、とにかく当てにいったボールが、ライト前のポテンヒットになった。
「ラッキー!」と、補欠の田村が叫んだ。
確かにラッキーだ。今日は僕らにツキがあるかも知れない。
ベンチは俄然盛り上がった。
次は、チャンスに強いはるちゃんだ。
「いけいけー」と、やまちゃんも叫んでいた。
しかし、はるちゃんは監督のサインどおり、冷静に送りバントを決めた。
「よし!」と、めずらしく吼えながらガンちゃんが打席に入った。
粘りに粘った8球目。
鋭いライナーがセカンドの頭を越え、ライト前に弾んだ。中島のライトは猛然とダッシュしてきてボールを押さえ、そのままの勢いでバックホームした。
その時。
三塁ランナーコーチに出ていた補欠の井出は、橋本を必死で止めようとしていた。しかし橋本は止まらなかった。
「暴走だ!」
誰かが叫んだ。
送球は、見事に一直線に帰ってきた。
橋本はタッチアウト。
捕手はすかさず2塁へ送球。
なんとガンちゃんまでタッチアウトになった。
チャンスが、一瞬にして潰えた。
「あ〜」というため息が誰からともなくあがった。
橋本の暴走はともかく、ガンちゃんまでがアウトになるなんて。おそらく、間違いなくバックホームされたかを確かめるために一瞬足をとめたのだろう。その一瞬のスキを中島が見逃すはずはない。2塁上で、頭をかかえてうずくまるガンちゃんの姿が印象的だった。対照的に中島小ナインは、歓声とハイタッチでベンチに引き上げていった。
ベンチに帰ってきた橋本が、珍しく神妙な顔つきで「すまん」と力なく言った。誰も橋本を責めなかった。誰だって、先制点がほしいところだ。そのための足が、橋本にはわずかに足りなかっただけだ。
「よし、ドンマイだ。しまっていこう!」
はるちゃんが、かけ声をかけた。
3回裏は、あの川上からの打順だった。
ふつう小学校ではエースで4番が多いのだが、中島小の場合、複数投手のリレーになるため、投手が7番に入っている。
さて、川上はどんな打者なのだろう。
吉田のために探りを入れてみたいと思った。だから、豪速球ではなく、左右高低緩急を試してみたが、かなりいい打者だという印象だった。くさい球はカットして、ボールには手を出さない。何かを狙っているようだが、僕らは、まさかそれが豪速球だとは思わなかった。決めにいった豪速球が、その時は多少狙いを外れ、高めの甘いところに入ったが、簡単にセンター前へはじき返された。
「うそ」と、僕は思った。
中島小サイドから大歓声がわき起こった。
「みたか!特訓の成果だ!」と、あの番長がわめいていた。
僕の心にさざ波がたった。
まさか、豪速球が5年生に打たれるなんて。しかも、特訓したのか?頭をハンマーで叩かれた気分だ。またひとつ隠し球を見せつけられた。はるちゃんを見ると、同じくやや呆然としていたが、僕の視線に気づくと、急にニカッと笑い、気にするなのジェスチャーをした。
「気にするなと、言ってもなあ」
僕は、動揺した。
続く8番。
こいつは問題にならない。
しかし、未知数の川上がもし走ったり、非力な打者に送りバントされるとやっかいだ。ここは、何としてもゲッツーが欲しいところだ。そのように、はるちゃんはリードした。幸い、川上のリードはさして大きくない。「走るぞ」という気迫も感じない。そのあたりの甘さが、まだ5年生だ。僕らなら、もっとプレッシャーをかける。
僕は豪速球で2ー0と追い込んで、お約束のような牽制球を1球はさんだ。そして、これもお約束のように、外角低め遅いボール球を投げた。しかし、その配球は読まれていた。待ってましたとばかりにどんぴしゃのタイミングで当ててきた。ボール球だったのでバットの先っぽだったが、痛烈なゴロが1・2塁間をやぶった。と僕は思った。
その時、
橋本が打球に飛びついた。
見事にキャッチ。すぐに起き上がって2塁へ送球。職人田中がフォースアウトをとった後、走者をかわして1塁へ投げた。当然僕は1塁カバーにダッシュしていて、田中の先を読んだ見事な送球をランニングキャッチ。打者とかけっこになったが、わずかに僕が速い。先に1塁を踏んだ。
審判は、その腕を天高く突き上げた。
アウトだ。
ゲッツーだ。
大きな歓声とため息の中、橋本が、静かにガッツポーズした。
「やればできる!」と、まっちゃんが橋本をひやかしていた。
9番を豪速球中心で簡単に始末し、僕らはベンチに戻った。橋本はみんなから手荒い祝福を受けていた。
4回。
中島小のポジションが変わった。川上がレフトに入り、ピッチャーが、いつもの2番手投手になった。左の技巧派だ。僕らはあまり得意ではない。しかし、勝負の天秤は、まだ、あっちにいったりこっちにきたりしているので、ここらでなんとかしなければならない。打順もふた回り目だ。
大きな素振りをしながら、まっちゃんが打席に入った。中島小の内野が、やや前進守備を敷いた。やはり、僕らは研究されている。奇襲は通じない。正攻法でいくしかないのか。
1球目。
投球と同時に3塁と1塁がダッシュしてきた。
ややウェストしたような球だったので、まっちゃんは、冷静に見極めてボールになった。
2球目。
例の、右打者からはシュートになるカーブが決まった。
3球目。
いきなり、まっちゃんがセカンドオーバーのヒットを打った。
うそのような本当の話だ。
僕は、こんなにあっけなく出塁できるなんて、思っていなかった。ダッグアウトから身を乗り出して歓声をあげた。
意外性もまた、野球だ。
1塁上で、まっちゃんが「リーリー」とさかんに叫んでいる。打席のやまちゃんは、コンパクトな軸回転打法の構えをしている。僕はネクストサークルの中にかがんで、相手投手のタイミングをつかむもうと集中していた。
「1球でも多く投げさせてくれ」
そう、思っていた。
しかし、願いはむなしかった。
初球から、やまちゃんが右中間にヒットを打ってしまった。
まっちゃんは、2塁をまわるまわる!3塁まで達した。
やまちゃんは、ハーフウェイから1塁に戻った。
ノーアウト1・3塁だ。
みんな何か変だ。いつもの冷静さがない。あとさきかまわずがむしゃらだ。こうなったら、もうかまわない。「やっちまえ」そう思って僕は打席に入った。
2球カーブのあと、外角にきた遅い球を思わずひっかけてしまい、ぼてぼてのセカンドゴロになった。
「しまった」と思うより先にダッシュした。
全速で走った。やたら、1塁が遠かった。2塁手が打球をおさえようとダッシュしてきたのが見えた。やまちゃんが、あわてて2塁に向かっているのが見えた。まっちゃんは、どうだろう。でも、あと4メーター、3メーター、2メーター。僕は頭から飛び込んだ。
もう、ベースしか見えなかった。
「痛っ」
鈍い痛みが右手の親指を襲った。
いや、それより判定は?
土埃の向こうに見える審判は、大きく腕を左右に開いた。
「セーフだ」
そう思って安心した。
すると右手を、にぶくて大きな痛みが襲った。そこで、はじめて周りの歓声が聞こえた。まっちゃんが生還したのだ。ゲッツーくずれのあいだに。僕はベースにしがみついたまま、親指の痛みでしばらく立ち上がれなかった。
審判が「大丈夫か?」と聞いた。
僕は「大丈夫です」と答えたが、親指のつめがわずかにめくれ、爪の下が内出血していた。そして、付け根にもわずかに痛みを感じた。
監督がタイムをとって駆け寄ってきた。
「谷山、大丈夫か?」
「大丈夫です」
「どこだ?」
「指です」
「見せて見ろ」
僕は、右手を見せた。
はるちゃんも駆け寄ってきていた。
「あ、内出血してる」
爪の下が紫色になっていた。
「谷山、ベースでついたのか?」
「はあ。そうだと思います」
「だれか、湿布の用意だ!」
監督はそう言うと、僕の親指を調べ始めた。
東原サイドがざわめき始めた。
「よし、骨は折れてない。大丈夫だ。ただの突き指だろう」
僕は、ホッとした。それなら、まだがんばれる。部長としてベンチ入りしていた吉井先生が湿布を巻いてくれた。そして言った。
「監督・・・」
「そうですな」
何だろうと思った時、監督が言った。
「谷山。交代だ」
僕は目の前が急に真っ黒になった。
いや、それより、
「交代って何?なぜ僕が?」
真っ黒なものが僕の頭の中をぐるぐるまわった。
「けがをしたものを試合には出せん」
「監督、何言ってるんですか?けがなんてしてませんよ」
「つきゆびしているだろう」
「こんなのけがじゃありませんよ」
僕は、はじめて監督に口答えした。
「交代したくない」
ただそれだけで無我夢中だった。
吉井先生が口をはさんだ。
「谷山、気持ちはわかるが・・・」
「わかってないですよ、こんなのけがじゃないですよ」
「谷山・・・」
「湿布なんてとってくださいよ。おおげさじゃないですか」
「谷山。ききわけのないことを言うな」
「つきゆびじゃないですか。もう痛くないですよ」
「谷山」
「けがじゃないですって。監督まで何言ってんですか」
「谷山!」
「僕は交代しません!」
僕の勢いに押された監督と先生は何か話し合った。
その間に僕は湿布をむしりとった。
「だめだよ。谷山」
そう言って、はるちゃんが湿布をしなおそうとした。
「こんなに腫れてきているじゃないか」
「腫れてないって、痛くないって」
「でもね、監督も先生も・・・」
「痛くないって言っているだろう!」
僕は頭にきて、また湿布をむしりとろうとした。
見かねて監督が言った。
「わかった。交代しないから、湿布はとるな」
先生も言った。
「とにかく走者としては残っていろ。でも、危ないと判断したら替えるからな」
「だから、危なくないですって!」
「わかった。わかった」
本当につきゆびくらいでおおげさな。
現にもう痛くない。
そう思った時、にぶい痛みが走った。
でもそんなこと、今はかまっていられない。
ゲームが再開し、僕は走者として集中しようとした。しかし、視界の片隅でベンチを出てブルペンに向かう吉田の姿が見えた。大丈夫だって言っているのに、みんなわかってくれず、腹立たしかった。監督も先生もはるちゃんも、吉田も。不思議なもので腹が立つと、闘争心がわいてくる。
田中への1球目。
僕は夢中で走った。
盗塁だ。
中島小バッテリーは、左投手相手にまさか僕が走ってくるとは思ってなかったようで、ゆうゆうセーフになった。
2塁上で、僕はガッツポーズした。
大丈夫だとアピールしたかった。
3盗も決めてやろうと思った。
2球目。
僕は、様子を見た。
やはり、3盗も警戒していないようだ。
カウント1ー1。
行くなら、次だ。
「よし!」
そう思った時、1球牽制球がきた。
危なかったが、なんとか戻れた。中島小は、さすがに2度も間違いはしないらしい。
でも、そんなこと知ったことか。
3球目。
僕は慎重にダッシュしたため、ややタイミングが遅れた。
「やられてたまるか」と思いつつひたすら足を動かした。
「はやく走るコツは、足の踏ん張る力の方向と、いかにはやく動かすかだ」
僕らはコーチからそう聞いていた。
夢中で駆けた。
職人田中は、やはり頼りになる職人だった。僕が気づいた時には、大きく空いた1・2塁間を痛烈に破るヒットを打っていた。3塁コーチの井出の腕がぐるぐる回っていた。
「よし!」
そう思ってホームを狙った。
ライト線へ転がったボールは、僕をゆうゆうセーフにしてくれた。
ツーベースヒット、1点追加。
続く6番白石。
例によってがむしゃらに粘った。
そして、7球目。
その粘りに根負けした投手の失投を、白石は見逃がさなかった。こんな大舞台で、ホームランが飛び出した。ダイヤモンドを一周してきた白石は、飛び出したナインからもみくちゃにされた。
白石のぼろぼろの笑顔が、僕もうれしかった。
新田と橋本は、冷静さを取り戻した相手投手にうちとられたが、それでも4ー0だ。こんな点差は中島小相手なら、奇跡に近い。ふだんのようにクールな得点ではなく、無理やり力でもぎ取ったような泥臭い得点だったが、どんな形でもかまわない。とにかく押して押して、そして勝つ!
気を引き締めなおしてマウンドに行こうとした僕は、監督の意外なコールを聞かされた。
「ピッチャー交代。ピッチャー吉田。ライトへ谷山。ライトの白石がレフトへ」
その時の僕の気分を形容する言葉は、まさに『憤慨』なのだが、当時の僕はそんな言葉は知らない、やるせない不満が脳天を突き抜けた。あれほど交代しないと言ったのに。僕は硬直したままベンチ前に立ちすくんだ。
「谷山、早くライトへ行け。とにかくしばらく指の様子を見るためだ!」
コーチにそう促された。
振り返ってコーチを見ようとしたら、そこに吉田が真っ青な顔で立っていた。泣きそうな目で僕を見ていた。とっさに僕はこう言った。
「大丈夫だ。おまえはもう十分通用するピッチャーだ。俺より経験長いし」
「せんぱい・・・」
「気楽にいけ、自信を持って。どうしてもの時は俺がいつでも代わるから。びしっと豪速球でやっつけるから」
吉田はちょっと安心したようで、にこっと笑った。
「点差もあるし、バックも信じろ。俺たちにまかせておけ」
まっちゃんが、そう声をかけて守備に向かった。
後輩の前では、そう言ったものの、やはり交代は悔しかった。ライトに向かう時、それまで忘れていた親指の痛みがわずかによみがえったが、投げられないつらさで胸が張り裂けそうだった。
マウンドでの吉田は、緊張のあまり固くなっている。
肩で息をして懸命に投げていた。
打順は1番からだから無理もない。でも、先頭打者で1番バッターを塁に出すわけにはいかない。そこは、吉田も分かっている。はるちゃんの左右高低の要求通りとまではいかないが、8球目でなんとかショートフライにうちとった。
「それでいいんだ。吉田!」
僕は大声をあげていた。
2番打者も最後は持ち味のするどいカーブでセカンドゴロにうちとった。中島小の打者は吉田にタイミングが合わないようだ。おそらく、僕の豪速球を想定した特訓をやったのだろう。そんなことならはじめから吉田の登板も予定していれば良かったかも知れないなどと思っていると、やはり、3番にはつかまった。カウントを取りに行った内角球が、やや真ん中よりに入って、ショートの頭上を越えた。レフトからの返球を受け取ったまっちゃんが、吉田に近寄ってボールを渡し、何か声をかけていた。吉田は何度もうなずいたが、とても緊張していた。なんと言っても次は、あの番長なのだ。打席の中の番長は、眼光するどく、かなり威圧感がある。年下の吉田には怖いだろう。落ち着かない様子で、何度も牽制球を投げていた。
カウントが1ー2になった時、また牽制球を投げた。
すると、それが暴投になり、ランナーは2塁に進んだ。
2アウトだが、ランナー2塁。
打席には、あの番長。吉田の足は、もう地面にはついていなかった。軽々と左中間へ打たれ、得点を許した。なおも、番長が2塁に残った。
吉田は、泣きそうな顔で僕を見た。
僕は右腕をつきだし、「行け!」というようなジェスチャーをした。しかし、吉田の動揺は収まらない。ボールを連発し、5番打者を四球で歩かせた。
2アウト、1・2塁。
はるちゃんがタイムをとって、内野がマウンドに集まった。その光景を、僕は久しぶりに外野から眺めている。僕の心にも迷いが出た。ここで、志願して僕がマウンドにあがるか、それとも吉田にまかせるか。でも、やはりここは吉田がなんとかしなければならないと決めた。あいつの今後のためにも。まだ点差はある。その代わり、守備で貢献しよう。絶対ミスするなと自分に言い聞かせた。
やがて、ゲームが再開した。
6番打者には、徹底したカーブ攻めのようだ。
吉田の最も自信のある球だ。
3盗の確率も低いし、「悪くない」と思った。でもカーブなら、当たり損ないの変な回転の球がライト方向にくるかもしれない。僕はそう予測して、あらかじめやや浅い位置にポジションをとった。
はたして、打球は。
ライトへ上がった。
各ランナーが全速で走っている。
みんなの視線が僕に集まった。
でも、僕はほとんど動かずにキャッチした。
3アウトだ。
東原サイドから歓声があがった。
吉田は、よくやったと思う。中島小の上位打線相手によく1点でしのいだ。当の本人は満面の笑顔で、僕を出迎えた。
5回表は、はるちゃんからだ。
4球目を強引にはじき返し、センター前ヒットになった。
「とられたら、とりかえせ!」と、やまちゃんが叫んだ。
「よーし!」と、誰かが応じた。
今日のみんなは、何かおかしい。いつものクールさが本当に見あたらない。最後の試合だから、持てる力の全部を出し切ろうとしている。
ガンちゃんも打った。
まっちゃんは送った。
ワンアウト2・3塁。
やまちゃんは犠牲フライ。
5ー1。
僕はつないだ。
田中は、粘りを見せたがショートゴロにうちとられた。
3アウトだが、再び突き放す1点を取った。
どっちが上か、中島小に見せてやる!
5回裏。
中島小の攻撃は、下位打線だ。
落ち着きを取り戻した吉田が得意のカーブ主体で冷静に料理していく。3人で、見事おさえた。
6回表。
僕らの打線も小休止だった。
さっきホームランを打った期待の白石、初打席の吉田、そして橋本が、調子をあげてきた左投手にきっちり抑えられた。
そして悪夢は、6回裏にやってきた。
彼らにすれば、確かにこの辺で反撃の足がかりを作らないと、もう希望の灯は輝きを失う。しかも打順は1番から。
中島小は円陣を組んで気合いを入れていた。
1番打者が、僕の前に、いきなりヒットを打った。
5回の出来に安心した吉田が、何気なくカウントをかせぎに行ったところを打たれた。
2番打者には、バントの構えで揺さぶられた。
そして、1ー2からの4球目。
1塁側へ見事なバントを決められた。
「しようがない。とにかく1アウトだ」
僕はそう思ったが、吉田はそう思わなかった。
自分で捕球すると、はるちゃんの「1塁だ!」という指示を無視したのか、見逃したのか、間に合いもしない2塁へ送球した。もちろん、オールセーフだ。はるちゃんがタイムをとり、内野手がマウンドに集まった。吉田は呆然とした様子で、ただつっ立っていた。何か、はるちゃんがさかんに指示している。そんな様子を眺めながら、「僕がけがさえしなければ」そう思い、ただ悔しかった。
やがて、内野は守備に戻り、ゲーム再開となったが、吉田の動揺は収まらなかった。
3番には三遊間を痛烈にやぶるヒットを打たれた。
ノーアウト満塁。
続くは、あの番長。
絶体絶命のピンチなのかと思った。
しかし、まっちゃんは、「1本打たれてもまだ同点だ。気楽にいけ」と叫んでいた。吉田は、もう完全に舞い上がっていたようだ。まっちゃんの言うとおり、満塁ホームランを打たれてしまった。
中島小サイドから、大歓声がわき起こった。
同点だ。
あっという間に試合は振り出しだ。
内野が、またマウンドに集まっていた。序盤の投手戦から、一気に打撃戦へと変わっていた。追いつかれはしたものの、僕は「おもしろい」という変な気分だった。いつもの決まり切った、計算された試合ではなく、こんなにもつれる、こんなにぶつかり合うゲームもあるのだ。こんなおもしろいゲームなのだから、「投げたい」。僕は真剣にそう思った。
指の痛みは、完全に僕の頭の中から消えていた。
ゲームが再開した。
しかし、吉田は5番打者にも簡単にホームランを打たれ、僕らは逆転された。
勢いづく中島小サイドとは対照的に、東原サイドは沈黙した。
吉田は、マウンドにうずくまった。
監督がタイムをとり、田村が伝令に走った。僕の出番なのかと思った。タイムなのだし、投球の練習をしようと思ってベンチの方を見た時、「おまえが出るんじゃねぇ」という声が聞こえた。いつの間にか、僕に最も近い位置のスタンドにきていた岩松兄が言ったのだ。
「今、おまえが出たら、あいつは負け犬だ。おまえはあいつを負け犬にしたいのか?」
何をばかな。
と、言い切れない気がした。いや、たしかにその通りのような気がした。
「おまえの仕事は、7回に点をとることだ。ここで交代する事じゃねぇ」
僕は笑って答えた。
「わかってるよ」
「よし、それでこそ俺のライバルだ」
岩松兄は、ニカッと笑った。
ベンチの指示も交代ではなかった。
続く6番打者には、その初球を簡単にヒットされたものの、ようやく意地が出てきたようで、得意のカーブを主体に、別人のような気合いの入った投球を見せ7・8・9番と続く下位打線相手に3アウトをとった。
「よし!ここからだ!」
はるちゃんが戻ってきたみんなに声をかけ、打席に向かった。僕らも円陣を組んで気合いを入れた。まだ、誰もあきらめていない。
僕らは三連覇するんだ。
チャンスに強いはるちゃんは、この打席で粘りに粘った。相手はいつも最後に出てくる本格派右腕の投手だ。東原サイドからは悲鳴のような応援が響いている。カウントが2ー3になっても、ファールを連発していた。
そして、12球目。
見逃せばボールだったかもしれない高めの球をレフト前にはじき返した。
東原サイドの悲鳴が、歓声に変わった。
「春木につづけ!」
珍しく監督がほえた。
「よーし!」
ガンちゃんも珍しくほえながら打席に入った。
相手投手は、ガンちゃんには徹底した内角高め攻めだった。
ガンちゃんの大根切りを知らないのか、それとも、確率の問題として冷静に計算しているのか。もっとも、この投手は、速球を低めに集めることはできない。そう思っていると、外角低めの球がきた。でも、それは見せ球だった。外れてボールになった。動体視力が人並み外れたガンちゃんには効かない。次に、勝負の内角高め速球がきた。そんなこと、誰にだって見破れる。
ガンちゃんの大根切りが三遊間に決まった。
遊撃手が捕球したころには、ガンちゃんは1塁を蹴っていた。
ノーアウト1・2塁。
僕らは、一気にチャンスをつかんだ。
両方の応援団から大声援が送られている。
その時、小雨がぱらつきだした。
加熱しすぎた応援合戦に、まさに水が差された。観客の何人かは、慌てて避難を始めた。試合に支障が出る程ではなく、もちろん続行だ。
打席に立った曲者まっちゃんは、この雨に調子を狂わされたのか、珍しく送りバントを失敗し、3塁ベンチ前に高々と打ち上げてしまった。捕手がマスクをとばして追いつき、1アウト1・2塁。
バットを叩いて悔しがるまっちゃんがベンチに引き上げたころには、雨足が強くなっていた。吐く息が白く見えそうなほど、冷たい雨だった。
打席にはやまちゃんが入った。
監督からは、「まかせる」のサインが出ていた。
ここは、とにかくつなぐことだ。
「つないでくれ。頼む」
僕はネクストサークルの中でそう祈った。
中島バッテリーは、長いサイン交換をしていた。
彼らにとっては、ゲッツーで一気に決めたいところだ。だから、高めの速球でカウントをかせぎ、低めのボール球をひっかけさせたいはずだ。中島小も基本に忠実で精密な野球をする。もちろん僕らもそうだ。だから、手に取るように考えが読める。今打席に立っているやまちゃんも当然わかっているだろう。あとは、やまちゃんがどうするかにかかっている。
「頼むぞ、やまちゃん」
思わず僕は、そうつぶやいていた。
僕らの三連覇、いや、3年間の全てを賭けるのは、今、この時だ。
中島小は、内角高めをしつこく突いてきた。
やまちゃんの空振りもふくめ、カウント2ー2。
「くるぞ」
僕は、そう思った。
5球目。
外角低めへの速球がきた。
気合いの入ったいい球だった。
しかしやまちゃんは、すくいあげるように弾きかえした。
ボールは、高い放物線を描いて高々と右中間に舞い上がった。
東原サイドが総立ちになって大歓声をあげた。
しかし、はるちゃんも、ガンちゃんもハーフウェイには行っていない。ベース上でタッチアップの構えだ。
「そんなにのびないのか?」
僕も立ち上がってボールの行方を追った。高く舞い上がったボールは、その頂点で急に力を失い落ちてきた。
風向きも悪かった。
ボールは押し戻された。
センターのグラブに収まった。
落胆の声が東原サイドにあがった。
しかし、ここからが二人のランナーの仕事だ。
捕球の瞬間、はるちゃんが猛然とダッシュした。
足は速くない。
「むちゃはよせ!」
僕は心の中で叫んでいた。
はるちゃんは、ドタバタと懸命に走った。
一方、1塁ランナーのガンちゃんはうまかった。
おとりとして、うまい走塁を見せた。それに引っかかった中継の二塁手が、どっちを刺すか一瞬迷ったため、オールセーフになった。結果的に進塁打になった。ワンヒットで、確実に1点だ。やまちゃんは最低限の仕事はできた。あとは、僕ができるかどうかだ。
「すまん」と、やまちゃんは僕に言った。
「あとはまかせろ」
僕は、やまちゃんに目線でそう言った。
最終回。1点負けていて、ツーアウト1・3塁。
チャンスなのかピンチなのかわからない。
でも、僕の心の中は、静かに燃えていた。
「ここで、打たなきゃ、おまえなんかうんちだー!」
そんなばかな応援が聞こえた。
そんなこと言うのは一人しかいない。
「わかっているよ」
打席に入ると、相手投手の顔が、初めてゆっくり見られた。それは気の毒なくらい紅潮した顔だった。お互い強豪校のメンバーだが、ともに12才。緊張して当たり前だ。
「おや、僕は緊張しているのか?」
「いや、なんか、ワクワクしている」
「変な気分だ」
この時、僕は配球云々など、まったく頭の中から消えていた。とにかく、投げてくる球を見つめていた。何球目かはわからない。ボールがはっきり見えた時、僕は思いきってひっぱたいた。打球は、レフト前にはずんだ。僕が1塁上に立った時、はるちゃんは、ベンチの前でみんなにもみくちゃにされていた。
同点だ。
ひとまず追いついた。
東原応援団は、踊っていた。
「それでこそー俺のライバルだー!」
声につられてスタンドを見ると、岩松兄が躍り上がってガッツポーズしていた。弟は、なぜか泣いているようだ。
恵ちゃんと美咲ちゃんが抱き合って喜んでいた。
僕がスタンドを見ているのに気づいたお母さんが「ゆうたー!」と声をかけてきた。隣には、いつのまにかお父さんがきていて、どっかりと座って腕組みをし、難しそうな顔でうなずいていた。
クラスメイトたちが、僕の方に走ってきて、金網ごしに「よくやったー!」と叫んでいた。
さて、中島小の長いタイムが終わり、試合が再開した。
2アウト1・2塁。
打席には、田中。
田中も好打者だ。それがわかっているから、僕は敬遠されなかった。しかし、ここはやや敬遠気味の四球になった。
白石勝負だ。
大きなスィングを2〜3回やって、白石は打席に入った。
2アウト満塁。
できれば、ここで突き放したい。
そんな気持ちが強すぎたのか、白石は三振に倒れた。結局、同点どまりだった。しかし、それでも、僕らは声をかけあって気合いを入れて守備につこうとした。僕もベンチに戻って、グラブを持って、守備に行こうとしたとき、監督に呼び止められた。
「指は、大丈夫か?」
僕は迷わず答えた。
「もう大丈夫です!」
「よし、ではまかせた。勝ってこい!」
投手をやれということだ。
僕はニコッと笑った。
そして「はい!」と答えて、マウンドに向かった。
投手交代が告げられた。
再び僕が投げる。
吉田は、ライトに入った。
マウンドは、しっくりきた。
経験は浅いのに、なぜかそんな気がした。
大きな深呼吸をした。
やっぱり僕は、ここがいい。
投球練習を始めた。親指は痛かった。実は、さっきの打撃の時、右手で押し込むかたちになったため、かなりひびいた。でも今はそんなことにかまっていられない。投球練習が終わり、はるちゃんが2塁への送球練習をし、内野のみんながボールを回し、僕に戻ってきた時、はるちゃんがそばにきた。
「指は、大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ」
「そうか、でも球が甘めにきていたよ」
「問題ないって」
「そうか。でも、ここはピシャリと行きたいところだから豪速球中心でいくよ」
「わかった」
「頼むぞ、谷山」
はるちゃんは、ふうちゃんの声色を真似た。
「にてねぇー」
僕は文句を言った。はるちゃんは笑って僕の左肩をポンポンと叩きながら言った。
「わかっているよ。とにかく頼むね」
さて、最終回の裏が始まった。
ここで点を与えたら、その時点で、僕らは終わりだ。
打順は、1番から。
初球を投げる前に、僕は、天を仰いだ。
これをやるとなぜか落ち着く。あいにく、雨が降りしきっていた。
「よし!」
僕は、はるちゃんの要求どおり、豪速球を投げた。
やや高めだったが、ストライクだ。
2球目も。
3球目も。
3球三振だ。
東原サイドから歓声があがった。
ボールを回す内野のみんなが生き生きしていた。
「僕らが負けるわけない」
そんな気がした。
2番打者にも、豪速球で勝負した。
5球かかったが、三振にとった。
3番も三振だ。
試合は、延長戦に入った。
攻撃の前、僕らは円陣を組んだ。
監督から指示があった。
「相手の投手は、いつも最後の回しか投げない。だから長い回の経験がないし、もう控えの投手もいないはずだ。だから、なんとしても粘れ。粘って粘ってあいつをノックアウトしろ!よし、いけ!」
すかさず、はるちゃんが叫んだ。
「ひがしー!」
僕らは声を合わせた。
「ファイト!よおし!」
打順は、吉田からだった。
僕は、この雨で寒くなってきたので、キャッチボールでもしていようと思い、5年生捕手の松原に声をかけた。
「キャッチボールするから手伝ってくれ」
「あ、わかりました」
そうこうしているうちに、吉田がセカンドゴロに倒れた。
「監督の指示どおりにはいかないものだなあ」
などと思いつつ、僕はキャッチボールを始めた。この雨が冷やしてくれているおかげで、親指の痛みがごまかされてはいたものの、どんどん痛くなってきていた。
「あまり、長くは持たないかもしれない」
そんな気がした。
監督の指示も空しく、橋本もはるちゃんも、粘りを発揮できず、早々にうちとられた。
僕はキャッチボールを切り上げて、マウンドに向かった。
8回の裏。
中島小は、あの番長からだ。
こいつばかりは要注意だ。しかし、豪速球で来いというはるちゃんの指示通りに投げた。
さすが番長だ。
ファールにはなったものの、当ててきた。雨中の対決なんて、あの岩松兄弟との対戦を思い出す。なるべく低めに行くようにと思ったが、やはり、親指のせいか、なかなか決まらなくなっていた。雨の影響もあるだろう。高めのボールになったり、ワンバウンドしたり、とにかく制球が乱れ、8球粘られた。
9球目。
渾身の豪速球のつもりだったが、続けて投げたため、見事に捕まった。センターオーバーの2塁打を打たれてしまった。
僕らは一気にピンチになった。
中島サイドは盛り上がっている。
僕は、セットポジションでは豪速球が苦手だ。あまり、球威がない。
はるちゃんが、「ドンマイドンマイ」と声をかけているが、僕には大ピンチのように感じられた。
ノーアウト2塁。
しかも、延長戦の裏の回だ。番長がホームを踏んだ瞬間に僕らの敗戦が決まる。
5番打者が送りバントの構えを見せたので、はるちゃんは1球ウェストした。それも、とんでもないところに飛んで行った。投げた僕の方が慌てた。おかしい、やはり、指の痛みのせいか。それとも雨か、苦手なセットポジションのせいか。
2球目もウェストしてみたが、やはり途方もないところに行った。
3球目は、豪速球だったが、高めに外れた。
いよいよおかしい。
実は、僕は豪速球に頼りすぎていてセットポジションでの投げ込み練習をあまりしていない。もちろん、急造投手の僕には、そんな時間もなかった訳だが。でも、言い訳は通用しない。
僕は焦った。
豪速球も使えない。制球もきかない。指は痛む。一体どうすればいいのだろう。はるちゃんが、僕のそんな異変を感じてマウンドにやってきた。
「谷山、やはり豪速球中心でいこう」
「うん」
「でもね、その前に、思い切ってバントさせて、進塁させよう」
「え?」
「あぶねえよ。そんなの。1点で終わりなんだぞ」と、橋本が口を挟んだ。
「いや、おもしれぇ作戦だ。とにかくアウトひとつとって、ランナーを進める。すると、谷山はまたワインドアップで投げられる。そうだな?」と、まっちゃん。
「うん。それでね、6番7番で勝負だ。指が痛くても、それなら、勝算がある」
はるちゃんは、僕の指の状態を見抜いていた。まっちゃんも、僕はセットポジションが苦手なのを知っていた。
「ああ。とにかく、このままズルズル塁が埋まるのはよくねえ。いちかばちか、勝負してみよう」と、やまちゃん。
「ランナーがいればいるほどヒットゾーンは広がるから、ちょっとした当たりでも致命傷になる。3塁走者の場合、一番怖いのはタッチアップだけど、全力の豪速球ならたぶん大丈夫」と田中。
「でも、1・2塁にしてゲッツーという手もあるぜ」と言う橋本にまっちゃんが返した。
「この雨じゃあ、どんなイレギュラーが起こるかわからんぜ」
はるちゃんが言った。
「それに、谷山の今の指の状態では、ゲッツー狙いの投球はできないよ。だからやはり豪速球での勝負が、一番可能性が高い」
「よし、決まりだ」
「みんなで決めたんだ。何があっても恨みっこなしだぞ」
「わかってる。とにかく今は豪速球に全てを賭けよう」
「よし、みんな、気合いをいれろ!絶対勝つと思え!ひがしー!」
「ファイト!よおし!」
みんな守備に戻った。
全てが僕に託された。僕は、できるのか?僕は空を見上げ、深呼吸した。まずは、バントさせること。そして、慌てずさばくこと。僕は腹に力をこめ、「できる」と言い聞かせた。
マウンドにあがると、「プレイ!」の号令がかかった。
はるちゃんのミットめがけて、投げた。
0ー3だったが、5番打者は、正確に送りバントした。
3塁手をおびきだすため、3塁方向だ。
僕は落ち着いてマウンドを降り、捕球すると迷わず1塁に投げた。予定通り1アウト3塁。ここまでは、よし。問題はここからだ。3塁ランナーを返してはならない。
僕は大きく深呼吸した。
「おもいきりいけ!」と、まっちゃんが言った。
僕はうなずき、大きく振りかぶった。
そして、豪速球を投げた。
やや高めだったが、ストライクになった。指の痛みはひどくなりつつあり、雨もあり、思い通りではなかったが、まあまあだと思った。
やはり、この6番打者は豪速球にあわないようで、1球ファールされたが、何とか三振にとれた。
2アウトだ。
僕らの作戦が完結するまで、あと一人。
打席には、5年エースの川上が入った。そうだった。まだ、川上がいた。来年は中島小を背負って立つ男だ。並みのチームなら、間違いなくエースで4番だ。年下なのでかわいそうだが手加減はしない。
僕は渾身の力で豪速球を投げ込んだ。
川上は何食わぬ顔をして見送った。
判定ボールだった。さすがにセンスがいい。あのわずかな高めのボールを見切っている。僕も負けてはいられない。もう、指の痛みと雨の寒さで体はぼろぼろだったが、もう1球豪速球だ。
制球された球ではないが、威力のある直球が、はるちゃんのミットに突き刺さった。
今度はストライクだ。
3球目。
川上のバットが豪速球にかすった。
ファールになった。
さらにもう1球。
また、ファールになった。
また、豪速球。
今度は外れた。
また、豪速球。
また、ファールになった。
川上もしぶとい。特訓の成果なのかも知れない。
でも、僕にも意地がある。なんとしても豪速球でうちとってやる。
また、ファールにされた。
「勝負だ!谷山!負けるんじゃねえ!」
やまちゃんが吼えていた。
「俺たちもいるぞ、思い切りいけー!」
まっちゃんも吼えていた。
みんな、燃えている。
よし、こうなったら、指なんて、雨なんて関係ない!
打てるなら、打って見ろ!
僕は渾身の力で豪速球を投げた。
快音が響いた。
中島小サイドから、「わぁっ」という大歓声があがった。
僕はハッとして打球の行方を追った。
その打球は高々と舞い上がり、左中間に飛んだ。
東原サイドからは悲鳴があがった。
それほど大きな当たりだった。
しかし、上がりすぎだ。あれなら、ガンちゃんが追いつける。僕はそう確信した。案の定、ガンちゃんはきっちり追いついて、楽々キャッチした。
東原サイドの悲鳴が、大歓声に変わった。
見るとスタンドは、いつの間にかかなりの観客で埋まっていた。野球部全員の父兄はもちろん、学校の友達、先生、それに白峰台も、池上小も来ていた。ニヤついた男の笑顔も見えた。岩松兄は、着ていたシャツを脱ぎ、それを振り回してよろこんでいた。川上はたいした奴だが、僕の力が上回った。僕らの作戦が、勝った。
僕らは、ハイタッチでベンチに迎えられた。
さて、9回だ。
これで終わりだ。
今大会に10回はない。
ここで決められないと、大会規定でくじ引きとなる。
そんなのつまらない。
絶対勝つ!
打順は良く、1番のガンちゃんからだ。
粘ったあげくの7球目。
大根切りをお見舞いしたが、ぬかるんだグランドでは思ったほど弾まず、勢い良くダッシュしてきた遊撃手にさばかれた。
ベンチから、ため息が漏れた。
2番のまっちゃんは、1ー1からの3球目。三塁線へ、セーフティバント。1塁へヘッドスライディングを見せたが、やはり、右打者のセーフティは、中島小には通じなかった。
ツーアウト。
あと1アウトの間に得点しないと、僕らの勝ちは無くなる。逆に、あと1アウトで負けが無くなる中島サイドからは「あと一人コール」が起こった。
大きなスイングを3回やって、やまちゃんが打席に入った。
やまちゃんは、今、どんな気持ちで打席にいるのだろう。5年のころ、気楽な外野手だった僕でも、さすがにこんな時は「最後のバッターにはなりたくない」と思ったものだ。
6球目。
やまちゃんのバットが火を噴いた。
鋭い打球が右中間を割っていった。
ランナーコーチの腕がぐるぐる回っている。躊躇なく、やまちゃんは2塁に達した。
2塁打だ!
東原の応援団が息を吹き返した。
「よし!」
僕は気合いを入れて打席に入った。
中島小の捕手が珍しくタイムをとって、内野手もマウンドに集まってきた。
何事か相談していた。
ゲームが再開した。
なんと、捕手が立ち上がり、僕は敬遠された。
彼らは、僕らとは逆の選択をした。塁にランナーをおいて、アウトを取りやすくしたいのだろう。雨という要素を入れて、僕らが捨てた作戦だ。アウトカウントの違いから考えると当然かも知れない。しかも驚いたことに、田中までが敬遠された。つまりそれは満塁策で、さっきうちとった白石との勝負になる。
白石は、緊張しきった顔つきで打席に入った。
「頼むぞ、白石」
僕は心の中で強くそう思った。
東原の応援団は、総立ちだった。
みんなが、声をからして応援し、僕らの勝利を祈った。
1ー2からの4球目。
白石は、引っかけた。
当たり損ないのボールが投手の左に弾んだ。
僕らは、必死にダッシュした。
水はけの良いグランド。
その一角にわずかにあった水たまりで、投手がキャッチした。
ところが。
投手が捕球し、振り返って1塁へ送球しようとしたその時。グラブから抜き取って、送球動作に入ろうとした時、ボールが、投手の手から踊り上がって抜け落ちた。白石は必死に駆けていた。投手は慌てて捕球しなおし、1塁へ投げた。白石は、ヘッドスライディングした。
水けむりが上がった。
やまちゃんは、ホームを踏んでいた。
判定は。
僕は三塁をまわったところで見届けている。
その瞬間が異常に長く感じられた。
両手が水平に広がった。
セーフだ!
勝ち越しだ!
東原サイドは、躍り上がった。
ついに、勝ち越しだ!
相手投手はうなだれていたが、不思議と中島ナインは誰も励ましの声をかけなかった。しらけたムードが中島ベンチに漂っていた。対照的に東原サイドはいわゆる『ドンチャン騒ぎ』のような状態だった。
どろんこになった白石は、顔についた泥を払い落としていた。
そしてわずかに、天を仰いだ。
その姿は、天国の親父さんに感謝しているようにも見えた。
中島小の投手交代が告げられた。
川上が再びマウンドに上がる。
次は吉田の打席だ。もう1点欲しいところだったから、「さっきのアドバイスを生かせ!」と思ったが、あっけなく三振してしまった。
「よし!こうなったら、例えこの指がちぎれたって絶対この1点を守り抜く!」
僕はそう決心した。
マウンドに上がるとき、新しいロジンバッグをもらい、ズボンの後ろポケットにしまった。1球ごとに、ロジンを触りながら、投球の感じを確かめた。さっきの投手の二の舞はごめんだ。
やがて、投球練習が終わり、「プレイ!」がかかった。
悲鳴のような応援が中島サイドから聞こえる。
打順は8番から。
先ずは無難な相手だ。
余計なことを考えず、とにかくはるちゃんのミットめがけて豪速球を投げ込んだ。ふだんより2割ほど弱い豪速球だったが、それでも8番打者は三振にとれた。
9番打者も同じだった。
一度だけファールにされたが、三振にとった。
東原応援団から、「あと一人コール」が起こった。思えば、僕らと中島小の対戦では、いつも「あと一人コール」が起こる。応援団がそう叫びたくなるほどの接戦をいつもやっているんだ。
そしていつものように、僕らが勝つ!
降りしきる雨の中、1番打者のバットが空を切った時、ゲームセットになった。
はるちゃんが、ナインが、マウンドに駆け寄ってきた。
ベンチのメンバーも、飛び出してきた。
僕らは、三連覇を成し遂げた。
最終章 天高く
「天高く、馬こゆる秋よね〜」
恵ちゃんはそう言って、近くの店で買ってきたあんまんをほおばっていた。ある日曜日。僕は野球部を引退してからも、投げ込みは欠かさない。そこに恵ちゃんが遊びにくるのも、いつもの光景だ。
「ねえ、野球部の人たち、中学でも野球するのかなあ?」
「うん。レギュラーでは新田と橋本以外はみんなやるってよ」
「あら、あのふたりはやらないの?」
「新田は、中学になったら、料亭の手伝いを始めるって。老舗だから、しきたりがいろいろあるらしいよ。13才といえば、昔なら元服だからって」
「橋本君は?」
「好きなアニメの研究会に入りたいって。中学にはあるからって」
「へぇ〜。アニメかぁ。ねえ、一休みしてゆうちゃんも食べない?」
「うん。ちょうど100球、終わったらね。あとちょっとだから」
「あれ、いつも何球投げてるの?」
「200だけど」
「うそー、そんなに投げていたんだ」
「全部が全力じゃないからね。現役の頃は100くらいだったけど、今は試合もないし増やしたんだ。他に、ランニングも腹筋も背筋も、腕立てもね」
「だから、あんなに速い球を投げられるんだ」
「そうかなあ?結局はこの硬球のおかげだと思うよ」
「そうかもね。久しぶりにちょっと見せてよ」
「いいよ。はい」
僕は奇跡の硬球を恵ちゃんに渡した。
「あ、投げ込みのじゃま?」
「いいよ。全部硬球を使っているわけじゃないし、軟球を使うから」
僕は中学規格の軟式球に持ち替えて投球練習を続けた。
「いろいろあったね」
「うん?」
「思えば、これが始まりだったんだね」
「何が?」
「だって、私たちのこともよ。ひどいなあ」
恵ちゃんはむくれた。
「そうだっけ」
「そうよ。これがなかったら、ゆうちゃんはピッチャーやってないし、私も手紙を書けたかどうかわからないよ」
「そうだね」
僕はそう言って笑った。
「でもね、本当の奇跡はね」
「うん?」
「もっともっとうまくなりたいって言う、ゆうちゃんの心の中にあったんだよ」
僕はちょうど100球投げ終え、いったん切り上げた。
そして、恵ちゃんから硬球を受け取って、しげしげと眺めてみた。
いろんな思い出がよみがえってきた。
「そうかもね」
僕は笑ってそう言うと、手にした硬球を投げあげた。
それは、秋晴れの天高く舞い上がっていった。
了
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