野球少年 中学校編 1

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野球少年 中学校編 1 目次 第一章 桜の花のあと 第二章 絶対王者 第三章 グランドスラム 第一章 桜の花のあと 中学生になった僕を待っていたのは「0点男」というなんとも有り難くないニックネームだった。そもそも公式戦で1点も与えなかったから、みんなは冷やかし半分のほめ言葉としてそう呼んだのだが、あまり語感がよろしくない。ふつうの社会であれば、大人たちは眉をひそめ、先生たちは本気で心配するか見放すかのどちらかだろう。 あれから卒業式に入学式にと何かと大忙しだったが、みんな同じ中学に進み、小学校野球部でレギュラーだったメンバーは中学校野球部におさまった。いや、正確にいうと半レギュラーで憎まれ役の橋本は入部していないし、それよりも意外だったのは、老舗料亭の跡取りお坊ちゃまである新田が入部したことだ。家業の修行もやり遂げるからと、両親を説得したらしい。思えば小学校最後の試合で、僕が怪我をしたばっかりに5年生の吉田がピッチャーをし、新田が外された。最後までグランドに立てなかったことがどうしても心残りだったようだと、はるちゃんに聞かされた。そういうことなら責任の一部は僕にもあるのかも。  小学校時代。  当時は小学校の部活動として野球部があった。  僕らの東原小学校野球部は、個性的で野球好きなメンバーが集まっていて、みんな鬼監督のしごきに耐え、春・夏・秋に行われる市の公式戦で三連覇した。絶対的エースの藤井(ふうちゃんというあだ名だった)が春の大会後アメリカへ転校して行ったので僕がエースを受け継いだ。もともと練習嫌いで気分屋の僕だったが、とても重い不思議な硬球と、彼女である恵ちゃんの励ましのおかげで、めでたく「0点男」の称号を手に入れたのだ。 さて、中学は周辺3つの小学校から生徒が集まるので、当然、他校だった野球部員と一緒になる。たまに練習試合をしたから、なんとなく顔はわかる。その連中が僕を0点男呼ばわりしていた。もちろん、笑顔で言っているので僕もあからさまには怒らないが、正直、腹がたたないはずはなかった。でも、それよりもっと驚いたのは、野球部監督のニックネームだった。「ただのヨッパライ」らしい。まだ入部届けを出したばかりで、部室にも練習にも行っていないから、本当のところはわからない。ただただ「ただのヨッパライ」でないようにと祈るばかりだ。そうそう。恵ちゃんは、そうとう迷っていたが、結局小学時代と同じくバスケット部に入部した。「部活が終わったら一緒に帰ろうね」と笑っていた。そんなこんなで、とにかく僕の中学生活が始まった。 桜の花が咲いていたことなど完全に忘れてしまったかのような葉桜となり、慌ただしかった入学のいろんな行事も終わり、初めての詰襟服もなんとなくなじんできた頃。僕らは未だに野球部の練習に参加していなかった。他の部は、そう、例えば恵ちゃんのバスケット部は早々に歓迎会があり、さっそく体育館で、バムッバムッとボールの音を響かせていた。なのに野球部は何の知らせも案内もなく、どうすればいいのかすっかり困ってしまった。僕らの中学は、東原小、泉川小、藤岡小の3校からなり、それぞれの小学校で野球部だった面々が入部届けを出していた。お互い顔なじみなので、気さくに情報交換したが、やはり何の動きもないらしい。やはり「これはおかしい」と、まっちゃんが言い出し、はるちゃんが部長先生を訪ねてみようと言い出した。そこで今日の放課後に、東原代表が僕とはるちゃん、泉川代表がキャプテンだった吉岡、藤岡代表もキャプテンだった上田の4人で行くことにした。 放課後。 僕らは正面玄関に集まり、その隣にある職員室に向かった。 野球部の部長先生は六の家と書いて「ろっか」先生という。パーマ頭に無精ひげがトレードマークだ。お辞儀をして職員室に入ると、六家先生は窓際の自席で、何か作業をしているようだった。 「あの・・・」はるちゃんが声をかけた。 それでも先生は気づかず、作業に夢中のようだった。はるちゃんは意を決して大きく、はっきりと言った。 「六家先生。相談があります」 先生は作業をやめず、目線は机上の書類に置いたまま「ん?」と言った。 「先生、相談にきました」 吉岡がはっきりそう言ったところで、やっと先生は僕らを見て 「おまえたち・・・」と言った。 しばらく無言で僕らを見つめていた先生の次の言葉に、僕の心は倒れそうになった。 「誰だ?」 4人ともあまりの言葉に、状況が把握できず目が白黒していた。隣にいた年配の桑原先生がとりなしてくれた。 「先生、野球部の新入生ですよ。彼らは」 まったく、六家先生に直接入部届けを出したじゃないか。まったくもう。「ただのヨッパライ」監督といい、六家先生といい、でたらめだ。そう思うと、あいかわらず起伏の激しい僕の感情が音も立てずに燃え上がりはじめた。 にこにこしながら桑原先生が言った。 「今年の野球部は楽しみですな。何と言っても、その谷山君は小学校でナンバーワンだったピッチャーですから県大会も狙えますなあ」 桑原先生は事情通のようだ。僕の名前を知っている。ちょっとした驚きだった。ちなみにフルネームは谷山勇太という。しばらく僕らを見つめていた六家先生は、まるで無関心で、「ふん」とでも言うように、目線を机上の書類に戻した。部長先生のそっけない態度に、さすがのはるちゃんもちょっと驚いたようだ。吉岡と上田はすっかり委縮してしまっている。 桑原先生が、とりなすように言葉をつないだ。 「先生、新入部員たちは何か相談があるのでしょう」 六家先生は、作業をしながら僕らに言った。 「練習がきついなどと言っても、俺は知らんぞ。監督に言え、もっとも、まともな練習じゃないだろうがな」 そんな突き放したような言葉に、僕らは何が何だかわからなかった。 「氷山のことですか?」 桑原先生はそう言うが、六家先生は答えなかった。さらに隣にいた大谷先生がわって入った。 「氷山は、何をやっても優秀なのに、何であんなにしちゃってるんでしょうね」 「私のせいとでも?」と、六家先生が厳しく言い返した。 「誰もそんなこと言っていませんよ。そもそも六家先生は小川先生の代理で、野球部のことはご存じないでしょう」 何だか、僕らの知らない大人の世界の空中戦のようで、僕にはさっぱりわからない。 はるちゃんが聞いた。 「小川先生って誰ですか?」 桑原先生が答えた。 「若い女の先生でな。本当の野球部長だ。今はお産のために長期休暇中なんだよ。その間、本来軽音楽部顧問の六家先生が代理の野球部長を兼ねているんだ」 なんとなく、事情が分かってきた。それでも、ほったらかしはひどいじゃないかと思った時、六家先生が吼えた。 「とにかく俺は軽音で、ロックがやりたいんだ。野球部までは面倒見きれん。苦情があるなら監督に直接言え」 机上をみると、なにやら楽譜のようなものがあり、先生はどうも作曲作業中のようだった。 「いや、苦情も何も、僕らはまだ部室にも行っていません」 六家先生は、ハッとした顔つきになった。そして、何やらごそごそと机のまわりをいじり始めた。 「ああ、すまん。おまえらの入部届けは、まだここにある。何の手続きもしていなかった」 ニカッと笑う六家先生の笑顔はさわやかだったが、僕の心は倒れた。本当に大丈夫か。この中学は。ともかく、六家先生から急ぎ監督に連絡を入れてくれ、明日から部室に行くことになった。 さあ、ここから始まるんだ。 翌日の放課後。 僕ら新入部員はジャージ姿で、そろって部室に行った。 部室は野球グランドのとなりにあり、ブロックで造られた簡素な部屋だ。野球部だけでなく、長屋のように各部の部室がつながっている。それでも部室すらなかった小学校時代より、雰囲気があっていい。 テニス部やらサッカー部やら、にぎやかな掛け声の中、僕らもいよいよ野球ができると思い、期待に胸を膨らませていた。 はるちゃんが代表して扉を開くと、薄暗い部屋の中に気の弱そうな先輩が一人いた。 「先輩、よろしくお願いします」 はるちゃんがそう言うと、その先輩は、別に笑顔も見せずに「ああ」と小さな声で答えた。 「他の先輩はどこですか?あいさつしないと」 吉岡がそう言うと、先輩はぼそぼそとつぶやくように答えた。 「キャプテンは来ないよ。副キャプテンの氷山も、みんなもたぶん」 「え?じゃあ部活は?他の先輩は?監督は?」 「さあ。僕はとにかくボールをきれいにしとけと言われただけだから」 なんてことだ。昨日の大人の空中戦は、僕らの問題でもあったんだ。こういうことか。確かに、入学してから一度も野球部の練習風景は見たことがなかった。ロードワークにでも出ているんだろうと誰かが言ったから、それを鵜呑みにして疑わなかった。要は、やる気のない部なんだ。ここは。そう考えると無性に腹が立ってきた。 小学時代。 なみいるライバルたちに打ち勝つために、それこそ鬼監督のしごきに耐えてきた僕らにとってあまりにも酷過ぎる。もう完全に頭にきた。「かまわないから、練習しようぜ」というやまちゃんの声に一も二もなく賛成し、僕らは勝手に道具を引っ張り出そうとした。 「やめてくれよ。僕がキャプテンに怒られる」 そう言ってひきとめる気の弱そうな先輩を無視し、僕らは練習を始めた。 東原出身者はもちろん、泉川も藤岡も、みんな手慣れたものだ。ベースとボールを引っ張り出し、バットを揃え、ランニング、準備体操、キャッチボールと、どこの学校もだいたい同じメニューでの練習だから、みんなで力を合わせて僕らなりの練習をした。はるちゃんが中心になって声を出していた。東原は8人、泉川は2人、藤岡は3人。計十三人の新入部員は久々の練習が嬉しかった。 その日、とうとうキャプテンも監督も来なかった。 ひと騒動あったのは、翌日の昼休みだった。 田中が血相変えて、僕の教室にやってきた。 「野球部全員集合!はるちゃんの3組だ」 そう伝えると、他の教室に走って行った。 何だろうと思いつつ行ってみると、教室前の廊下に人だかりができていて、その中心からやまちゃんが誰かと言い争う声が聞こえた。 「だから、俺は筋を通せと言っているんだ!」 「やかましい!練習もしねえで、先輩づらすんじゃねぇ!」 先輩?って誰だ?状況がつかめぬまま、ひとだかりの中心へ割って入ると、そこでは、はるちゃんと、やまちゃんが、誰だかわからないゴツイ男と相対していた。 「だから、おまえらの入部はおととい監督から聞いた。それは、もうそれでいい。でもな、俺は中村にボール磨きをしろと言ったんだ。キャプテンの俺が言うことは守れ!」 「ばかか、てめえは!だから俺たちはそんな指示は聞いてねぇ」 どうやら、ゴツイ男はキャプテンのようだ。 「ばかだとぉ」 キャプテンは、いよいよ怒った。取っ組み合いでも始まりそうな勢いだった。 キャプテンの言うことも一理あるように思えた。しかし、やる気もない奴らにおかしな指示をされるのは、僕も納得できない。はるちゃんも同じ気持ちのようで、穏やかながら鋭くつっこんだ。 「筋を通せと言われるのはわかります。でもキャプテン。筋と言われるなら、先ず新入部員を出迎えて、その上で指示されるべきではないでしょうか」 「それに」と、人だかりの中からまっちゃんが口をはさんだ。 「俺たちは、本当にあんたがキャプテンかどうかも知らないぜ。通りがかりに因縁をつけられているような気分だ」 「因縁だとぉ!」 「やるって言うのか!」 そう叫ぶやまちゃんの周りにはいつの間にか吉岡も新田も白石もいて、キャプテンを取り囲み鋭い目つきをしていたため、キャプテンは不利な状況を感じて歯噛みしていた。はるちゃんが冷静に言った。 「やるならやるで構いませんが、先輩は受験も近いのに、問題は起こしたくないでしょう。だから、野球で勝負しませんか。僕らの実力を見てもらえば、いかに野球がやりたかったか、わかってもらえるはずです」 「ふん」 キャプテンは鼻で笑った。 「小学レベルで生意気言うな。俺らに勝てるわけないだろう」 すかさず、やまちゃんが言い返した。 「だから、ばかかてめえは。俺らのことも知らずに大口たたくな!」 さすがにキャプテンは怒って、やまちゃんの胸ぐらをつかんだ。 「なんだ、やるのか」 やまちゃんはそう言ったが、さすがにはるちゃんがわって入った。 「先輩、やめてください。やまちゃんも。何度もばかはひどいよ」 「じゃあ、1回ならいいのか」と橋本ならツッコミそうだ。 しかし、やまちゃんは本気で頭にきていた。 「ばかにばかと言って何が悪い!どうせ野球も下手くそなんだぜ。練習して練習して、苦労を重ねてうまくなるのに、練習もしない野球部員はおおばか者だ!」 やまちゃんの言葉は僕の心をうった。つらくて、きつくて、何度も吐きそうになった鬼監督のしごきを思い出した。やまちゃんもやまちゃんなりに、苦労していたんだな。激しい言葉の裏に込められたやまちゃんの気持ちは、さすがにキャプテンの心をも捉えたようだ。胸ぐらを掴んだまま、やまちゃんを見つめていた。やがて手を離し「ふん」と鼻を鳴らして辺りを見回しながら「生意気な奴らだな」と言った。 「どいつもこいつも生意気そうなツラしてやがる。いいだろう。明日、野球で勝負だ。おまえら負けたら土下座して今後は絶対服従だぞ。いいな」 「先輩たちが負けたらどうするんですか」と白石が言った。 キャプテンはまた「ふん」と鼻で笑った。 「最近まで小学生だったおまえらに負けるわけがない」 あきれたような落胆したような複雑な表情でまっちゃんが言った。 「先輩は、俺らのこと本当に知らないんだな」 「先輩、どうするんですか」 驚いたことに、童顔でふだんは大人しい新田がつめよった。 キャプテンは新田を睨みつけながら言った。 「いいだろう。もし負けたら俺が土下座する。そして何人かおまえらの中からレギュラーにしてやる」 そして「チッ」と舌打ちしながら、引き上げていった。 キャプテンの姿が見えなくなると、やっと安堵したのか、吉岡が崩れおちそうになった。「さすが東原のメンバーは違うな。あんなゴツイ先輩相手に一歩も引かないもんな」と上田が言うと野次馬の一人(いわゆる生徒A)が聞きかえした。 「さすがってどういうこと?」 上田は自分のことでもないのに、自慢げに言った。 「東原は小学校の大会で3連覇したのさ。あのスポーツ万能成績優秀の中島学園すら圧倒的に蹴散らしたんだ」 「お~」というどよめきが起こった。中島学園が文武両道の優秀校であることは、誰もが知っている。いつの間にか、かなり集まっていた野次馬に、どうやらお調子者のような上田が、僕らの戦績を饒舌に語った。足が速くて、守備が堅くて、ホームランも飛び出すような、手のつけられないとんでもないチームだったと。 「だから、俺はこいつらと野球ができるのが楽しみだったんだ。俺らは県大会も狙えるぜ。今に有名人だ。新聞に載るかもな。それにスカウトの目にもとまるかもな」 そう言って愉快そうに笑っていた。 その日の放課後。僕らは小学時代の練習着を持ってきていて、昨日のように自主的に練習した。少し違っていたのは、実戦的な守備練習と、僕の投球練習を加えたことだ。吉岡もピッチャーだから一緒に練習した。久しぶりにはるちゃんを座らせて投げ込んだ。この頃僕は、あの奇跡の硬球に頼らなくてもキレのいい球をどんどん放れるようになっていて、はるちゃんのミットが、さかんに快音を発していた。隣にいた吉岡は、「やっぱり、すげえな。おまえは」と感心したようなあきれたような顔をしていた。 さて、いよいよ翌日の放課後。 初めて見る先輩たちも集まってきていた。その中で一人だけ、東原時代の先輩がまじっていた。僕とは同じ外野のレギュラーだったが、特に親しかったわけではなかった。 グランドには、噂を聞きつけた野次馬が何人か来ていて、その中には恵ちゃんも友達を連れて来ていた。久しぶりの感覚だ。試合なんて、もう半年もやっていない。どちらかというと、緊張感よりうれしさの方が勝っていた。 僕らと先輩たちは別々にアップしたあと、いよいよ試合が始まった。先攻は僕らだ。 あのキャプテンは、ピッチャーのようだ。マウンドに上がって投球練習をしている。そのぎこちないフォームを見て、本当にエースなのか疑問が湧いた。あんな格好じゃ、僕には勝てない。 1年チームは旧東原を中心にしたオーダーだ。もちろん1番はガンちゃん。 主審は2年生の先輩が務めるが、先輩たちは2年生が7人、3年生が3人の計十人なので塁審は1年生が務めることになる。 主審(と言っても、かなり生徒Bに近い雑魚キャラのような先輩)が、「プレイ!」と号令した。 先ずはカウント稼ぎの甘い球が来た。 ごく当たり前のように、ガンちゃんは3塁線へセーフティバントを決めた。いきなりでびっくりした3塁の先輩がドタバタとやってきて捕球した時、既にガンちゃんは1塁を駆け抜けていた。 「よっしゃー!」と、僕らは歓声をあげた。 僕らの形は健在だ。いや、それ以上かもしれない。ガンちゃんの足はさらに速くなっている。 2番まっちゃんは、ぶるんぶるんとバットを振り回しながら、打席に入った。 「バントするぞ」の合図だ。3回回したから、3球目。 セットになったキャプテンは、先ずは牽制球を投げた。そんなことをしたら、ガンちゃんの思うツボだ。かなりの確率で癖を見抜く。案の定、1球目に、これも当たり前のように、ガンちゃんは盗塁を決めた。先輩たちの困惑が手に取るようにわかった。でも、勘弁しないよ。僕らは絶対勝つ。 カウント1-1からの3球目。 まっちゃんは、かなりのくそボールを、予告通りバントした。キャプテンが1塁側で捕球した頃には、ガンちゃんは既に3塁目前だった。さすがはキャプテンだ。タッチプレイが必要な3塁をあきらめ、確実に1塁でアウトをとった。でも、動揺は見え隠れしていた。 僕はヘルメットをかぶり、バットを持ってネクストバッターサークルに向かった。 「がんばってねー!」という恵ちゃんの応援が聞こえた。 リラックスして打席に立ったやまちゃんは、あの軸回転打法の構えをしていた。すっかり板についているから、この半年、随分練習してきたようだ。やはり、昨日あれだけ言いあったやまちゃんには、キャプテンも力が入るのだろう。精一杯の速球で勝負にきた。でもそれくらいなら、ニヤついた男や川上にも及ばない。やまちゃんは軽々とセンターオーバーを放ち、自身は3塁まで行った。 楽々と1点先制。 「おまえらと一緒でよかったよ」 そう言う上田の声を聞きながら僕は打席に入った。 押せ押せムードに乗って、僕はレフトオーバーを放った。 もちろん公式戦のように仮設フェンスなんてないから、ホームランの規定もないが、レフトの先輩は、その先のテニスコートまでボールを追いかけて行って、その間悠々と僕はホームを踏んだ。 その後、田中、白石と連打が続き、新田は送りバント、1塁に入った吉岡がライト前ヒットでもう1点とった。チャンスに強いはるちゃんも当然ヒットを放ち、やまちゃんが倒れるまで、僕らは1回だけで、6点とった。 いつの間にか隣接するテニス部やサッカー部からもギャラリーがきていて、ちょっとどよめいていた。 声を弾ませて「がんばれー」と言う恵ちゃんの応援を背に、僕はマウンドにあがった。 投球練習を済ませ、プレイがかかると、僕は天を見上げた。これをやると僕は落ち着く。今日も見渡す限りの青空だ。 さて、いこうか。 僕は大きく振りかぶった。 はるちゃんのサインはど真ん中豪速球だ。 そうさ。それでないと面白くない。あのやかましいキャプテンを黙らせてやる。僕は大きく足をあげ、渾身の力で、投げ込んだ。 ドーンというミットの音が響いた。 ギャラリーは沈黙し、それ以上に先輩たちが目を白黒させていた。 1番バッターは、生徒Cのような先輩で、3球三振。2番も、3番もだ。 バックのみんなが笑顔でハイタッチしながら、ベンチへ引き上げている。 僕だって、この半年で随分成長したんだ! はるちゃんが、キャプテンに声をかけた。 「どうします?キャプテン。もう僕らの実力はおわかりでしょう。まだやりますか」 キャプテンは苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、「ばかやろう。野球は9回までだ」と言った。練習もしないで、ただ威張りちらすだけのゴツイ先輩だと思っていた僕には意外な返答だった。プライドと意地だけはまともじゃないか。そう思った時、ギャラリーの中の一人が、「その通り」と言った。見ると、端正な顔立ちで背が高く、髪の長い生徒が言った。その男はニコニコしながら、人ごみをかき分けベンチの辺りにやってきた。 「田所さん、ずるいですよ」 キャプテンは田所というのか。 「ああ氷山か」 え?ひやま・・・どこかで聞いたような・・・ 「こんなに楽しそうなこと、僕に教えてくれないなんて」 「ああ。すまん。おまえに出てもらう必要はないと思っていたんでな。しかしこの有様だ。いっちょうシメてもらえるか」 「当然ですよ。僕がエースなんだから」 ああ。と、僕には合点がいった。キャプテンがエースなら、あまりにお粗末だ。ちゃんとエースは別にいたようだ。 「おい1年。ピッチャーが替わるぞ。うちのエースだ。氷山、急いで着替えて来いよ」 「いや田所さん、着替えは部室に置いていないから、このままでいきます」 氷山という男は、詰襟服を脱ぎ、簡素なつくりのベンチに置いた。そしてその辺にいた部員からグラブを借りてマウンドにあがった。準備運動もなしに大丈夫かとも思ったが、その男は気にもしていないようで、投球練習を始めた。驚いたことにキャプテンはキャッチャーだった。 投球動作が極めてスムーズだ。 こいつはデキる。僕には分った。 はるちゃんも分ったようで「谷山、ねばって様子を見てくれ」と僕に言った。 プレイ再開。 打順は僕からだ。 1球目。 かなりキレのいいストレートが外角に決まった。 2球目。 同じ球だが、ボール1個分外れた。 3球目。 これもキレのいい球で、カーブが決まった。 4球目。 速球が胸元にきた。しかしボールだ。 田中はネクストバッターズサークルで、タイミングをとりながらスィングしていた。 まっちゃんも、はるちゃんも、ずっと球筋を見つめていた。 さあみんな。そろそろいいかな。これは、決して打てない球じゃない。 5球目。 外角のくさい球を僕はカットした。 6球目。 内角速球をバットに当てて、3塁側へカットした。 「がんばれー」という恵ちゃんの悲鳴のような応援が聞こえた。 ギャラリーから見ると、僕が追い込まれているように映るのだろう。 でも、そうじゃない。僕は氷山という男との対決を楽しんでいた。 そう。これは初めてふうちゃんと対決した時と同じだ。 ふうちゃんの姿が、氷山という男に重なって見えた。 そして、勝負のカーブが来た。 すごい球だと思った。こんな先輩もいるのなら、生徒BからJしかいないと思っていたこの野球部も捨てたものじゃない。 しかし。 僕のバットが快音を発し、ボールはテニスコートまで飛んで行った。 ベースを回っている時、涼しい眼差しを僕に向け、透き通った笑顔を見せたその男は僕の中で、すごい先輩になった。 2打席連続ホームランを放った僕に、ベンチは湧いた。 みんな、この先輩からはそうそう点がとれないことを分っていたからだ。案の定、職人田中も、当たればでかい白石も、当然新田も、簡単に討ちとられた。 ベンチに引き揚げる氷山先輩は、いつの間にか増殖していた女生徒ギャラリーから大きな声援を浴びていた。氷山先輩は、確かにイイ男だ。こっち方面もすごいのかと思いつつ僕はマウンドに上がった。 打順はキャプテンからだ。 さて、どんなバッターなんだろう。 初球は、外角低めに速球を投げた。 キャプテンは食らいついてきたが、バットは空を切った。 2球目。 内角高めの誘い球。 1個分外したからか、キャプテンは見送り、ボールになった。 ふん。キャプテンだけはある。センスは悪くないようだ。 3球目。 外角低めの遅い球。 タイミングを外されたようで、また空を切った。 4球目。 さて、そろそろ往生しやがれと思い、僕は真ん中低めに豪速球を投げた。豪速球の場合、相変わらずこまかな制球力はないが、高め、低めくらいは投げ分けできる。ボールはうなりをあげて飛び、はるちゃんのミットに快音を発して収まった。 見送り三振だ。 キャプテンはしばし呆然としていたが、やがて「ふふん」とでも言うような複雑な笑みを浮かべて引きさがった。どういう意味の表情なんだろう。 続く5番も6番も3球三振に切って取り、攻守交代だ。 僕らの攻撃も、案の定氷山先輩に簡単に抑えられた。 僕は再びマウンドに上がり、7番に入っていた氷山先輩と対決することになった。 どんな打者なのか。いや。間違いなくすごい打者だろう。そう覚悟しておいた方がいい。やはり、ボールには手を出さず、くさい球はカットして、さっきのお返しとばかり粘られた。それならと、ど真ん中に豪速球を投げた。 しかし、先輩はその豪速球を狙っていたのだ。 快音とともに、打球は舞いあがった。 「さすがだ」と思う余裕が僕にはあった。 高々とあがったものの、やがてガンちゃんのグラブに収まった。 「あ~」と悔しがったのはキャプテンその他生徒C以下で、氷山先輩は涼しげな笑顔を絶やさなかった。そんなところもふうちゃんに似ている。 続く2人の打者を打ち取り、3回が終わった。 ベンチに戻ると、はるちゃんが僕に聞いてきた。 「点差もあるし、ここは吉岡に投げさせようと思うけどいいかい?」 未知数の氷山先輩が敵だと言うのに、不思議な話だった。怪訝そうな顔をしていた僕にはるちゃんは言った。 「誰であれ、谷山なら負けないさ。それはもう分ったんだ。でもね、僕らの中学野球は始まったばかりだから、いろんなことを経験しておいた方がいいと思うんだ」 「わざと負けるなんてごめんだぜ」と、やまちゃんが口をはさんだ。 「僕だって、負ける気はないさ。だから、谷山には1塁に入ってもらう。いけるところまで行って、いよいよになったらシメてもらう。このままじゃあ、野手は守備機会もろくにないんだよ。それは良くないじゃないか。中学生の打球を体で知っておかないと」 「まるで、俺が打ち込まれるような言い草だな」と、吉岡は笑った。 話の途中で、僕は打席に立った。 さすがに、2回も打たせてくれない氷山先輩のうまさに、僕はまんまと3塁ゴロを打たされ、攻守交代となった。 はるちゃんが主審に伝えた。 「ピッチャー吉岡に交代。谷山は1塁」 先輩たちのベンチでは、キャプテンが「なめられたもんだな。俺たちも」と言っていたのが聞こえてきた。 僕は、1塁に入った。 吉岡のチームとは、小学5年の頃、何度か練習試合をやった。その頃の僕は外野で、吉岡と投げ合ったのはふうちゃんだ。泉川小は、やる気のないチームではなかったが、僕らには一度も勝っていない。彼の印象は、カーブやシュートにフォークを持つ器用なピッチャーというものだった。 プレイがかかり、吉岡のマウンド姿を久しぶりに見る。 やはり、器用なヤツだった。 はるちゃんの要求どおり、無難に投げているし、かなり未完成だった変化球も、すいぶん良くなっていた。おかげで、先輩たちは打たされる格好となり、三者凡退に終わった。 「吉岡君もけっこうやるね」 そう言って、不敵に笑ったのは意外にも新田だった。 気が小さくて優しいだけのお坊ちゃんと思っていたが、やはり東原のレギュラーだった誇りを持っているようだ。 僕らの攻撃も氷山先輩に軽くひねられ、早々と交代になった。 この回は、キャプテンからの打順だ。 さすがにキャプテンだけはある。はるちゃんの巧みなリードをかいくぐり、センター前へ弾き返した。この試合初めてのヒットに、先輩たちのベンチが湧いた。 続く5番打者も3年生だ。 別にヒット1本打たれただけなのに、吉岡は落ち着かない様子だった。 点差もあるし、そんなに緊張しなくても。 そういう吉岡を落ち着かせたのは、はるちゃんの送球だった。 3球目。 ランナーまで気が回らない吉岡のスキをついてキャプテンが走った。 スタートは悪くない。 足もそんなに遅くない。 このキャプテンには、まあ、才能があると言ってもいいだろう。 でも、はるちゃんが黙っているはずはなく、矢のような送球だった。 土埃をあげて滑り込み、タッチアウトになった時、キャプテンは目を白黒させながら、ようやく僕らの超小学級の力を実感したようだ。 1塁側ベンチに戻ったキャプテンは氷山先輩に話しかけられた。 「おもしろいですね。彼らは」 「ああ。見くびっていたが、とんでもない連中だ」 「さすが、中島を三度も倒して3連覇しただけはありますね」 「え?そうなのか?あの中島を?」 氷山先輩は笑った。 「知らなかったんですか。キャプテン。彼らは中島から絶対王者って言われていましたよ」 「知らん。が、そうか。どうりで」 「おもしろいでしょう。僕もはりあいが出ます」 「おまえがそう言ってくれると、これからが楽しみだな。生意気な奴らだが」 結局試合は、僕らの勝ちだった。 先輩たちは吉岡から連打による2点と氷山先輩の意地の1発による1点の3点しか得点できなかった。僕らも氷山先輩からはそれ以降得点できず、終わってみれは7対3。状況を考えると、僕らの圧勝と言っていい。それに、やはり中学生の打球は球足が速く、さらに半テンポ早く始動した方がいいというような収穫もあった。久々に試合ができて楽しかったし、最後にはキャプテンも笑っていたし、目標と思える氷山先輩にも出会えたし、めでたしめでたしと思っていたが、そう言えば、キャプテンの土下座を忘れていた。 でも、それはまあいいか。 雨降って地固まるというのはこのことを言うのだろう。 もしくは、桜吹雪のあと、鮮やかな新緑が青空に映えるように僕らの心は晴れ晴れとしていた。もともと、そんなに熱心な野球部ではなかったようだが、キャプテンも氷山先輩も、その他の先輩も何人かは練習に出てくるようになった。 キャプテンは時折り意地悪そうな笑みを浮かべ、僕らにタイヤ引きを命じたり、うさぎ跳びを命じたりしてくるが、それは僕らのためになるので、特に文句は言わなかった。あんなにゴツイ、嫌なキャプテンだったのに、今は愛嬌のあるゴツイキャプテンだ。 生徒B以下の先輩たちも僕らの力を認めてくれている。 ようやく、中学野球のスタートラインに本当に立つことができた。 そんなこんなで2週間もたった頃。 六家先生が僕らのところにやってきた。 中島中から練習試合の申し込みがきているという。 生徒BからFのような先輩たちは、一様に驚きの声をあげたが、僕らにとっては「さぐりにきたな」程度の感想だった。それから「女生徒が8人くらいマネージャーをやりたいと言ってきているがどうする?」と聞いた。そっちの方が驚いた。キャプテンは苦笑いしながら答えた。 「どうせ、氷山目当てなんでしょう。長続きしませんから断ってください」 「本当にいいのか。先生としては生徒の希望はかなえてやりたいが」 キャプテンは真っ赤になって悩んでいた。 その双肩には生徒BからF先輩の熱い視線を背負っていた。 「う~ん。わかりました。許可してください」 「よし。では正式に手続きしておこう。もちろん本気かどうかは聞いておく。監督には先生から伝えておく」 六家先生は意外に面倒見がいいんだな。と思った。 あとで事情通の上田に聞いたところ、族仲間との付き合いや、女生徒とのよからぬ噂などが絶えなかった氷山先輩を最近更生させたとして六家先生の株があがったらしく、軽音だけでなく、野球部にも目が向き始めているらしいとのことだった。 野球は、バットとボールの作用と反作用だが、世の中もどこで作用反作用するのかわからないものだ。それにしても、あの優男の氷山先輩が、族とつるんでいたなんて、にわかには信じがたい話だった。 第二章 絶対王者 その日。 練習試合の日。 先輩たちは落ち着かない様子だった。 前の日にキャプテンが、2・3年メンバーで先発すると決めたからだ。 「こんなチャンスはめったにない。胸を借りるつもりで」 そうは言っても、そんなに甘くはないけどなあと思ったが、一応キャプテンの指示は絶対らしい。おまけに、何時になっても頼りの氷山先輩が来ていない。もう一人いる、2年生ピッチャーの顔色が悪かった。中島中といえば、甲子園予備軍とも言えるメンバーだ。無理もない。 シート打撃練習をしている時、「全員集合」という声がかかった。まだ途中なのに何故だろうと思いながらベンチ前に行ってみると、小柄で細いヨレヨレのおじさんがいた。ジャージ姿に野球帽。真っ赤な顔に、垣間見える胸板は見事な焼酎焼け。近所のヨッパライが紛れ込んだのかと思っていると、キャプテンが号令した。 「監督に、礼!」 そう。そのおじさんこそが噂のヨッパライ監督だったのだ。 まさに吃驚仰天。どう見てもただのヨッパライだ。 僕は海より深い失望を隠しつつ、監督の言葉に耳を傾けた。 「オーダーは、いつもの通り。まあ、がんばれ」 ???たった、それだけ?この野球部には本当に驚かされる。そんなことで、勝てると思っているのか。緊張のあまりおどおどしている先発の先輩たちの横で、旧東原のメンバーは一様に苦々しい顔をしていた。せめてピッチャーだけでも・・・。初対面の監督に誰も面と向かって反対しなかったが、好きにしてくれというふてくされた気分にならないでもなかった。 やがてやってきた中島のメンバーには、当然のように、あの不敵なキャプテンも、ゴツイ4番もいた。でもたった二人だけであとは知らないメンバーだ。たぶん、昨年県大会で優勝したメンバーなんだろう。中島は本気だ。さぐりなんてもんじゃない。本気で僕ら(旧東原)をつぶしに来ていると思った。なのに何故、うちは生徒BからJの先輩が先発なのだろう。戦う前から勝負は決まったようなものだ。 「氷山の姿が見えませんな」と、中島の監督がうちのヨッパライに言った。 「ああ。また来ておらんようですな。いつものことです」 中島は、氷山先輩もマークしていたのか。確かに先輩ならマークされても不思議ではなかったが、こんな弱小野球部までも調べているなんて。僕はその時、そう思って中島の底力に驚いたものだが、あとで事情を知った。つまり、氷山先輩はもともと中島小のエースだったらしい。家庭の事情で、中学からは公立である我が泉川中に入ったのだ。加えて僕ら東原のメンバーが泉川に入ったものだから、中島は、泉川を徹底マークすることに決めた。そんなことなど露知らず、せめて野球らしくなってくれと、今は頼りない先輩たちを応援するばかりだった。 氷山先輩がマウンドにあがらないことを知って落胆したのは、中島中ばかりではなかった。いつの間にか増殖していた女生徒の一団からもためいきが漏れていた。そんな中でマウンドにあがった本田先輩は気の毒だった。ためいき通りの実力で、中島中に連打を浴び、1回だけで4点とられた。でも4点でおさまったのは奇跡と言っていい。田所キャプテンの体をはったプレイのおかげだった。 その裏。 案の定三者凡退で、2回表。 早々と2点をとられ、試合は壊れかかっていた。氷山先輩目当ての女生徒はあらかた帰り、息をきらせ顔を真っ赤にして額の汗をぬぐう本田先輩が、とても気の毒だ。せめて僕ら旧東原にやらせてくれたら、こんな結果にはなっていない。1、2回の攻撃を見て分った。僕らでも十分に戦える。僕は右手を握り締め、悔しさをこらえかねていた。そんな時、中島中の監督が、うちの監督に提案した。 「失礼ですが、彼らでは試合になりません。せめて東原だった新1年のメンバーと総入れ替えしていただけませんか」 こっちから見ると、あまりにも横柄な物言いだ。 田所キャプテンも唇を噛んで、睨みつけていた。 なみのプライドがあるのなら、そんな申し入れなど一蹴すべきで、監督は当然断るだろうと思った。ところが、 「ああいいよ」と、軽く引き受けてしまった。 ダメだ。この監督は。いや、監督のプライドすらない「ただのヨッパライ」だと、僕は決めつけ無性に腹が立った。 僕が怒りのあまり周りが見えていない時。 みんながざわめいていた。 その中心に、氷山先輩がいたのだ。 女生徒の、悲鳴のような歓声で、やっと僕も気づいた。 「監督。僕にまかせてもらえませんか。彼らにはまだ荷が重いです。せめてあと何回か見せてやらないと」 「ああ。きたか、氷山。お前がそう言うのなら、そうしよう」 ヨッパライはまたも軽く請け合った。 まったく、このヨッパライは本当に信用できない。 中島の監督も、氷山が投げるならと、ひとまず了承した。 「1年生、集まれ」 僕らは氷山先輩に言われるまま集まり、先輩を中心に円陣を組んだ。 「いいか、みんな。俺があと3回は抑える。それまでに、それぞれ良く見て、対策を考えておけ。6回からまかせる。おまえたちなら、十分に戦える。勝てる。絶対あきらめず、気持ちを切るな」 先輩は、そんな風に見ていたのか。確かに僕らならなんとかできそうだと思う。 「わかりました」と大声で答えるはるちゃんに、まっちゃんが言った。 「声出しだ。気合を入れようぜ。はるちゃん、頼む」 思いがけない提案と、まだ慣れない中学名に照れ笑いを見せながら、はるちゃんは了承し、音頭をとった。 「いずみかわー!」 「ファイ!よーし!」 僕らは大きな声を出し、氷山先輩をマウンドに送った。 「おまえたちなら十分に戦える」という氷山先輩の言葉は、僕らの闘志に火をつけた。 野球は9回までだ。絶対なんとかしてやる!僕らは目を輝かせて甲子園予備軍といわれる中島中を観察することにした。 しかしその前に、氷山先輩の投球は鮮やかだった。 体重移動、腕の振り、どこにも欠点が見当たらず、そのしなやかな長身から投げおろされるストレートは、驚くばかりのキレの良さだった。 僕は気づいた。 先日対戦した時、先輩は革靴のままだったから投げにくかったのだ。今日のような調子なら、僕はホームランを打てなかっただろう。 やっぱり、氷山先輩はすごい。 中島中の選手は、引っかけたり、打ちあげたり、打たされたりと、あっけなく凡退した。 6対0のまま、5回の表が終わった。 氷山先輩は、肩で息をしながらマウンドを降りてきた。 やはり、中島を抑えるのは大変なのだろう。 丁寧に組み立て、球数が増えていた。 僕とはるちゃんはキャプテンに呼ばれた。 「いいか。氷山の言うとおり、次からおまえらを投入する。ただし、俺は1塁、氷山はレフト、吉岡をライトに使う。わかったな」 「はい!」 「準備はできているな?」 「はい。さっきあらかた投げ込みしましたから」 「よし。じゃあベンチ横でキャッチボールでもしてろ」 「はい!」 そこで、キャプテンは急に笑顔を見せた。 「実はな。俺もお前らがどこまで通用するか見てみたかった」 このキャプテンは、悪者じゃあないんだな。でも、ちょっと待て、それなら僕らを先発で使えよ。危うく笑顔でごまかされるところだった。 あっけなく攻撃が終わり、僕がマウンドに向かうと、中島ベンチからどよめきが、泉川の女子生徒からはブーイングが起こった。 ヨッパライが中島ベンチに、選手総入れ替えの申し入れに行った。むろん中島には異論なく受け入れられた。中島の想定するライバル校のかたちなのだ。しかも中島の監督は「今までの流れに関係なくベストの人選、ベストのポジション、ベストの打順を特別に組んでください」と要望してきた。本気で僕らをマークしているのだ。 投球練習が終わり、主審から「プレイ」の号令がかかった。 おかしなかたちの練習試合とは言え、僕の、いや僕らの中学デビュー戦だ。 僕は胸の高鳴りを感じつつ天を見上げ、深呼吸した。 初球のサインは豪速球ど真ん中。 僕は大きく振りかぶって、第1球を、投げた。 ボールは、空気を切り裂きながら飛び、快音を発してはるちゃんのミットに収まった。 場の空気が一瞬静まりかえった。 やがて中島ベンチがどよめき出した。 僕には、自信があった。 小学時代よりさらに速くなっている。 あの不敵なキャプテンの驚いた顔が、その証拠だ。 半年間、父さんの勧めるまま、徹底的に走り込みやウェイトをやった結果だ。 次も豪速球でと思っていると、はるちゃんのサインは意外なものだった。 「外角低め、遅い球」 おもしろくないなと思いながらも、サインどおりに投げた。 すると、おもしろいように引っかけてくれた。 待ちきれず当たりそこなったかのようなボテボテの打球を、猛ダッシュしてきたやまちゃんが捕球し、アウトをとった。 内野でボールを回すみんなも活きいきとしていて、言葉は悪いが、さっきまでまるでお粗末だったチームとは、まるで別のチームだ。 そう。僕らは「絶対王者」と言われたチームなんだ。 第三章 グランドスラム 僕の持ち球は、小学校時代と変わらない。 「遅い(ゆるい)球」「速球」「豪速球」の3つだ。 カーブを覚えようかとも思ったが、元高校球児を自慢する父さんに「まだ早い」と言われた。 「プロじゃないんだから、力で押し切れるはずだ。ストレートだけでいけるところまで行ってみろ」 鬼監督も同じようなことを言っていたから、僕は変化球を持っていない。その代わりと言っていいのかは分らないが、緩急と左右高低の投げ分けがきちんとできるように練習してきた。しかも敵に悟られないよう同じフォームで投げ分けた。正確に言うと、豪速球だけはちょっと力が入るが、それもこの半年でかなり修正してきたつもりだ。小学時代の後輩ピッチャー吉田は何で同じフォームでと不思議がっていたが、それが、練習の成果であり僕の持ち味なんだろう。小学時代、強敵たちを倒してきた、その僕の持ち味は今この試合でも発揮されている。甲子園予備軍と言われる中島中を相手に、きちんと3者凡退をとった。 その裏。 僕らは中島中監督の言葉に甘えて、基本的には東原時代の打順に組み変えた。もちろん、氷山先輩は3番、キャプテンは4番、僕が5番に、やまちゃんが6番、吉岡は8番だからけっこう変わっていると言えるかもしれないが、現時点ではベストメンバーだ。 打席にはガンちゃんが入った。 当然ガンちゃんの情報を中島は持っていて、バントしにくい内角の高低を攻められていた。ガンちゃんは大根切りもあるから、2遊間は深めに守っている。 さて、ガンちゃんはどうするのかと思っていると、ひとまず粘って1番バッターの務めを果たそうとしているようで、フルカウントになってもカットして粘っている。おかげで見ている僕らもだいたいのタイミングはつかめた。 7球目。 やや真ん中に来た低めの速球を、ガンちゃんはすくい上げるように見事にセンター前に持っていった。それはニヤついた男のフォームに似ていた。ガンちゃんも、この半年間で成長していた。得意のセーフティバントに、大根切りアンド、ローボールヒッターとなれば、ますます死角のない選手になる。 さて、鮮やかなヒットを放った1年生に、ギャラリーが湧いた。氷山先輩目当ての女子生徒も再び増えていた。 さすがに、中島相手に盗塁は難しく、まっちゃんが送りバントを決めた。 ワンアウト2塁。 ここまでは、まずまずだ。氷山先輩、頼みます。 中島中は、その小学部と違い、先発、中継ぎ、抑えの役割分担はないようだ。一人のピッチャーがここまで投げている。多彩な球種を持つピッチャーで、ここまでカーブやシュートで泉川は翻弄されていた。それは氷山先輩も同じで、なかなか仕留められずファウルで粘っていた。しかし既に6回だから、ワンアウト2塁のこのチャンスは重要だ。1点とって、反撃の足掛かりにしたい。 「1点づつ取り返せ」 そう言っていた鬼監督の顔が思い出される。氷山先輩は鬼監督の教えを受けたわけではないが、野球をする者なら、誰だってわかることだ。あきらめずに1点づつ取って、流れをこっちに引き寄せるんだ。 7球粘った末、先輩の打球は1・2塁間を破った。 ガンちゃんは3塁を蹴ってホームを狙ったが、ランナーコーチの新田が必死になって止めた。それほどライトの守備が良かったのだ。あのままなら、ガンちゃんとて分らなかった。 3塁上のガンちゃんは、さかんにホームスティールの真似をしてピッチャーにプレッシャーをかけていた。それはパスボールの危険性がある変化球を封印し、速球ストレートを投げさせることになり、キャプテンに狙い球を絞らせる効果はあったが、同時に氷山先輩の盗塁は難しくなる。そのわずかな隙をついて氷山先輩は走った。絶妙なスタートで、まるでピッチャーのクセを読み切ったかのようだった。驚いたのは相手バッテリーだけじゃない。田所キャプテンも驚いて、とんでもないボール球に、援護の空振りをした。氷山先輩の盗塁は成功し、女生徒のボルテージはあがったが、キャプテンの三振という代償を払った。 2アウト2、3塁。 不思議なもので、こんな時には良く僕にまわってくる。いつもなら恵ちゃんの応援が聞こえるが、今日はバスケ部も練習試合に出ているので、ここには来ていない。ちょっと寂しくもあるが、僕は打席で集中せよと、自分に言い聞かせていた。盗塁の心配もないから、多彩な変化球で攻められた。確かに落差のあるカーブには舌をまいたが、決して打てない球ではない。何球か粘った末、僕のバットはボールをセンター前に運んだ。 ガンちゃんが生還し、1点。氷山先輩は3塁へ。 泉川サイドが沸いた。 中島中は甲子園予備軍だと思っていたが、手の届かない相手ではなさそうだ。 ニヤついた男や、川上との闘いが、よほどタフだった。 そんなことを頭の隅っこで考えていると、やまちゃんが、ライト前にヒットを打った。やまちゃんは、右方向へも打てるようになったようだ。これで打率があがるだろう。思うに中島中がどうこうではない。幾多の激戦をくぐり抜けた僕らがタフになったのだ。 田中はショートゴロに倒れ、3アウトになった。 とりあえず、2点を返して6対2。 まだまだ、これからだ。 7回表。 はるちゃんの巧みなリードのおかげで、面白いように打たせて取ることができた。僕は妙に落ち着いている。昔みたいに感情を表に出してもいないはずだ。 半年間、部の練習が無くなった分、筋トレなど、個人的な練習を増やしたおかげで、楽に投球できている。ちなみに、朝のランニングは1時間およそ十キロ。放課後は、帰宅早々宿題やら2時間程度の勉強をやっつけて腕立てと腹筋をそれぞれ二百回。夜はいつもの壁当て。うさぎとびで家まで帰って、それからバットの素振り。日曜日は父さんと遠投。そんな毎日を送ってきた。縦横の体つきも大きくなったし、いろんな意味で充実した半年間だった。 7回裏は吉岡からだったが、簡単に3アウトになってしまった。 そうそう簡単にはいかないか。 8回表。 僕も、中島を簡単に抑えた。 投手が攻撃のリズムをつくらないといけない。 鬼監督の教えだ。 その裏。 曲者まっちゃんが、ガンちゃんばりのセーフティを決めた。 3塁手は、球が切れると思ったようで、ボールを捕らなかったが、ぎりぎりフェアグランドで止まった。 さて、そろそろ反撃開始だ。 3番は氷山先輩。 まっちゃんがさかんにプレッシャーをかけるから、相手バッテリーは落ち着かない様子で、ひとまず直球主体の攻めを見せた。先輩が粘っていると、やがて失投と思われる甘い球がきた。見逃さず、レフトオーバーだ。 応援の女生徒たちは悲鳴のような歓声をあげた。 ノーアウト2・3塁。 「よし!」と気合を入れてキャプテンが打席に入った。 しかし気合は空回りし、あえなく三振。 女生徒の歓声がため息に変わった。 僕が打席に入ると、さっきのヒットを覚えていたのか、ちらほらと歓声があがった。 こんな時、大事なのは一発狙いではなく、次につなぐこと。 これも鬼監督の教えだ。 キャプテンはそれが出来ていなくて、力み過ぎたのだ。 僕のデータを持っている中島は、当然僕の苦手な内角をしつこく攻めてきた。 でも、例えそれがバットの根元に当たったとしても、2塁上を越え、センター前に転がったから、追加点を取った。 無理をせず、確実に次へつなぐんだ。 その意思は、当然やまちゃんにもある。 小学時代、力みすぎと言われたやまちゃんではない。楽に弾き返してライトフライ。捕球と同時に、氷山先輩が猛然とタッチアップした。 ここで、中島はミスをした。 さっき、うまい守備を見せたライトを信頼していたのかもしれないが、バックホームの線上に、誰もいなかったのだ。確かに好返球だったが、そもそも間に合うような距離ではない。僕は誰もカットできないことを早々に見切って二塁へ走った。土埃をあげてスライディングを決めた先輩も、僕も、オールセーフだ。泉川のギャラリーから大きな歓声が沸き起こった。その大半が氷山先輩に向けられたものだとしても、僕はいい気分だ。やっぱり野球って楽しい。鬼監督のおかげです。素直にそう思った。  僕らはやりたいことが普通にできている。 気落ちしたピッチャーは、田中にファーボールを与えたものの、さすがは中島だ。気持ちをきっちり入れ替えて、続く吉岡をボテボテの内野ゴロにうちとった。 「あ~」という落胆の声があがった。 それは、みんなが勝利に向かって集中していることの裏返しでもある。 得点は6-4。 いよいよ最終回。 僕は豪速球を連発し、三者凡退を狙った。 さっきの回の攻撃リズムが消えないうちに、さっさと攻撃に入りたかった。 流れはこっちにきかかっているんだ。僕がたぐり寄せてやる! ひとり、またひとり、僕は三振を奪い、3人目にはヒット性のファーストライナーを打たれたものの、キャプテンがジャンプ一番、我武者羅にキャッチしてくれた。 「よっしゃー!」と、まっちゃんが吼えた。 僕も思わずグラブを叩いて吼えていた。 全力でベンチに戻ってくるみんなも、気合が入っている。 僕らは負けない。 そんな気魄が漲っていた。 9回裏。 中島は、ピッチャーを変えた。 打順は、はるちゃんからだ。 頭の良いはるちゃんのことだから、粘って様子を見るのかと思っていたら、なんと初球をレフト前へ運んだ。 「かわりっぱなの初球を狙え」というのも、ある意味セオリーだ。そんなことを普通にできるだけの力が、僕らにはある。 代わりに、ガンちゃんがバントの構えを見せるなどして球数を放らせていた。 バッテリーも警戒しすぎたようで、ガンちゃんはファーボールをもぎ取った。 ノーアウト1、2塁。 泉川サイドが俄然盛り上がった。 生徒BからJの先輩たちも興奮しているようだ。 「よっしゃー」と吼え、バットを2回振り回してまっちゃんが打席に入った。 「2球目、送りバント」の合図だ。 その2球目。 何食わぬ顔をしていた中島の1塁手が投球と同時にダッシュしてきた。 さすがの曲者まっちゃんも、バント予告をしていただけに、その動作を止められずバントしてしまった。それでもファールにしようという意志は見えたが、1塁線を越える前にキャッチされ、足の遅いはるちゃんが刺された。ガンちゃんとまっちゃんの高速コンビからもうひとつのアウト、つまりダブルプレイは取れなかったが、それでも盛り上がりに冷や水を浴びせられたかのような格好になった。 さすがは中島だ。おそらくバントの合図も、はるちゃんの鈍足もちゃんと知っているのだ。 一瞬、息をのむように静まりかえったが、氷山先輩の打席入りで女生徒を中心にした歓声が再び起こった。 口元には笑みを浮かべる先輩も、ヘルメットの奥の目は、笑っていなかった。 2球ファールの3球目。 外角低めに外してきた。 ということは、次は内角に勝負球が来るはずだ。 案の定内角に切れ込んできた球は、僕らも小学時代に苦しめられた、あの、当たりそうで、ぎりぎりストライクになる大きなカーブだ。どうも中島の伝家の宝刀らしい。 僕は「やられた!」と思った。 しかし、氷山先輩は落ち着いて腕をたたみ、無理せず軽やかに弾き返した。 打球はセンター前にぽとりと落ちた。 女生徒の悲鳴のような歓声があがった。 「よし!」と、僕も思わず叫んだ。 やっぱり氷山先輩はうまい。 これで1アウト満塁。外野フライでも1点だ。 「キャプテン、頼みます!」 キャプテンは、気魄で食らいつき、6球粘った。 7球目。 奇跡が起こったと僕は思った。 2塁のわずかに右。 ライナー性の打球は抜けて行くはずだった。 しかし僕の想像は天国から地獄。2塁手がとびついて鮮やかにキャッチした。 「げっ、ゲッツー?」 僕はびっくりしたものの、2塁手がとびついた勢いのままボールをトスもできずに転がり、その間に何とかランナーはみんな帰塁できた。 泉川サイドから安堵のどよめきが起こった。 まるで、さっきキャプテンが見せたファインプレイの裏返しだ。 まあ、いい。 とにかく僕がつなげばいいんだ。 そう言えば、こんな状況は以前にも経験がある。 そうか。岩松兄弟だ。 彼らが、「9回に点を取るのがお前の仕事だ」と真顔で言ったあの試合。 秋季大会の決勝戦。 あの時も中島が相手だった。僕はそんなことを漠然と考えながら、さかんにファールして粘っていた。粘っているうちに、なんとなくタイミングが合ってきた。さすがに中学生の球は小学生より当然ながら球威がある。 でも、何かのまちがいのような甘い球が来た。 8球目だった。 僕はバットを振り切った。 快音とともに、ボールはテニスコートまで飛んで行った。 僕が全力でダイヤモンドを1周してホームを踏んだ時、出迎えのチームメイトから揉みくちゃにされて、ボコボコに叩かれて、蹴りまで食らった。 逆転サヨナラのグランドスラムだった。 -野球少年 中学校編 2 へ続く-
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