野球少年 中学校編 3

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野球少年 中学校編 3 目次 第八章 クロスファイアー 第九章 酔いどれ記者 第十章 夏の日々 第十一章 鬼柴田 第八章 クロスファイアー 当時は、クロスファイアーなんていう呼び方はなかった。また、スライダーとも言わなかった。しかし僕はその二つを武器に県大会へ突入した。 伝家の宝刀カーブと落差の大きなカーブはあまりに未完成で、制球力がなかった。だから見せ球でしか使えない。ふつうのストレートについてはなんとか間に合って、左右高低への投げ分けも多少はできる。 ともあれ、僕は左投手として中学野球にデビューすることになった。もちろん右をおろそかにはしていなかったが、ヨッパライは「左じゃなきゃ使わん」と明言していたし、僕にもそれなりの自信があった。頼れる氷山先輩もいるし、往生際の悪いキャプテンもいるし、僕は僕らがどこまでいけるか楽しみだった。 県大会は、県を中央、東、西、南、北の5ブロックに分けて予選を行う。県庁所在地のある僕らの中央ブロックは参加校が最も多いから四校が、他ブロックは予選三位までが集まって十六校で決勝トーナメントを行う。ちなみに秋の秋季大会は県ではなく市の大会だから、あの岩松兄弟と戦えるチャンスはこの夏の県大会しかない。 県大会と言っても、その開催は小学校とさほど変わらなかった。予選は市民球場、決勝が県営球場だ。 僕らは市民球場での開会式に参加し、それはまるで同窓会のような気分だった。小学校時代、強敵として僕らの前に立ちはだかった面々がいた。もちろんニヤついた男も、寡黙なピッチャーも、不敵なキャプテンもだ。みんな野球を続けているわけで、それはそれで嬉しかった。 「おう、田所はいるか」 開会式のあと、何ともガラの悪い男が僕らのところにやってきてほざいた。 いきなり何だこの男は。 「キャプテンなら、今トイレです」 新田が馬鹿正直にそう答えた。 「キャプテンなのか。あの馬鹿は。いきなりトイレだなんて、笑わせてくれるぜ」 「誰が馬鹿だと、この野郎」 ガラの悪い男の背後には、キャプテンがやってきていた。 「いきなり、しょべんちびんじゃねえぞ、馬鹿大将」 「やる気か、ああ?」 いきなりの対決ムードだ。僕もいざとなったらそ知らぬ顔で足払いをお見舞いしてやるつもりだった。 「やる気もなにも、俺らは1回戦で当たるじゃねえか」 「はぁ?」 「おまえ、そんな事も知らねえのか。本当に馬鹿大将だな」 「本当か、春木」 さすがのはるちゃんも、いかついゴリラ同士の対決にすっかりのまれていて、ひきつったような表情で答えた。 「1回戦は、池田中です」 「それみろ!」と、ガラの悪い男は笑った。 僕は氷山先輩に聞いた。 「誰なんです?あのガラの悪いヤツは」 先輩は微笑をたたえながら、というかおかしさに堪えながら教えてくれた。 「いとこだよ。キャプテンの」 「えー、そうなんですか」 「あの二人は、仲がいいような悪いような。まあ、はじめて見たらびっくりするだろうな。何回か練習試合をしたけど、いつもあんな調子さ」 ガラの悪い男は言った。 「とにかく、まあ俺らは手加減してやっからよ。毎年毎年ボロ負けじゃあ、お前の面子もねえだろう」 あれ?氷山先輩がいたはずなのに、去年はボロ負けだったのか? 「氷山先輩は、去年投げたんでしょう?」 「いや、俺は投げてない」 「どうしてですか?」 先輩はさわやかな笑顔で答えた。 「寝坊したからさ」 僕はズッコケた。先輩でもそんなことがあるんだ。いや、そんな風に言っているが、何か家庭の事情があったのかも知れないな。 「手加減できるものなら、してみやがれ。今年の俺らはつぇーぞ」 「おまえ、毎年そう言っているだろう。小学校の頃から」 キャプテンと、そのいとこのいがみ合いは続いていたが、僕らは馬鹿馬鹿しくなって早々に引き上げた。帰ってから、やることはいっぱいあった。投球の確認。投内連携の確認。それと念のために右でも投げ込みをした。そうそう。この夏休みに入る前、マネージャー二人が合流した。ボール磨きに、草むしり、それから横川先輩はトスバッティングのためのトスあげをリズム良くこなしていたし、何をしていいか良くわからないような吉永は笑顔を振りまきながら飲料水の準備とかしてくれていた。おかげで生徒BからFの先輩たちも、目の色を変えて練習していた。 確かに去年までは1回戦で消えるようなおんぼろ野球部だったかも知れないが、今年は違う。キャプテンの言うとおり、僕らは強いチームなんだ。 翌日朝8時半。市民球場Cブロック第一試合。 泉川中と池田中の1回戦。 しかし、信じられないことに氷山先輩がまだ来ていない。 「またか」と、キャプテンが苦々しそうにしていた。 「まあ、いつものことだな」と、ヨッパライは笑っていた。 「しかたない。本田、お前が先発だ」 指名された本田先輩はびっくりしたようで 「俺がですか?」と聞き返した。 「おまえは2年だろうが」 「でも、谷山の方が」 「谷山の左ではまだ商売にならん。しかしまあ、どこかで使うから、それまで投げろ」 本当にこのヨッパライはいちいち腹の立つ監督だなと内心思いつつ、僕はライトに入ることとなった。 僕らは後攻だ。 マウンドに向かう本田先輩の姿を見て応援に来ていた氷山親衛隊からブーイングが聞こえた。本田先輩は生真面目だから、真っ赤な顔をしてそれに耐えていた。本当にもう。氷山先輩のせいだぞ。さらに3塁側ベンチにいたキャプテンのいとこの罵声もうるさかった。あんなヤツ、僕の豪速球で黙らせてやるのに。しかし左での登板になるだろうから、えぐる直球(クロスファイアー)を、あとでお見舞いしてやる! そんなこんなで腹の立つことばかりの中、プレイボールがかかった。 緊張と屈辱の中、生真面目な本田先輩は第1球を投げた。 「あ」という先輩の悲鳴がライトまで聞こえ、そのすっぽ抜けたボールは、デッドボールになってしまった。 僕が「あ」と言いたいよ。いや、チームメイトみんながそう思ったに違いない。いくらなんでも初球からなんて。「もうけたもうけた」と、いとこが笑い「うるせーぞ」とキャプテンが怒鳴り返した。親衛隊も「ひやまくんを出してー」とわめく始末で、本田先輩は既にいっぱいいっぱいのようだった。去年までのおんぼろ野球部の姿を見たような気がした。 はるちゃんが、声をかけ、本田先輩を落ち着かせようとした。 そう。まだ慌てることはないさ。これからだ。 2番バッターに対して、はるちゃんのリードが冴えた。 池田中は、そういうチームなのか、それともまだ1回だからなのか、送りバントの構えも匂いもさせていなかった。はるちゃんなら分かる。だから左右高低でカウントを稼ぎ、高目外し気味の釣り球で三振を取った。 よし。これで本田先輩も落ち着いてくれるだろうと思った矢先、3番バッターにレフト前へ打たれてしまった。 ワンアウト1・2塁。 その時、泉川応援団から、歓声があがった。 氷山先輩がやってきたのだ。 なにやら監督と話していて、監督がピッチャー交代を告げた。 ばかか、ヨッパライは。 僕はもう、腹が立って仕方なかった。 今、替えたら本田先輩は負け犬じゃないか。そんなことも配慮しないのか。 しかし、笑顔を見せながら本田先輩はマウンドを降りた。残念。もう少し悔しがるとか根性を見せて欲しかった。 やがて投球練習を終え、プレイ再開。 氷山親衛隊の黄色い声援があがった。 遅刻はしたけれど、今日の氷山先輩はすごい。球がいつも以上に走っている。 「さあこい!」とわめいていたキャプテンのいとこを3球三振に討ち取った。 続く5番もセカンドゴロに打ちとり、チェンジとなった。 さあ、僕らの中学公式戦デビューだ。 ガンちゃん、頼むぞ。 結論から言うと、ガンちゃんの神業セーフティにはじまり、僕らは好き勝手に暴れた。まさにやりたい放題で、1回だけで8点とった。1点も与えなければ7回コールドとなる。いとこが、目を白黒させていて、キャプテンが大声で「見たか」と叫んだ。 僕らのすさまじい攻撃だった。 2回の表も難なく氷山先輩が抑え、裏の攻撃では、追加点を4点とった。 池田中の選手たちは、既にやる気をなくしたようで、僕らは4回までに十七点を取った。 もう完全なワンサイドゲームだ。 池田中が弱すぎたのだ。 あんな投手では、僕らには通用しない。 しかし。 それだけではない。 2度も中島中に勝った僕らはひと回り成長していたのだと思う。 「谷山くん、麦茶をどうぞ」 そう言って、コップを持った白い腕が伸びてきた。 5回の攻撃中、ベンチに座っていた僕がふと見上げると、吉永が麦茶を僕に差し出していた。 吉永はニコッと笑って言った。 「谷山くんもがんばったね。のど渇いたでしょう」 当時、どんなにのどが渇いても、試合中何かを飲むなんて考えられなかった。バテるから、うがいだけにするようにと指導されていた。それで僕がまごついていると吉永は重ねて言った。 「氷を入れて冷やしているから、おいしいよ。それに、私のお父さんが言っていたけど、暑い日は、やはり水分補給しないと脱水症状になるかもしれないって。お父さん医者だから信じていいと思うよ」 吉永は、笑っていた。 思えば小学校時代、試合の度に父母会のお母さんたちが、飲み物やら差し入れのお菓子やら、色々と気を配ってくれていた。中学ではそうした活動はないようで、飲み物は今回吉永が一人で準備した。横川先輩は道具の手入れやら、スコアブックを書いたりしていて、二人の間には既に役割分担があるようだ。断ると吉永に悪いから、僕はコップをとって一気に飲んだ。確かに冷たくておいしかった。現代のようにパックやペット入り麦茶なんてなかったから、煮出しも冷やしも、吉永はたぶん昨日の晩から頑張ったんだろうな。 「うまい。ありがとう」 僕がそう言うと、吉永はうれしそうにしながら、次の部員に麦茶をすすめていた。 それからしばらくして、5回の攻撃が終わった。得点は二十点を超えた。 「もう、よかろう。6回から谷山が投げろ」とヨッパライが言った。 いきなり言うな。何の準備もしてねぇぞ。 いちいち腹の立つ監督だ。しかしまあ点差もあるし、なんとかなるだろうと思って僕は氷山先輩と交替した。コールドは間違いないので、僕は2回を投げることになる。左での初めての登板なのだし、ちょうどいいかも知れないな。 僕ははるちゃんからボールを受け取った。 「リラックスしていけよ。谷山なら絶対勝てるから。点差もあるしいろいろ試してみよう」 はるちゃんは、そう言ってホームについた。 僕はマウンドに向かうと、応援団から黄色い声援が起こった。あれが恵ちゃんの言う、ファンクラブなのだろうか。 ひとつ深呼吸をして、投球練習を始めた。 ズバンと、いい球がきまった。左でもいけると思った。 6回表。 池田中は3番からだ。 僕は大きく振りかぶった。 右足を蹴り出し、重心を落とし、腕を思いっきり振りぬいた。 しゅう。 右と同じように空気を切り裂きながら、ボールが飛んでいった。 ズバン。と、内角高めに浮き上がるようなクロスファイアーが決まった。 いい感じだ。 やはり右ほどの威力はないが、十分いけるだろう。 それから僕らバッテリーは、左右高低に投げ分けてみたり、カーブを試したりして予定の2回を投げきった。思う通りばかりではなかったが、相手が弱かったこともあり、上々の左デビューだった。結局7回コールドとなり、両チームが整列した時、キャプテンは満面の笑みを浮かべていた。いとこは顔面蒼白で、しかも言葉を失っていた。 帰りのバスの中で、新田が話しかけてきた。 「やっぱり谷山君はすごいね。始めてまだ2ヶ月なのに、もう左をマスターしているし」 「マスターってほどじゃないよ。まだまだいけるさ」 僕がそう答えると隣にいた吉永が話に入ってきた。 「左って何ですか」 僕は内心苦笑いをしながら答えた。 「今日の投球さ。左手で投げていただろう。僕はつい最近まで、右で投げていたからね。右利きだし」 「え?もともと左利きじゃないの?」 横川先輩も入ってきた。 「谷山君はもともと本格派右腕のピッチャーなのよね。それを監督の指示で左に替えちゃったのよ」 「えー、そんなに簡単なんですか?」 「簡単じゃないわよ。谷山君じゃなきゃできない」 「そうだよ。僕には無理だと思う。でも、谷山君はいつも努力して克服してきたんだ」 なんか、こそばい。ホメすぎだよ。それに左の練習も楽しかったし、左のためだけに努力したことはほんのわずかしかないし。 「かっこいいね。谷山君。私は、努力して勝利を掴む姿にあこがれているんだ。やっぱり、野球部に入って良かった」 そう言って吉永は笑っていた。ふと見ると、先輩たちが僕らの会話に聞き耳を立てていた。吉永は未完成な美人といった感じで、たぶんあと何年かすれば美人になりそうだ。それに要領は得ないがいつも笑顔で駆け回っている。だから気に入っている先輩たちも多数いるようで、僕は僕に向けられた殺気を多数感じていた。 僕らは学校に戻って軽く練習しておくつもりだった。 でも、ヨッパライも氷山先輩も既に姿が見えなかった。 氷山先輩は、またバイク店の手伝いに行ったのだろう。しかしそんな状況でよくあんな投球ができるもんだ。ひょっとすると本当の天才なのかも知れない。頭もいいし。 その日の練習は、試合後のクールダウンというか、軽めに流しておくものだと思っていたが、去年までなら考えられなかった大勝に、妙に調子に乗ってしまったキャプテンが、 「よし、千本ノックだ!」 などと言い出して、それはもう地獄の消耗戦みたいになってしまった。基本的にはシートノックで、マウンドには僕が立ち、投内連携を兼ねていたのだが、僕は集中的に狙われた。それはもう、息つく暇もないくらいの連打で、僕はとうとうひっくり返ってしまった。 「ばかやろう!きついのは俺も一緒だ。これくらいでへばるな!」 キャプテンがわめいていたが、僕はもう動けなかった。 ピッチャーグループの練習に付き添っていたはるちゃんの代わりに、キャッチャー役を横川先輩が務めていたのだが、倒れた僕を心配して駆け寄ってきた。 「大丈夫?谷山君」 僕は息を切らしながら答えた。 「大丈夫じゃないっす。左は慣れていないし」 横川先輩は笑った。 「そうなのよ。だから一夜漬けでもやっておかないと。次からきついわよ」 「どういうことっすか?」 「監督から指示があったの。氷山君はもうしばらく来られないそうだから、君もピッチャーをすることになるの。それでね、投球は大丈夫だが、フィールディングがなってないから叩き込んでおけって」 僕は息を切らしながら仰向けになって空を見上げた。 なるほど、そういうことか。 確かに、今日打たせてとる時、体は思わず右投げの時の反応をしていた。頭が動作を間違えて混乱したから、1テンポ遅れた。そのことをヨッパライは言っているのだろう。あんなヤツに指摘されるなんて気に食わないが、確かに今反復練習して体に叩き込まないといけない。捕球、ステップ、送球という3リズムのかたちを、右と同じようにできないと僕は内野で最大の穴になるだろう。それに、牽制球も覚えないと、とっさの時に体が混乱するだろう。しかし、さっき吉永にほめられていい気になっていたが、実はお寒い限りの綱渡りだったんだな。チッ。やるしかねえな。と思ったが、キャプテンのあのサディスティックな微笑みだけは気に入らなかった。 夕暮れ時。 家に帰り着いたとき僕は疲れ果てボロボロだった。 それでも、いつもの通り腹筋腕立て背筋をやっていると、部屋に父さんが入ってきた。 「おう、がんばっているな」 あれ、ふだんより帰りが早い。そう思って僕は怪訝な顔をしていたようだ。 「ああ。今日はお前に話があって早く帰ったんだ。そんな顔をするな」 「何?」 父さんは何やら話しにくそうで、咳払いをした。 「いや、あれだ。今日ももちろん勝ったんだろう?」 「当然だよ。僕らは常勝伝説をつくるんだ。この前言っただろう」 「そうだな。確かにお前たちは強い」 「だから何?そんな話なら出て行けよ。ただでさえ左のために苦労しているんだから」 「お前も言うようになったなあ。もう中学生だもんな」 「だから、何?」 「いや、まあ。年は離れているが・・・」 「何の話?父さんと僕なら当たり前じゃないか」 「いや、そうじゃない。お前の弟か、妹だ」 「はあ?」 父さんは頭をかいていた。 僕は事態が飲み込めなかった。 「だから、あれだ。お前に弟か妹ができるんだ」 僕はぶっ飛んだ。 悪い話ではないけれど、「いまさら?」というのが第一の感想だ。 「父さんも母さんももう若くはないが、それでも授かったんだ」 父さんは笑っていた。 運動をやめ、僕はしばらく呆然としていたが、兄弟ができるうれしさがこみ上げてきた。 「父さん、頑張ったね」 父さんは照れ笑いしながら言った。 「ませた口利くんじゃない。中1のくせに」 僕は弟がいいと思った。僕の子分にしてやろうなんて、子供のような無邪気な気持ちがあふれ出てきた。 翌日。 僕らの試合はなく、朝から部の練習だ。 昨日に続き、捕球から送球までのリズムを体に叩き込む。 明日の試合は吉岡が先発だと決まり、彼は緊張した顔ではるちゃんと投球練習していた。 吉岡は、決して悪い投手ではない。少なくとも本田先輩よりは落ち着いていて、キレのいいカーブを持っている。これもヨッパライの指示だった。どうも、あまり一人だけに負担をかけないよう配慮しているようにも思える。小学校時代の中島小がそんなかたちだった。僕の先発がないのは気に入らなかったが、まあ、明日も弱小相手だし、先も長いし、僕は今、僕がやるべきことをやればいい。 「おらぁ!気合をいれろぉ」 キャプテンの怒号が聞こえる。 そう。僕は今、キャプテンからマンツーマンでノックを受けていた。 グランドの隅っこを専有し、僕とキャプテン、横川先輩、それに1塁手に見立てた新田がその特別メニューの参加者だ。朝からぶっ通しでもう2時間くらいやっている。みんながいないとできない練習だから、僕は素直に有難かった。おかしな先輩だと思っていたキャプテンは、実はいい先輩なんじゃないかと思い始めた。しかし。 「横川、いま何本だ」 「ちょうど百です」 「よし。俺は疲れた。お前代われ」 と、言わなければの話だ。いくらソフト出身だといっても、マネージャーにノックさせるなんて。 「新田ぁ!1塁の位置はもういいから、横川の代わりにここにこい。谷山、バックホームと思って送球しろ。わかったな!」 タオルで汗を拭きながらひきあげるキャプテンの後姿に僕はあきれた。 でも本当に意外だったのは、横川先輩がうれしそうだったことだ。 先輩はニヤリと笑って叫んだ。 「谷山君!私はキャプテンのように優しくないわよ。覚悟しなさい!」 まったく。みんなおかしくないか、この野球部は。 そうは言っても、横川先輩のノックは見事だった。左右にきれいに打ちわけ、しかも速い!確かにキャプテンの方が優しく感じる。僕はマシンガンのような横川先輩のノックに1時間もやられてしまった。そうこうしている間にキャプテンが戻ってきた。 「谷山!きついか!」 そんなこと言われたら、口が裂けても「きつい」なんて言うものか。 「きつくないです!」 などと言ったものだから、休憩なしで牽制練習に移った。 新田が1塁手の役。キャプテンが走者の役。横川先輩は新田後方のカバー兼塁審役だ。僕はボークを何度も宣告された。キャプテンからクセも指摘された。本当に一夜漬けだが、徹底的にしごかれた。 短い昼食休憩をはさんで、やっと投球練習に移ることができた。キャッチャーは佐伯先輩だ。先輩には僕を指導できる力なんてないから、横川先輩がおまけについてきた。主審の役で、僕の投球を見極めると意気込んでいた。生徒BやらCやらの先輩よりも、よほど頼りになる先輩だった。 夕方。 部の練習が終わり、みんな家路についた。 僕はキャプテンや横川先輩の話をノートにつけておこうと思って、ひとりで部室に残っていた。すると、ドアの開く音がして、見ると吉永がいた。 「ああ。吉永か。どうした?」 「忘れ物しちゃった。今日の練習メニューをメモった紙」 「なんだそりゃ」 「うん。キャプテンに言われたの。忘れないようにメモっておいて、今後の練習に活かすんだって」 「意外と細かいんだな。キャプテンは」 「そうよう。清書するノートを今は私が預かっているけど、私が来る前の内容もきちんと書いてあったわ」 そう言いながら吉永は、その辺りを探していた。 「あ、あった。こんなところに置いてたんだ。今日中に清書しないと忘れたら大変だから」 「どんな感じなんだ?ちょっと見せろよ」 「いいわよ」 そう言って吉永は僕に近寄り、僕の前の机にメモ紙を置いた。そして僕の隣に座って、その内容を教えてくれた。 「ほら、内野の人たちの内容に時間、外野もピッチャーもね。もちろん、谷山君の特別メニューもあるし、打撃練習もね」 僕は感心した。よくまあこんなに細かく記録したもんだ。 「吉永も頑張ってるんだな」 僕がそう言うと、ちょっと照れたように吉永は笑った。 「そうよう。私もね、頑張るんだ。だって、常勝伝説をつくるんでしょう?私たち」 僕は吉永を見直した。要領が悪いだけの人だと思っていたが、みんなと戦う覚悟はあるようだ。 「そうだな。俺たちでつくるんだ」 二人は顔を見合わせて笑った。 不思議なものだ。 神様が、もしいたずらをすることがあるのなら、まさにこの時だったのかも知れない。なぜなら、ちょうどこの時初めて恵ちゃんが部室に来たからだ。 恵ちゃんは、ドアを開け、楽しそうに笑う二人を発見した。なんとなく気まずかったようで、その場に立ちつくしていた。 「あ、恵ちゃん」 僕の声にひとテンポ遅れて恵ちゃんは反応した。 「あれ?打ち合わせ中?」 僕は別にやましいことはなかったから、平然として答えた。 「いや、ちよっと今日の練習内容の記録を見せてもらっていたんだ」 「ふ~ん、そうなんだ」 吉永が僕に聞いた。 「誰?」 「あ、吉永は知らないのか」 恵ちゃんが、割り込んで答えた。 「1組の高浜恵です。谷山君のガールフレンドです」 吉永は妙な笑顔を見せて言った。 「マネージャーの吉永です。へぇー、谷山君は彼女いるんだ」 「まあ。その。で、恵ちゃん、どうした?」 恵ちゃんはムッとした顔で答えた。 「私も今バスケの練習が終わったから一緒に帰ろうと思って。だってこの前ゆうちゃんが言ったでしょう。部室に来いって」 「あ、そうだったな」 「じゃあ私は忘れ物も見つかったし、帰るね。谷山君、また明日。高浜さん、さようなら」 「さようなら」 僕は何だか妙な気分で、別にやましくないのに、生きた心地がしなかった。 その帰り道、恵ちゃんは最後まで不機嫌だった。 翌朝。 僕らは午後からの試合だったが、朝から学校で軽く練習することになっていた。 「おはよう」と、僕が吉永に挨拶すると、いつもはニコニコしている吉永がそっけなく「おはよ」とだけ言って、さっさとどこかに行ってしまった。 もう。勝手にしてくれ。恵ちゃんも。吉永も。 「ふ~ん。何かあったの?谷山君」 横川先輩が、唐突に登場した。 「いいえ、別に」 「う~ん、まあいいけど。谷山君はもてるから気をつけなさいよ」 そう言って横川先輩もどこかへ行ってしまった。 こんな坊主頭で野球しか知らない僕がもてるなんて、あまり実感はないけどなあ。 とにかく、今日は試合なのだから集中しなければ。 学校で手早く練習を済ませ、僕らは例によって、六家先生に引率されて電車とバスで市民球場に向かった。 僕らの出番は第3試合。午後一番だ。 到着とともに、その辺を軽くランニングし、アップした。 ひと汗流してから休憩に入り、早めの昼食をとった。 第2試合が長引いていたので僕らはやや時間をもてあましていると、突然聞き覚えのある声が聞こえた。 「久しぶりだな」 それは、あのニヤついた男だった。 「ああ。久しぶり」 僕はそう答えた。 「お前ら、今日は絶対勝てよ。そのあと俺たちとあたるんだからな」 「そうか。わかったよ。また俺たちの勝ちだけどな」 「言ってろ。俺たちだって強くなってるから、驚くなよ。それより、お前左に転向したんだってな。みんな驚いていたぜ。中島の連中もな。何かあったのか」 「別に。ただ面白そうだから左で投げてみることにしたんだ」 「ふん、とぼけやがって。まあ、お前ほどの男なら左でも俺たちを楽しませてくれるんだろうな」 「覚悟しとけよ」 「お前らもな」 そう言うと、ニヤついた男はくるりと踵を返し、左手を軽く挙げて去っていった。 そうか。今日勝てば明日はニヤついた男のチームと当たるのか。僕はどの小学校が何中に行くのか知らなかったし、左転向に夢中で大会の動向などあまり頭に入っていなかった。今日の相手が弱小なのは知っていたから、先ず大丈夫。よし。明日が楽しみだ。 その日の試合は、予想通り僕らの勝ちだった。 吉岡は2点取られたが、ガンちゃんの神業セーフティや、僕とキャプテンの3、4番コンビによるアベックホームランなどで危なげなく勝った。ちなみに僕も、7、8、9回に登板し、1点も与えなかった。左転向は順調だ。 試合後、学校に戻って軽く練習をしたあと、終礼のようなミーティングでキャプテンが言った。 「明日は強豪の北峰中だ。しかし氷山は来ないから谷山、お前が先発だ。監督の指示どおり左で投げろ。吉岡も気を抜くな。今日の疲れもあるかも知れんが何かあったら即交替だからな。それから、白石。明日は先発だ。ライトに入れ。以上だ」 そうか。ニヤついた男は北峰中なのか。よーし、任せろ俺に。左だってあいつらを討ちとってやる! その夜も僕は一人で部室に残っていくつか気がついたことをノートにつけていた。 相手ピッチャーがどう攻めてきたのか。何が嫌で、何が打ちやすかったのか。そんなとりとめもないことだったが、僕の配球の参考にしたいと思っていた。なにしろ相手は一応3年生のバッテリーだったのだから僕より経験は上のはずだ。 「よし、これくらいでいいか」 僕はそう思い、ノートを閉じた。そして荷物をしまい、部室の電気を消して外に出た。 すると、外には吉永が部室の壁にもたれるようにして立っていた。 「あれ?吉永。どうしたんだ?」 「待ってたんだ。谷山君を」 「俺を?こんな時間まで?暗くて危ないから早く帰れよな」 吉永は何やらまごついているように見えた。 「どうしたんだ?」 「あの、谷山君今日はごめんね。冷たくして」 「何だそんなことか。俺は気にしてないよ」 吉永は、一瞬言葉につまったようだった。 「気にしてないんだ。谷山君は」 「ああ。気にしてないよ。だから謝らなくていいよ」 「そうか」 「ああ、そうだよ。それより早く帰れよ」 吉永はうつむいていたが、はっきりと言った。 「でもね。私はやっぱり谷山君が好きなの」 え?告白?僕の頭は真っ白になった。スキトカキライトカ。そんなの僕にはまだ早くはないですか。 吉永は両手で顔を隠し、すごい勢いで走って行った。 好きとか嫌いとか、そんなことはともかく、このまま吉永を一人にするのはまずいと思った。だから、3テンポくらい遅れたが、僕は吉永を追いかけようと思った。 「ばかやろう!何やってんだよ」 白石の声が聞こえた。 見ると、どこからともなく白石が現れて吉永のあとを追って走っていた。 何故?白石?僕の頭はいよいよ混乱した。 「吉永は俺にまかせろ。お前は帰れ。北門に恵ちゃんが待ってるぞ!」 そう言われても、あの吉永の様子じゃ・・・。 「いいから、まかせろ!」 ほおっておけないだろ。僕はそう思い迷った。迷いに迷った末、何度も真剣に「まかせろ」という白石に任せた。 正門を出てしばらく走った辺りで白石は吉永に追いつき、大声で言った。 「俺は、吉永が好きだ!」 吉永は立ち止まった。 「4月に同じクラスになった時から好きだ」 吉永は白石に背中を見せたままだった。 白石はその背に歩み寄り穏やかに言った。 「だから、マネージャーになってくれた時はうれしかった。おまえがあいつを好きなのは何となく知っていたさ。でも俺は吉永が好きだ。いつも笑っている吉永が好きだ」 吉永は、両手で顔を隠していた。泣いているようで肩を小さく震わせていた。 「俺じゃ、だめなのか」 吉永は震える声で小さく言った。 「ごめんね。白石君。ごめんね」 二人はわずかな外灯のあかりの下で、それ以上の言葉を交わすこともなかった。 僕には、ファンレターやらたくさん来ている。でもそれはただのシャレでしかなく、誰も本気じゃないんだと思っていた。僕は野球に夢中で他の事はあまり考えたこともないし、ましてや、あんなむきだしに「好き」と言われても、僕にはどう受け止めていいのか分からない少年だった。 「白石君の声が聞こえたけど、何かあったの?」 北門でおちあい、一緒に帰っている恵ちゃんは、いきなりそう聞いてきた。 「わからないんだ」 「わからない?」 その先の言葉も僕にはわからない。だから黙り込んでしまった。 「ふ~ん、まあ、いいか。でも明日は先発なんでしょう。さっき白石君が言ってたよ。頑張ってね」 そう励まされても、ひょっとすると僕は吉永に相当ひどい仕打ちをしたのかと思い、そのことが気になって仕方なく、こころが重かった。 翌日。 吉永と顔をあわせるのに気後れしていたが、彼女は何事もなかったかのように、いつもの笑顔で「おはよー」と言った。そのあざやかな変わりように僕は驚いたが、それでも、吉永が元気になって良かったと思った。その時の僕はそう単純にしか考えが回らなかった。吉永がどれだけつらい思いをし、その先の笑顔を見せていたのか、まったく想像すらできなかった。 ともあれ、時間は止まってくれない。 僕は気持ちを切り替えないといけない。 予定通り、僕らはスケジュールをこなしていった。 市民球場第2試合。 あのニヤついた男とあたる、予選準決勝だ。 さて、彼らはどんなチームになっているのか。 見知らぬ顔が多いから、やはり中学進学とともに変動があったのだ。 「北峰中は今大会ナンバーワンのピッチャーだってよ」 まっちゃんが、顔見知りの他校選手に聞いてきたらしい。 それによると力のある速球に、切れのいい変化球を持っている3年生で、中島2軍ピッチャーもはるかに及ばないらしい。だから大会関係者の注目はもちろん、隣県の高校スカウトたちも何人か来ているという。 「谷山君と、どっちがすごいのかな」 新田がそう言うと、横川先輩が笑って答えた。 「比較にはならないわよ」 「どうしてですか?」 「先ず実績が違うわ。中学生としての経験の差ね」 やまちゃんが口をはさんだ。 「先輩は俺らの激闘の数々を知らねぇだろう」 新田も言った。 「それに、先輩は谷山君が本気で投げる右を知らないでしょう」 「知らないわよ。でも、そこが2番目ね。今日は慣れない左なんだから」 「谷山君は左でもきっと何とかしてくれるはずです」 「希望と現実をごっちゃにしたらだめよ。現実的に中学1年と3年では体格も体力も運動能力も、それにスキルも大きな差があるからね」 やまちゃんが苛立たしそうに言った。 「先輩は、俺らが負けるとでも言うのか」 「違うわよ。気持ちを引き締めて行きなさいってことよ」 そんなことは、わかっている。 僕はそう思った。 新田がキャプテンに聞いた。 「キャプテンは知っているんでしょう?北峰のピッチャーを」 キャプテンは真顔で答えた。しかも即答。 「うむ。知らん」 本田先輩が口をはさんだ。 「俺らの去年は想像できるだろ?他校のことなんて知らないよ。ただ、北峰は伝統的に強いチームなんだ」 他の先輩たちも異論はないようだった。 もう、何を聞いても無駄だと思った。とにかくやってみて、自分らで判断していくしかないだろう。しかし、そんなピッチャーがいるチームに、ニヤついた男がいるなんて、ちょっと厄介な敵だ。 試合が始まった。 先に決勝進出を決めた中島2軍選手たちや、氷山親衛隊などでそこそこ観客がいた。 僕らは先攻だ。 マウンドには、そのナンバーワンピッチャーがいた。体が大きく、目つきの鋭い男だった。投球練習でパーン、パーンと、いい捕球音を響かせていた。確かに悪くない。 プレイ!という号令とともに、ガンちゃんはセーフティバントの構えを見せた。 第1球とともに3塁手が猛ダッシュしてきた。 僕らのスタイルは、ニヤついた男から伝わっていると見ていい。 ボールは外角低めへ外れた。 ガンちゃんはバットを引いたので1ボールだ。 2球目。 ズバンと内角を攻めてきた。ストライクだ。 3球目。 高目の球だったので、ガンちゃんは大根切りを試みたが振り遅れて空振りとなった。思った以上にキレがいい。 4球目。 外いっぱいにきまるカーブがきた。ガンちゃんはおよがされながらも、何とかカットした。 まだ4球しか見ていないが、やはりかなりいい投手だということは分かった。 5球目。 外角低めに外してきた。ということは、内角高め速球でフィニッシュするつもりなんだなと考えていると、なんとその球はストライクと判定され、ガンちゃんは三振となってしまった。今日の主審はあそこをとるのか?それともあまりのキレの良さに誤審したのか。注意が必要のようだ。 続くまっちゃんはいつものように「よっしゃー」をと叫びながらバットを3回まわして打席に入った。ランナーがいる時は、「3球目、バントするぞ」の合図だが、ランナーがいない時はただのカモフラージュだ。 1球目。 まっちゃんは、バントをした。 しかし、あまりの球威にバット上面に当たったボールはそのまま勢いよく後方のバックネットにダイレクトで当たった。恐ろしいキレだ。中島1軍のピッチャーよりすごい。あんなのを、どうやって打ち崩すのか。 2球目。 またバントの構えを見せたが、外角に外れた。 ここで、まっちゃんはバントをあきらめたようだ。あまりのキレにもてあましているのだろう。ヒッティングの構えになった。しかし3球目はストライクからボールになる球にガンちゃん同様ひっかかり、大きく空振りした。 まっちゃんは、一度打席を外し、何か考えていた。「何か」と言っても僕にはわかる。2ストライクになったから、3塁手が定位置に戻ったのだ。そこにバントする。1塁方向でもいいが、セーフティとなると、やはり3塁側だ。まっちゃんは、勝負に出た。 4球目。 ガコンという大きな音とともに、案の定バントした。しかし、勢いを殺しきれておらず、ただの3塁ゴロのようになってしまった。難なく捌かれアウトになったまっちゃんは、「あ~!くそ!」と珍しく悔しがりながら戻ってきた。それほど勢いのあるボールだと言うことだ。 さて、僕の番だ。 確かにナンバーワンピッチャーだ。 さて、どう攻めるか。 ニヤついた男から僕らの話を聞いているのなら、先ずは外角低めから様子を見てくるだろうと思ったが、ズバンと、内角高目を速球で攻められた。 いいボールだ。 速さは僕の豪速球には及ばないが、その力はさすがに中学3年生だ。横川先輩の言うこともあながち間違いじゃない。 2球目も内角高目速球で、2ストライクだ。 さて、そろそろ外角低目かと思ったが、3球目も僕の苦手な内角速球で攻められ、僕は慌ててバットを振ったが、3球三振になってしまった。 おもしれぇ。 力と力の勝負を挑まれ、そして僕を力でねじ伏せたんだ。三振はしたものの、僕は闘志が湧いてきた。 1回裏。 僕がマウンドに向かうと、「ひやまくんを出して~」という例のブーイングに、「きゃぁ~」という黄色い声援が混じった妙な反応があった。 どっちでもいいさ。僕は僕の仕事をする。 さて、プレイがかかる直前に僕はいつものように天を見上げた。 この空はアメリカまで続いているんだな。ふうちゃんは今どうしているんだろう。ふうちゃんのおかげで、僕の左もかたちになってきた。 よし。 やってやる。実績なんて関係ない。僕は僕の力を出し切るんだ。 「プレイ!」 主審の号令のあと、僕は大きく振りかぶった。 何回もくりかえし練習した左のフォームで、第1球を投げた。 その球は、パーンとはるちゃんのミットを響かせた。 外角低目ストライク。 2球目。 大きく振りかぶって、足を蹴り出し、勢いと下半身のバネをいかして、サイドから鋭く振り切った。 僕は何とか間に合った横スライダーで、空振りを取った。 そして3球目。はるちゃんの要求は未完成の落ちるカーブ(縦スライダー)だった。 投球はワンバウンドするような結果になったが、バッターは見事にひっかかり空振り三振。やはり変化球があると幅がひろがると実感した。 2番打者にも、力勝負ではなく、変化球でかわす投球をした。 今回は、いけるところまでかわす投球をしてみようと決めていた。 始めはかわす投球、次は打たせる投球、そして最後は力勝負だ。 僕は僕なりに成長していたが、はるちゃんもまた、氷山先輩と組むことで、さらにクレイバーな投球術を学んでいたようだ。力勝負だけでは9回までもたない。だから力の入れどころと抜きどころを考えつつ進めていくのだ。序盤は相手が打つ気満々だからひらひらとかわせるものならそうすればいい。それがはるちゃんの作戦だ。正しいのかどうかはまだわからない。でも、いろんなパターンで僕らは経験を積むべきなんだ。 とにかく2番打者も三振にとれた。 そして、3番。 あのニヤついた男だ。 彼にローボールは通じない。 でもはるちゃんの要求は、落ちるカーブだった。 案の定、落ちるカーブに食いついてきた。空振りだ。その球は後ろに逸れたが走者がいないので問題ない。ワンストライクだ。 僕の落ちるカーブは、全くの未完成で悪く言えば荒れ球だ。どこにいくのか僕にもわからない。でもこうして役に立っている。要は使い方なんだと、はるちゃんの言った通りだ。 2球目。 外角高目。速球で空振りを取った。 そして、3球目に高目の横スライダーを投げ、3球三振にとった。 三者連続三振だ。 豪速球ほどの力をいれずに、こんな結果が得られるなんて。 僕は自分で自分に驚いていた。いや、はるちゃんと、はるちゃんを導いてくれた氷山先輩のおかげなんだろうと思い直した。 試合は投手戦になってきた。 力のある球で僕らを討ち取っていくナンバーワンピッチャーに対して、僕はまさに「のらりくらり」の投球で、お互い3回まで1人のランナーも出ていない。 4回表。 ふた回り目だ。 ガンちゃんは最初からバントの構えを見せていた。 そうすることで相手の球種を減らせるから、的を絞りやすいと考えたのだろう。 おそらく内角高目を誘って、大根切りを狙っているのだ。 しかし、相手は乗ってこなかった。内角ではあっても低めに正確に投げてきた。ガンちゃんは、見せかけを悟られまいと無理やりバントしたが、どうにもならずに足元へのファールチップとなった。相手もなかなかだが、ガンちゃんもあきらめずにバントの構えをやめなかった。2球目は、一旦外角へ外したボール球だった。 3球目。 外角高めに外された。 カウント1-2。 ということは、次には内角低めにくるだろうと考えたのか、ガンちゃんはようやくバントの構えをやめた。しかし、ど真ん中へおそろしく切れのある球を放りこまれ、ただ見送るしかなかった。 そして4球目。 落ちるカーブであえなく三振してしまった。 続くまっちゃんも、いろいろと試みたが、何をやっても通じなかった。 ベンチを重い空気が支配した。 いったい、どうすればいいのか。 よし。 わかった。 確かに相手はナンバーワンだ。僕らがあれこれ考えても通じる相手ではない。 ならば。 あれこれ考えるのはやめようと思いながら打席に入った。 そしてとにかく粘って粘って喰らいつき、いい球が来たら落ち着いて呼び込み、はじき返すんだ。かけひきも技も何もなく、ただ夢中になっていたあの頃。そう、白石の親父さんと過ごした僕の野球の原風景に戻るんだ。 結果で言うと、僕は7球粘ったものの、やや振り遅れのライトフライに終わった。でも、いい感触だった。次はいける。そう信じた。 この回から、僕らは打たせてとるピッチングに変えた。 かわす投球に自信がついたから、予定通りの作戦だった。狙って投げて打たせてとるんだ。 昔、ふうちゃんがやっていたことだから、僕にもできるさ。そう言い聞かせてなんとか予定回数の6回までいくことができた。これは途中で気づいたことだが、こんなに順調にいけたのは、実はナンバーワンピッチャーのおかげだ。彼が淡々と、しかも大胆にうまいピッチングをしていたから、その空気が僕にも伝染したというか、あまりうまくは言えないけれども、ちょうど張り合うように、引っ張られるように僕も何とかなったんだ。そう。彼のおかげなんだ。ならば。お礼をしなくちゃ。僕は7回の打席に賭けた。 7回表。 ガンちゃんも、まっちゃんも倒れ、僕の打席になった。 この打席も、僕は粘った。 彼は、ちょっと苦しそうに見えた。どこでフィニッシュしたらいいのか考えているようだった。どこに来たって同じさ。僕は喰らいついてやる。 さらに2球粘ったあと。 とうとう彼はミスを犯した。 彼の指先から、すっぽ抜けるボールが見えた。 「打てるかも」 そう思ってギリギリまで見ていた僕は、よけるのが遅れた。 こともあろうに左肩を直撃。 泉川のベンチが息を呑んだ。 思ったより痛くて僕は打席を外した。 僕は右打者だ。でも左投手なんだから、こんな時はさっさとよけないといけなかった。そんな当たり前のことをすっかり失念していた。 新田がエアー湿布剤を持って走ってきた。 「だいじょうぶ?谷山君」 「ああ。いつも悪いな」 「そうだよ。いつも無理して心配かけるんだよ。谷山君は。さっさとよければよかったのに」 僕は苦笑いした。新田は丁寧に吹付けながら聞いてきた。 「どう?今日はちゃんと動く?」 僕は左腕をぐるぐる回してみた。痛みはあっても、それは表面上のことで、問題なさそうだ。 「ああ。ほら、大丈夫さ」 「よかった。でも無理しないでよ。僕らはもうベスト4なんだし、決勝大会には行けるんだからね」 彼が帽子をとって謝っていた。 確かにこの後の投球を考えると問題ではあったが、あんなすっぽ抜けを投げさせるほどナンバーワンを追い詰めたのだから、まあ、いいか。 僕は1塁に走った。 次はキャプテンだ。 キャプテンの打力なら、僕が2塁にいれば、ひょっとすると得点できるかも知れない。 よし。盗塁を決めてやろう。そんな気持ちばかりが先行して、気づいた時には牽制球がこっちを目指して飛んできた。 「まずい!」 僕は頭から帰塁しようと、左手を伸ばした。 1塁手の猛烈なタッチが、僕の左手を襲った。 「痛て」 あざが残りそうなくらい激しいタッチだった。 判定は。 アウトだ。 おまけに中指を塁でつっついてしまったようで、また爪が剥げかかったかのような紫色になった。 「何やってんだ」 僕はアウトになった恥ずかしさと、指の痛みで悔しかった。 僕は左投手なんだから、左手を差し入れたらまずいだろ。 反射的にいつものように左手を使ってしまったのだ。その辺りも改善しないといけない。 ともあれ。 攻守交替だ。 僕はベンチに戻り、「効くかな?」と思って消毒液を指と爪の間に流し込んだ。 「谷山、大丈夫か?」 はるちゃんがそう聞いた。 「これくらい、いつものことさ」 僕はそう言ってさっさとマウンドへ向かった。 タッチされた手の甲も痛む。ちょっと冷やせば治まりそうだったが、そのうち痛みもひくだろうと思って気にしないことにした。 さて、この回からの予定は力勝負だ。 1球目。 僕は例のクロスファイアーを投げ、それは小気味よく決まった。 よし。デッドボールやタッチの影響はないようだ。 見たこともない軌跡を描くストレートに打者は驚き、逃げ腰になった。 2球目はスライダーでストライクをとった。 やはり徹底的に練習してきたこの2球はうまくいく。 3球目には高目ボールの釣り球を投げたが、そう簡単にはひっかかってくれなかった。やはり小学校とは違うし、左投げの場合、右ほどの威力がないのだ。 4球目。はるちゃんの要求はスライダーだった。 なるほど。さっきの球はスライダーで決めるための布石だったのだ。 さっきと同じ軌跡から、わずかにスライドした球は、見事に三振を奪った。 2番打者は、スライダーから入り、クロスファイアーで決めた。この2種類で、なんとかなりそうな気もしたが、油断は禁物。次はニヤついた男だ。 はるちゃんのリードは僕ですら読めないほどに進化していたと思う。何球も続けて落ちるカーブを要求してきた。確かに荒れ球だから、ローボールヒッターといってもなかなか前には飛ばず、カウントは2-2になっていた。そしてはるちゃんは、クロスファイアーの高目ボールをフィニッシュに要求してきた。何もストライクで三振を狙わなくてもいい。何にでも食いついてくるほど必死な今のニヤついた男なら、必ず三振するだろう。僕もそう思った。よし。では、せめて全力で投げよう。ニヤついた男のプライドのために。 狙い通りニヤついた男を討ちとり、8回へと進んだ。 僕らの攻撃はキャプテンの仕切り直しからだ。 僕はベンチに戻ると、湿布剤を左の肩と手に吹付けた。 やはり投球をするとあったまってくるので、ズキズキと痛む。 「いつも怪我ばかりだな」 僕は自嘲気味に笑った。 心配そうに吉永が覗き込んでいた。市民球場にダッグアウトはなく、簡素なつくりのベンチがあるだけだから、女子マネージャーもみんなと一緒にいる。 打席に備え、ヘルメットを被ってバットを握った白石が僕の隣に座った。 「怪我したのか?」 僕は苦笑いで答えた。 「ちょっとな。でも大丈夫だ」 「おまえは、怪我が多すぎる」 「そうだな」 「昔、親父が言っていただろう。いい選手とは、欠場しない選手だって」 「欠場はしないけど」 「怪我が増えれば欠場もありえる。いい選手とは、怪我をしないでコンスタントにチームに貢献できる選手のことなんだ。おまえ、忘れたのか」 「いや、憶えている」 「なら、考えろ。怪我をしないうまいプレイをな」 その言葉も遠い昔、親父さんから聞かされたような気がする。でも怪我を恐れて踏み込めなかったら、勝てるものも勝てない。 「そこを、うまくやろうな。俺たちは行けるところまで行くんだからな」 白石は笑った。 そうこうしている間に、打者はいつの間にかやまちゃんに代わっていて、カキンという快音を発して1塁目がけて走っていた。 「よっしゃー」 という歓声がチームメイトから上がった。 初めてのヒットだった。 白石はネクストバッターズサークルに行くため立ち上がった。 「よし!俺が決めてやる。いつもおまえにばかりいいかっこはさせない」 白石は笑顔でそう言ったが、真剣な眼差しを僕に向けていた。 「おまえには、負けねぇからな」 踵を返してグランドに出て行った。 僕は不思議な気分だった。白石は何かいつもと違う。 吉永が、白石の背中を見つめていたのを、僕は気づかなかった。 ヨッパライのバントのサインを田中は実行した。 さすがのナンバーワン投手も8回でランナー有りだと勝手が違うのか、田中は1球で決めた。いや。田中がうまいのか。もともと僕らは徹底的にバント練習をしてきた自信がある。 ツーアウト2塁。 打席には白石だ。 三振も多いが、当たればでかい。 頑張れ白石。お前だって人一倍努力してきたんだ。 夜中、百スイングを日課にしているのを俺は知っているぞ。 さっき言ったこと、本当にやってみろ! 8球粘ったあと。 白石の渾身のスイングは見事にボールを捉えた。 僕らの期待をのせた打球は、速く、力強く飛んでいった。 みんなが固唾を呑んでゆくえを見守った。 そして左中間に着地した瞬間、わぁっと歓声が上がった。 重苦しい投手戦がついに動いた。 やまちゃんが満面の笑顔でホームインしてきた。 白石はスライディングセーフの2塁打だ。 さかんに右手を突き上げ、笑顔を見せている。 僕らのベンチもおまつりさわぎ。それほどナンバーワン投手は手ごわい相手だったんだ。 いや。過去形ではなく、現在進行形だ。 彼はひとつ大きな深呼吸をして気分を落ち着かせると、次の神崎先輩を淡々と討ちとった。 8回裏。 北峰中も4番打者からだ。 やはり、怪我の影響なのか。 キレのないボールしか投げられず、僕は4番、5番と連打を許した。6番はなんとかスリーバント失敗に追い込み、7番は三振にとったが、8番にはファーボールを与えてしまった。怪我のせいにはしたくない。でも指も肩もズキズキと痛みが激しくなり、慣れない左の緊張感が疲労感へと変わり、いつもと違うリズムの悪さに戸惑いを感じた。 ともあれ。 2アウト満塁だ。 北峰中サイドは、押せ押せムードに沸いていた。 僕はマウンドで深呼吸し、天を見上げた。 三連覇した時の強い気持ちを思い出せ。 すまん。白石。せっかく忠告してくれたが、僕にはそんなスマートさはないようだ。指が、腕が、たとえちぎれても目の前の敵を全力で倒すことしか頭に浮かばない。 渾身のクロスファイアーで2ストライクを取ったあと。 はるちゃんは大胆な要求をしてきた。 未完成の落ちるカーブだ。 後ろにそらせば同点だ。 絶対止める自信があるというのか。 僕は一度プレートを外した。 確かにキレのない今の球では、フィニッシュは決められない。 ならば。 これは奇襲だ。 後ろにそらすリスクがあるから、打者も想定外だろう。 三振とるには、これしかない。 勝負だ。 満塁だから僕は大きく振りかぶった。 速球でいくと見せかけるためでもある。 そして、足を蹴り出し、大きくテイクバックし、腰を入れて腕を振り切った。 結果は。 よし!三振だ。 しかし、はるちゃんはボールを落としたので、慌てて拾い上げた。 勝負の気迫が、僕の自信に変わった瞬間だった。 僕は無意識のうちに吼えていた。 氷山親衛隊やら、何やらの歓声を受けながら僕らはベンチへ引き上げた。 9回表の攻撃中。 僕はヨッパライに呼ばれた。 「谷山、左手を見せろ」 僕は弱みを見せたくなくてまごついていた。 「いいから、見せろ」 仕方なく僕は左手を差し出した。 中指のはがれかかった爪を調べながら、ヨッパライは続けて聞いた。 「肩も痛むんだな」 「痛くないです」 僕は意地を張ってそう答えた。 「わかった」 ヨッパライは、短くそう言った後で、驚くべきことを言った。 「右でいけ。9回は」 「はぁ?」 「今日だけ特別に許す。いいか。今日が最後の右投げだ。中学ではな」 僕が驚いて無言でいると、ヨッパライは言葉をつないだ。 「おまえが右の準備もしていたのは知っている。今日が最後だ。思う存分暴れてこい」 僕が「はい」と、ヨッパライに答えたのはこれが初めてだった。 ヨッパライの勢いについつられて答えたのだが、左でも頑張ってきたつもりだったので多少の心残りは感じた。でも、そんなことはどうでもいいと自分に強く言い聞かせた。左の面白さはこれからだし、とにかく目の前の敵を全力で倒すんだ。 9回表の攻撃終了時、僕はネクストバッターズサークルにいた。 だから右でのキャッチボールすらしないまま登板することになった。 グラブは控え選手のを借りた。あまりフィットしなかったが仕方ない。いや、そんなことよりも、思ってもいなかった右で投げられることがうれしく、はやく投げたくて投げたくてうずうずしていた。 マウンドに登り、軽く投げてみた。 軽い。 肩が、軽い。でもそれは軽すぎず、ちょうどいい。 僕はいけると思った。 右投げをおろそかにせず、筋トレやシャドウピッチングを続けてきた成果だ。 北峰ベンチがざわついた。見物していた中島中もだ。 彼らが何を思ったのか知らないが、今日の右はベストだ。 「打てるものなら打ってみろ」 投球練習を終え、僕はいつものように天を見上げた。 大きくひとつ、深呼吸をした。 「よし」。 プレイがかかり、僕は大きく振りかぶった。 左足をあげ、大きくテイクバックし、腰をいれ、全体重を乗せて振り切った。 ズバン ど真ん中豪速球が決まった。 辺りが静まった。 僕自身も驚くような威力と速さを持った球だった。 はるちゃんが立ち上がり、タイムをとった。 そして、久しぶりにイテテを見せた。 さすがのはるちゃんも、まさか右投げがあるなんて予測していなかったようで、今日は軍手を持ってきていない。 北峰ベンチがざわめきだしたが、ニヤついた男は真剣に僕を見つめていた。 新田の声援が聞こえた。 「すごいよ!谷山君。豪速球を超えているよ。超豪速球だ!」 僕は思わず笑った。よくもそんなこと思いつくもんだ。 2球目。 はるちゃんの要求は外角低目、遅い球だった。 ボールは正確に飛んだ。やはり右の精度はすごいなと自分で感心するくらいのところに行ってくれた。 打者は完全にタイミングを外されたようで、引っ掛けただけのボテボテゴロとなった。 まっちゃんが軽くさばいて1アウト。 ボールをまわすみんなも躍動していた。 次の打者には外角低目遅い球から入り、2球目は同じ球でストライクを取った。 3球目。高目速球の釣り球にまんまとひっかかってくれて空振り。 そして4球目に新田の言う超豪速球をど真ん中に決めると、バッターは身じろぎもできずに見送り三振となった。 勝利に向けて泉川サイドのボルテージがあがった。 「あと1人!」のコールもちらほら聞こえた。 しかし3番打者は、僕にとってライバルと呼べる、あのニヤついた男だ。 はるちゃんの要求は完全勝負のど真ん中豪速球。 おもしろい。僕は逃げも隠れもしない。力と力の勝負だ。 1球目。 さっき以上の超豪速球が決まった。 2球目。 さすがはニヤついた男だ。 ど真ん中超豪速球にかすり、ファールとなった。 ふん、打てるものなら打ってみろ。全く負ける気がしなかった。 「次で終わりだ」 僕はそう思い、全力で超豪速球を投げた。 わずかに力みすぎ、高めにいった超豪速球に、ニヤついた男のバットは空を切った。 三振だ。 ニヤついた男は何も言わず、ベンチへひきあげた。 僕は、勢いで飛んでしまった帽子を拾った。 そして起き上がろうとすると、僕はマウンドに集まってきたナインにもみくちゃにされた。 そう。僕らの勝利だ。 ナンバーワン投手のチームに勝った。 整列し、あいさつを終えると、ニヤついた男が声をかけてきた。 「すげぇな。おまえは」 「あたりまえだ」 「ふん。しかしまあ、それでこそ俺のライバルだ。決勝大会では負けないからな」 「死ぬほど練習してこい」 「右も故障ではなかったようだな。温存しているのか?」 「温存?」 「違うのか?」 「さあ。左は監督の指示だから」 「不思議なことを言う監督だな。まあいいさ。右でも左でも、最後には俺が勝つ」 「いや、最後まで俺が勝つ」 ニヤついた男は初めて笑顔を見せた。 「言ってろ。じゃあ、またな」 左手をあげてニヤついた男が帰っていったので、僕も帰ろうと思い、ベンチの方へ振り向いた時、チームメイトやギャラリーから、大きな歓声があがった。 「0点おとこ~!」や「たにやまく~ん」などと言った声も聞こえた。 何かすげぇな。俺。みんながこんなに喜んでくれるなんて。 第九章 酔いどれ記者 試合を終えて学校に戻り、クールダウンのような軽めの練習中、久しぶりに阿部先輩がやってきた。 「今日も勝ったようね。おつかれ~」 外野の隅でランニングしていた僕らピッチャーグループのところに来て、先輩はそう言った。ちょうど僕らがひと休みしていた時だ。 「久々の登場ですね」 僕がそう言うと、先輩は僕の隣にしゃがみこんで「はぁ~」と大きなため息をついた。 「どうしたんですか、先輩」 「まあ、受験生だし、お年頃だし、いろいろあるのよ」 「珍しくへこんでますね」 「そんな時もあるのよ。まあ君には関係ないけど。で、試合の流れはどうだったの?」 先輩がそう言った時、僕は横川先輩に呼ばれた。 見ると横川先輩の隣に、なにやらどうしょうもなく胡散臭いおじさんが立っていた。 「谷山く~ん、お客さんよ!記者さんだって」 何それ?異次元世界の人?まためんどうにならなきゃいいけど。僕はそう思って、思わず阿部先輩と顔を見合わせた。 その記者は西村と言い、あきらかに酒臭いおやじだった。 何故かくっついてきた阿部先輩のもと、僕は取材を受けることになった。 今日の試合や、珍しい左右投げについていくつか世間話程度に質問された後、記者は切り出した。 「おまえさんの右のフォームは、昔見た記憶があるんだが、それがどうにも思い出せない。一体誰に習ったのか、教えてくれないか」 「別に。独習ですよ」 「いや、違う。どうにも違うんだよ。中一のフォームじゃないんだよ。君のは」 「西村さん、私からいいですか?」 「ああ。記者の卵のお嬢さんか。何か知っているのかい?」 「卵じゃありません。私は記者です。その証拠に西村さんの問いにど真ん中で答えます」 「ほう」 「ちゃんと取材して調べているんですからね」 「そりゃ、すごいな」 先輩は照れ笑いを見せながら、一呼吸置いて言った。 「答えは。じゃ~ん!伝説のピッチャー、城内高校、白石龍治です!」 酒臭い記者は、一瞬言葉につまった。 やがて「まさか」とだけ言った。 「詳しくは、私の記事に書いていますから。ちょっと待っていてください。今、持ってきます」 そう言って先輩は校舎の方に走って行った。 酒臭い記者は、黙ったまま僕に背中を見せていた。肩を落とし、わずかに涙を拭う様な仕草が見えた。何か、白石の親父さんと関係のある人なのかも知れない。亡くなったことも知っているんだ。それで感極まって、そんな仕草を見せているんだろう。僕はそっとしておいた方がいいのかなと思って、阿部先輩が戻ってくるまで何も話しかけなかった。 やがて先輩が今までの校内新聞を持ってくると、酒臭い記者は適当な外階段まで行って腰を下ろし、むさぼるように読んでいた。僕は練習に戻っていたのだが、読み終わったのか、再び呼ばれた。 「お嬢さん、この記事は良く書けているじゃないか。よくわかったよ」 先輩はニコニコしていた。 対象的に酒臭い記者の目は真っ赤だった。 「思い出したよ。確かにあいつの投球フォームに似ている。あいつは俺の後輩で、くそ生意気なヤツだったが、野球にかける情熱は誰にも負けていなかった。毎日毎日、そう。みんながあきれるくらい一所懸命で、がむしゃらで、誰よりも遅くまで一人で練習していた。弱小だった野球部を、俺たちの夢を、たった一人で背負って戦ったんだ。あと、ほんの一歩で甲子園に行けそうだったんだ」 その目から、涙がひとつぶこぼれた。 泣き上戸か、こいつは。僕は冷やかし半分でそう思ったが、記者の姿は真剣そのもののように見えた。 「白石の息子もこのチームにいるんだね」 「いますよ。今日、決勝点をあげたヤツです。呼びましょうか」 「そうか。いや、今はいい。谷山君、君たちに俺たちの夢を託してもいいのかい?」 僕は考えをまとめ、言葉を選んだ。 「親父さんのために。そう思うこともあります。でも、僕も白石も、僕らの夢に向かって走ります」 記者は相好をくずして言った。 「わかった。がんばれ。はいあがってこい。甲子園で待っているからな。俺にトップ記事を書かせろよ」 「はい」 「お嬢さん。今日はありがとう。おかげで、夢に向かって突き進んだ、あの熱かった夏の日々を思い出したよ」 「いいえ。どういたしまして」 「ひとついいかな?」 「どうぞ」 「記者たるもの、自分のネタを軽々しく披露してはいかんな。何か交換条件がないとな」 先輩はムッとするような、気づかされたような微妙な表情をしていた。 記者はウィンクをした。 「かわりに、いつかお嬢さんが本当に記者を目指すなら、俺が力になろう。大新聞社の系列だからな。いろいろとツテはある。あてにしていていいぞ」 先輩はパッと明るい表情を見せた。 「ありがとうございます!がんばります」 「それから、谷山君。来年から中学も全国大会が始まるぞ。まあ。甲子園の前哨戦のようなものだ。全国には強敵も多いが、がんばれよ」 え?そうなの?中学の軟式で全国?そんなの誰も教えてくれなかった。というより、たぶん誰も知らなかったはずだ。さすがは全国紙の記者だ。 「あ~。今日は休暇ついでに、たまたま故郷の大会をのぞいてみたんだが、君たちに出会えて良かった。ダイヤの原石をふたつもいっぺんに見つけたような気分だ。ふたりとも、はいあがってこい」 第一印象は、どうしようもなく胡散臭いおやじだった西村記者は、そう言ってさわやかに笑った。 西村記者を見送ったあと。 阿部先輩はぽつりと言った。 「不思議だね」 僕は先輩の横顔を見つめて聞いた。 「何が、ですか?」 先輩はうつむきながら答えた。 「君のことよ」 「僕のどこが?」 先輩は僕をみつめた。 「君はね、人をぐんぐん惹きつけるの。そして目いっぱい振り回すのよ」 僕には意味が分からなかった。というか、その人並み外れた行動力で人を振り回すのは先輩の方じゃないかと思った。 「でも悪い意味じゃないわ。君のおかげで、みんながやる気になるの。そんな不思議な力が君にはあるのよ。実際に田所君も氷山君もそうだし、西村記者もたぶん、その一人」 「意味がわかりません」 先輩は笑った。 「今は分からなくてもいいわ。君は君でいればいいの。そうね。君が君であるように、私は私でいたいって思うから、それでいいのよ」 ますます僕には分からなかった。混乱してすっかり隙だらけだった僕のほほに、阿部先輩はいきなりチューをした。 「あー!」 僕は思わずほほを押さえ、叫び声をあげた。 先輩はケラケラ笑いながら言った。 「そんなに驚いた?約束だったでしょう。ベスト五十に入ったらって」 「そんなの冗談だと思っていましたよ」 「あら。うん、そうね。冗談だったような本当のような。本当になっちゃったけどね。じゃあ次は、ど真ん中にチューしてあげるね」 そう言って、先輩は笑った。 「からかわないでください」 僕は辺りを慌てて見回した。よかった。人気のない外階段で。誰も見ていないようだった。でも、初めて人からチューされた僕は、恥ずかしさのあまり真っ赤になっていた。 「じゃあね。私、帰るから。明日の決勝がんばってね」 「はい」 「君が野球で頑張る分、私も新聞で頑張ろうって思うわけよ。ま、そういうことよ」 僕はいよいよ訳が分からずきょとんとしていた。 「私の場合はもうひとつ、受験もあるけどね。そうそう。夏の大会が終わったら、私は受験に専念するから、取材の方は、新聞部の期待の新星に引き継ぐからね」 「誰ですか、それ」 「知っているかなあ?1年8組の田原さんよ」 「知りません」 「そうね。彼女、泉川出身だから」 「へー、吉岡と同じだ」 「そうよ。彼女は、吉岡君は知っているそうよ」 「ふ~ん」 「彼女は、言語感覚に優れていて、理路整然としているから、私の後釜にぴったりなのよ。でもねえ・・・」 「でもって何です?」 「う~ん、理路整然としすぎっていうか。まあ、いいわ。同級生のよしみで仲良くしてあげてね。決勝大会から取材に連れて行くから」 そう言うと、先輩は帰って行った。 そうか。阿部先輩は引退なんだと思うと、ちょっとさみしい気もしたが、受験もあるし仕方ない。それよりも、明日の予選決勝だと思って、僕は練習に戻った。 練習後のミーティングで、明日は氷山先輩が来るから、僕はライトに入れと指示があった。左の怪我もあるし、ちょうどいいかもなと思った。でも相手は中島中なのだから緊急登板もあるかも知れず、念のため明日は左右のグラブを持っていこう。 第十章 夏の日々 翌日。 予選決勝は朝十時開始だ。 僕らは学校に集合すると、六家先生に引率され、路面電車と路線バスに乗って市民球場へ向かった。 決勝とはいえ、みんな緊張している様子はなかった。今日はちゃんと氷山先輩も来ているし、僕の左手も悪くなっていなかったし、問題はない。ただ、ちょっとした不安はある。常勝伝説というものが、それなりにプレッシャーだ。一度の負けも許されないというのは誰だってきついだろう。ましてや、僕らは1年中心のメンバーだから経験が足りないのは事実だ。でも、逆を言えばこういうぎりぎりの環境がなければ、心理的な修練も浅いものになるかも知れず、そう言った意味では、僕らにとってはいいことなのかも知れない。とにかく。試合前は何となく相手が強そうに感じるものなんだ。不思議なもので、試合が始まってしまえば何てことはないのだが。そうした気持ちのムラを僕は均一にならしていかなければならない。「自分を信じろ」僕は自分にそう言い聞かせた。 「谷山君は落ち着いているわね。たいしたもんだわ、決勝なのに」 横川先輩が、いきなりそう言ってきた。 え?内心どきどきしていたのに、そうは見えないのか? やまちゃんが口をはさんだ。 「だから、先輩は俺らの激闘の数々を知らねぇだろうって言っただろう。これくらいで俺らはビビッたりしねぇ」 ごめん。正直言って試合前、ちょっとこわい。僕はそう思いながら思わず笑みがこぼれた。 「そうか。谷山君だけでなく、東原軍団はみんな大丈夫なのね」 「あたりまえだ。今度、先輩にはさしで詳しく教えてやるよ。おい、春木、当時のスコアブックあるだろう?」 はるちゃんは、ちょっと離れていたが、話は聞こえたらしかった。 「ああ。田村がつけていたやつがあるよ」 「今度貸してくれ、先輩に見せるから」 吉永も話に加わってきた。 「え~、三連覇した時の?私も見たいな」 横川先輩が言った。 「みんなで見るのも面白いかもね。勉強になるし」 吉永が、急に思いつたかのように言った。 「そうだ!夏の大会が終わったら、みんなで合宿しませんか?みんなでスコアブック見て、勉強して、練習して」 白石が話に入ってきた。 「おもしろそうだな。俺は賛成だ」 新田も賛成した。 「賛成!海の方にうちの支店のようなホテルがあるから、そこに行こうよ」 まっちゃんも賛成だ。 「小学校の時だってあったしな。同じ釜の飯を食って連帯感を高めるって」 横川先輩が六家先生に聞いた。 「せんせい?聞いてましたよね。みんなすっかり盛り上がっているんですけど」 六家先生は、ちょっと難しそうな顔をしていた。横川先輩が念を押した。 「せんせい?いいですよね」 先生は難しい顔のまま答えた。 「そうは言ってもなあ。いきなりだろう?手続きやら、職員会議やら、校長の決裁やら大変なんだぞ」 お調子者の上田がいつのまにか来ていてごまをするように言った。 「先生、お願いしますよ。そこを何とか」 「第一、お前らの保護者が何て言うか」 やまちゃんが言った。 「ごちゃごちゃ言うやつは来なくていい」 「そうは言ってもなあ」 横川先輩が思いつきのように言った。 「そうだ!例えば夏の大会に優勝したらって条件はどうかしら。そう言えば、親だって子供に頑張らせようと思うだろうし、ごほうびって気持ちもあるだろうし、決勝大会まではじゅうぶん時間もあるし、いいんじゃない?」 新田が付け加えた。 「それに部員のうち、東原のみんなは毎年合宿やっていたから、親だって免疫あるし」 先生はあきれたような顔で言った。 「お前ら、よくもまあそんなにいろいろと思いつくな。そんなに合宿したいのか?」 その話の輪にいたみんなはもちろん、生徒BやらCやらの先輩たちも一緒に声を合わせて笑顔で答えた。 「はい!」 先生はドキッとしたようで、しばらく僕らを見つめていた。 「わかった。お前らが真剣にそう言うなら、いろいろとかけあって見よう。お前らの頑張りは先生も知っているし、校長だって知っている。ただし、優勝が条件だぞ」 「よ~し!」 何人か(主に生徒BからG)が歓声をあげた。 「さすが、ロッカー先生、ロックのハートだ!」 あまり記憶にない生徒Eの先輩が、そう言って喜んでいた。 ひょんなことから、合宿の話になってしまった。言いだしっぺの吉永が楽しそうに笑っているから、これはこれでいいという気もするが、せっかくの緊張感が台無しだと思って僕は苦笑いした。 球場に着いた僕らは、ランニングやら体操やらでアップして、中島中の練習が終わるのを待っていた。さっきまでのお祭り気分はなくなり、みんな試合へ集中し始めていた。この前勝ったと言っても、そこは勝負だ。やってみないとわからない。 十時前には両校とも予定通り試合前の練習を終え、ベンチで待機していた。 中島ベンチを見ると、詳しくは憶えていないが、大体前回練習試合をやった2軍メンバーがいた。中島小だったメンツは、不敵なキャプテンとゴツイ男だけだ。他のあれだけ優秀な連中が、ベンチ入りすらできていない。つまり、選手の層が厚いということで、旧東原メンバー主体の一枚看板しかない泉川中とはえらい違いだ。延長や、特に怪我には注意しないといけないな。 主審から集合の号令があった。 試合開始だ。 円陣を組んでいた僕らは、はるちゃんの音頭で恒例の声だしをやった。 「いずみかわー!」 「ファイ!よおし!」 勢いつけてホームまでダッシュし整列すると、不敵なキャプテンが、いつものように声をかけてきた。 「今日こそは、王者の地位から降りてもらいますよ」 やまちゃんが言い返した。 「ふん、万年2位のくせに」 「何だと、コラ、あ?」 ゴツイ男がスゴむのも見慣れた光景だ。しかし、この品のないゴツイ男も、金持ちのお坊ちゃんなんだろうなあ。想像できん。 「両校、静かに!」 僕らの言い合いを主審がさえぎり、そして号令した。 「これより、泉川中対中島中の試合を始める。両校、礼!」 さあ始まった。今日は一体どんなゲームになるのか。 僕らは後攻だった。 この前の練習試合と同じだから縁起がいい。またサヨナラでも打ってやろうか。そう思いつつ、僕はライトに入り、持ってきたボールを神崎先輩へ投げた。先輩はガンちゃんへ。ガンちゃんから僕へ。僕はまた神崎先輩へ。外野組では、ちいさなことではあるが、僕の遠投練習のため、長い距離を僕が投げることになっていた。野手の時、僕は右投げだ。ヨッパライもさすがにそこまでは注文しなかった。 1回表。 立ち上がりの良くない氷山先輩の、隙をつかれたようなかたちになった。 先頭打者がいきなり出塁すると、2番バッターが送りバント。1アウトはとったものの、中島の思惑通りだ。そして3番には、何とあのゴツイ男が入っている。彼は僕の豪速球ですら打てる男だ。さて、氷山先輩とはるちゃんはどう攻めるのか。などと思う間もなくレフト前へ弾き返された。レフトの神崎先輩が猛ダッシュしてボールを抑えたから、2塁ランナーは3塁どまりだったのがせめてもの救いだ。しかしこのままずるずる行くわけにはいかない。1点覚悟でアウトを取りにいくのか、それとも1点もやらない構えか。ベンチからの指示はなく、代わりにと言っていいのかどうかは分からないが、はるちゃんが前進守備の指示を出した。つまり、1点もやらないということだ。と、言うことは外角低目主体で攻めるということだから、僕はややライト線に寄った。どうしても先制点は与えたくない。でも、4番の打球は軽々と僕の頭上を越えて行った。 3ランホームランだ。 あれよあれよという間に3点とられた。 どうしても踏ん張らないといけない時に、どうしても踏ん張れないことはある。いくら天才の氷山先輩でも、そういう時はあるだろう。しかし中島相手に3点差は正直言って厳しい。喜びにわく中島ベンチが憎たらしく見えた。 ランナーがいなくなると、氷山先輩は立ち直ったかのように3アウトを取った。どうせなら、3ラン打たれる前に立ち直ってくれと僕の心の中の小さな悪魔がささやくこともある。いや、でもそれは違う。心得違いだ。 鬼監督は言った。 「4点取られたら、1点ずつ取り返せ!それが、チームワークだ」。 ならば、やってやる。 僕は闘志を燃やしながらベンチに戻った。 不思議と、確信があった。 「打てる」。 それは、言いようもない感覚的なものであったが、体の芯から湧き上がるように感じていた。1番ガンちゃんも2番まっちゃんも討ちとられ、練習試合の時より進歩した中島2軍投手を前にしても、その衝動は抑えられなかった。 そして、頭も冴えていた。 「1球目。いける。外角低めだ」 僕の読みは的中し、右足を踏み込み、逆らわずに芯で捉えることにだけ集中した。これまで体験したことのない夢の中のような気持ちの中から、「キン」という金属バットの甲高い音が聞こえた。 「わぁっ」という歓声で僕がその「夢」から覚めると、打球が仮設フェンスを越えていくのが見えた。 ホームランだ。信じられないような不思議な表情で打球の行方を見ていた投手を横目にしながら、僕はバットを置いて走り始めた。僕にとっても不思議な体験だった。まるで神様が舞い降りてきて、僕に夢を見せてくれているような気がした。 ともあれ、1点は返した。 反撃の足場となるだろう。すぐに返しておかないと焦りがプレッシャーとなり悪い循環になる。あと2点。具体的な目標をみんなが再確認した。 4番のキャプテンは三振したが、とにかくあと2点だ。 2回表。 氷山先輩はランナーを出したものの無失点に抑えた。 「さあ、ここからだ」 はるちゃんが吼えた。 僕もそう思う。試合は始まったばかりで、僕らはまだ負けていない。 今回、氷山先輩はクリーンアップには入っていないが、それは少しでも負担を軽減させるためだと聞いている。だから5番先頭バッターはやまちゃんだ。 力みのない、いいフォームだ。やまちゃんもかなり進歩したと思う。2−2のあと、差し込まれるような内角球に対して、右脇をしっかりしめて弾き返した。センター前ヒットだ。1年前なら、無理矢理引っ張ろうとしてあえなく凡退していたところだ。それに、まだ2回なのだから大きいのを狙ってもいいところだが、先頭バッターとしての役割をも心得ていた。 僕だけじゃない。みんなが着実にレベルアップしている。 6番田中は、冷静に送りバントを決めた。 7番は神崎先輩だ。 先輩たちの中で、4番目に信頼できる。しかし、そう簡単にはいかず、2−1のあとの外角球におよがされてしまった。 2アウト2塁。 ここで、氷山先輩の登場。 負担をかけないはずが、結局こんな場面に回ってくるなんて、先輩は何かそういうものを持っているのかも知れないな。というのも、真剣に勝負しなかったバッテリーの失投を見逃さずにホームランにしたからだ。相手は、ストライクを投げなかった。振ってくれたら、引っかけてくれたら、もうけものというようなボール球主体だったのに、外しきれない甘い球がきてしまったというか、きてくれたというか。やはりこんな時は、1塁は空いているし、はっきり外すべきだったのだろう。おかげで僕らは歓声をあげて先輩を出迎えた。 さあ同点だ。 その後、中盤にかけて試合は落ち着き、8回に僕らが逆転した。 中島1軍に比べれば、やはり2軍は僕らの敵ではなくなっていた。 そして9回。 僕は抑えとしてマウンドに上がった。 見せる大きなカーブ、勝負のスライダー、クロスファイアーを使って、きっちりと3人で終わらせ、僕らは優勝した。 翌日。 野球部は練習のため登校したが、夏休みだから当然一般生徒はおらず、新聞部もお休みなのか、恒例の校内新聞張り出しもなかった。 予選大会とは言え、せっかく優勝したのに、ちょっと残念だ。 ともあれ、決勝大会は1週間後だから、練習には熱が入った。 ピッチャーグループでは、吉岡が伝家の宝刀カーブをマスターしたし、僕は投内連携に明け暮れたし、本田先輩は、まあ、おいといて、氷山先輩は1日に1回必ず顔を出して僕らにいろいろと教えてくれた。それにキャプテンは、サディスティックな笑みとともに相変わらずタイヤ引きやらウサギ跳びやらを命じていて、基礎体力の向上に役立った(と思う)。横川先輩は、近頃バッティングピッチャーすら勤めている。心配だった吉永も、相変わらず笑顔を振りまきながら要領を得ない動きを見せている。そんな毎日が当たり前のように感じ始めた頃。その存在を忘れかけていた阿部先輩が突然現れた。 「おつかれ~」 などと声をかけながらグランドに姿を現すと、1塁側のベンチあたりまで来て僕の方を見た。僕はマウンドにいたから頭だけ下げて会釈した。後ろにいる人は誰だろう。僕がそう思うと、近くにいた吉岡が声をあげた。 「田原、おまえ何やってんだ」 たはら・・・聞き覚えがあるようなないような。 その人は聞き取れないほど小さな声で短く答えた。 「取材」 「あ?何?取材?」 「そう」 阿部先輩が笑いながら言った。 「そうよ吉岡君、よろしくね。私の後継者だから。谷山君もね」 思い出した。阿部先輩が言っていた人だ。 「大丈夫か田原。無口なおまえが」 「大丈夫。たぶん」 「大丈夫よ。思いつめたら突進するタイプだし、的確な質問だってできるし。新聞部の期待の新星なんだからね。私が保証するわ」 遠くからキャプテンが怒鳴った。 「やかましい。今は練習中だ。後にしてくれ!」 「そうね。じゃあまた後で。決勝大会へ向けて抱負を聞かせてね。谷山君」 キャプテンが、また怒鳴った。 「俺のところに来い!」 阿部先輩は笑いながら、無表情のままの田原を連れて帰っていった。 「まあ確かに頭はいいけど、あいつ本当に大丈夫か」 吉岡がそうつぶやいていた。 ショートカットで無表情でメガネをかけた小柄な女の子。僕の田原への第一印象はそんなところだった。顔立ちは整っていたけれども美人なのかどうなのか、微妙だ。はてさて、吉岡との関係は?などとゲスな勘ぐりはやめにして、練習練習。 練習後、僕は部室で取材を受けることになった。おまけに(と言ったら失礼だけど)唯一の2年生レギュラーである神崎先輩も呼ばれていた。僕はありきたりに、抱負を述べて終わったのだが、神崎先輩は、おんぼろ野球部がなぜ立ち直ったのか、どんな努力をしているのか、具体的に何がきついかなど、思いもよらぬ質問攻めに遭っていて、先輩もついつい語っていた。 優勝できて当たり前と思っていたものの、できなかった小学時代の悔しさ。 夢を掴むことすら忘れていた自分。 後輩たちに触発されて、もう一度夢を見る勇気を持ち得た自分。 先輩の、そうした心情を、田原はあいづちを適度に交えながら引き出していった。今までとは違う切り口の企画だなと思った。それにしても田原はなかなかだ。阿部先輩に見込まれただけはある。ただ、雰囲気が冷たく、質問内容もキレ過ぎていて鼻につくような印象を受けた。その辺りが阿部先輩との違いだな。 さて、季節は夏で、当然のように暑かった。 セミの鳴き声も、キャプテンの怒鳴り声も、風物詩よろしく存在し、ともにやかましかった。テレビでは甲子園大会が佳境にさしかかる頃、僕らも決勝大会を迎えた。正確に言うと、ここからが本当の県大会だ。予選大会は本来地区大会なのだが、僕らは通しで県大会と通称している。 会場は県営球場。これから5日間に渡って行われる。 岩松兄弟は来ているかな?彼らは東ブロックのはずだ。しかし校名は知らないから見つけ出すしかない。開会式前の雑踏の中、僕は彼らを捜したが、とうとう分からなかった。勝ち残れなかったのか?それなら仕方ないけど・・・ 開会式が始まり、入場行進し、知らない人が代表宣誓し、それはつつがなく終わった。 僕らは今日の第4試合。南ブロックの2位とあたるそうだ。時間があるためひとまず学校に戻って軽めの練習と昼食をとる予定だから、一旦県営球場をあとにした。 再び県営球場に来たのは、午後2時くらいだった。 場内には入らず、隣接する公園で軽めのストレッチをする。 小学校の秋季大会から十ヶ月。あの時はここで、母さんや恵ちゃんたちと一緒に昼食をとった。僕は昨日のことのように覚えている。これから何回、そうした思い出ができるんだろうな。できれば、いつもいい思い出にしたいから、今日も勝たなきゃ。ひとつずつだ。 しばらくして、はるちゃんが対戦校のことを教えてくれた。精密かつ豊富なデータというわけではなく、知りうる限りのごくアバウトなものだった。それによると、特別意識するほどの相手ではなさそうだった。リラックスして臨めば大丈夫らしい。まあ今更緊張することもないけど。 しかし、その考えはちょっと甘かったかもしれない。というのも対戦校云々ではなく、ギャラリーが半端じゃなかった。親衛隊やファンクラブはもちろん、北峰や中島(なんと1軍!)の選手、それに新聞記者やらスカウトやらと思われるなにやら胡散臭い知らないおじさんたちが大勢来ていた。2軍とはいえ、中島相手に危なげなく勝った僕らに注目が集まっているようだ。そんな状況だから、緊張するなという方がおかしい。 「やっぱり谷山君だよ。注目されているのは」 新田はそう言って笑っていた。 そうかな。僕は氷山先輩だろうと思った。まあ、いいさ。どっちでも。試合に勝って優勝できればそれでいい。 今日のオーダーが、監督より発表された。 1番センター、ガンちゃん。 2番二塁、まっちゃん。 3番ライト、僕。 4番ピッチャー、氷山先輩。 5番一塁、田所キャプテン。 6番三塁、やまちゃん。 7番ショート、田中。 8番レフト、神崎先輩。 9番キャッチャー、はるちゃん。 結局、奇襲も奇策もないベストメンバーに落ち着いた。 4番に氷山先輩が入るということは、早い回から僕との交代もありうる。なりふり構わず勝ちにいく攻撃的なオーダーだ。 そして、試合前の独特な重苦しい時間から解放される時がやってきた。 プレイボールだ。 僕は欣喜雀躍よろしく、グランドに飛び出した。 ベストメンバーの僕らはつぇーぞー、と信じた。 案の定、先攻の僕らは、1、2番コンビのいつもの攻撃であっという間に1アウト3塁。既に肩で息をしている相手投手にたたみかけるように3、4番コンビの連打で先制。さらにはキャプテンが走者一掃の2塁打を放って、あっという間に3点だ。やまちゃんも、田中も続き、神崎先輩は討ちとられたが、マシンガンのような打線は、1回だけで5点も取った。 場内がざわついてきた。 初めて見る者は、あまりにも水際だった攻撃に驚いたことだろう。これは予選ではなく、決勝大会なのだ。そして、今日の氷山先輩はできがいい。前回たちあがりを狙われた経験をいかして、初回からとばしていた。ダッグアウトに引きあげてきた時、先輩はタオルを使いながら話しかけてきた。 「谷山、吉岡、とにかく俺はいけるところまでとばしていくからな。あとは頼むぞ」 任せてください。僕に。僕はそのつもりで首をたてに振った。吉岡もだ。思えば、僕と氷山先輩に吉岡がからむことで投手陣の層が厚くなる。例の伝家の宝刀カーブをマスターした吉岡は今、昇り調子だ。そうだ。先発だけじゃない。控えの選手だって吉岡はもちろん、外野なら白石、新田、内野にはユーティリティプレイヤーの上田がいる。いつの間にか僕らはレギュラー1枚看板のチームではなくなっていた。 氷山先輩は、6回まで投げた。 7、8回は吉岡がマウンドにあがり、2点は返されたものの、僕らも追加点を取って、6−2。9回には僕がマウンドに、ライトへは白石が入った。 僕はぴしゃりと3人でしめ、決勝大会1回戦を突破した。 その日、試合後は早々と解散した。 明日は試合がないし、ちょとだけ休息の意味もあった。明日の午後から軽めの練習をするそうだ。夏の陽は長いから、まだ明々とした帰り道を僕は白石と連れだって帰っていた。久しぶりに買い食いしようぜと白石が言うので、僕は小学時代のいつもの駄菓子屋に行くのかと思ったら、初めて行くタコ焼き屋に案内された。 そのタコ焼き屋は、通学路の道一本向こうにあって、古い木造モルタル2階建てで、その1階が店舗になっていた。入り口の横で五十代くらいのおばちゃんが焼いている。入ってすぐのところにはテーブル席がふたつあり、奥が座敷席になっていた。テーブル席は満員だったので僕らは座敷席にあがった。 「こんな店、良く知っていたな。よく来るのか」 「ああ。たまにだけどな。クラスメイトに教えてもらったんだ。ここは安いしボリュームあるし」 「そうか」 「一串3玉で十円なんだぜ」 「ほんとか」 僕の顔もおもわずゆるんだ。 当時でも、魅力的な値段だった。 「それに、妹が好きなんだ。ここのタコ焼き。おみやげも買って帰る」 あ、そうか。と僕にはわかった。今日は白石の母親が残業の日で、夕食のつなぎに買って帰るつもりなんだ。小学時代も駄菓子屋でパンを買って帰ってたもんな。白石は。 ひとまず僕らは3本ずつと、おみやげ用に6本注文した。 セルフサービスの水を1杯飲んだ頃に、うまそうなソースの匂いとともにタコ焼きが運ばれてきた。 それは、外側はパリパリで、中はとろりとして、中くらいのタコとたくあんが入っていた。 「うまい」僕が思わずそう言うと、 「だろ?」と白石が言った。 甘辛ソースに加え、青のりと魚粉のかかり具合もうまさを引き立てていた。 僕はあっという間にたいらげ、「あと何本かいくか?」と聞いたが、白石は首を横に振った。 「妹が待っているから」 「あ、そうか。じゃあ、急いで帰らないと」 「悪いな、つきあわせておいて」 「いや、いいさ。うまいタコ焼きだったし」 そうこうしているうちにおみやげの包みもでき、僕らは早々に店を出た。 思えば白石の妹、なおちゃんはまだ小学3年生だ。ひとりぽっちで留守番はさびしいだろう。白石が大事そうに抱えているその小さな包みが、なおちゃんを笑顔にしてくれるなら、それはそれでいいさ。そう思うと、僕は少しでも早く白石が帰れるように、「よし、競走だ」と叫んで走り出した。 「あ、ちょっと待て。荷物があるじゃねえか」 白石はそう言いながらもタコ焼きの包みをしっかり持ってついてきた。 辺りは、あかね色に染まっていた。 さて、2回戦は西ブロックの代表とあたる。 僕らは彼らの練習を見ていたが、彼らも僕らの敵じゃないことくらいわかった。 「今日も楽勝のようだね」と、新田が言った。 新田もずいぶん言うようになったなあと思う。でも確かに僕らはそう言えるだけの練習をしてきたつもりだ。今やおんぼろ野球部の面影はない。別に余裕をかますつもりはないが、それくらい相手をのんでかかっても悪くないだろう。不思議と僕には1回戦の時のあの重苦しさはなく、試合前からリラックスできていた。やはり、緒戦の段階ではいろいろと無意識のうちにプレッシャーを感じていたようだ。 試合が始まった。 4回までに僕らは3点とって主導権を握った。 今日も先発は氷山先輩だ。 次々と力でねじ伏せていくその姿は、遠くから見ていても身震いするほど格好良かった。親衛隊のボルテージが上がるのも納得できる。 そして前回と同じように7回から吉岡がマウンドに上がった。 氷山先輩ほど鮮やかではなかったが、変化球主体に丁寧に組み立て、今日はとうとう9回まで無失点で投げ抜いた。 さあ、次の準決勝は北峰だ。 次は先発しろと、僕はヨッパライから指示された。 夜、いつもの壁あてをやった。 先発前夜だから右はせず、左だけ。それに奇跡の硬球を使っている。このボールと毎日欠かさないウェイトのおかげで、初めはあんなにぎこちなかった僕の左も、ずいぶんさまになってきた。制球力も右ほどじゃないけど、いい感じだ。明日はまた「のらりくらり」の投球になるだろうから、制球力に自信があるのはいいことだ。 僕は五十球目から普通の軟式球に持ち替え、全力投球した。 その十球目。 会心のクロスファイアーが決まった。 「よし」 僕は思わず声を出した。 そして、今日はこれくらいでと思い、仰向けに寝転んだ。 夏の生あたたかな空気の向こうに星がまたたいていた。 そして、鈴虫の鳴き声も聞こえた。 ああ、もう鳴いているんだ。季節は早いな。 ふと、僕がここでこうしているのは何年目で、何回目なんだろうと思った。 大雨の日以外は大体いるから、年に三百日はいるのかなあ。すごい数だな。そういえば、中学になってから恵ちゃんはここにあまり来なくなった。二人でここにいる時は結構楽しかったのに。恵ちゃんも忙しいのだろうから、まあ、仕方ないな。さて、じゃあもう帰ろう。ちょっとだけでも勉強しないと母さんがうるさいし。 僕は、いつものようにうさぎ跳びしながら家に帰った。 翌日。準決勝の日。 朝学校に集合してから意外な話を聞いた。 てっきり北峰が相手だと思っていたのに、どうも違うらしい。激しい打ち合いのすえ、8−7で東ブロックのチームが勝ったそうだ。 一体どうしたらあの投手から8点もとれるのか。誰彼となく聞きたがった。六家先生も詳しくは知らず、僕らは狐につままれたような気持ちだった。ある意味拍子抜けしたし、ある意味ではそんなに打線がいいチームなのかと緊張もした。 僕らが球場に着くと、中島中が同じ中央ブロックの代表と戦っていた。 そうだよな。順当にいけば、ベスト4は全て激戦区を勝ち抜いた中央ブロックになるはずなんだ。過去もそうだったらしいし、北峰は弱いチームじゃない。 僕らがスタンドから見学していると、新田が中島応援団の連中から情報を仕入れてきた。 先ず、あのナンバー1ピッチャーは投げなかったそうだ。どうやら怪我をしたらしい。東ブロックのチームは、その地区大会準決勝で、ぽっと出のやたら強いチームとの死闘を制して勢いに乗っているということだった。とにかくその試合で開眼したような打線が売り物らしい。 「なんか、おもしろそうだな」 やまちゃんがそう言うと、みんなも口を開いた。 「勢いだけで俺らはとめられない」 「でも勢いは大切だよ」 「不思議な話もあるんだね」 みんな思い思いにとりとめも無いような話に興じていた。 「とにかくね、」と新田が言った。 「一度火を点けると止まらないようなノリのいい打線らしいよ」 「そう言えば、北峰のあのニヤついた男たちも小学時代、そんなチームだったよな」 「あの時は、はるちゃんが試合中に冷静に分析してあいつらの弱点を突き止めたんだ」 横川先輩が口をはさんだ。 「へぇ~、あんたたち、小学校でそんなことまでしていたの」 やまちゃんがむきになって言い返した。 「だから、先輩は俺らの激闘の数々を知らねぇだろうって。簡単に横綱相撲はできねえよ。みんな必死でやってたんだ」 横川先輩は笑った。 「じゃあ、合宿でその辺りの話、よろしくね。楽しみにしてるわ」 吉永も口をはさんだ。 「いい話ですね。憧れます。かっこいいです」 その時、反対側のスタンドに東ブロックの連中らしき一団が現れた。 「こいつらか」 僕がそう思った連中は、どいつもこいつもワルそうな顔をしていた。 第一試合も終盤となり、僕らは隣接する公園でウォームアップを始めた。 何本かダッシュした頃、私服姿のニヤついた男がやってきた。 何か言いたそうだったが、言い出せないでいるような感じだった。 「残念だったな」 僕がそう声をかけると、やっとその重い口を開いた。 「負け惜しみに聞こえるかもしれないが、」 ニヤついた男はそこまで言って悔しそうに唇をかみしめた。 「あのエースが投げられなかったんだろう?仕方ないさ」 「いや、そうじゃない。きっとわざとだ。あいつらわざとビーンボールで葛城先輩をつぶしたんだ」 にわかには信じられない話だった。 「初回の表にやられて、それから他のラフプレイもひどかったさ」 ニヤついた男によると、走者に当てるなんて当たり前で、打者も打席の一番後ろでバットを振り回し、捕手を威嚇するらしい。 「よく、そんなのを審判が何も言わないな」 「証拠はないさ」 「しかしな」 「信じるかどうかは、お前にまかせる。ただ、注意しろよ」 そう言って、ニヤついた男は帰って行った。 はたして、本当にそんなチームが存在するのか。僕には半信半疑だった。しかし念のためみんなに伝え、注意することにした。 第一試合は予想通り中島中の勝利で終わり、僕らはグランドに出て練習を始めた。東ブロックの奴らは余田中学といい、確かにワルそうなヤツも多いが、半分くらいは普通の選手だ。練習にしても、声が出ていて、動作も機敏だ。ニヤついた男が気にしすぎだったのではないだろうか。 そして、試合開始となったが、特に何もなく、普通に始まった。 1回表。 僕らは先攻だ。 1番ガンちゃんが、セーフティに行こうとした瞬間、体を大きくよじってボールをよけた。 それは、よけなければ顔面直撃となるような危ない球だった。 投手は帽子をとって謝っていたが、その口元は妙にニヤついていて、「あれがそうかも知れない」と僕に疑念を抱かせるには充分だった。 結局ガンちゃんはセーフティを決めて出塁し、2番まっちゃんへの2球目にいつものように盗塁した。スタートが良く、スライディングセーフと思われたその時。やや不自然なタッチプレイがあった。足から入って手でベースをおさえたガンちゃんの頭目がけてショートが腕を大きく振り回し強い力でタッチした。タッチプレイか暴力か紙一重の感じだ。いや。普通ならもう間に合っていないからタッチしないはずだ。やはりこいつらは危ないプレイをするようだと僕は思ったが、ガンちゃんは何食わぬ顔をしていた。 しかし、ガンちゃんは静かな闘志を燃やしていたんだ。いつもならあまりやらない三盗を、しかも直後の1球目に試みたのだ。確かに相手ピッチャーの投球動作は隙だらけで、ガンちゃんでなくても僕ですら盗めそうだが、ガンちゃんは勇気を持って実行した。あせった捕手が暴投し、送球がレフト線へ抜けると、ガンちゃんはすかさずホームを狙った。レフトが追いつきバックホームし、捕手は立ちはだかるようにブロックした。 「うまい」 僕が思わずうなるようなスライディングをガンちゃんは見せた。ブロックを回り込んでかわし、スライディングしながら左手でホームにタッチした。捕手のタッチプレイは一歩及ばず大きな空振りとなった。 すごい。 ガンちゃん一人で1点とった。 泉川の応援席から歓声があがり、僕はネクストバッターズサークルでガンちゃんをハイタッチで迎えた。すれちがいざまガンちゃんは、 「あんな汚い奴らには負けないぞ」と言っていた。 残念ながらまっちゃんは三振に倒れ、替わって僕が打席に入ると捕手が話しかけてきた。 「お前が谷山か」 何だこいつ。何で僕の名前を知っているのだろう。 「お前のことは、岩松から聞いている」 その消息を一番知りたかった名前が思わぬ場面で出てきた。 「あ?」 「俺らに負けてよほど悔しかったんだろうよ。泣きながらわめいていたぜ。お前らなんかが谷山に勝てるもんか!ってな。みっともねえ話だ」 捕手は鼻で笑っていた。 それは、悔しかったに違いないさ。こんな卑怯な相手ならな。僕はそう思ったから無視した。ふん、何とでも言え。僕らは何があっても正々堂々と勝つ。 1球目。 僕の背中を抜けるようなとんでもないボールがきた。 あいさつがわりだな。 ならば、僕もあいさつしなきゃ。 4球目の甘い球を、僕は仮設フェンスの向こうに叩き込んだ。2点目だ。 応援団の歓声を受けながらホームに戻ると、捕手が僕をにらみつけていた。 次の氷山先輩にも、荒れ球に見せかけた危ない球が何球かきたものの、先輩は冷静にかわし、いい球を弾き返した。しかしキャプテンはよけ方が下手だからデッドボールを食らい、ワンアウト1、2塁。一気にたたみかけたいところだったが、やまちゃんは見せかけなのか本当なのかわからない荒れ球に翻弄されて三振に倒れ、職人田中もランナーを返すことができずにチェンジとなった。まあいい。2点もあれば充分だ。今度は僕の投球であいつらを黙らせてやる。 その裏。 僕が左で投球練習していると、余田中ベンチからヤジが聞こえた。 「右じゃねぇぞ。楽勝だ」 「勝手に故障してやがる」 そんな感じだった。岩松兄弟から聞いたのか、それなりに情報はあるようだ。 ふん。好きにしろ。 やがてプレイがかかり、第1球目。 はるちゃんはの要求はストライクカーブだ。 僕は首を縦に振った。 悔しいけれど、右の超豪速球のように相手を黙らせる球は左にはない。でもそれに近い決め球はクロスだ。だから僕は決め球に使いたかった。 カーブや外角遅い球、大きなカーブなどでカウントを2−1とし、次が決め球クロスの出番だ。しかしはるちゃんの要求は外角低めいっぱいストライク速球だった。意味がわからない。しかし強硬に要求してくるから、その通りに投げた。結局、何とかいっぱいに決まってくれたから打者は手を出せずに見送り三振。まあ、あのコースなら当たってもファウルか凡打にしかならない。その時はわからなかったが、はるちゃんはカッカしている僕に気づいていたのだろう。だから、なだめるかのような配球を選択したんだ。乱暴な相手につきあう必要はないんだよと、はるちゃんはたぶんそう言いたかったのだと思う。 その後、余田中のヤジは相変わらずだったが、そうそうラフプレイも仕掛けてこれず、8回を終わった。 得点は3対0。 9回表、ランナーが出たのでダメ押し点の欲しいところだったが、残念ながら無得点に終わった。 最後まで投げたかったが、吉岡がマウンドにあがり、氷山先輩に代わり僕はライトに入った。感想として、余田中は普通にやっても強いチームだ。それなのに何故あんなラフプレイに走ったのかわからない。ともあれ、荒れ模様のゲームをふつうのペースに戻したのはやはりはるちゃんだろう。僕らは事前の情報で、彼らはノリのいいチームだと知っていた。おかしな話だが、荒れ具合がエスカレートするほど燃える連中なのだろう。その流れをはるちゃんが断ち切ったんだ。途中から急に淡々とプレイした僕らに戸惑い、そのままゲームセットとなった。もし、僕が内角をえぐるクロスを多投していたら、彼らのケンカ野球のペースに巻き込まれていたのかも知れない。もし、岩松兄弟のチームと僕らのチームを比べるならば、はるちゃんが彼らのチームにはいなかったと言うことだ。 さあ。明日は決勝だ。 その朝。 僕はいつものようにランニングに出かけた。 先発の日は三キロくらいに抑えるが、決勝は氷山先輩が先発だったので、いつものように十キロ走った。そしてそれもいつもの習慣だったが、ランニングの締めに東原小のグランドで軽いストレッチしていた。すると、背後から「ゆうちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。ふりかえると、美咲ちゃんがいた。僕は珍しいお客さんに驚いた。 「あれ、どうした?こんな早くに」 「別に。ちょっと散歩していただけ。早くに目が覚めちゃったから」 恵ちゃん、美咲ちゃん姉妹の家は学校のすぐ近くだ。 「ああ、そう」 僕はそう言ってストレッチを続けた。 美咲ちゃんはしゃがみこみ、黙って僕の様子を見ていたが、しばらくして口を開いた。 「ゆうちゃん、最近うちにこないね」 え?と僕は思ってストレッチを止めた。 そう言えば、以前は恵ちゃんが僕の壁あてを見に来ていたから、夜送っていってお菓子とか、ご馳走になったことはある。 「去年はうちの家族と一緒に海に行ったじゃない?今年は行かないの?」 ああ、その事か。 「今年は行けないと思う。恵ちゃんも忙しいみたいだし」 「お姉ちゃん?」 「ああ」 「お姉ちゃんが忙しいのは、たぶんバスケ部の先輩にいつも誘われているからだよ」 「ふーん、つきあいも大変だな」 「それがね、男の先輩だよ。いいの?ゆうちゃん」 僕の心にさざなみが立った。 僕は美咲ちゃんの目を見つめた。 「何?それ」 「何って、その通りだよ」 僕は美咲ちゃんを見つめて動けなくなった。 美咲ちゃんは小学5年生だが、同級生の子たちよりはるかに大人びていて、お人形のような美人だ。その子が、今何て言った? 言いようもない重たい気分のまま、僕は決勝戦に突入した。 整列の時、チームメイトは何やらざわついていたが、僕はうわの空で、何も入ってこなかった。そのことに気づいたのは、1回表の攻撃、打席に入った時だった。どうも先日の予選決勝の時と投手が違うなあなんて薄ぼんやりと思っていたら、恐ろしい速球が懐をえぐるように決まった。 「あ」 それは、中島中の1軍投手だった。 このキレの良さは忘れない。何人もバントすらさせてもらえなかった速球だ。 「何とかしなきゃ」と思ったが、僕にはどうにも力が入らず三振した。 中島中は今日こそ勝つつもりなんだな。 1回裏。 やはり、氷山先輩のたちあがりは悪い。 1番打者こそ抑えたが、2番にヒットされ、盗塁すら簡単に許してしまった。 内野陣がマウンドに集まっていたが、僕にはどうにも他人事のようにしか感じられず、それよりも、スタンドに恵ちゃんの姿を捜していた。 「来ていないのか」 そんなにギャラリーは多くない。来ていれば分かりそうなのに、そしていつも僕の近くの席にいてくれたのに、その姿はどこにも見えなかった。 「谷山ぁ!」 キャプテンの絶叫で我に返った時、猛烈なゴロがまっすぐ僕に襲いかかってきた。慌てて捕球しようとしたが間に合わなかった。 僕はトンネルした。 振り返り、ボールを追いかけようとすると、カバーに走ってきていたガンちゃんが先に捕球し、バックホーム。しかしもう間に合うタイミングではなかった。まっちゃんがカットし、生還した2塁ランナーはベンチ前でハイタッチしていた。 「らしくないな」 ガンちゃんが僕にそう言った。 僕はガンちゃんに顔もあわせず黙っていた。 わかっているさ。カッコ悪いよな。でもこの気持ちはどうしようもないんだ。 それから、氷山先輩は何とか踏ん張って、追加点を許さずチェンジとなった。ベンチに戻った僕に、はるちゃんが「どんまい」と声をかけてきた。やまちゃんが不服そうな表情で僕を見つめながら言った。 「体調でも悪いのか」 僕はベンチに腰をおろし、帽子を深くかぶって、やまちゃんの顔も見ず、 「別に」とだけ言った。 やまちゃんはカチンときたようで、僕の胸ぐらをつかんで叫んだ。 「しけた真似してんじゃねぇ、じゃ何だあのざまは!」 やまちゃんと視線が合いそうになったので、僕は慌ててそらした。 「何とか言えよ、わかってんのか、これは決勝で、相手は中島なんだぞ」 好きにしてくれ。 僕はそう思った。 離れた席にいた新田がやってきて割って入った。 「山村君、やめようよ。試合中なんだよ」 「チッ」と舌打ちしてやまちゃんは僕を放した。 「たった1回エラーしたくらいで谷山君を責めるのはやめようよ。僕らはチームなんだよ」 「だったら、チームのためにあんなエラーなんかすんじゃねぇ」 「暑いから、たぶん谷山君もちょっと集中力が切れただけだよ。ね、もう大丈夫だよね、谷山君」 僕をかばってくれる新田の声も、今の僕にはうざく感じた。 はっ、もうどうだっていいじゃないか。ほっといてくれ。 カキンと甲高い金属音が聞こえた。 氷山先輩がヒットを放った。 客席が「わぁ」っとわいた。 まっちゃんが言った。 「終わったことは、もういい。でもな谷山。やる気のないプレイは困る」 みんながグランドではなく、僕を見つめていた。もうほっといてくれ、それより、今チャンスじゃないか。僕はそう思ったが何も言わずに黙ったままだった。 キャプテンが、何とか送りバントを決めていた。 中島中があわてていた。 客席は沸いていた。 空の青さが目に痛かった。 現実感のない、空虚な時間だった。 試合は0−1のまま、6回まで進んでいた。 僕は2塁上にいた。 気がついたらファーボールで出塁し、氷山先輩の送りバントで進塁した。 「戻れぇ!」 ベンチからの大声に、僕は気がついた。 投手の様子がスローモーションの様に見えた。 「牽制だ、やばい」 ぼんやりとはしていたが、そんなにリードしていなかったので戻ることができた。頭から戻ったあと、砂埃の舞う中で、これは現実なのか、いや、現実だと自覚した。またやらかすところだった。せっかく氷山先輩がバントまでしてくれたのに。それまでの焦点があわなかった心に、ようやくピントが合ってきた。 「負けるな。俺」 そう思うと、目の前の現実に闘志が湧いてきた。 恵ちゃんのことは、きっと間違いだ。会って話せば簡単に解決だ。一緒にいた俺が信じなくてどうする。うん。きっとそうだ。だから今は、目の前の試合に集中するんだ。 「よし!」 キャプテンが目の覚めるような打球を放った。 僕は一気にホームを狙った。 ランナーコーチの先輩(誰だっけ)が、必死になって腕を回している。 ボールの位置が気になったが、中島は最短距離の中継プレイをする。振り返っていては、そのわずかな減速が命取りになる。僕はホームしか見なかった。 すべてがスローモーションの様に見えた。 僕がホームに突入しようとした時、捕手が捕球姿勢への動きを始めた。 ボールが近くに来ている。 ブロックをかわしながらのスライディングだ。 あとちょっと。 僕の左手がホームに届くまで。 時間が異様に長く感じた。 「よし!」 ホームを叩く確かな感触があった。 その直後、捕手のミットが僕の左手を叩いた。 「いて」 でも、それは今、どうでも良かった。 主審が、その両腕を大きく横に水平に開いた。 スライディングからそのまま起き上がり、ずれたヘルメットを戻し、ベンチに向かうと、客席もベンチも沸いていた。 やっぱり、僕の居場所は「あっち」じゃない。ここなんだ。 6回裏。同点。 氷山先輩の投球練習が終わると、はるちゃんは2塁へ送らず、ボールを持ってマウンドに行った。内野陣も集まり何やら相談していた。そしてみんな人差し指を天にかざして気合いを入れていた。 何だろう。珍しい光景だ。 後で聞いた話だと、その時はるちゃんはこう言ったらしい。 「谷山の調子が悪い。だから、俺たちでカバーしよう。たまにはあいつに頼らず、俺たちだけで勝とう。絶対優勝しよう」 もちろん、その時の僕はそんな話だったなんて思いもしなかった。 氷山先輩の力投。 それは本当にカッコ良かった。 中島はこの辺りから例のいやらしい見せかけバント作戦をとって先輩を揺さぶったが、今日の先輩は冷静だった。いや、先輩だけじゃない。バントの構えの度にやまちゃんとキャプテンが猛ダッシュして、氷山先輩の負担を減らそうとした。連動してまっちゃんも1塁方向へ動く。みんなが、できることをきちんと丁寧にやっていた。バスターを食らったらひとたまりもないなとも思うが、氷山先輩の球の威力にそんな芸当はできないだろうし、何が何でも何とかしてやるという気迫の伝わる守備だった。それが、逆に中島へのプレッシャーとなっていた。中島の野手は2軍選手だ。次第に僕らに押され、そして、僕らは今まで以上の強さを見せた。みんなでつないで8回には2アウトから2点をとった。9回には吉岡がマウンドにあがり、伝家の宝刀カーブを武器に力投し、ランナーを出したものの何とかリードを守りきった。 僕らは勝った。優勝だ。 結局今日の僕は、「お客さん」のようなものだった。 それから、閉会式があり優勝旗やメダルを受け取ったが、僕にはそんなものどうでも良かった。一刻も早く恵ちゃんのところに行きたかった。 学校に戻り、解散した時はまだ夕日の時間にもなっていなかった。これなら多分バスケ部はまだ体育館で練習しているはずだ。 僕は一目散に体育館へ駆けだした。 体育館からはボールの弾む音が聞こえた。 暑いから、扉は全て開けられていてバレー部とバスケ部の人影が見えた。 恵ちゃんは? 僕はその姿を捜したが、急に何だか怖くなってきた。 見つけない方が幸せのままかも知れないな。 特に捜す訳でもなく、僕はしばらくそのままぼんやりとしていた。部員たちのかけ声、先輩らしき怒声、キュッキュッという靴擦れの音、バムバムッというボールの音。思えばこれが、僕の知らない恵ちゃんの世界なんだ。僕は一体、どれだけ恵ちゃんの事を理解していたんだろう。一緒にいるのが当たり前だと思っていたのに、失うかもしれないと気づいた時の喪失感は、思いもよらない大きなものだった。 僕は深呼吸した。 試合中でもこれをやって気持ちを落ち着けている。 僕はひとまずその場を離れた。 やがて陽も落ち、街灯に明かりが灯った。 鈴虫の鳴き声が聞こえた。 僕は北門に突っ立って恵ちゃんの帰りを待っていた。 いつだったか、恵ちゃんがここで僕を待っていてくれたことがあった。今日は逆だな。何人かの生徒が僕を珍しそうに見ながら帰って行った。ずいぶん長い間、僕はここにいた。そして。 「ゆうちゃん・・・」という恵ちゃんの声が聞こえた。 外灯のあかりの下に、夏のセーラー服を着た恵ちゃんが驚いたような顔で立っていた。 その日、僕はちょっと遠回りな公園ルートで恵ちゃんと一緒に帰った。 公園にはちょっとした池があって、その水面には遠くの街あかりが映り込んでいる。 ウシガエルの鳴き声も聞こえた。 夏草のにおいがして、湿った空気にはやや蒸し暑さを感じた。 僕は「男の先輩」について聞きたかったが、どうにも聞き出せなくて黙っていた。そんな僕のおかしな様子を察したのか恵ちゃんも黙ってついてきていた。やがて沈黙を破ったのは恵ちゃんだった。 「はじめて、校門で待っていてくれたね」 僕はそれには答えず黙っていた。 恵ちゃんは、話題を変えるかのように試合の話をした。 「今日は決勝だったんでしょう。ごめんね応援に行けなくて。でも優勝だよね。野球部は強いし、ゆうちゃんがいるんだし」 「恵ちゃん・・・」 僕は立ち止まって恵ちゃんに声をかけた。でもこわかったから、その顔を見ることはできなかった。 「何?」 次の言葉をひねり出すのに、僕は時間がかかった。 「どうしたの?ゆうちゃん」 野球なら、どんなに強い相手でもこんなにこわいとは思わない。 おかしいな、俺。右手を握りしめているじゃないか。 俺って、こんなに臆病だったか? このまま何も言わずにいたほうが、何事もなく幸せなんじゃないか。でも、それは嫌だ。恵ちゃんの声が聞きたい。「男の先輩」なんてきっぱりと否定する声を。 「あの、さ」 その時、風が舞った。 そのおさまりを待たず、恵ちゃんはすぐに答えた。 「うん」 「あの、仲がいいっていうか、そういう先輩っているのか」 「バスケ部の?みんな悪い人じゃないよ」 「いや、特に優しいっていうか、」 「中村先輩?」 「男?」 「女子だよ」 そう答えて、恵ちゃんは気がついたようだ。 「もしかして、二宮先輩のこと?」 僕はふりかえって恵ちゃんを見た。 恵ちゃんはうつむいて真っ赤な顔をしていた。 まんざらでもなさそうなのはその様子で分かる。僕は次にかける言葉を探した。 さっきより強い突風が吹き抜けた。 「どんな人?」 「やさしい、よ、」 「いいやつなんだ」 「うん」 僕は天を仰いだ。 星空が広がっている。 思えば僕は、恵ちゃんがいるのはあたりまえで、ふつうのクラスメイトたちのように、こまめに電話したりデートしたり、していない。小学校の時は交換日記していたが、中学になってからは恥ずかしくってやってない。やさしいことなんて、言葉だって何一つ恵ちゃんにしてやっていないんだ。でも、でも、それって裏切りなんじゃないのか。そうも思ったが、先輩の方がいいって恵ちゃんが言うのなら、それはそれで仕方がないのかもしれない。 「わかった」 僕はそう言った。 恵ちゃんはうつむいたままだった。 僕の心は重くなった。やっぱり、こんな話なんてしなきゃよかった。うわべだけでも、みせかけだけでもその方がうまくやれたはずなんだ。 終わったんだと思った。 「わかったって何よ」 うつむいたまま、恵ちゃんは言った。 「何がわかったの?私は、ゆうちゃんが遠くに行ったようで、さびしかったんだよ。野球ができて勉強ができて、ファンクラブまであって、私は・・・」 恵ちゃんは僕の胸に顔をおしつけた。 「新聞部の部長さんだって、マネージャーさんだって、みんなゆうちゃんのこと、好きなんでしょう。私は一体何なの?ゆうちゃんはいつも何も言ってくれないじゃない」 思いがけない恵ちゃんの反撃だった。 僕は恵ちゃんの肩に手をかけて、黙って聞いていた。 「お願いだから、私のこと放さないでよ」 僕は思わず恵ちゃんを抱きしめた。 「放さないから。だから一緒にいてくれ」 恵ちゃんは、肩を震わせ僕の胸で泣いた。 やがて小さな声で「うん」と言った。 第十一章 鬼柴田 新田は老舗料亭のお坊ちゃんだ。 市内に伝統と格式を誇る料亭があり、県内の海と山に一つづつ、ホテルを経営している。父親は県内の経済人や文化人とも交遊のある名士だ。新田本人は本来、泉川中ではなく中島中に行き、家業の見習いや勉強に力を入れ、4人姉弟唯一の男子として後継者の道を歩むはずだった。しかし、どうしても僕らと一緒に野球がしたくて泉川に入ったため、父親とは対立したような状態だったらしい。「だった」というのは、泉川中の快進撃に父親の態度が軟化してきたのだ。泉川中は父親の母校であり、それに僕ら旧東原のメンバーを小学4年の頃から面倒見てきたから、一人一人の顔がわかることもあって悪い気はしなかった。新田は野球部の活躍を伝える校内新聞をこまめに父親に見せ、その機嫌を和らげようとしていた。それに成績も四十八位に入っているし、見習いも手抜きせずまじめに勤めている。だから、「海のホテルで合宿したい」と言った時、父親は無碍には断らなかった。しばらく考えさせてくれと言うことだった。そして決勝大会が始まる頃、学校側から合宿の可否について問い合わせがあった時、「可」の返答だけでなく、ホテルも提供する、責任も私が全て負うから子供たちの希望を叶えてくれと学校に要請した。 「何だかんだ言っても、結局お父さんはおまえがかわいいんだねぇ」 そう母親に言われながら、新田は事のいきさつを聞かされた。 新田の父親は、そういう面倒見の良い人情家の面もあったが、県大会で優勝できるような一流の人間とのつきあいや経験は、新田の将来にプラスになるから多少の経費は許容範囲だと冷静に判断した。 学校としても、地元の名士である新田(父)の言葉は無視できず、ホテルの提供など条件も良く、運動部の合宿は前例もあるし、今回はいささか急な決定であることを除けば特に問題はないだろうと合宿実施許可の決裁がおりた。これも結局、阿部先輩の新聞のおかげなのだが、野球部快進撃の裏にある部員たちの努力を知った校長先生が何とか報いてやりたいと考えたことも大きい。「野球部だけ特別扱いするのはいかがなものか」と、一部の先生は反対したが、「苦難の道を乗り越えて事をなそうと奮闘する生徒たちを評価し、愛情を注ぐことも教育である」と声を大にして主張した。昔気質な校長先生であったし、そういう気風の残る時代でもあった。他の大勢の先生たちに異存はなく、手分けして計画を立案し、市への説明など、一所懸命対応してくれた。(もちろん、新田の父親が裏から手をまわしてくれていたから、急な届出も特に問題にはならなかったようだ) 僕らが決勝大会を戦っている時、大人の世界ではそんなことがあったんだ。 そして、決勝翌日。僕らは合宿説明会と優勝報告のため登校した。 僕らは先ず優勝報告のため全員メダルをかけて校長室に行った。 六家先生に付き添われ入室すると、そこには校長先生を中心に教頭先生、数名の先生に、PTA関係らしい人たち、そして見慣れない若い女の人がいた(ヨッパライは二日酔いとかで来ていない)。 教頭に促され、キャプテンが一歩前に進み、緊張のあまりぎこちない報告を始めると、校長先生はニコニコして聞いていた。小柄で筋肉質。そろそろ定年じゃないかと言われていた。 やがて報告が終わると校長先生が話しはじめた。 「みなさん。優勝おめでとうございます。そして、ごくろうさまでした。みなさんの努力精進は日頃から聞き及ぶところでした。これからもチームの和を大切に、頑張ってください」 「一同、礼」 教頭のかけ声とともに、僕らはお辞儀をした。すると、校長先生は僕らに歩み寄り、一人一人に握手を求め、言葉をかけていった。かたちだけの報告会だろうと思っていたが、校長の思いのこもった握手に、僕の心はわずかながら熱くなった。 さて、続いて合宿説明会だ。 みんなこっちの方が楽しみだった。 僕らは、その日練習のなかった軽音部の部室に集められた。野球部室は手狭な上に、ろくに机がないからだ。 思いつきのような合宿話が決まり、僕らは嬉しかった。 「ごほうび、ごほうび」 そう言って上田がはしゃいでいたし、言い出しっぺの吉永も笑っていた。 今年も枕投げに、場合によっては誰かをフルチンの刑にしてやろうなんて話も出ていた。 やがて、ガリ版刷りの印刷物を抱えて六家先生が入ってきたかと思うと、その後ろから、さっきの見慣れない女の人がついてきた。ふたりは印刷物を配り始め、行き渡ったことを確認して六家先生が言った。 「あー、それでは説明会を始める」 やまちゃんが手を上げて口をはさんだ。 「先生、横の女の人は誰ですか」 六家先生は横を見た。 その女の人はうなづいた。 「ああ。そうか1年は初めてだったな。本来の野球部長で小川先生だ」 そう言えば、そんな話だったなと思い出した。でも事情を知らないメンバーはどよめいた。 「せっかくだから、先生一言どうぞ」 六家先生のすすめで、小川先生はあいさつを始めた。 「産休から戻ってきた小川です。休んでいる間に野球部もずいぶん変わったようね。でも優勝はともかく、合宿なんて手間をかけさせないでちょうだい。ただでさえ忙しいし、うちには生まれたばかりの赤ちゃんもいるので。わかった?」 僕らは目を白黒させた。 これはまた、何と奇天烈なあいさつだろう・・・ 僕らが言葉を失っていると、六家先生があわてて言葉をつないだ。 「ま、あれだ。小川先生には小さなお子さんがいらっしゃるから、当面は私も今まで通りみんなの面倒を見るし、合宿も私が引率するからな。先生の復帰は正式には9月からになるだろう。まあ、みんな仲良くやろう」 仲良くって言われても、こんな言い方はないだろうと思った。 小川先生は、メガネをかけたきれいな人だ。才色兼備。傍から見るとそんな言葉がよく似合う。それがこんな毒を吐くなんて。みんな何も言わなかったが、不満と不安の空気が渦巻いていた。キャプテンに至っては顔を伏せて笑いを押し殺している。 ひょっとして、小川先生はいつもこんな調子なのか? おんぼろ野球部の源は、この先生にあったのかも知れないな。 問題は、あった。 でもそれは、いざとなったらヨッパライのように無視すれば済む小川先生のことじゃなく、白石と氷山先輩だった。 「俺、合宿とかに興味ないから行かないよ。でもお前らは楽しんでこいよ」 氷山先輩はそう言って説明会をパスしているし、白石は合宿費三千円という書類を見てちょっと考え込んでしまっている。 当時の三千円は、それなりに大金だ。 ホテルは提供されると言っても、参加費無料と言う訳にはいかないのが大人の世界のようだった。はしゃぐ仲間たちの側で浮かぬ顔をしている様子を見て、僕には察しがついた。小学校の頃はもっと高かったが、恒例行事だったから工面できた。でも、こんな急な出費はどうなのか。白石の親父さんは癌で亡くなった。その時の治療費は未だに借金として残っている。だから白石は小学校時代から新聞や牛乳配達をして、自分で野球部費を払い、小遣いもその中から出している。幼なじみの僕には痛いほど白石の気持ちがわかった。 「白石、俺、小遣いあるから、心配するなよ。一緒に行こうな」 白石は真っ赤になって言い返した。 「はぁ?何言ってんだ?これくらい何とでもなるし、第一、同情なんてするなって何度言えば分かるんだ、お前」 人がせっかく心配しているのに。 そう思わないでもなかったが、僕は白石がそういう性格だということも知っている。それに、実は三千円なんて貯金は僕にもなかった。 さて、どうするか。 説明会が終わり、三々五々解散した。 僕は白石の件ではるちゃんに相談しようと思って、その後を追い、呼び止めた。側には、長尾と上田がいた。僕が訳を話すと、みんな、まちまちな反応だった。 上田は「そりゃ、好きにさせればいいんじゃない?関係ないでしょ」と言うし、 長尾は「要はお金か。何とかならないかな。みんなでカンパするとか」 はるちゃんは「何とかしたいのはやまやまだけど、お金のことだけ?配達のバイトだって休めないかもしれないし、妹さんだってほっておけないだろうし」と、さすがに一番事情が分かっているからもっともらしいことを言っていた。 確かに、白石がいないと、なおちゃんの面倒を見る人がいない。白石の母親は工場で働いているから、急に言って休みをもらうなんて難しいだろう。 「まぁ、でもお金だけでもクリアできればって思うけどな。ちょっとずつでもカンパしようぜ」 長尾はそう言った。 でもみんなでカンパしたなんて、白石はプライドにかけて受けとらないだろう。 何かうまい手はないかなあ。 「じゃあ、こういうのはどうだ?合宿費は後日徴収になったとかなんとか言ってさ、とにかくあいつを参加させるんだ。参加が決まればバイトも妹さんもなんとかするだろうから」 長尾はそう言って、自分の策がまんざらでもないことに満足しているようだった。 「それって、俺たちがカンパして先に払っておくってこと?一体何人が賛同してくれるんだよ。十人いたって一人三百円だぜ」 当時の中学生には、三百円も大金だった。 「カンパが難しいなら、俺たちで稼ぐか?今時、その辺のカブトムシだってデパートで売れるっていうぜ?」 長尾は、根は親切なヤツだってことがわかった。熱心に考えてくれていた。 急に上田が大声をあげた。 「あ、バイトはどうだ?兄貴が今やっている日雇いのような工場清掃のバイトがあるんだ」 「どんなの?」 「バイク工場さ。塗装工程の機械内部のはつり作業で、きついらしいけどいい金になる。1日で四千円くらいって」 「それなら、俺たちにもいい小遣いになるな」 「でも、それって中学生でもいいの?」 「バレやしないって。高校生って言えばいいんだよ。俺らガタイはいいから」 そう言って上田が笑った時。 「って、ゆうかバレてるんですけど。とっくに」 僕らはその聞き覚えのある声の方に振り返ると、白石が立っていた。 「お前ら、同情なんてするなよ。谷山から何って言われたか知らないけれど、これは俺の問題なんだ。俺が何とかする」 僕はちょっと気まずかった。上田にいたっては、ムッとしたようだ。それから白石は、ちょっとうつむいて言った。 「でもな。ありがとな。お前ら」 これは、後に仲間内で「バイト未遂事件」と呼ばれた。 白石にバレバレなんて何とも気恥ずかしい話だが、少なくとも僕らはチームメイトのために何かしたいと思った結果であった。出会って4ヶ月にもならない僕ら(はるちゃんを除く)に仲間意識が生まれていたんだ。 それから、氷山先輩は本当に参加せず、白石は何とか参加できた。 結論から言うと、案ずるより産むは易しというか、自分の貯金をはたいて足りない分は母親が何とかしてくれたらしい。とんだ取り越し苦労だったが、まあ、いいや。 さて、合宿だ。 僕らが校庭に集合すると、既に貸し切りバスがきていた。 六家先生は運転手と雑談のような打合せをしていて、その他に二人の先生がいた。一人はこの4月に入職した社会の小島先生。小柄な女性だ。もうひとりは、(これが驚きだったのだが)校内で最も危ないと僕らに噂される体育教師だった。角刈りに無精ひげ、さらにグラサン。青い上下のジャージがトレードマークだ。僕は事情通と思われる上田を引っ張って、離れたところでこっそりと事情を聞いた。 「ああ。ヨッパライに頼まれたってよ」 上田も眉をひそめてそう言った。 「ヨッパライに?」 「ああ。何でも契約にないからって、ヨッパライはこないそうだ」 「ヨッパライも“あれ”もいらないのに」 「確かにそうだよな。でも、六家先生は運動部の指導ができないし、俺らが悪さしないように威嚇する役目もあるんじゃないかな」 「威嚇って」 「まぁ、いいんじゃないか。どうせ修学旅行だって、あんな体育教師軍団のうち誰か一人は来るんだし、野球は素人に決まっている。何も口出しできないさ」 やがて、全員揃った頃に六家先生が「集合」と言った。 僕らは適当に集まった。 「あー、みんな、みんなの希望がかなってよかったな。今日から2泊3日で合宿だ。ついては体育の柴田先生と、社会の小島先生にも引率と指導のため参加してもらうことになった。お二人に一同、礼」 僕らは軽くお辞儀をした。 「あー、それでは、先ず柴田先生、一言お願いします」 柴田先生は一歩前に出て、そして、とても印象深い事を言い放った。 「ばかもん!お前らはまるでだめだ!」 僕らは驚いて先生を見つめた。 「1回くらい県大会で優勝したからって、調子にのってんじゃねぇぞ、コラぁ!わかってんのか!」 六家先生も目を丸くしている。 柴田先生は竹刀(いつ、どっから出したんだ?)に手をかざし仁王立ちしながら僕らを睥睨した。 「お前ら、一流になるために大切なことは何だ?あ?誰か答えろ」 僕らはまごついていたが、キャプテンが背筋を伸ばし大声で答えた。 「努力と根性です!」 すると、柴田先生はキャプテンのところにすっとんで行って、おしりを竹刀で叩いた。当時は体罰なんて普通のことだった。 「だからばかやろうって言うんだ。いいか、良く聞け」 柴田先生はみんなの前に戻ってこう言った。 「大切なのはなぁ!あいさつと、整理整頓だ!」 僕らはズッコケた。 何じゃ、そりゃ。やっぱりこの学校はダメだ。奇天烈な先生ばっかりだ。 「いいか、あいさつも整理整頓もできずにダラダラと暮らしていて、一流にはなれんぞ。今朝から様子を見ていたが、俺にあいさつしたのは、そこの童顔!お前だけだ」 先生は新田を指していた。 「本当の一流は、何でもキビキビ、テキパキしている者の事だ。自分に負けて、ダラダラしていて、それでいいと思っているのか!あ?」 お、確かに正論のような気もするが、先生のジャージはダラダラしていますと橋本ならツッコミそうだ。 「要は、自分に負けないことだ。自分の敵は自分なんだと肝に銘じろ!これから3日間、俺が徹底的に鍛えてやるから、覚悟しておけ。いいな!」 みんなあきれて黙っていた。 「返事は!」 「はい」 「小さい!」 「はい」 「よぉーし!」 ようやく終わったというような顔をした六家先生が、続いて小島先生に一言を促した。 「あの、私はこの春から先生になったばかりなので、何事も経験だからと校長先生のご指示で参加することになりました。でも、高校時代は野球部のマネージャーをやっていましたので、お役に立てるかも知れません。どうぞよろしく」 若い女の先生に鼻を伸ばしていた雑魚キャラ先輩たちが拍手した。 何か、ほのぼの系だな、この先生は。吉永といい勝負だ。 そんなこんなで、余計なお荷物(柴田先生)まで抱えて、僕らの合宿は始まった。 バスで3時間くらいの海沿いに、そのホテルはあった。 5階建てで、おしゃれな洋式の建物だ。付属施設としてテニスコートやプールはあったが、野球場はないから、近くの町営グランドを借りることになっていた。それにしても新田は本当にお坊ちゃんなんだな。 六家先生が受け付けをしている間、僕らはロビーにたむろして雑談していたが、もう一つ、驚きがあった。何と、阿部先輩と田原も来ていた。阿部先輩はめざとく僕を見つけて近寄ってきた。 「谷山君、驚いたでしょ?」 「何やってんですか、こんなところで」 「あら、家族旅行よ。夏休みだし」 「田原は?」 「私がさそったの」 僕はうんざりした表情で言った。 「家族旅行に、ですねぇ」 先輩はウィンクし、軽やかに笑いながらとんでもない事を言った。 「うふっ。というわけなのよ。この子に、取材対象者の身ぐるみはがして真っ裸にするコツを教えておこうと思って」 まったくもう。こんな奇天烈な人たちに囲まれて、それでも平然としている自分をほめてやりたくなった。 「まぁ、そうゆう訳だから、くれぐれもまな板の上で。よろしく!」 へいへい。もう好きにしてください。 やがて、手続きを終えた六家先生が指示した。 「部屋割りは書類に書いていたからわかるな。それぞれ部屋に荷物を下ろして、三十分後、練習着でここに集合!」 先生のいう通り、みんな着替えて集合した。 六家先生はグランドには行かず、柴田先生と小島先生が引率するとの事だった。なんでも六家先生は秋の文化祭に備えて軽音部のための曲作りをするらしい。 そうなんだ。ここまできて。 思えば、確かにこの学校の奇天烈第一号は六家先生だった。 さて、バトンを引き継いだ柴田先生は、ニヤリと笑った。 「よし!グランドまで、駆け足!」 そう言って真っ先に駆け出して行ったが、ばからしいので誰もついて行かなかった。特に雑魚キャラ先輩たちが、吉永と小島先生を囲み、談笑しながら歩いて行った。 ゆるゆるとロビーを出て正面玄関の車寄せにさしかかった時。 大上段に竹刀を構えた柴田先生が、恐ろしい殺気をほとばしらせながら、こっちに向かって走ってきた。 「わぁっ」 僕らは声にならない悲鳴とともに、蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げた。 逃げ遅れた何人かが、その竹刀の餌食となった。 「ばかやろぉ!」 柴田先生が吼えた。 「これは遊びじゃねぇんだ。走れと言ったら走れッ!」 鬼気迫る形相にビビッた僕は必死になって走って逃げた。 って、どっち? やがて反対方向に走った僕は、ようやくグランドの場所が分かった。 グランドに入ると、柴田先生が仁王立ちしている様子が見えたので、僕はダッシュしてみんなに合流した。てっきり先生の竹刀がうなるものとを覚悟していたが、先生は「よし!」と言っただけだった。そして人数を確認して言った。 「全員揃ったな。ここに来る時、俺からダメと言われたヤツは手を上げろ」 雑魚キャラ先輩たちを中心とする約半数が手を上げた。 「お前らは、不合格。走り方が悪い。筋力の躍動を感じない。ただバタバタと走っていた。よほど日頃の鍛錬ができていないからだ。お前ら今日は走れ。その先の砂浜で百mダッシュ二十本!ヘタレたらプラス十本。時々俺がチェックに行くからな。手ェ抜くなよ」 先輩たちは泣きそうな顔をしていた。 見ると、レギュラー組は誰一人おらず、吉岡、白石、上田はこっち側にいて、新田が砂浜組にいたきれいに普段の実力通りに分かれていた。これは偶然なのだろうか。 「先生。お言葉ですが、先生は野球をご存じですか?今回は監督もいないので練習内容は俺が決めます」 キャプテンは、そう言い終わらないうちに、竹刀で叩かれた。 「生意気言うんじゃねぇ」 「しかし」 「俺が素人だって?ハッ!じゃあ、誰か勝負してみるか?あ?」 みんなの視線は僕に集まった。勘弁してくれよ。 「おお。0点男がいたな」 いや、勘弁してください。 「0点男、お前投げろ」 まったく、なんでそうなるの。もう。 「0点男の球を打ったら文句ないだろう」 そんなこんなで、僕は角刈りグラサンの柴田先生と勝負する羽目になった。やがて、僕のウォームアップが終わり、先生は打席に立った。 「いいか、一番の球を投げろ」 もう知らん。どうにでもなれ。 僕はそう思いつつ、クロスを決めた。 「ほう。なるほどな。今のをもう1球頼む」 好きにしてくれと思いつつ、僕がクロスを投げると、 「ふん。こんなものか」 先生はそう言いつつ軽々と弾き返した。 外野オーバーだ。 みんなからどよめきが起こった。 僕は打球のゆくえを眺めながらあっけにとられた。 あんな簡単に打たれるなんて。 「じゃあ、次はカーブを投げろ」 柴田先生がそう言うので、僕は速いカーブを投げた。 それも先生は簡単に外野オーバーだ。 「おとなをなめんじゃねぇ!」 先生が唐突に吼えた。 みんなは、沈黙した。 「俺はお前らの倍以上生きている。知識も経験もはるかに上だ!それが何だ!あいさつはしねぇし、言うこともきかねぇ!大体、一回くらい中坊の世界で大将になったからって、うぬぼれんじゃねぇぞコラぁ!お前らは、もっと上を目指すんじゃねぇのか!あ?」 その言葉は、僕の胸に響いた。 この先生は、言葉は汚いが正論を言っている。 「おい0点男」 「はい」 僕は、ヨッパライには「はい」なんてめったに言わないが、この先生には何故か素直に「はい」と言えた。 「お前は、本来右投げらしいな」 「はい」 「今も投げられるのか?」 「はい」 「別に故障じゃないんだな?」 「はい」 「じゃあ、また投げてみろ。右で」 「はぁ?」 「はぁ?じゃねぇ。はい、だ!さっさと準備しろ」 僕は言われるまま右でウォームアップを始めた。 その様子を柴田先生は腕組みして見つめていた。 やがて三十球くらいで、準備できた。 「先生、お願いします」 「おう。やっと礼儀を心得たようだな」 そう言いながら先生は打席に入り、 「一番の球を頼む」と、さっきと同じ事を言った。 ようし、じゃあ、超豪速球だ。 今度は、そう簡単にはやられないぞ。 僕は大きく振りかぶった。 左足を蹴り出し、全身の力いっぱいで投げた。 球は空気を切り裂き、パーンとはるちゃんのミットに収まった。 「ほう」 今度は、その一言だけだった。 先生は一度打席を外し、軽くスウィングした。 「よし、今のをもう一度」 ふん、右なら、そう簡単にはいかないぞ。 僕はそう思いながら、超豪速球を放った。 パーンと、ミットが快音を発し、先生は大きな空振りをしていた。 「よし!」 僕は、どんなもんだと思い、みんなからはどよめきが起こった。 先生は、長々と天を仰いでいた。 「やるな」 先生はそう言い、僕に向かってニカッと笑った。 「白石はいるか?」 先生の次の言葉は、そんな意外な言葉だったんだ。 「はい!」 白石が先生のところに駆けて行くと、先生はグラサンの奥の目頭を押さえていた。 白石は、先生の表情をのぞき込んでいた。 やがて、先生は大きな深呼吸をした。 そして、白石の双肩に手をかけ、僕の心に一生残る言葉を吐いた。 「俺は昔、お前の親父と戦ったんだッ」 僕にも白石にも思いもしない言葉だった。 「あの夏、お前の親父は俺たちの前に立ちはだかった。どうしても越えられない大きな壁だった。すごい投手だったぞ、お前の親父は」 白石は、その顔を紅潮させた。 「今の谷山に、お前の親父が重なって見えた。確かに新聞部の記事の通りだ。そうか。夢は本当に受け継がれていたんだな」 僕と白石と親父さんの物語は、阿部先輩の記事でみんな知っている。 グラサン先生は、またひとつ深呼吸をし、そして叫んだ。 「白石、谷山、そしてお前ら。夢はつかむためにあると思え!突っ走れ!わかったな!」 それから、誰も先生に逆らわなくなった。 先生の言う通り、砂浜組はダッシュし、グランド組はキャプテンの指導でいつものように練習した。僕と吉岡には先生がついた。 「谷山、お前の左もそんなに悪くはない。しかし何故打たれたのか、分かるか?」 僕は答えが見つからなくて黙り込んだ。 「球種が分かっていれば、誰だって打てるんだ。そういうことだ」 あ!確かにそういう流れだった。 ずるいな、先生。さすがに年の功? 「だから球種がばれない投げ方を工夫しろ。つまりは、球の握りがばれないようにするんだ。テイクバックの頂点を体の後ろに隠し、一気に素早く振り抜け」 なるほど。やってみないと分からないが、なんとかできそうな気がした。 でも、もっとずるい作戦だな。そりゃ。 「吉岡、さっき俺は谷山の右に空振りした。何故だか分かるか?」 「速いからじゃないですか」 「そうだ。しかしな、ただ速いだけなら、いつか打たれる。谷山の球の特長が分かるか?」 「キレ?ですか?」 「そうだ。お前は頭がいいな。じゃあ、キレって何だ?」 吉岡はしばらく考え、答えを見つけた。 「先生、あれですか、ションベンボールの逆と言うか」 「そうだ。普通のように山なりにならないんだ。そして、初速と終速の速さも変わらない」 すげぇな。グラサン先生。たった2球で僕の球の全てが分かったのか。 「しかしな、これは谷山の鍛えられた体と素早い腕の振り、そして強烈なバックスピンを生み出すリストの強さがなきゃできないことだ。特にリリース瞬間のリストの強さと人並みはずれた下半身のバネは恐ろしいくらいだ。今すぐお前のモノにはならない。でも、ヒントはある。わかるか?」 「球の出所を隠すってヤツですか?」 「まあ、それはお前の場合、ゆっくりやればいい。それよりも、肘だ」 「ひじ?ですか?」 「そうだ。肘だ。お前の場合、谷山よりはるかに下がっている。テイクバックの時、特に意識して肘を高くかかげるんだ。分かったな」 「こんな感じですか?」 吉岡はテイクバックの格好をして見せた。 「いや、もう少し高く」 「こうですか?」 「よし、それくらいだ。それから、体の軸線からあまりずれないようにな」 「はい」 「よし、二人とも今言われたことを意識してシャドウをやれ」 「はい!」 僕は嬉しくなった。思いつきのような合宿だったから、こんなに具体的に教えてもらえるなんて思ってもみなかった。何かお得なおまけをもらった気分だ。 しばらく僕らに付き添っていた先生は、やがて横川先輩と交代し、今度は野手の練習を見に行った。野手の様子を見ていた先生は、ノックをしていたキャプテンに言った。 「田所、俺と替われ」 「はい!お願いします!」 「よし、お前も分かってきたようだな」 キャプテンは珍しく照れていた。 「山村!お前が一番穴だぞ!根性いれろ!」 やまちゃんは、そう名指しされてムッとしていた。 「どこがですか!」と言い返していた。 「わからねぇのか!ばかもんが!」 「わかりません!」 「力みすぎなんだ!いいかもっと柔らかくだ!確かにサードには強い球が行く。お前まで強かったら、反作用するじゃねぇか!ばかやろう。柔らかくつかめ。ひとりよがりで強引に行くんじゃなくて、もっともっと球の呼吸を見極め、タイミングを合わせろ。捕球の瞬間は、もっと気を使ってグラブをひけ!いくぞオラぁ!」 先生は、大きく弾むゴロを打った。 やまちゃんはリズムを合わせ、捕球し、送球した。 「よし、それだ!リズムが大切だ!もういっちょう!」 手早く何十球も同じゴロだった。 やまちゃんがそのリズムに慣れてきた時、先生は強いゴロに切り替えた。 それでも、ゴロのリズムに合わせ、捕球できた。 「ばかもん!今度は腰が高い。トンネルする気か。もっと落とせ!」 「じゅうぶん落としているじゃないですか!」 「まだまだだ!俺が良しと言うまで、ちょっとそこで落として見ろ」 やまちゃんは言われるまま腰を落とした。 「こうですか!」 「まだだ!」 「こうですか!」 「ちがう!お前、自分の身長が伸びていることを忘れるな。お前らは成長期なんだ。いつも以上に思い切って落とせ!」 やまちゃんは思い切ってどすんと腰を落とした。 「こうですか!」 「よし、それだ。それを忘れるな!じゃあ、強いゴロいくぞ!」 思えばこのチームには、僕らをより高いレベルから指導できる先輩も監督もいなかった。柴田先生のしごきは、僕ら旧東原メンバーにとって鬼監督以来の具体的かつ適切な指導だった。 そうこうしているうちに十二時を越え、昼休みとなった。ホテルには、豪華な昼食が準備されているという。久しぶりに張り切って練習した僕らは、その充実感から心も軽くホテルに向かった。食堂の一角に僕らのスペースがあり、すでに人数分が準備されていた。みんな思い思いの席に座り、僕も適当な席に座った。すると吉永がやってきて、ちょっともじもじしながら言った。 「谷山くん、隣いい?」 「ああ」 「これくらい、いいよね」 そんな意味不明の事を言って、ちょっとはにかみながら僕の隣に座った。何人かの先輩が色めき立ったが、すっと白石がやってきて吉永の隣に座った。すると先輩たちは吉永の向かいの席に回り込もうとしたが、そこには、柴田先生がどかっと腰を下ろした。先輩たちは辺りを見回し、次のターゲット小島先生を捜したが、既にキャプテンとやまちゃんに押さえられていた。しかたなく横川先輩を捜すと、そこには普段から先輩を「アネゴ」と崇める、まっちゃんと新田が陣取っていた。結局右往左往したあげく、その先輩たちは六家先生の周りにおとなしく座った。 う~ン。おもしろすぎる先輩たちだ。しかも、わかりやすすぎ? 六家先生が言った。 「あ~、みんな到着早々、そうとう鍛えられたようだな。ごくろうさん。ではお昼にしよう。田所、いただきますの音頭をとれ」 「はい」 そう言ってキャプテンは立ち上がり、音頭をとった。 「それでは。いただきます!」 みんなも声を張り上げた。 「いただきます!」 気合いの入った練習のおかげなのだろう。みんな程よい興奮状態のようで、ちょうど小学生のように大声を出した。 今日のお昼はカツ丼だ。お吸い物もついているし、当時の僕らにはそれなりにご馳走だった。 食べながら柴田先生が話しかけてきた。 「谷山、お前白石の親父から何を教わったんだ?」 僕と白石は吉永を挟んで顔を見合わせた。 「いえ、特に習ったことはないです」 「それで、あんなそっくりなフォームなのか?それはないだろう」 「いえ。本当ですよ」 白石もそう言った。 「ふむ」 「僕らが小さい頃から、よくピッチャーをやってくれて、僕と白石は夢中で打って、親父さんがニコニコしていたのは憶えていますけど」 「あ、でも先生。新聞記事にもありましたが、親父は時々本気で投げるところを見せてくれました」 「ふ~ん、それであんなに似るものなのか」 「そんなに似ていますか?」 「ああ。記憶ではな。あの足腰のバネ、鋭い振り。そっくりだ」 確かに、あの不思議な硬球を使って、なんとかモノにしようと四苦八苦している時も、いつも親父さんのイメージはあった。 「まあ、いい。お前の球のすごさも分かったし、県大会で優勝できたのも納得できた。氷山だっているしな。それに、監督がお前に左投げを命じた意味も分かった」 はぁ?分かったのなら教えてください。 「聞いていないのか?」 「はい」 先生はちょっと考えて言った。 「う~ん。まあいいか。教えよう。心して聞け。右のままだと、お前はつぶれるんだ」 「へ?」 「1年か、2年か、それとも5年後か。あんな調子で右投げを続けると、間違いなくお前の肩は壊れるだろう」 それは僕にとって途方もなく恐ろしい未来だ。 「肩や肘の故障は珍しいことじゃない」 実は僕の父さんも同じようなことを言っていた。いつも「やり過ぎはいかん。3日に1日は休め」と言っている。 「もうひとつ教えてやろう。あの監督はな、白石の親父を指導した監督だ」 衝撃が走った。僕にも、白石にも。 「だから監督は、罪の意識を感じているんだ。今も。白石の親父に頼り過ぎたことをな」 そうだったんだ。いや、でもどうして?僕は壊れないかもしれないじゃないか。 「まぁ、そういうことだ」 柴田先生はそう言うが、僕には納得できなかった。 午後から、さっそく練習かと思ったら、ちょっとだけお昼休みにするそうだ。 「各自、部屋で休め!三十分後にまたロビーに集合!」 六家先生はそう指示してさっさと自分の部屋へ引き上げた。 午後から、というより午後も同じような練習だった。砂浜組は走ってばかりいて、グランド組は柴田先生の雄叫びとともに、ノックの嵐を受けていた。 「田所ぉー!お前が最大の穴だぁ!覚悟せいやぁ!」 そんな声も聞こえてきた。 ひとつ違うことは、砂浜組だった佐伯先輩と本田先輩がグランドに呼ばれ、僕と吉岡の捕手をつとめてくれたことだった。横川先輩は、さっき先生にならったことを僕らに指導していた。 そんなこんなで日が暮れて、僕らの合宿初日が終わった(と思っていた)。小学校の時の遠足のような合宿を期待していた僕らにはまるで天罰のような過酷な練習だった。でも、そんな練習をやり遂げ、不思議と充実感があったのも確かだ。 グランドは、夕日に照らされ、さわやかな風が吹いていた。 くたくただけどすがすがしい気持ちの僕らは、柴田先生の合図に、終了のミーティングだと思って全員集合した。 「よし、みんなごくろう。合宿は3日しかないからな。まあ、初日からとばした訳だ。よし。今日はもう終わる」 やれやれ。僕はそう思ったが、柴田先生は、そんなに甘くはなかった。 「これから、腕立て、腹筋、スクワッド、それぞれ五十回。しめにグランド十周!終わった者からあがれ」 え~、という悲鳴が上がった。 「何がえ~、だコラァ!遊びにきてんじゃねぇぞ。俺は先にあがるが、終わった者は小島先生に報告して上がれ。マネージャー二人はもう、あがってよし」 みんなは、さっと横川先輩と吉永を見た。 横川先輩は言い返した。 「いえ。先生、私は最後の一人まで立ち会います」 「吉永は?」 「はい。私も残ります」 「そうか。好きにしろ。あがったものから夕食。そして風呂に入れ。9時にはロビーに集合しろ。1時間くらいの座学をやるからな。女たちのためにもみんな、さっさと終わらせろ!いいな!」 みんなうんざりしていて、誰も返事しなかった。 「返事は!」 みんな、しかたなく答えた。 「はい」 「小さい!」 「はい!」 「よし!では、かかれ!」 僕は真っ先に腕立てを始めた。 さすがに今日は疲れた。早くあがりたいし、五十回ずつなんていつもより少ない。僕はあっと言う間に終わらせて、十周ダッシュを始めた。僕が三周くらいした頃に、はるちゃんとまっちゃんが追いついてきた。腹筋やらで悲鳴をあげる先輩たちを横目に、僕らは黙々と走った。そして十周走ってあがろうとしていたら、横川先輩の怒鳴り声が聞こえてきた。 「チームメイトを置いて先にあがったら、承知しないよ!」 見ると、新田、長尾、それに名前も知らない先輩二人が、まだ腹筋をしていた。さっさと終わらせろよとも思ったが、しかたない。僕はグランドに座り込み、終わるのを待つことにした。 タオルで汗をぬぐうと、心地よい風がわたっていった。 今日は湿度がなくて、助かった。 残光の残るグランドで、僕はかまうもんかと大の字になって寝転んだ。 行儀は悪いが、壁当ての時もたまにやっている。 あまり馴染みのないパームツリーの並木の向こうに海があり、その上に空が広がっていて、ひときわ輝く金星が見えた。今日は慣れない環境に特訓にと、けっこう疲れた。ふきわたる心地よい風に包まれて、ちょっとまどろみを感じた。その時、「お前はつぶれる」という柴田先生の話が脳裏をかすめ、僕はドキッとして起き上がった。 「つぶれるのかな。俺」 小さな不安が、灯った。 それから、全員が課題を終えると、僕らは一緒にホテルへ戻り、手早く夕食と入浴をすませ、慌ただしくミーティング会場であるホテルの会議室に向かった。既に柴田先生は来ていて、六家先生と談笑していた。やがて三々五々みんながやってきた。 「ごめんなさーい」と言いながら小島先生が来た時は、すでに予定時間を十五分越えていた。 「おそい!」 たぶんそう言って柴田先生は怒るのだろうなと思っていたら、意外と何も言わなかった。女には甘いのか、コイツは。(たぶん間違いない。小島先生の湯上がり姿に鼻の下を伸ばしているし) さてミーティングだ。 柴田先生は、総評から始め、次に各個人(グランド組)の長所と短所を的確に指摘していった。確かに納得できることも多く、やはり柴田先生はただ者じゃない。何でこの先生が本来部外者なのに、あの奇天烈女先生が部長で、ヨッパライが監督なのだろう。だから僕はミーティング終了直前に、思わず聞いた。 「先生は、何故野球部の監督をしないのですか?」 すると先生は大笑いしながら答えた。 「俺が本気で監督やったら、みんな死ぬぞ。今日みたいな目に毎日あうからな」 確かにその通りだと、砂浜組の何人かが言っていた。 でも、鬼監督に鍛えられた僕らには、この先生こそ必要なのに。旧東原の何人かは僕と同じ気持ちのようで憮然としていた。 「それにな、谷山。昼にも言ったと思うが、あの監督は有名な闘将なんだ。大丈夫だ」 え~!と僕も思ったし、周りもざわついた。プライドのかけらもないあのヨッパライが?う~む。どうだろう・・・そう言えば時々勝ちにこだわるシーンはあったような・・・ 「みんな良く聞け。あの監督をヨッパライなんて陰口きくやつもいるが、ヨッパライにさせたのは、今までの野球部があまりにもお粗末だったからだ。しかし、これからは違う。お前らは、今、はるかな高みに駆け上がりつつある。監督を信じて進むんだ。いいな」 う~む。この柴田先生にそこまで言わせるか?あのヨッパライ。 合宿の公式行事から解放された時は、既に十時を越えていた。 僕ら有志組は三〇三号室に集合がかかっていて、具体的には旧東原の数人と吉岡、内村、上田、横川先輩に吉永なのだが、例のスコアブック検討会を行うことになっていた。 はるちゃんが春期大会の決勝戦を1回から説明した。 当時のエースはふうちゃんで、僕は1塁手だった。控え投手としては練習していたが、まさかふうちゃんが転校するなんて思わなかったし、なんて僕はのんきに構えていたんだろうなんて、そんな思いもちらつく中、それでも当時の熱戦を今ありありと思い浮かべることができる。 「このふうちゃんって子もいい投手だったんだね」 横川先輩がそう言うと、まっちゃんが返した。 「そりゃ、そうさ。それにふうちゃんってあだ名は、名前もあるけどあんな“ふう”になりたいっていうみんなの希望でもあったんだ」 確かに。それは旧東原のみんなの思いだった。藤井亮。その名前とあの透き通るような笑顔は、たぶん一生忘れないだろう。 「そうそう、氷山先輩って何となくふうちゃんに似ていないか?」 田中がいきなり切り出すと、旧東原のメンバーはほとんどが賛成した。 「そうなの?あんないい男だったの?」 横川先輩が聞いた。 「いい男だったね。でも顔の系統はちょっと違うな。氷山先輩はちょっと情熱的な顔だけど、ふうちゃんは目いっぱい優男だし。でも雰囲気がそっくりなんだよな」 「長髪も一緒だし。あ!」 「何だよ」 「そう言えば、谷山君も既に坊主じゃないね」 「スポーツ刈り?くらい?っていうかボサボサ?どうしたの」 いきなり僕の方に話題がきて驚いた。何で今頃?とっくに気づいていなかったのか?特に積極的に伸ばそうと思ったわけじゃない。バリカンを使ってくれていた父さんが身重の母さんの代わりに掃除洗濯なんかで忙しくしているし、僕も忙しいし、めんどうだから何もしなかっただけなんだ。でも内心も内心。ほんのちょっとだけ、氷山先輩へのリスペクトが僕を長髪に向かわせているのかも知れない。 「なんだ。へんな答えだな。色気づいたのかと思ったぜ」 やまちゃんがそう言うと、吉永の表情が一瞬曇った。 「谷山には高浜がいるしな。いまさら色気づいたりしないだろ」 吉永が妙に落ち着いたトーンで聞いた。 「ふたりは小学校の頃から仲良しだったんだ」 「こいつらは有名だよ。いっつもベタベタだったし」 やまちゃん。それ以上言ったら殺す。僕がそう思っていると横川先輩が話を元に戻してくれた。しばらく、またスコアブックの話がはずんだ。 「おもしろいよ。君たちの試合は。ふ~ん。今強いのも当たり前か」 「そうだろう?俺たちは当時から中学生と試合したって勝てるって言われていたんだぜ」 「でもね。中学からは各校とも格段に厳しい練習をするのよ。高校はその上ね。だからボヤボヤしているとすぐに追い越されるよ。私らはみんなからよってたかってマークされる立場に一気に立っちゃったんだからね」 「そんなの、昔からそうだったさ。俺らはそいつらをまとめてなぎ倒してきたんだ。これからもそうさ」 「山村君、話聞いてる?私らの普段の練習なんて、他校の半分くらいよ」 「半分・・・」 新田が絶句した。 「たぶんね、君たちが昔、こんなに成績を残せたのは、他校より相当練習したからよ。それが今じゃ逆ってこと」 横川先輩の言うことも、あながち嘘じゃない。僕は特別ノックを受けたりしたけど、ほかのメンバーは通り一遍の練習くらいだ。それも鬼監督時代よりレベルが低いし、適切な見本もアドバイスもない。繰り返すが、僕ら以上のレベルの先輩はいない。キャプテンもだ。いや一人だけ氷山先輩はいるが、普段の練習にはあまり来ていない。そう考えると、オンボロ野球部の本質は何も変わっていないのかも知れない。 「だって監督がアレなんだぜ」 まっちゃんが言った。 田中が言葉を継いだ。 「確かに、アレより今日の鬼柴田の方がよっぽどましだな」 まっちゃんが笑った。 「鬼って、まあ、そんな感じ」 「でもあの監督は闘将だって」 新田がそう言うと、やまちゃんが笑いながら返した。 「んなわきゃねーだろ。昔はそうだったかも知れないが、終わっているぜ、アレは」 みんな特に異論はないようで、何も言わなかった。 まあ、ヨッパライは置いといても、確かに練習の質の向上はなんとかしないといけない課題だ。どうする?僕らは敷かれた布団の上でうつ伏せになり顔をつき合わせていたが誰にも名案がなく、答えもなかった。例えばガンちゃんの大根切りも、やまちゃんの軸回転打法も、もともと鬼監督が授けた秘策だった。今の野球部で、どこをどう見回してもそんな指導者は見当たらない。僕らは過去の貯金や現在の手持ちの武器だけで、どんどん進歩してくるだろう(特に中島)相手と戦わないといけない。ふぅ。やっぱりオンボロはオンボロなのかな。より高みを目指すには中島のような所に行かないと無理なのか。 翌朝の朝食時。 先輩たちは「足が痛い」だの「肩が痛い」だの言っていた。新田や長尾も言っていたが、レギュラー選手にそんな人はいなかった。まあ僕もそうだが、レギュラー陣はみな隠れた努力をしているから、あれくらいの練習で筋肉痛になったりしない。それはそうと、鬼柴田が今日の練習メニューを発表した。今日は打撃中心にするそうだ。先ず、グランド組の打撃を砂浜組はサポートする。それが終われば次に砂浜組の打撃練習。バッティングピッチャーは本田先輩と吉岡が指名された。主軸には吉岡が。他は本田先輩が。僕は自分の打順がくるまで投球練習しろと言われた。 1塁側ベンチ横あたりで、僕は横川先輩を捕手にして投球練習をした。球の出所を隠すフォームのコツは昨日つかんだから、今日はその形を忘れないように反復練習し、体に叩き込むつもりだ。横川先輩は的確にアドバイスをしてくれ、僕の練習は順調だった。が、グランドの面々は鬼柴田からさんざん罵声を浴びせられ、特にお粗末な先輩には容赦なく竹刀がうなり、おかしなフォームや状況判断などを徹底的に矯正されていた。それでもダメな人は、ダッシュ十本とか、二十本とか命令され、悲鳴やらため息やらの入り交じった修羅場と化していた。まあ、レギュラー陣はそれほど矯正されることもなく、状況判断のコツや、わずかな悪い癖を指摘された程度だった。そんな先生の言葉を、吉永は一生懸命メモしていたし、小島先生は麦茶の準備とかしてくれていた。僕らは、鬼柴田を中心に、いつも以上に効果的な練習ができたように思う。 やがて、夕日の頃。全員集合の声がかかった。 今日の練習の終わりだ。 みんなが集合すると鬼柴田が講評を始めた。 「みんな、ごくろうだった。まあわかっていたことだが、このチームはレギュラーと補欠のレベル差が激しい。その差が縮まってこそ、本当の強いチームとなる。それぞれが自覚し、精進するように。特に補欠は、今日俺が言ったことはもちろんだが、レギュラーがどの場面で、どうしているのか、ただ傍観するだけでなく、自分に置き換えて考え、その技を自分で盗め。全員で常勝伝説をつくりあげるつもりでかかれ。俺のしごきに耐えたお前らだ。きっとできると思え。いいな」 「はい!」 「よし。では今日は3点セット三十本ずつにまけてやろう。あと五周な。終わった者からあがれ。それから、今夜の座学はない。そして、明日は午前中に紅白戦をやって合宿のシメにする。以上」 キャプテンが号令をかけた。 「柴田先生、小島先生に、礼!」 「あ~したッ!」 みんな帽子をとって深々とお辞儀した。 ふふん、と鼻で笑いながら柴田先生は引き上げていった。 その後ろ姿が小さくなった時、みんな安心したのか、崩れるように倒れ込んだ。 「死ぬかと思ったぜ」 名前も知らない先輩がそう言うと、そこかしこから同調の笑いが起こり、小島先生は苦笑いしていた。 「でも、良くがんばったね。みんな」 吉永がそう言うと、先輩たちは苦しさでひきつりながらもニヤけるような複雑な表情を見せた。 「吉永ァ」 足を投げ出し、後ろ手で体を支えて座り込んでいたキャプテンが言った。 「今日の先生の言葉をメモっていただろう?それを清書してくれ。そして各人に配ってくれ。昨日のもだ。みんなはそれを参考に今後の練習に生かしてくれ」 「うぃっス」 そんな力ない返答がちらほらあがる中、白石が言った。 「キャプテン、吉永一人じゃ大変だから、俺も手伝います」 「そうか。じゃあ、白石と新田。お前ら二人で手伝え。あ、それから俺と春木と横川には全員分をくれ」 キャプテンはやはり意外とこまかい。 「さぁ、それじゃ、もう一踏ん張りだ。ビリっけつは五周プラスだ。かかれ!」 みんな慌てて腕立てやら腹筋やらと、始めた。 みんなやけくそだったのか、それとも半分だったからなのか、分からないがともかくみんな凄い勢いで昨日よりはるかに早くあがることができた。汗まみれだったから、ホテルに着くなり僕らは真っ先に風呂へ飛び込んだ。ここは温泉ではないが大浴場があったので、みんなで入れる大きさがある。ザブンと飛び込んでくる者、お湯をかけあってはしゃぐ者、湯船で泳ぐ者。中学生になってもやることはあまり変わらないな。 僕は、はるちゃん、やまちゃんと洗い場にいた。 「この合宿が終わったら、野球部は2~3日休みなんだろ?」 体を洗いながら、やまちゃんがはるちゃんに尋ねていた。 「そう聞いているよ。それがどうかしたのかい?」 「休みなら、美樹を映画にでも連れて行こうかと思ってな」 「ああ、バスケ部の早川さん?」 僕はそう聞き返した。ふ~ん、今も続いているんだ。 「ああ。結局夏休みたって野球漬けだったからな。それくらいしてやらないと」 「やっぱり、そんなものなのかな。女の子って」 やまちゃんは笑った。 「当たり前じゃねぇか。むしろそのくらいで済めば御の字だ」 ふ~ん。確かに小学校の頃からやまちゃんは女の子には気を遣う。 僕は先日のこともあり、確かにそうだと思った。じゃあ、帰ったら電話してみよう。どこに行こうか。ちょっとは考えておかないといけないな。 「谷山、お前も野球漬けだったんだから、高浜をどっかに連れて行けよ」 昨日と違い、今日の夕食は大広間に準備されていた。二日目は最後の夜だから、このような宴会のかたちになったようだ。さてさて、またも小島先生が十五分遅れで入ってきて、夕食が始まった。 刺身に天ぷらにハンバーグに。僕らにはどれもご馳走だった。おかずの奪い合いとか、そんな小学生時代と変わらない風景の中、疲れもどこかへ行ってしまったように、にぎやかだった。 今夜はスコアブック研究会もなく、夕食後、僕はひまだったのでホテルの土産売り場で物色していた。え~と、母さんに父さんに、恵ちゃんに美咲ちゃん?それくらいでいいのかなあ。阿部先輩は一緒に来ているし。あれ、そう言えば今回先輩たちはあまりこっちには来なかったな。まな板がどうこう言っていたが。初日に砂浜へ行っていたり、神崎先輩と話していたりしていたようだけど。まあいいや。 「ここにいたんだ。谷山くん」 吉永の声が聞こえたので、その方を見ると、吉永が手を振っていて、周辺には数名と小島先生がいた。 「俺たち、これから花火をやるからお前も来いよ」 上田がそう言って僕を誘い、何故か白石がムッとしていた。 「ああ、いいよ」 「先生もいるし、心配ないよ」 吉永が笑っていた。 「やっぱ、夏の夜なら花火でしょう。俺が持ってきたんだ」 どうやらスポンサーは長尾のようだ。 僕らは砂浜まで行って花火を始めた。 二十連発やら、吹き上げやら、線香花火やら、思い思いの花火をあげ、みんな楽しそうにしていた。まっちゃんが、僕にロケット花火を発射したので、僕も連発花火で応戦したつもりが風に流されて上田の鼻先をかすめたりした。吹き付ける海辺の風が強く、思わぬ方向に行ったためなのだが、当の上田は悲鳴のような叫びをあげた。そうすると今度は弱り目の者をからかう輩が現れて上田は集中的に狙われた。 「あぶないから、人には向けないでね」 先生がそう言っても誰もやめなかった。やがて上田がキレて、ロケット花火を束にして反撃し、どこそこで笑いやら悲鳴やらがあがった。 僕は笑いすぎて腹が痛くなったので、適当に離れて腰をおろし、阿鼻叫喚の巷を見学することにした。 上田は調子に乗って小島先生も狙ったので、周りから総攻撃を食らっていた。 僕の隣に吉永が腰を降ろした。 「ひとやすみ?」 そう言う僕の問いには答えず、遠くを見つめていた吉永は、全く別の事を言った。 「わたし、あきらめないからね」 へ?何それ? 僕はたぶん、意味がよく分からないような顔つきで、吉永の表情をのぞき込んだ。吉永はややうつむき、顔をあからめていた。しばらくもじもじしていた吉永は、やがてぱっと立ち上がって僕に照れ笑いをして見せ、みんなの方へ駆けていった。 何だろう?上田退治か?それなら、あいつは小島先生を襲った大罪人だから遠慮なくやってくれ。 さて翌日。 鬼柴田いわく合宿のシメとなる紅白戦が行われた。 レギュラー組対補欠組。そのままでは勝敗があまりにはっきりしすぎなので、僕が補欠組の投手となり、横川先輩が捕手を務める。レギュラー組は吉岡とはるちゃんのバッテリーだ。ちなみに、白石はレギュラー組のライト。新田は補欠組のセンター。上田は補欠組のショートで、長尾は同じくレフトに入った。あとの補欠組は生徒BからGの雑魚キャラ先輩なので説明は省く。 試合前、鬼柴田は言った。 「とくにサインプレーはいらない。今回だけはそれぞれ楽しくやってくれ」 ふ~ん。何か拍子抜けしないでもないな。まあ、いいけど。 「新田、ボロ負けしても泣くなよ」 まっちゃんが笑いながらそう言うと新田も言い返していた。 「どうかな。意外性も野球だよ」 プレイがかかった。主審は鬼柴田だ。 「みんながんばれ~」 小島先生の応援の声が聞こえ、後攻のため守備についていた先輩たちが鼻の下を伸ばす間もなく、僕はガンちゃんへ渾身のクロスを決めた。 「思った以上だな」 ガンちゃんは一度打席を外して素振りをしながらそう言った。 「谷山君、今の腕の位置いいよ。忘れないでね」 横川先輩がそう言いながら僕に返球した。 球の出所の話だ。これが決まると、あれ?という間に球がくるらしく、打者にはタイミングがとりづらいはずだという。 2球目はカーブ。それも外角低めいっぱいだ。 さすがのガンちゃんも手が出ず、左手で鼻の頭をこすりつつ、つぶやいていた。 「同じフォームでカーブかよ」 そう。それが僕の持ち味だ。 同じフォームで投げ分けできる。それは左になってもできていた。何故?と聞かれても、僕にも分からない。不思議と昔から苦もなくできていた。 そして3球目。 落ちる大きなカーブのとんでもないボール球だが、まんまとガンちゃんは引っかかり三振となった。 そんなこんなで、僕は何人か単打や四球で走者を出したものの、要所はおさえ、6回まで点を与えなかった。まあそれは補欠組の攻撃も一緒で、僕と上田は出塁したが、後はお話にならず、0対0のまま終盤に入った。 7回の表が終わり、ベンチに引き上げると、本田先輩に声をかけられた。 「やっぱ谷山はすげぇな。お前がいると負ける気がしない」 そう言われて悪い気はしなかったが、僕はネクストバッターズサークルに行かないといけないので、軽く会釈だけしてバットをとり、急いで向かった。この補欠チームでは、新田が3番。僕が4番。上田が5番だ。新田は打席で懸命に粘っていた。もともと旧東原のレギュラーだ。そんなプライドやら意地やらを感じる。そして7球目。ついにセンター前へヒットを放った。 よし。ここだ。後は任せろ。 僕はそう思いながら打席に入った。 吉岡がマウンドで気合いを入れているのを感じた。 僕には打たれたくないのだろう。 渾身の1球が内角を襲った。 僕は腕をたたんでコンパクトに振り抜いたがややタイミングが遅れてファールになった。 「吉岡もやるな」 僕は思わずつぶやいていて、2球目は手が出ない外角低めボールだった。あわよくば引っかけさせようという球で、そんな誘いに僕は乗らない。僕にも気合いが入ってきた。それから3球。フルカウントになった。野球って本当に不思議なところがあって、投手と打者の気迫が同じなら、大体打者の勝ちとなる。この場合も例外ではなく、6球目をフェンスの向こうに叩き込んだ。 「あ~」と悔しがる吉岡や、驚きの表情を見せるレギュラー陣や歓声をあげる吉永と阿部先輩。それに無表情な田原。そういうみんなのいろんな表情が見えた。そしてダイヤモンドを一周してベンチに向かうと、補欠組のガッツポーズや拍手に迎えられ、ついでにボコボコにされた。 「勝てるぞ、レギュラーに!」 誰かがそう叫び、そして結局無失点のまま、その通りになった。 0点男なんてあだ名は嫌いだが、それを返上する気もないんでね。 補欠組の興奮が冷めない中、鬼柴田の講評があった。要約するとこうだ。 「谷山のワンマンショーのようなゲームだったが、収穫もあった。先ずは吉岡のフォームが格段に良くなった。新田の粘りも流れを引き寄せた。お前は補欠らしいが、それなりの才能はある。これからのお前次第だな。そして山村の捕球動作も柔らかくいい感じになっていた。それぞれがこの2日でコツをつかんでくれたように思う。これからも頑張れ。そして谷山や氷山に頼らなくてもいいようにチームの底力をアップすること。そのためには部活以外にも個人練習をまじめにやっておくように」 キャプテンが号令した。 「柴田先生と小島先生に、礼!」 みんなで声を合わせた。 「あ~したッ!!」 僕らは深々とおじぎをし、長いようで短くて、そして充実した合宿を終えた。 さて、それから昼食まで自由時間があった。 部屋の浴室でシャワーを使い、小一時間ほどの間、僕はロビーのソファーに腰をおろし、することもなくぼんやりと雑誌を読んで暇つぶししていた。 「あ、谷山君」 そう言って阿部先輩が僕の後ろから声をかけてきた。 僕は振り向いてこたえた。 「取材はうまくいきましたか?」 「そうね。切り口は田原さんに任せていたんだけど、彼女は、どうも君のようなモンスターには興味がないらしくって、もっぱら補欠選手を追っていたわ」 先輩はそう言いながら僕の後ろで、ソファーの背もたれに両肘をついてかがんだ。 「モンスターって」 「あ、ごめんね。悪い意味じゃないのよ」 まあいいけど。別に。 そこへ、田中とガンちゃんがやってきた。 「谷山、ちょっといいか」 「何?」 「あのな、もう何人かには声かけしたけど、今から六家先生に頼んでみようと思うんだ」 「だから、何?」 「鬼柴田を監督にしてくれっていうことをさ」 それは確かに魅力があった。僕らにとっては鬼監督以来の手応えある先生だった。 「いいよ。あれだろ?みんなの総意ってことだろ?賛成するよ」 「じゃ、そういうことで」 二人は、他の者に声をかけるべく、離れて行った。 「へぇ~、あの柴田くんをね」 「くん、って」 先輩は吹き出した。 「あら、知らないの?あの先生サングラスを外すと、とってもおちゃめな目をしているのよ。だからみんなそんな風に呼んでいるの。ちゃんづけの人もいるし。鬼っていう方が違和感あるわ」 そうなんだ。アレでソレなら結構笑える。 「今想像していたでしょう」 「わかります?」 「もちろん。とても面白いから、いつか見てみるといいわ。さてっと。じゃあ、私たちもそろそろ引きあげるから、また、学校でね」 僕もお別れを言おうと、先輩の方を振り向いた時。 それは、あまりに唐突だった。 先輩は僕の唇に、その唇を重ねた。 「これって、キスってこと?」 それはわずかな時間でしかなかったが、僕は動揺し、どぎまぎし、頭が真っ白になった。 生まれて初めての経験だった。 そして、やわらかい感触の冷めぬ間に、去っていく先輩の方へ振り向くと、先輩は振り返りもせず、左手をさよならの合図のように掲げていた。 僕は動揺したまま、その後ろ姿を見送った。 そして、周りに知り合いが誰もいないことを確認するのが精一杯だった。 先輩は僕よりはるかに大人びている。 正直言って憧れてもいるが、それは氷山先輩というかっこいい先輩に対するものと同列のものであって、異性として憧れていた訳ではなかった。いや、そもそも僕は恵ちゃんでさえ異性としてはっきり認識していたのだろうか。そんなこと、あまり考えたことはなかった。でも先日の恵ちゃんといい、吉永といい、阿部先輩といい、そんなことがいくつもあると、やはり僕は男であることを自覚した方がいいのかも知れない。まだ十二歳と考えるか、もう中学生なんだと考えるのか。やはり後者なのだろう。大人の階段を昇っているのだから、そろそろ、そんなことをはっきり意識しておかないと周りの人に迷惑をかけそうだ。野球ばっかりやっていて、試合に勝ってほめられて、よろこぶだけの単純時代はもう過ぎ去ったのだ。マウンド上で勝負に責任を持つように、僕もそろそろ人として男として、責任というものを自覚しなければならない。そういえば、先生の誰かが言っていた「自我の覚醒」というのは、こんなことを言うのかな。だとするならば、今の僕は、吉永や先輩には悪いが、恵ちゃんに対して責任がある。というより先日言った言葉の通り一緒にいて欲しいと思う。 そんなことをぼんやりと考えているうちに、帰りのバスが学校に着いた。最後に六家先生の短い話があって合宿は解散。僕はダッシュで体育館に様子を見に行った。案の定バスケ部はまだ練習していたから、僕は恵ちゃんの帰りを待つことにした。まだ時間がありそうだったので、ひまつぶしに野球部室に行くと、そこには吉永がいた。例の鬼柴田指導メモを清書しているようだ。 吉永は僕の顔を認めると、ぱっと明るい笑顔を見せた。 「あ、谷山くん。もう帰ったのかと思ってた」 笑顔を見せられ、僕はどういう表情を返せばいいのか迷ったが、ここは笑顔を返すのが一番無難だと思った。でも言葉は思いつかず、しどろもどろに答えた。 「あ、いや。ちょっとな」 「ね、今、忙しい?」 「いや、まあそんなに」 「じゃあ、ちょっと手伝ってくれるとうれしいな」 そう言って笑う吉永は、異性として改めて意識してみるとなかなかの美少女なんじゃないかと思った。さらっとしたストレートの長い髪。色が白く整った顔立ち。未完成な美人と思っていたが、先輩たちの人気を集めるだけはある。 「ちょっとなら、いいよ」 「ごめんね。これから投げ込みとかするんでしょうけど」 吉永も校内新聞で、僕の夜の個人練習メニューを知っている。 「まだ夕方にもなっていないし、明日から部の練習は休みだし、かまわないよ」 「ありがとう。実はね、白石君と新田君には休み明けから手伝ってねって話をしていたけど、やっぱりこういうのは早いほうがいいかなと思って、それで私一人でも始めようと思って」 見ると、机の上にはたくさんのノートがあり、開いているページにはよほど急いでメモしたような走り書き文字がびっしり書き込まれている。これだけのものを一人でやろうとしていたのか。しかも人数分?吉永は吉永で、チームのために頑張っていることが一目で分かった。 「えらいな。吉永」 僕は思わず、そう漏らした。 吉永は僕を見上げ、目を丸くしていた。 「え?何?私?」 そう言って、吉永は笑った。 「だってみんな頑張っているから、私も頑張るよ。これくらいしかできなし」 これくらいなんて言うなよ。お前はいつも笑顔でみんなの間を駆けまわっているじゃないか。確かに野球は素人で、そそっかしいところもあるけれど、みんなお前の笑顔に救われているんだぜ。僕はそう思ったけど、言葉には出さなかった。出してしまったら、僕は吉永を抱きしめていたかも知れない。今、僕にそれはできない。やっちゃいけないことなんだ。 とにかく、僕は吉永を手伝って、ひと区切りつく頃にはもう7時を越えていた。 「今日はこれくらいかな。谷山くん、ありがとう」 吉永はそう言って笑った。 しかし、僕はほとんど投げ込みしていたから気づかなかったけど、他のメンバーは鬼柴田にいろいろと教えてもらっていたんだな。このメモを見ていると良くわかる。例えばはるちゃんの場合。盗塁阻止の送球フォームがまだまだ甘いという。もちろん鬼監督にコンパクトに投げろと指導されていて阻止率も高いのだが、鬼柴田の目には隙だらけに映るらしい。もっと頭の後ろにコンパクトに構えろ、そこから押し出すように振り抜けとメモしてあった。当然他のレギュラー陣にもこまかな指導があって、そのひとつひとつが思い当たるので、先生はやはりただ者ではない。 「ガンちゃんや田中が走り回って頼み込もうとしていたのも、当然か」 僕は部室の電球を見上げながら、そうつぶやいていた。 「え?何か言った?」 吉永が聞き返したので、僕はほほえんで答えた。 「いや、何でもない」 「そう。じゃあ今日はもう帰ろ。そう言えば谷山くんは何か用事があったんじゃないの?」 いけない。忘れてた。吉永メモの向こうにある先生の指導につい見とれて、恵ちゃんのことをすっかり忘れていた。 「あ、いや。じゃあ俺、もう帰るから」 「うん。ありがとう。私はちょっとかたづけて帰るから。じゃあまたね」 僕は慌てて部室を飛び出し、体育館に向かった。 すでに体育館は静かになっていて灯りも消えていた。 ダッシュで追えば追いつくかな。 僕はそう思って通学路へ走った。 たぶん、暗い公園ルートじゃなくって、明るい町ルートのはずだ。追いついたらどんな話をしようかな。合宿の話?どっか行こうっていう話?まあ、どっちでもいいけど、お茶目な目玉の鬼柴田かな、やっぱり。そんな想像を膨らませながら夕闇のせまる町並みを僕は走っていた。 せわしく行き交うヘッドランプやテールランプの流れの向こうに、やがて我が校の生徒らしき制服を見かけた。思った通り、ラッキーだ。なんて思って近づくと人影はふたつだった。あれ?外れ?でも、そのうち一人は間違いなく恵ちゃんの後ろ姿だ。となりには、見たこともない男子生徒がいて、楽しそうに談笑している。 僕の足は、ぱたりと止まった。 状況が分からなかった。 恵ちゃんの背中が遠くに見えた。 それからどうやって帰ったか、僕は憶えていない。 決勝の時のあの思いを、また繰り返していた。でも、あんなに楽しそうな笑顔は、小学校の時、二人で無邪気に笑って以来のように思う。正直言って、最近僕と一緒の恵ちゃんはあまり楽しそうではなかった。僕がいないことで、あんな笑顔になれるのなら、僕はもう、ひっこんだ方がいいのかも知れないな。でも、僕はそれで納得できるのか。そんなジレンマに悶々としていた。 その日は、部活のない日の昼さがり。 僕は、いつぞやのようにベッドへもぐりこんで、うじうじしていた。 阿部先輩から例え「モンスター」と言われても、本来感情の起伏が激しい僕は、傷つきやすい心をしている。 気がつくと、ため息ばかり漏らしていた。 そんな時。 恵ちゃんから電話があったんだ。 内容はこうだ。 「去年と同じ縁日が明日の夜にあるから一緒に行こうね」 僕は頭の中が真っ白で、しどろもどろの受け答えしかしていなかったと思うが、縁日には行くことになった。恵ちゃんの声は普通で、特にどうこう言う感じではなかった。僕が気にしすぎなのかな。たまたまバスケ部の男と帰りが一緒になっただけかも知れないし。そう思うことでいくぶん心が軽くなった。よし。もういいや。なるようにしかならないし、明日会っても男の話はしないでおこう。それがたぶん幸せなんだ。 そう思うとなんだかまた眠くなった。意外と僕は疲れていたのかも知れない。いろんな意味で。 一日くらい、いいか。今日は休もう。 何の変哲もない朝がやってきて、僕は特別でもないランニングに出かけ、そして、いつものように東原小のグランドで軽いストレッチをしていた。何の変化もない日常の一コマに、ひとつだけ、珍しい客が割り込んできた。割り込むというと人聞きが悪いが、それほど唐突な印象だった。朝の7時すぎという早い時間なのに、小学校の後輩で現メンバーのエースであろう吉田が僕のところに訪ねてきたのだ。 吉田は浮かぬ顔をしていた。 「久しぶりですね、先輩。朝か夜ならきっとここにいるだろうと思って」 「ああ。よくわかったな」 何やら言いたいことを言いにくいようで、もじもじしていた。 「何かあったのか?」 吉田は黙ったままで、何も前にすすまなかった。 でも、うすうす僕は感じていた。あの川上にこてんぱんにやられたのだろう。 「やられたのか?川上に」 吉田はやっと口を開いた。 「わかりますか」 「何となくな。川上はすごいヤツだから」 「春は準々決勝で、夏は準決勝で。あいつは止められませんよ」 吉田は真剣にそう言うが、僕には笑いがこみあげてきた。 「何がおかしいんですか、先輩」 「すまん。でもな、俺たちが戦った中島中の一軍はあんなもんじゃなかったぞ」 「中島一軍って何ですか?」 吉田も中島のシステムを知らないようだったから、教えた。七十名近い部員の中から選ばれたほんの一握りのエリートであり、全国の猛者たちと常に戦っている本当の甲子園予備軍だと。 「そんな連中に、先輩たちは勝ったんですか」 「一度はな。でも今度やったら、わからない」 「中島って、やっぱり凄いんですね」 「ああ。しかも選手は隣の県とか、各地からスカウトされて来ている本物ばかりだ」 「やっぱりそんな連中には勝てませんよね」 「いや、そうでもない。現に俺たちは勝ったんだし」 「先輩たちは特別ですよ」 吉田はむきになってそう言った。 「そうさ。でもお前らも特別だよ。鬼監督の指導は小学校のレベルを超えている。中学に行って俺も良く分かったよ」 「でも、川上には通用しませんでした」 「う~ん、何って言うかなあ。そんな気持ちでいる間はたぶん勝てないよ」 「でも、実際に・・・」 「まあ、落ち着け。落ち着いて冷静に考えろ。どうすれば勝てるのかって」 「言うのは簡単じゃないですか」 「俺たちだって簡単に勝ってきたわけじゃないんだ。そのことはお前も見ていたから分かるだろう。常に試して、失敗して、考えて。そんなことを繰り返してきたんだ」 「そうですけど」 「先ずは、勝てないなんて思うな。負けないって思え。そして心が緊張したり、くじけそうになったら、いいか。一回大きく深呼吸しろ。それから冷静に攻めるんだ」 吉田は納得できないようで、憮然としていた。 「要は、あきらめないことだ」 「そうですね。それは分かります」 「考えて考えて、しつこく食い下がって粘って粘って、たとえ泥臭くっても決してあきらめないことだ」 吉田はきょとんとしていた。 そうか。言葉をいくら並べても今の吉田は納得しないだろう。それなら、僕の投球を見せることが、彼に勇気を与えることになるのかも知れない。かつて、白石の親父さんが全力投球を見せてくれ、僕を大いに勇気づけてくれたように。 僕は左のリストを鍛えるため、ウェイト代わりに持ってきていた奇跡の硬球をもちあげ、先ずは何球かウォーミングアップした。そして、頃合いを見て吉田に言った。 「中島一軍を黙らせた球を見せてやる。そこから何かを感じるか感じないかはお前次第だ。できるだけ盗めよ」 僕は大きく振りかぶった。 そしていつものように振り抜いた。 「しゅう」と、うなりをあげながら飛ぶ球を見て、吉田は目を輝かせていた。 そんな後輩のために、僕は何球か全力で投げて見せた。 それからもうひとつ。 平凡な日常とはちょっと違うサプライズが夕方に起こった。 縁日に行くため、僕は恵ちゃんを迎えに行ったのだが、出てきたのは一人ではなく、美咲ちゃんもいた。 「美咲がね、どうしても一緒に行きたいって」 恵ちゃんは苦笑いしていた。 「ゆうちゃん、よろしくね」 二人とも浴衣を着ていて、それがどうにも艶やかで良く似合っていた。 美咲ちゃんって、本当に小学5年生? でも、こうして三人で話をしていると、昔の無邪気な時代に戻ったようで、昨日までのもやもやが吹き飛んだ。だから、これはこれで良かったのだと思う。二人っきりだと、どうしてもあの男へのわだかまりが、どういう形に変化するか僕にも想像できなかったし。 そんなこんなで、僕の中一の夏は終わった。 -野球少年 中学校編 4へ続く-
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