野球少年 中学校編 4

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野球少年 中学校編 4 目次 第十二章 全面戦争 第十三章 池のほとりで 第十四章 決勝へ 第十五章 決 勝 最終章 まだまだ 第十二章 全面戦争 新学期になってもサプライズがあった。 練習初日、僕らはバットやベースを部室から引っ張り出して準備をしていると、小島先生がやってきた。キャプテンが声をかけ、全員が集まってきた。先生はみんなの前で、にこにこしながらもやや恥ずかしそうに言った。 「2学期から、野球部の副部長になりました。これから一緒にがんばりましょう。よろしくね」 みんなが驚きの声をあげる中、新田が何を考えたか 「柴田先生は?」 などと口走ったから、すかさず小島先生の機嫌を損ねまいとする生徒D~Gの先輩達に口をふさがれ、手足を拘束され、その自由を奪われた。案の定、先生は表情をやや暗くして答えた。 「ごめんね。柴田先生は監督に任せてあるから大丈夫だって言っていたよ。一緒にできれば良かったのにね」 名前も知らない生徒Hの先輩がとりなすように笑顔で元気よく言った。 「いえ、あんな鬼はいりません!小島先生さえいてくれたらうれしいです!」 誰が鬼だ、誰が。あ?なんて、チープなギャグマンガならここで柴田先生が登場して生徒Hはあえなく撃沈されるところだが、現実にそんなことはなかった。六家先生はこれから秋の文化祭や発表大会に向けて軽音部の方が忙しくなるし、小川先生には赤ちゃんがいて大変だから、小島先生の志願はすんなりと学校側にも受け入れられたそうだ。 「秋の大会も優勝しようね」 小島先生はそう言ってにこにこしていた。 やれやれ、吉永二世か、この先生は。って、年齢から言ってどっちが二世なのか、なんてそんなことはどうでも良いが、優勝なんて軽々しく口にされてもなあ。言うほど楽じゃないって。それでも、雑魚キャラ先輩達のハートに火を点けたのは間違いなさそうだ。ランニングしながら「苦節十四年、やっと春がきたあ」なんてひそひそ話をしていた。確かに、オンボロ野球部にしては豪華すぎる女性陣だ。 さて。ランニング、体操、キャッチボールと、一通りのルーティンワークが終わると、キャプテンが全員集合を命じた。 「いいか、先日話した柴田先生のメモを近いうちに渡すから、それぞれ課題を克服できるよう努力してくれ。それから、まだ早いかも知れないが、俺は3年だから、十月の秋期大会が終わったら引退する。新キャプテンには、当然氷山を指名するつもりだが、例によって毎日は出てこられないから、副キャプテンに神崎を指名する。いいな?神崎」 学年から言って当然の結果だ。みんなそう思って神崎先輩を見つめた。 「俺?ですか」 「何か不満があるのか?」 「不満というか、春木が適任じゃないスかね」 キャプテンの決意は固いようだ。表情を変えずにいた。 「それも考えた。春木はいずれキャプテンになる男だが、まあ次はお前だ。3年生としてみんなを引っ張って行け。そして春木の負担を軽くしてやれ。いいな」 本田先輩が口をはさんだ。 「氷山は特別だけど、お前は俺らの代の代表なんだ。頼むよ」 現2年生は、その多くが来年も残るだろう。チームの和、それは実力だけではなく、そういう序列の感覚がなければ不要な問題を起こしかねない。そう思って僕はキャプテンの意見に賛成だったし、誰も特に意義をとなえていない。 「わかりました。これ以上とやかく言いません。できる限りやってみます!」 「よし。そういうことだ。みんなこれからそのつもりで神崎の言うことには耳を貸すように」 「はい」 神崎先輩は一言だけ付け加えた。 「春木、俺らの次はお前だからな。それに時々相談もするし、俺が間違っていたら遠慮無く言ってくれ」 その言葉を謙虚さととるか、自信のなさととるかは人それぞれだが、この時代の多くの人はそれを謙虚さと受け止めるし、僕もそう思った。それにしても、いつの間にかそういう話になる季節なんだな。キャプテンはあと2ヶ月で引退なんだ。 「それから、ポジションを変更する。神崎は背が高いし、副キャプテンなのだから、俺の後の1塁に入れ。レフトには、白石が入れ。二人とも今日からそのつもりで練習しろ」 白石は、そう言われても顔色ひとつ変えなかったが、新田にはちょっとショックだったようで、うつむいていた。 「もうひとつ。今は俺が控えの捕手だが、引退後に控えがいなくなる。そこで、佐伯と新田。お前らは捕手の練習をしろ。特に新田は外野と捕手、どっちもできるようになれ。わかったな」 「僕がですか?」 新田は目を丸くしていた。 「そうだ。お前は賢いし、努力家でもある。実は監督の指名なんだ」 「監督の?」 「ああ。今日言ったオーダーは全て監督と電話で相談済みだ。わかったな」 新学期早々、副部長といい、ポジション変更といい、新チームのかたちが見えた。新田のコンバートについては意外だったし、本人は大変だが、まあ全体として見ると、おさまる形におさまったような気がした。 この当時、九月にはそれなりに秋らしくあり、空気は澄み、天は高く、そして肌寒さも感じ始めていた。家でも学校でもそれなりの日常が流れ、変わったことと言えば母さんのお腹が目立ってきていることと、何より雑魚キャラ先輩たちの動きが格段に良くなってきたことだ。いかにオンボロ野球部であっても、さすがは中学でも野球を続ける意志のあった先輩達だ。柴田先生の指導メモを元に、各人が努力した結果なのだろう。しかしその力の源泉が、毎日のようにやってきて、吉永と姉妹のようにしている小島先生や、時折顔を見せ、雑魚キャラ組を追い回す田原と言った豪華すぎる女性陣にあるのだろうということが、微妙な問題のように思えるのは僕だけだろうか。 ともあれ。 順調すぎるくらいで、むしろ恐ろしくもあった。どこかに落とし穴なんてないだろうな。ふとそんな気がしたが、僕は懸命に否定した。気のせいに決まっている。しかし、僕の知らないところで、当の本人も気づいていなかったようだが、落とし穴は少しづつ掘られていたんだ。まだほんのちょっと先の話だが、それは他でもない氷山先輩のことだった。 僕と吉岡と本田先輩は、ピッチャーグループとして毎日一緒に投げ込みしていた。ここでも柴田メモを元に横川先輩が指導にあたっていて、その的確な指示に僕は感心させられたし、実際に吉岡の成長ははっきりわかるくらいだ。左の僕とはもはや同等で、どっちがエースを名乗ってもおかしくない。キレを増したストレートに大小2種類のカーブが切り札だ。本田先輩もそれなりに頑張っていて、弱小相手なら通用するだろう。野手の方では、1塁の練習を始めた神崎先輩の目の色が変わっているし、控えとはいえ選ばれて捕手となった新田も生き生きとしている。僕らは鬼柴田の言う、本当に強いチームに、生まれ変わろうとしていた。 夏の名残の暑さが残る日中を通り越し、練習も佳境を迎える夕方頃には、もうかなり涼しい風が吹いている。僕も念のためライトの守備練習と、打撃練習をやっていて、それが終わったので佐伯先輩を相手に投球練習をしていた。 「谷山くん」 唐突に阿部先輩の呼ぶ声が聞こえた。 振り向くと、先輩はちょっとはにかんだような表情で手を振っていた。 あのキス事件以来だな。僕はどんな顔をすればいいのか分からず、ちょっとひきつったような笑顔になっていたと思う。 「あのね、私いよいよ引退なんだ。でも、秋の大会後に田原さんが今まで取材を続けてきた特集記事を書く予定だから、実際には、それを見届けてからね」 「そうなんですね。おつかれさまでした」 それだけ?とでも言いたげな表情を見せた阿部先輩だった。 「君の世界からは遠くなるけど、受験もあるし、仕方ないね」 秋風のせいか?今日の先輩は妙にセンチメンタルだ。らしくない。 「らしくないスね」 僕は思わず本音を言った。 「先輩は、もっと突撃してくれなきゃ、こっちも調子狂うじゃないですか」 先輩はとびっきりの笑顔を見せた。 「あはっ。そうかな」 「そうです。取材一直線の方が似合っています」 「そうね」 「そうです」 「じゃあね、君も城高に来なさい」 あれ?何で「じゃあ」という風につながるのだろう。そんなに楽には行けないぞ城高は。僕がそのようにツッこむと、先輩は笑っていた。少々強引な流れではあったが、そのことを先輩は言いにきたのだろう。 「まあ、そんな細かいことはいいのよ。それよりね、甲子園への夢っていう大きな物語の方が大切なの。それが城高のユニフォームだったら最高でしょう?物語のフィナーレを私に書かせてよ」 先輩は目を輝かせていた。 「らしく、なりましたね」 「当然よ。今から楽しみだわ」 「まあ、がんばります」 「君こそ、らしくないわね。絶対行くって言いなさい」 僕は笑ってごまかした。 先輩はためいきをついた。 「まあいいわ。でも君ならきっとできるわよ。私が見込んだ男の子なんだから。じゃあ、またね」 先輩はそう言って、帰って行った。何だかさびしそうにも見えるその姿を、僕はぼんやりと見送っていた。ちなみに佐伯先輩も、以上長い会話の間、ぼんやりと突っ立っていて、そして一言ぼそっと言った。 「いいなあ、谷山は」 さて、秋の大会まで一月を切ったある日、小島先生が思いがけないことを言った。 「あのね、今度の日曜日なんだけど、練習試合の申し込みが中島中からきているよ。みんなはどう?受ける?」 またか!やはり中島は僕らを徹底マークしているようだ。新チームへの移行を探っているのだろう。 キャプテンが聞いた。 「相手は一軍ですか?」 「え~っとね、いや確か軟式で、二軍で、よかったら、中島中には来年の新一年も入れたいって言っていたよ。公式戦じゃないからって」 川上だ。僕には分かった。川上の力を試すつもりなんだ。そういうことか。 「新一年って、今小学生か。なめられたもんだな。俺たちも」 キャプテンはそう言ったが、川上を知っている旧東原メンバーはざわめいた。 「キャプテン、実はその小学生に心当たりがあります」 はるちゃんがそう言った。 「何だ、春木。心当たりって」 「はい。川上っていう怪物で、谷山と互角に渡り合える男です」 「そんなのがいるのか」 雑魚キャラ先輩達もざわめいた。 「ま、春木がそう言うのなら、そうなのかも知れん」 「向こうは新一年なんだし、僕らも地力があがったと思いますから、初めはレギュラー以外をぶつけて胸を借りてみてもいいかも知れません」 「おいおい、春木。弱小相手ならともかく、中島だぞ。失礼じゃねぇか」 そうか。失礼な存在なのか、雑魚キャラ先輩たちは。ってツッこんでいる場合じゃないよな。中島は将来を見据えて僕らに全面戦争を仕掛けてきたも同然なんだ。困ったな。油断してくれていたら良かったのに。そこまでするか?なんて思っていて、ふと気づいたことがあった。そうだ、来年から軟式の全国大会が始まる。だからなりふり構わず、川上のいるチームで今のうちから準備を始めようとしているんだ。まったく、ソツのないチームだな。中島は。しかし違う角度から考えると、旧東原と氷山先輩の泉川が思った以上の強敵だったから、我を忘れて慌てふためいているようでもある。 さて、どうする? 実は、今度の日曜日は大会前の最後の休日にあてられていた。誰彼となく予定を入れていたし、僕だってこっそり恵ちゃんと買い物行く約束をしていた。だからみんなは嫌がっていたし、やまちゃんは「わざわざ手の内を見せることはねぇ」と言っていた。 「じゃあ、判断は田所君にまかせるね」 小島先生がそう言い、キャプテンに委ねられた。 キャプテンはしばらく真剣に悩んでいたが、やがて重い口を開いた。 「俺らは、ポッと出のチームだ」 そんなことを言い出したから、みんな何が言いたいのだろうと、キャプテンに、いよいよ注目した。 「中島は雲の上の存在だった。1年前なら、全く相手にされなかっただろうよ」 キャプテンは珍しくうつむいて考えながら話している。 「それがどうだ、今は。何回も頭を下げて頼みに来やがる」 いや、別に頭は下げてないと思いますけど。 「こんなにうれしいことがあるかッ」 キャプテンは顔をあげてニカッと笑った。 「いいか、男としてつえぇ野郎に戦いを挑まれたら決して逃げちゃだめなんだ」 うわぁ~。キャプテーン、どこか別の世界に行っていないですかぁ~ なんて、橋本がいないから、僕のツッこみ役もすっかり板についてきたぁ。 もともと血の気の多いまっちゃんとやまちゃんの目が据わってきたのも確かだ。それどころか他の多くのメンバーも真剣な顔をしていた。みんな大丈夫か、おいッ。 「川上って奴が怪物だろうが関係ねぇ。何度やっても俺らはあいつらを正々堂々ぶっ潰す!いいか、やるぞ!」 まあ、いいか。 なりゆきでみんなも燃えたようだし、僕も、あれから1年たった川上を見てみたいし。でも、恵ちゃんには断りの電話を入れないといけないな。 その日その後の練習で、僕は例によって佐伯先輩を相手に投球練習をしていたが、その合間に思わぬ話を聞くことができた。なんと、キャプテンは昔中島の特待生試験を受けたらしいのだ。中島にはスカウトがいて、その眼鏡にかなった者は無条件で特待生になれるそうだが、そうでない者には試験があるそうだ。何でもキャプテンは最終試験まで残ったらしいが、結局無念の涙をのむことになり、現在に至る。だからさっきの言葉は単なる個人的復讐なんじゃないかって佐伯先輩は言っていた。 僕は笑った。 まあ、そういう面もあるかも知れないが、たぶんそれだけではない。キャプテンの個性というか、男気というか、その発露なんだろう。確かに1回でも断って、逃げたような気がすれば、この先ずっと負い目というか、気まずい思いをするだろう。それより、たとえ負けても立ち向かった方がよほどいい。だって、同じ地区にある以上、中島の存在は、この先ずっとついてまわる問題なのだから。 でも最終選考まで残ったのなら、キャプテンにはそこそこの才能があるって感じていたのは、まんざらでもなかったんだ。ひょっとすると、中島のマークはキャプテンにもついていたのかも知れないな。 僕はその夜、恵ちゃんに電話をして、デートの延期を頼んだ。そして、多くの人の様々な思惑が交差する(と思われる)練習試合に臨むことになった。 当日。 まっちゃんと、やまちゃんが異常に燃えていた。キャプテンの男気に感化されたのだろう。もともとそういう事の好きな二人だ。僕らは小島先生の引率で、例によって電車とバスを乗り継いで中島学園に向かっていたのだが、その二人はさかんに「つえぇ奴らをぶっ潰す」なんて、ぶつぶつ言っていた。妙なところに食いついたものだな。この二人は。 出発前、キャプテンから今日の見通しについて説明があった。 今日の相手は二軍だから、こちらも来年のために新チームでいくとのことだった。キャプテンは初めベンチに入り、「契約にないから」と言って今日も来ていないヨッパライの代わりに監督代行を務めるそうだ。そして先発は吉岡。僕は中継ぎで、最後は遅れてやってくるという氷山先輩にシメてもらう。 「さすがに補欠は出せないが、新チームなら、胸を借りるくらいいいだろう」 と言うのが、キャプテンの判断だった。そこで、想定される試合の流れとしては、先ず敵が先制するだろう。吉岡には2点ビハインドくらいで踏ん張ってもらって、僕が登板する頃にはとにかく追いつき、そして反攻開始は氷山先輩が来てからだと、キャプテンは言った。 そんなにうまくいくのかなあ。 とにかく押して押して、どんどんアドバンテージを稼ぐ気持ちでいないと勝てるものも勝てないけどなあ。まあ、新チームを試すせっかくの機会でもあるし、いいか。なんて気楽に考えていたのが大きな誤りだった。中島は僕ら以上に真剣に勝ちにいくつもりだったんだ。 さて中島に着いた僕らは、ミニ県営球場のようなグランドで、軽く練習を始めた。今回は急な決定だったから、氷山親衛隊や谷山ファンクラブのことなんてすっかり忘れていたが、どこで情報をゲットしたのか、みんなちゃっかりと集まりつつあった。中島の方も観客が集まりつつあり、今回も前回の例にならって公開試合とするようだった。 僕がブルペンで投球練習していると、「ゆうちゃん」と、呼ぶ声が聞こえた。それは、恵ちゃんではなく美咲ちゃんだった。友達二人と来ているようだ。ああ、また来てくれたんだと思ったが、あれ? 「恵ちゃんは?」 僕は思わず美咲ちゃんにそう聞いていた。 「知らないよ。行かないって言うんだもん」 美咲ちゃんは、ややむくれてそう言った。 デートが延期になったから怒っているのかな。なんとなく嫌な気分になったが、試合前だし深く考えないようにしよう。仕方ない。 「遠いのに、また来てくれてありがとう」 「うん。がんばってね」 僕の球を受けていた佐伯先輩がぼそっと言った。 「いいなあ、谷山は。女子に相手してもらえて」 僕らの練習が終わると、今度は中島が練習を始めた。 その布陣を見ると、あのゴツい男がサードに入り、ショートに例の不敵なキャプテンが入っていた。中島も新チームなんだと思っていると、難しそうな顔をしていた新田が「あっ」と思い出したかのような声をあげて言った。 「キャプテン、あのセカンドとセンターは2年生で、一軍の選手です」 キャプテンは怪訝な顔をしながら答えた。 「二軍落ちしたってことか?」 はるちゃんが口をはさんだ。 「いえ、たぶんセンターラインを固めてきたのではないでしょうか」 横川先輩が言った。 「ありえるわね。センターラインは重要だもんね」 まっちゃんが言った。 「やれやれ、そこまでして勝ちたいのかねぇ」 はるちゃんが言った。 「以前谷山が言った軟式の全国大会うんぬんが正しければ、来年のために一軍半くらいにして勝ちにきているのだと思います」 やはり中島は本気だ。 はたして、僕らの新チームで通用するのだろうか。でも、その時気づいた。僕らが常勝伝説を目指すのなら、中島どころか全国大会でも勝ち抜かないといけない。そのあまりに遠い道のりに、ちょっとめまいがするような気分だった。 さて、今回の先発メンバーはこうだ。 1番、センター、ガンちゃん。 2番、セカンド、まっちゃん。 3番、サード、やまちゃん。 4番、ライト、僕。 5番、ファースト、神崎先輩。 6番、ショート、田中。 7番、レフト、白石。 8番、ピッチャー、吉岡。 9番、キャッチャー、はるちゃん。 キャプテンが発表を終えた頃、川上が他の小学生らしいメンバー数人と一緒にグランドへ姿を現した。去年よりたくましく、そして生意気に見える。 「キャプテン、あれが川上です」 新田がそう言うとキャプテンは、 「ふん。確かにできそうなヤツだが、それがどうした。たかが小学生だ」 「でも、谷山なみの本格派ですよ」 「速いのか?」 「はい」 「弱点は?」 「さあ、どうでしょうね」 新田は答えを持っていないようだったから、代わって僕が答えた。 「球質が軽いんです」 「当たれば飛ぶってことだな」 「まあ、当てられたらってことも言えますが」 「球種は?」 「直球とカーブだと思います」 「よし、じゃあみんな良く聞け。全員バットを短く持って当てることを意識しろ。決して大きいのを狙うな。今日は新チームの腕試しだ。やれることを確実にやることが大切であって無理をする必要はない」 はるちゃんが言った。 「東原時代と一緒だね。つなぐことを第一に考えよう」 試合が始まった。 僕らは先攻だった。 一般的に野球は後攻が有利だとされるが、僕は必ずしもそうではないと思っていた。初回から猛爆を加えると、相手は戦意を失うからだ。格下相手ならそういう戦いもできるが、今日の相手は中島で、それも一軍なみ。そうそう簡単にはいかないだろう。でも、初回に何とかできれば、優位に立てるのは間違いない。そういった意味で、1番ガンちゃんは大変な役割を担っている。 何とか頼む。そんな祈るような気持ちでいた。 ガンちゃんの武器は、第一に神業セーフティバントがある。次に大根切りだ。そして中学になって憶えたのがローボール狙いで、さらには鬼柴田から授かった流し打ちがある。でもそれはまだ身についているのかどうか分からない。無理せず呼び込んで軽く弾き返すのだが、今、何とかそれを試みようとしている様子ははっきりと見て取れた。相手は初めて対戦する投手だ。おそらく1軍の2年生なんだろう。速くはないが、切れのいい直球に、カーブとシュートを投げていた。そうやって球数を放らせるのも1番の仕事であり、そこまではガンちゃんらしく仕事ができていた。 7球目。 鮮やかな流し打ちが三遊間を割った。 「よし!」 思わず叫んだ僕の声は、それ以上の歓声にかき消されていた。 2番まっちゃん。 打席に入る前、2回大きくバットを振り回した。 でもそれはフェイク。次にバットで3回スパイクの裏を叩いたが、今はそっちの方がサインだ。 はたして。 というか、その前、初球からガンちゃんは走った。 バットを振るという、知っているはずのサインのため、中島バッテリーは、まんまと裏をかかれた形だ。それでもかなりきわどいタイミングのセーフだった。 2塁上で、ガンちゃんはほっぺを膨らませ、珍しく大きく息を吐いていた。本人にとっても一か八かの試みだったのだろう。 さて、2球目見送りボールのあとの3球目。 まっちゃんは、ひょいと、あたりまえのようにバントを決めた。 しかし、その前からガンちゃんはスタートしていたから、サインどおりだ。 1塁手がボールを拾った。 3塁を見る。間に合わない。振り返って、ベースカバーに走った投手へ投げる。駆けっこのようになったが、まっちゃんが一歩及ばず、アウト。何とか東原時代のような僕らのかたちができている。 そして3番はやまちゃんで、その打順も東原以来だ。 一般にランナー2塁なら得点圏だと言われている。確かにそれはそうだし、普通、送りバントで2塁へ進めるものだが、鬼監督は2塁までは盗塁で、そこからバントで送って3塁まで進めることを指導していた。まあ、小学生レベルなのだから3盗より2盗の方がはるかに成功しやすいし、それに、ランナーが3塁にいる方が、相手投手にかけるプレッシャーが強い。外野フライでも、ワイルドピッチでも1点なのだから。そういういわゆる「いやらしい野球」が僕らのスタイルだった。 やまちゃんが外野フライを打った。 犠牲フライには充分で、ガンちゃんはあぶなげなくホームイン。僕らの定石通りに淡々と得点したように見えるが、何球も粘ったガンちゃんや、偽のサインで惑わせたまっちゃんの努力によるものだ。僕らは手間を惜しまない。やれることはきっちりとやる。それが、絶対王者と言われた僕らの流儀だ。 さて、試合は僕らが1点先制したものの、吉岡が4点とられ、まざまざと中島一軍半の力を見せつけられていた。 やはり僕ら1年生では中島打線を抑えきれないな。はやく氷山先輩来ないかな。なんて、外野からマウンドに集まった内野陣を見ながらそう思っていると、 「谷山!ちょっと来い!」 キャプテンが大声で僕を呼んだ。 え?まだ2回だぞと思いながらマウンドに行ってみると、案の定 「いけるか?」と聞かれた。 現在、2回裏ワンアウト2・3塁。正直な気持ちとして左の僕では荷が重い状態だ。しかし、キャプテンに頼まれ、内野陣が僕を見つめ、しかも吉岡が肩で息をしながら悔しそうな表情しているのを見ると、「いけません」なんてどこをどうさがしても見つからない答えだ。 「わかりました」 僕はそう答えていた。 「よし。頼む。吉岡はライトに入れ」 そういうキャプテンの指示のあと、まっちゃんが言った。 「まあ、ここで打たれてもお前に自責点はつかないさ。立派な0点男のまんまだ。気楽にいけよ」 僕は苦笑いを浮かべた。立派な0点って何?励まされているのかどうか、わからない。しかし前にも思ったことだが、僕はまだ0点男の称号を返上する気はない。 みんながポジションに戻る時、吉岡は僕と目を合わせることもなく「すまん、頼む」と一言だけ言ってライトに向かった。練習ではエースと思えるほどの球を投げる吉岡でさえ、試合(しかも対中島!)では、思うような投球ができなかったようだ。確かに僕も初めの頃は「試合では普段の半分も力が出ないなあ」なんて感じたものだ。しかし今は違う。どんな修羅場だって淡々といつもの通り投げる自信がある。それは、なみいる強豪相手に戦ってきた経験からくるものなのだと自覚している。 ああ。任せろ。俺に! 投球練習を終え、打席にはあの不敵なキャプテン(今はキャプテンではない)が入った。 さて、セオリーで言うと、かわりっぱなの初球は狙われる。だから様子見のために、はるちゃんは外角低めボール球を要求してきた。 ふん。つまらねぇって、そんなの。 僕は首を横に振り、クロスを投げることにした。 力でどんどん押し切ってやる。それができなきゃ、それこそ負けを認める時だ。 1球目。 クロスが決まり、不敵なキャプテンは、逃げ腰になって驚いていた。 2球目。 外角低めストレートが決まった。 3球目。 真ん中高めのボール球に手を出してくれて三振となった。 泉川のギャラリーから歓声があがった。 さわぐなよ。これくらい当たり前だって。1軍相手ならともかく。なんて思っていたら、次の打者はセンターの1軍男だった。ふん、だからどうした。僕はそう思ってまたクロスを投げたかったが、さすがにはるちゃんはそれを許さず強硬に外角低めボール球を要求してきた。仕方ない。そう思って僕はその通り投げた。つもりだったが左の精度は悪く逆球になり、内側の、しかもやや高めに行ってしまった。 それは、失投だった。 僕はあせった。 1軍男は初球から強振してきた。 しかし、それはボテボテのサードゴロとなった。 ミスショットだ。 「よし!」 と思ったのもつかの間で、1軍男は速い速い! 「やば!」 と思ったのも再びつかの間で、それ以上にダッシュし、リズム良くやまちゃんが捌き、1塁へ送球。何とかアウトだ。ふ~う。まったく。ランナーなしで、サードが定位置にいたら内野安打だった。 「よし!」やら「やば!」やらめまぐるしくて、まるでジェットコースターに乗ったような気分だったが、とにかくピンチは脱することができた。やれやれ。 ベンチに引き上げる時、はるちゃんが僕に言った。 「打たせてとれれば、それでいいから」 面白くない提案だったが、ひとまず僕はうなずいた。 「谷山ぁ」 今度はキャプテンが怒鳴った。 「最後のあれは、逆球だったろう。攻撃中もキャッチボールしてろ!」 へいへい。わかりました。 「新田ぁ、キャプテンの指示だ。手伝ってくれ」 「あ、うん。わかったよ」 新田がそう言ってグラブをとろうとした時、佐伯先輩が言い出した。 「あ、俺がやるから。新田は例によって分析を続けてくれ。中島も新チームなんだから重要だ」 ニコッと笑って新田は答えた。 「そうですね。先輩。じゃあ、お願いします」 新田は、僕らのチームではスコアラーとも言うべき存在となっていた。スコアブックに自分の印象も書き加え、試合後には傾向と対策をまとめている。それは、吉永にはない現役選手の感性が反映していて、結構役に立っている。そういう視点を持っているからヨッパライも新田を控え捕手に指名したんだ。佐伯先輩。お気遣いありがとうございます。僕はそこの所に気づきませんでした。と内心先輩を見直したのもつかの間で、一緒にブルペンに行く時先輩はにやけながら、 「やっと俺もグランドに立てる。ベンチじゃ目立たないからな」 そうつぶやいていた。あ、そういうことなんですね。次から次に思惑だらけで、いろいろ忙しいぞ。今日は。 3回表はあっけなく終わり、元気に声を出していた佐伯先輩の出番は、ものの3分となかった。しかし本人は、 「2番手捕手は俺なんだってアピールできたかな。ギャラリー多いし」 なんて喜んでいたから、それはそれでいいんじゃないかな。 さて、3回裏。 4番からだ。 こいつは2軍で、何度か対戦したから新田メモに弱点が記されている。 “追い込まれたら、高めボールのつり球に必ず引っかかる” はるちゃんはそこに照準をあわせてリードし、そして最後はメモ通りに決めた。 1アウトだ。 5番。 こいつは1軍の補欠だから、メモはない。 はるちゃんは慎重に考えながらリードしてくれた。 2−1から大きな荒れ球カーブを引っかけボテボテのセカンドゴロ。 6番。 小学校から因縁のある、あのゴツイ男だ。 こいつはいつも打つ気満々だからストライクはいらない。 くさい球でショートゴロに打ち取った。 三者凡退でベンチに引き上げると、佐伯先輩がニコニコしながらグラブを持って僕の前にやってきた。投球練習を催促しにきたようだった。 「先輩、この回は僕に打順が回るからブルペンには行けませんよ」 先輩はわかりやすく「あ」という表情になり、何も言わずベンチの奥の席に戻って行った。 まっちゃんが、意表をつくセーフティバントを決めた。 3塁方向だ。 ゴツイ男がダッシュしてきた。 まっちゃんも走る走る。 捕球。送球。 まっちゃんは? よし!セーフだ! ギャラリーから歓声があがった。 ゴツイ男の力は知っている。だから、ギリギリの所にまっちゃんは決めたんだ。 「よっしゃぁー!」 そう吼えながらやまちゃんが打席に入った。 そして軸回転打法の構えをした。 それは大きいのを捨て、呼び込んでコンパクトに振り抜く構えで、要するにつなぐ意識の現れだ。 4球目。 やまちゃんのバットはうまくボールを乗せて、ライト前へ運んだ。 ノーアウト1・2塁。 さて、みんながせっかくお膳立てしてくれたのだから、2ストライクまでは大きいのを狙ってみよう。僕はそう思いながら打席に入った。さっきは凡退したが、今度は何とかできそうな気がしていた。 そして僕のバットが快音を発したのは3球目。 苦手な内角にきそこねたようなやや真ん中の球だった。自分でも出来過ぎのような会心のあたりだった。ボールは、スタンドに消えた。 「わぁ」っという歓声を浴びながら僕は1塁を回ったところで右腕を天に突き上げた。 同点ホームランだ。 狙って打てるなんて、そうあることじゃない。今日はのってるな。自分でそう思う。 ベンチに戻ると、新田が笑いながら話しかけてきた。 「ねぇ、何故谷山君はあんなにいつもうまい具合にボールを前でさばくことができるの?」 僕にはその意味が分からなかった。 その様な顔色を浮かべていた僕に新田は重ねて聞いた。 「だってさ、僕らはバント練習に始まって、とにかく呼び込んでからはじき返すことばかり練習してきたじゃないか」 あ、確かにそうだった。鬼監督のもとで。 「でも、谷山君は違うんだよ。いつもインパクトのタイミングが、かなり前なんだ。どこでそんな練習をしたのかなって疑問なんだ」 ネクストバッターズサークルに向かうため、ヘルメットをかぶって準備をしていた白石が口をはさんだ。 「そいつは昔からだよ。ガキの頃から、そんな風な打ち方をしていた。ま、だから飛距離が出るんだろうけど、普通はいちかばちかだな」 まっちゃんもからかい気味に口をはさんだ。 「打つだけなら、谷山は天才だからな。紙一重ってやつ?」 なんじゃ。そりゃ。 でも、ホームランの余韻もあってそんなに腹は立たなかった。まぁ、好きに言ってろ。 「ふ~ん。確かに僕らじゃ真似できないね。どんぴしゃのタイミングじゃないとね。それも谷山君の持ち味なんだろうね」 まあ、たぶんそれはほめ言葉なんだろう。意地悪く考えると「個人プレーに走りやがって」とも取れるが、新田はそんなに意地悪ではない。 さて、試合は僕がのらりくらりと投球を重ね、凡打の山を築きながら6回まで進んだ。僕らの攻撃も体よくあしらわれ、同点のままだった。そして、7回表の攻撃中に、待望の氷山先輩がやってきた。 「ああ、同点なのか」 先輩はベンチに着くなり、目を丸くしてそう言った。キャプテンが冗談まじりに言った。 「そうだ。俺の采配のおかげだ」 氷山先輩はくすっと笑った。 「そうですね。結果が物語ってますから」 「そうだ。そして俺の狙いはお前が加わる事で完成する。お前が加われば守備も打撃も、超攻撃的布陣になる」 「光栄です」 「よし。いけるか」 「はい。いつでも」 キャプテンはニカッと笑って大声をあげた。 「佐伯ィ!氷山の投球練習を手伝え。そしてお前ら!氷山に打席が回るよう全員バントだ!バントしてでも何が何でも出塁しろ!絶対勝つんだ、いいな!」 バントと聞けば誰だってあまりいい気はしないが、まっちゃんとやまちゃんは感化されていて、大声で「押忍!」と返事していた。 そして氷山先輩がブルペンに姿を見せると、観客席のボルテージがあがった。 そのすごさに佐伯先輩は、舞い上がるどころか、そのまま昇天するかも知れないな。 とにかく、打席の神崎先輩は、なんとかバントを試みようとしたが、失敗が続き、3バントはあきらめたが、結局空振り三振に終わった。 7回裏の守備。 マウンドには氷山先輩があがった。 僕はライトに戻り、吉岡がベンチへさがった。 外野から見ていても、氷山先輩はマウンドが似合う男だった。やっぱり、頼れる次期キャプテンだな。 さて、試合は、氷山先輩が圧巻の三者連続三振をとって、8回の表になった。 打席の田中は、キャプテンの指示どおり、バントを狙っていた。 右へ左へ。 2回失敗したが、それでもバントした。 よし。 今度は、3塁方向へ決まった。 かのゴツイ男は、最初の反応が遅い。 しかも切れると思ったようで、ボールの行方を眺めていた。 しかし切れず、フェアグランドに留まり、田中は出塁。 「よーし!」という声がベンチ内であがった。 とにかく、氷山先輩の前にランナーを出す事は大切だ。そんなこと、キャプテンに言われなくたって誰だってわかる。気分で打っているような僕とは違い、氷山先輩には確かなうまさがある。 次は白石だ。 白石は、送りバントを目指すはずだが、そんなに器用なやつじゃない。 こんな勝負の行方を左右するような場面でのバントは難しい。当然相手も警戒しているし、強く当てればただのゴロとなって併殺を食らう。弱すぎてもキャッチャーゴロで同じ憂き目だ。たかがバント、されどバントだと鬼監督は言っていた。案の定、緊張のあまり1回、2回と失敗した。それでもスリーバントの構えだ。 ふと、中島ベンチからの野次が聞こえた。 「だっせー、そんなにしてまで勝ちてぇのかよ」 それを聞いた川上が、くすっと笑って言った。 「先輩は、勝ちたくないのですか?」 何かそんな問答をしているようだ。 「だって、みんなバントなんてだっせーだろ」 「バントどうこうの話ではないですよ。要は勝つ気があるかないかです」 「あんな無様な勝ちならいらないね。もっとスマートに勝てるさ」 「ふ~ん、先輩は1軍ではないでしょう?」 相手の先輩とおぼしき選手は気分を害したように激しく言い返した。 「だから、何だ。ざけんな、小学生のくせに何言ってんだ!あ?」 川上は氷のような微笑で言った。 「よかった。1軍に失望しなくて済みました」 よほど腹が立ったのか、その先輩は席を立ち、川上に掴みかかろうとしたが、周りの選手に取り押さえられ、なだめられて、席に戻った。その間、川上はずっと足と腕を組み、冷静にしていたが、その姿勢を崩すことなく言った。 「あいつらに隙を見せたら最後です。でも、今の僕なら圧倒的に押さえ込みますがね」 そんな詳細なところまでは聞こえなかったが、川上が不敵な笑みを浮かべていたのは確かだった。 さて白石は、それから続いたボール球を見送りフルカウントまで行った。 フルカウントなら、ノーアウトだから自動スタートとまではいかないにせよ、スタートしやすいのは確かだ。 ピッチャーが繰り出す球の行方を、田中は集中力を高めて見つめた。 ガコン。 バットに当たるとともに、田中はわき目も振らず、2塁を目指した。 1塁方向にバントした球が転がった。 うまい。白石、よくやった! とにかく送りバント成功だ。 さあ。舞台は整った。 氷山先輩、頼みます。 先輩がバットを振り回しながら打席に向かうと、客席から黄色い声が上がった。 あれ?おかしい。中島サイドからも聞こえる。ひょっとすると中島時代の同級生が、ファンクラブとかを作っていたりして。 まあ、確かに先輩は千両役者だ。 何気なく右中間を破って勝ち越しの1点を取った。 「ひやまに続け!」 と、鬼監督ばりに叫びたいところであったが、はるちゃん、ガンちゃんが討ちとられ、交代となった。 その裏。 中島の攻撃は、氷山先輩の前になす術もなく沈黙させられた。 9回表。 ここで、僕らのベンチから驚きの声が上がった。 マウンドに、川上が向かって行ったんだ。その姿はひどく落ち着いて見えた。 そして、まっちゃんも、やまちゃんも、僕も、8回裏の中島よろしく沈黙させられた。思った以上に成長しているぞ。川上は。 そして最終回裏のマウンドには、やはり氷山先輩が立った。 その後ろ姿からして頼もしい。 中島は1番打者からだったが、苦もなくワンアウトだ。 2番は、1軍のセカンド男。こいつは少々曲者だったが、氷山先輩の術中にはまりセカンドゴロに倒れた。 そして3番。 1軍のセンター男だ。 僕は深めの位置をとった。 何しろ1回裏に、僕の頭上を軽々と越えられたからだ。 「今度は油断しねぇ」 僕はそう決めていた。 しかし、僕の覚悟の方が空振りだった。 そう。軽くひねったんだ。氷山先輩は。 やっぱ。先輩はすげぇや。そう思うと自然に笑みがこぼれた。 終了の整列後。 引き上げようとした時、川上の姿が目に入った。 川上もそれに気づいたようで、とっさに僕を指差した。 「人を指差すものじゃありません」 なんてツッ込んでいる場合じゃなく、その表情は真剣そのものだった。 僕をマークしたってことか? そんな気障なやつだっけか?どちらかと言えば飄々としていたように思うが、この1年で、あんな挑戦的かつ生意気になりやがった。やがて川上はふっと氷のような微笑を浮かべて引き上げて行った。代わって、不敵なキャプテンとゴツイ男がやってきた。 何か忙しいな。今日は。 「よう、谷山」 ゴツイ男がそう言った。 僕はわざととぼけて言った。 「誰?」 「何だと?コラ、あ?」 何か相変わらずの反応だな。こいつは。僕はそう思ってくすっと笑った。不敵なキャプテンも笑顔を見せて言った。 「そうか、僕らの名前を知らないのか」 「うん」 「はっきり言ってくれるぜ」 と言ったのはゴツイ男。不敵なキャプテンは笑顔のままこう言った。 「そうか。じゃあ改めて俺は江藤。こいつは清川だ」 キヨカワ?なんて、そのゴツさからは全く似あわねぇー。岩松兄弟の方が、よっぽどしっくりくる。 「また、俺たちの負けだな。認めるよ」 なんだ、江藤。らしくねえぞ。なんて思っているとやはり続きがあった。 「確かに今は勝てないが、来年俺たちはもっともっと強くなるから。川上も入るし」 「あいつは1軍には行かねぇのか?」 「その予定だった」 「じゃあ、何で?」 清川が大声で答えた。 「おまえがいるからだ」 「はぁ?」 「つまり、君を目標にしているんだよ。あいつは。だから自分から2軍を志願したのさ」 僕には納得できなかった。 「そんなんで、エリートコースを捨てるのか?」 江藤は笑顔のまま言った。 「じゃあ、君は何故、うちの誘いを断ったんだい?君だって本当はうちの1軍へって、スカウトが行ったはずだよ?」 「1軍なんて知らなかったさ」 「まあ、確かに特殊だからね。でも、君が来てくれれば、僕らは無敵になれるなあなんて、本当は期待していたんだ」 何だ。このなりゆきは。これって、新手のスカウト? 僕が難しい顔をしていると、清川が言った。 「おまえだって、エリートコースに乗っていたんだぜ」 やっぱりスカウトか?それとも新規部員勧誘のノルマがあるとか? 「僕はずっと疑問だったんだ。何故うちに来なかったんだい?」 まあ、ここは素直に答えてもいいだろう。別に戦略を駆使する必要のない場面だ。 「仲間がいるからさ」 決まった。僕がそう思うと同時に清川が笑い出した。しかもゲラゲラと。 「おまえ、良くそんなこと真顔で言えるな」 確かに、ちょっと?って感じ?なんていう僕の心の動揺などおかまいなしに江藤が言った。 「確かに君たちは最高のチームだ。そして今は敵。だから全力で戦うよ。でもね、いつかは一緒にやれたらいいなって思っていることも確かさ。だから心の隅にでも留め置いていてくれ」 やっぱり、新手のスカウトで、おそらく学校の誰かにそそのかされたに違いない。でも、あれだけ嫌味なやつと思っていた江藤の本音のようにも聞こえる。僕の心にも響いたし、泉川一択だった僕の気持ちに、何となく隙間風が吹き込んできたかのようにも思えた。 第十三章 池のほとりで ぴゆうと、気まぐれな風が吹いた。 それはもう、秋の寒さを感じさせるには十分だった。 練習後の帰り道。 辺りはもう真っ暗で、吹きさらしの公園コースを歩いていると、その寒さが余計に応えた。見知らぬ誰かと帰宅する恵ちゃんの姿をまた見るのは嫌だから、最近はいつも公園コースだ。秋季大会まであと3日。野球に集中しなければならないのに、やはり気になるものは気になる。気になるといえば、ヨッパライだ。夏以降全く姿を見せていない。もう大会目前なのに。なんて思ってしまったからなのか、虫の知らせというのか、たまたま、池のほとりで釣りをする人が目に入った。それは、どう見てもヨッパライだった。無視して帰ろうか、それともちゃんとあいさつして帰ろうか。僕が立ち止まって考えていると、ヨッパライの方が僕に気づいて声をかけてきた。 「ああ、谷山か」 僕は会釈をし、ヨッパライに近づいた。見つかってしまったら、無視もできまい。 「うぃっす。釣りすか?」 「ああ。見ての通りだ」 「家は近いんですか?」 「まあ、そんなに遠くではないな。でも今はそこの病院にいる」 その指が差す方に、3階建てくらいのちょっとした医院があった。 え?病院?って何?住み込みで働いていたっけ? 僕が怪訝な表情を見せると、ヨッパライはその様子に気づき、僕に教えてくれた。 「入院しているのさ。見つかってしまったからにはもう教えてもよかろう。大会前だから、心配させたくなかったがな」 「入院ですか」 「ああ」 それから、会話が途切れた。 何で入院しているのか、さらに聞いてみたかったが、僕はそこまで踏み込めなかった。 ヨッパライは釣竿の先を見つめ、しばらくその様にしていたが、やがてポツリと話してくれた。 「肝臓がな。もういかんらしい」 はあ?・・・ 「合宿にも行けなくて悪かったな。しかし、柴田先生はあの通りいい指導者だ。ワシは安心しておったよ」 そんなか細い声で言わないでください。なんだか急に弱弱しい存在に感じて、僕は悪い予感をせずにはいられなかった。 「少なくとも、もう監督はやめるつもりだ。後任は柴田先生にお願いしている。だから、谷山は何も気にせず、その才能を伸ばすだけ伸ばせばいい」 「才能とか、今はそんな話ですか・・・」 ヨッパライは笑って答えた。 「ワシはワシの人生。おまえはおまえだ」 「でも」 「まあ、そう言うな。気持ちはうれしいが、ワシはここまでだったんだ」 「そんなこと、言わないでください」 「実はな、もう随分昔のことになるが、白石がニコニコしながらワシに話したことがある」 「白石って?」 「ああ。親父の方だ。あいつが言うには、俺の息子はたいした才能ではないが、谷山の息子は怖ろしいくらいの資質を持っているってな。あいつの才能はどこまで行くのか、楽しみだってな」 僕は黙って聞いていた。 「何だ?ワシが白石の親父と知り合いだったことに驚かないのか?」 「柴田先生に聞きました」 「ああ。そうか、それなら話が早いな。まあ、そういうことがあって、お前たちが入学してくるのが、実は楽しみだった。だから無理もできた」 そんな風には見えなかったけど。 「しかしまあ、この辺りがしおらしい。田所とも相談して今後の道筋もつけた。もう思い残すことはない。おお、そうだ。ワシが左投げを命じた理由も聞いているのか?」 「はい」 「そうか。チームの事情として左が欲しいということもあったが、俺が見たところ、みんなお前を頼りにしすぎるし、おまえも期待に応えたくて無茶をするだろうと思った」 やはり、そうだったのか。鬼柴田の言った通りだ。 「そしてそれは、みんなにも、お前にも良いことではないんだ。あの白石のようにな」 「親父さんですか」 「そうだ。あいつは全部背負って戦った。その結果はお前も知っての通りだ」 僕には、いろんな考えがないまぜとなって適切な言葉が見つからなかった。監督のせいなのか?それは全部背負って戦った誇りを汚していないか。そもそも親父さんは後悔していたのか? 「少なくてもワシは、もっと安全にあいつを別の未来へ導けたはずなんだ。ついつい頼りすぎたワシのせいだ」 その時、雷に打たれたほどの衝撃が僕を突き抜け、そして分かった。 「勝手なことを言うんじゃねぇぞ」 「は?どうした谷山」 「親父さんは、決して後悔なんてしていなかった。むろん、あんたを恨んでもいなかった。自分で選んだ道だったからだ。そしてその背中は、今でも俺たちの道しるべだ」 僕はやや怒鳴るように言っていたかも知れない。でも、それは僕が記憶と脳細胞と偽らざる心を結集して導き出した答えだ。遠慮なんてするもんか。 ヨッパライは目を丸くして僕を見つめていた。 僕だってヨッパライをにらみつけている。 ぷぃっと、ヨッパライは釣竿の先に視線を戻し、小さな声で言った。 「生意気言ってんじゃねぇ。ガキが」 しかし、その背中は小刻みに震えていた。 翌日。 柴田先生が監督代行を務めると発表があった。 みんな、驚きと喜びの混じった声をあげていた。 むろん、ヨッパライの病状は一切知らされていない。 僕は行けるところまで行ってやる。後悔なんてしない。決して他人のせいでもない。 そうさ。 俺は、俺の意志と責任で突っ走るんだ。 第十四章 決勝へ それでも、俺は左投げを続けた。 監督が替わったからって、右に戻ることなど考えていなかった。そりゃあ、故障とか、ここ一番ではひょっとすると右に戻ることも有り得るが、何より自分が、クロスファイアーの面白さを知ってしまったからだ。それに、すっかり板についてきた変化球ももったいないし、本格派とは程遠いスタイルとはいえ、このチームには、他に左がいないからって言うヨッパライの言い分も、あながち理解できない訳ではない。それに伸びしろもまだまだあると感じている。だからせめて中学の間は左で通すと決めた。 そして。 秋季大会が始まった。 それがまたどうしたことか、はたまた、神の配剤か、決勝戦で中島とあたることになる。 ひとまず、そんな先のことなど置いといて、目先の緒戦だ。 結果を言うと、俺らの敵ではなかった。しかし本田先輩と佐伯先輩のバッテリーを先発に使うという鬼柴田の見事な奇策もあって、ハラハラドキドキの連続だった。まるでラグビーの試合のような点数になるんじゃないかって思えるくらいの乱打戦だった。もちろん勝ったが、心臓に悪すぎだ。 2試合目。 今度も名前すら知らない弱小が相手だった。 吉岡が先発し、それはもう、中島戦がまるで嘘だったかのごとく躍動していた。ちなみにキャッチャーは新田。二人ともソツなくこなしていて、こうしてみると、新田のキャッチャーも悪くない。頼れるキャラクターがまた一人登場と言ったところだ。 3試合目。 先発は、俺とはるちゃんのバッテリーだ。 レフトに白石、ライトには新田が入った。 そう、実はこの3戦目まで氷山先輩は来ないことになっていた。キャプテンもずっとベンチに控えていて、1年生主体でここまできたのだから、それ自体が普通なら大変なことだ。しかしこの日も俺たちは相手を圧倒した。もはや、中島以外に敵はない。 そして、準決勝。 相手は、これも名前すら知らない学校だ。 氷山先輩は来ていたが、先発は吉岡だった。 さて、ここまで勝ち上がってきたチームを相手に、吉岡が普段どおりの実力を見せられるか、興味のあるところだ。というのも、俺たちは来年の全国大会に出るつもりだが、全国の猛者たちを相手に俺と氷山先輩だけで勝ち上がれるなんて、そこまでうぬぼれている訳じゃないから、今はとにかく選手層を厚くする必要がある。この秋季大会より指揮を執っている鬼柴田の采配を見ても、そういう思惑がはっきりしている。さすがに緒戦で本田先輩が2ケタ得点を許したのにはハラハラしたが、鬼柴田は、それでも辛抱強く、あの最弱コンビを使い続け、結局、旧東原メンバーを中心にそれ以上の点を取って、初めて勝利投手になった本田先輩は嬉し涙を流すとともに自信を深めたようだ。前にも言ったが、俺たちはオンボロ野球部から、確実に最強野球部へと変わりつつある。この大会は、来年の大舞台への試金石となるだろう。 試合の方は。 コントロールが格段に良くなった吉岡は、ストレートの切れも増してきているし、落ちるカーブも効果的だ。他校なら、エースと言っても不思議ではない。 一方、攻撃はと言うと、ガンちゃんが、その才能を開花させ始めた。もともと動体視力に優れていて、選球眼が良い上に手持ちの武器も増えた。それに、やまちゃんも、いちかばちかの大振りを捨て、コンパクトな軸回転打法をモノにしたようだし、みんなも走塁やバントには自信を持っているから、ますます死角のないチームになりつつあると言っていい。そんなこんなで、序盤に3点取った俺たちが楽に進めて、終盤は俺がマウンドにあがってきっちり抑え、結局そのまま3対0で勝った。 いよいよ来週日曜日の決勝を残すのみ。 氷山先輩にせっかく来てもらったけど、今回お休みだった。 常勝伝説を義務づけられた俺たちにとって、その1週間というのはとても待ち遠しいものだった。準決勝のあと、そのまま決勝をしたいくらいの勢いだった。しかしまあ、特に恐れることも、慌てることもなく、俺はいつものメニューを淡々とこなしていた。いや、俺だけじゃない。みんなだってそうさ。優勝するために、汗をかき、声を出して、鬼柴田の指導について行った。ただ、予定と違ったのは、相手が北峰中になったこと。夏の大会のうっぷん晴らしとばかりにナンバーワンピッチャーが力で中島をねじ伏せたようだ。 そんな時。 それは唐突に、しかもとてつもない重苦しさを伴ってやってきた。 まさに晴天の霹靂というような、思いもしないことだった。 他でもない。 氷山先輩のことだ。 暴力事件を引き起こし、警察沙汰になったという。 部員は当たり前だが、親衛隊も、阿部先輩も、一様に驚き、職員室へ話を聞こうと殺到した。しかし先生方の口は固く、誰も真相を教えてくれない。よからぬ噂に振り回されて右へ左への大騒ぎになったのは決勝が差し迫った金曜日のこと。その日はもちろん鬼柴田も小島先生も練習に姿を見せず、俺らは途方に暮れた。 「部活停止?」「決勝は?」「それより先輩は無事なのか?」と次から次へ悲観論が噴出した。 「こうなった以上、明後日の決勝は少なくても辞退だろうな」 そういう受け入れ難い方向に話が流れていった。 しかしそれでも練習しない訳にもいかず、キャプテンの号令のもと、今ひとつ気合が入らない練習をした。 憔悴しきった顔の小島先生が姿を見せたのは、練習後、後片付けを終え、みな部室から一歩も出られない様な重苦しい時だった。 先生はうっすらと涙を浮かべて言った。 「ごめんなさい。まだ何もお知らせできないの。ただ、氷山君は今、入院しています。そして明日話を整理してから、みんなにはお知らせするね。とにかく、明日は土曜日なので、放課後1時には、また軽音の部室に集まってね」 先生はそれだけ言うと、足早に職員室へ戻っていった。 俺たちは顔を見合わせ、暗澹たる気持ちになった。 沈黙の時が重苦しく過ぎていく。 誰しも、こんな形でこれまで積み上げてきたものを断ち切られるなんて考えてもいなかった。 誰かが、「チクショー!」と怒鳴って部室のロッカーを殴った。 涙を浮かべる雑魚キャラ先輩もいた。 僕らの想いはひとつだ。 野球がしたい。 ただそれだけのことなのに、あたりまえのことだと思っていたのに、もはやかなわぬ夢なのか。俺の短い人生でも、これほど深くて暗い淵の底に沈むような気持ちになったためしはなかった。 「とにかく」 そう言い出したのは新田だった。 「とにかく、今は氷山先輩を信じようよ」 雑魚キャラ先輩の一人が「はぁ?」と言った。 他の先輩も言った。 「お前らは、あいつの黒い噂を知らないからだ。女に、暴走族に、アンパンだって何でもアリだ。今まで見つからなかったのが不思議なくらいだ」 キャプテンは腕組みをしたまま、ベンチにドカッと腰を下ろし、無言でいた。 俺は、ちょっとムカついた。そんなのでたらめだ。誰かが面白がって尾ひれを付けたに違いない。 「あの、それは本当のことですか?」 そう口に出したのは、残念ながら俺ではない。田中だ。 「みんながそう言ってるんだ。間違いないさ」 「だから、それを見たのかって聞いてるんだ!」 そう怒鳴ったのは、やまちゃんだ。 「いや、みんなが・・・」 先輩は語尾を濁した。 そうだろう。誰もそんなの見てはいないのさ。だってでたらめなんだから。 俺は、ひそかに先輩が働くバイク店に行ったことがある。確かに叔父さんにあたる人は眼光鋭く危ない感じの人だし、族風の客もいた。でも、オイルにまみれて働く先輩は、真剣な眼差しだったし、サボったりもしていなかった。そりゃあ、族のオニイサンやオネエサンにいろいろ話しかけられてはいたが、それは接客の範囲を越えていないようだった。 俺は、近くにあった机を思わず蹴飛ばしていた。 「先輩に謝れ」 自然とそんな言葉が俺の口から出た。 「谷山まで、何を言うんだ」 先輩の一人がそう言うと、はるちゃんが割って入った。 「まあ、谷山も先輩も落ち着いて。少なくても今は先輩を信じることが一番だと思います。僕は先輩のボールを受けていたから分かります。氷山先輩はうそいつわりのない誠実な心根だって」 みんなは、さらに沈黙したが、新田は自分に言い聞かせるように言った。 「考えてみましょうよ。もし本当に氷山先輩に落ち度があれば、明日話すなんてことにはならないでしょう?大会辞退の指示があって即終わりですよ?それがないって事は、何かしら事情があるに違いないと思いませんか」 白石も言った。 「俺もそう思うな。事情があるんだ」 今度は雑魚キャラ先輩の一人が怒鳴った。 「能天気過ぎるぞ!もう終わったんだよ!」 別の先輩も続いた。 「あ~あ。せっかくいい夢を見ていたのに。結局、夢は夢かよ」 まっちゃんはカチンときたようで、その先輩のむなぐらをつかんで凄んで見せた。 「何だと?コラ?もういっぺん言ってみろ」 さすがに横川先輩が割って入った。 「ちょっと、やめなさい。これ以上話をこじらせないで」 まっちゃんは舌打ちした。 誰だって気分が滅入る。 小学生時代にあった白石の暴力事件以来だな。でも、あの時よりはるかに深刻だ。 「あの、夢は夢だなんて、そんな悲しい事言わないでください」 かすれたような震える声でそう言ったのは吉永だった。 部室の隅で、うなだれるように立つ吉永に、俺は今気がついた。 こいつだって、一所懸命だったんだ。俺らのようにグランドに立つことも、公式戦のベンチに入ることもなかったが、毎晩毎晩、懸命にメモをとったり、備品の手入れをしていた。一緒に戦ってきたんだ。 いかん。目頭が熱くなってきた。 その姿は、感情の起伏が激しい俺の、涙腺を刺激した。 そして、いつの間にか部室に入り、部員に溶け込んでいる田原の姿も目に入った。こいつもこいつなりに心配していたのだろう。 誰も話さなくなった部室に、吉永の嗚咽の声が響いた。 雑魚キャラ先輩も含めて、みんな一緒にここまでやってきた仲間だと思っていたけれど、結局はみんなバラバラかよ。心をひとつに。なんてきれい事だったんだ。そう思うと、むなしさやら苛立たしさやらがいっぺんに湧いてきて、もう何がどうでもいいような、そんな投げやりな気持ちになりそうなところを紙一重で支えてくれたのは、他でもない吉永の泣き声だった。こいつのためにも、何とかならないかなあ。 その日はどうやって帰り着いたかよく憶えていない。 夕飯もお風呂もそうだ。 壁あてもサボって気がつくとベッドの中にいた。 しかし、なかなか寝付けず、やがて夜が明けた。 重苦しい朝だ。 なかなかベッドから起き上がれなかった。 朝練もサボった。 こんなに登校したくない日も珍しい。 何事もなかったということで、このまま心穏やかに眠れたら、どんなにかいいだろう。 でも、そうもいかない。 登校しよう。 当時の学校は、全国的に土曜日は半ドンだった。 授業は午前中で終わる。 はてさて、みんな1時に集まっても、昨日みたいに重苦しい集まりになるんだろうなと予想しつつ放課後の校舎内を音楽室目指して歩いていると、俺の顔を見るなり誰彼ともなくヒソヒゾ話をしていた。 噂は、もう広がっているんだな。 「ゆうちゃん」 階段の踊り場で、そう呼ぶ声が聞こえたので振り返ると、浮かぬ顔をした恵ちゃんがいた。 「何?」 俺は、恵ちゃんに心配かけたくなかったから、必要以上にそっけなく答えた。 「だいじょうぶ?」 「問題ないさ」 本当に心配かけたくなかったんだ。だからそう答えるだけで、再び音楽室へ歩き出した。 でも。 恵ちゃんは、そうは受け取らなかった。 そのことに気づいたのは、ずっと後になってからのことだった。 二人は、すれ違った。 こんなことぐらいで、そんなことになるなんて、俺は考えもしなかった。 音楽室に入ると、既に大半の部員が集まっていた。 いつもなら賑やかに雑談しているところだが、今は誰も何も話していない。 みな、押し黙って難しい顔をしていた。 まるでテストの真っ最中か何かのようだった。 予想した通りだが、重苦しい時間が流れ、それはとても長く感じた。 1時を過ぎた頃に、六家先生、柴田先生、小島先生が音楽室に入ってきた。あの奇天烈部長先生はいないようだ。 教壇に立ったのは、六家先生だった。 「みんなも知っていると思うが」 そう切り出した。 「氷山は今怪我をして入院している」 そんなことは知っている。 俺たちが知りたいのは、いきさつと結果だ。 「先生はな、みんながお荷物野球部から劇的に変わっていく様を目の当たりにした」 チッ。何が言いたいんだ。この先生は。 「イキのいい新入生だけでなく、上級生までみんなが生まれ変わったように頑張ってきたことを、一番良く知っている」 ちょっと、待て。先生。それって、だから今回はあきらめようって言うのか。まだ先は長いしって、そんな文脈なのか。 「ここまで来られたのは、みんなが仲間を信じ、夢を描いたからだ。こんな重たい現実を前に、それでも先生は仲間を信じて欲しいと思っている」 ???何だこの展開は。 「それが、できるか?」 できるも何も。俺はハナから何かの間違いだって思っているって。 みんなは、黙ったままだった。 「1年生はともかく、2年、3年は一時期の氷山の生活態度を知っているな。だから余計におかしな風に考えるかも知れんが、校長先生をはじめ、柴田先生も、小島先生も、小川先生も、それに桑原先生だって、今回はみんな氷山を信じようという結論になった」 だから、この先生は何が言いたいんだ?さっぱり文脈が見えない。 「いいか。確かに今回のことは一見してけんかのようものだが、決して氷山が引き起こした暴力事件ではない。氷山は一方的な被害者だ。だから、連盟にもその様に報告した。そして今も校長と小川先生が我々の真意を訴えるべく、連盟の臨時会議に出席している」 みんな、どよめいた。 それは、真実なのか?屁理屈なのか? みんな、自分の判断を決めかねた。 しかし。 部員ですら空中分解しかかったのに、先生方は俺らを信じてくれている。こみあげてくる俺の感情の当然の結末のように涙があふれるその前に、六家先生が話してくれた。 「いいか、あいつは一度だけ俺に話してくれたことがある。いい後輩たちに恵まれて、失いかけた夢を取り戻せたってな。自分は家の事情で働かないといけないから、いつも一緒に練習できる訳じゃないけど、あいつらのためにできることは何でもしてやりたいし、自分も、もう決して後ろ向きにはならないからって、そう言って笑っていた」 小島先生と、吉永の目が赤い。横川先輩もだ。 いつもクールな氷山先輩でも、家庭の事情は重くのしかかっていたのだろう。だから先輩が吐露したその心情は、真実に違いない。 「でも結局は連盟も世間体を考えて、例え主犯じゃなくっても決勝辞退を言ってくるんじゃないっスかね」 どこかの雑魚キャラがそう言った。 名前も知らねぇお前が言うな。 「まあ、連盟だって鬼じゃないさ。当然警察の見方を参考にするだろうが、こっちには秘策がある」 はぁ?何ですか?秘策って。 誰だってそう思うところだ。 おもしろい事に、六家先生と鬼柴田がそろって、それも絶妙なタイミングでニカッと笑った。 「校内新聞さ」 はぁ?正気ですか?先生方。 意味が分らないし、そんなので通用するなんて、中学生ですら考えませんよ。 「まあ、通用はしないだろうな」 鬼柴田はそう言った。 「しかしな、表向きはともかく、心は動くはずだ。中学野球はあくまで教育の一環なんだから、おまえらの奮闘ぶりを知ってもらって、先ずはハートを掴むんだ。それから氷山の無実を警察から聞いてもらえればいい」 二人はまた絶妙なタイミングでニカッと笑った。 兄弟か。この二人は。 「とにかく。今は氷山を信じよう。そして、朗報を待とう」 それから。虚ろな練習をした。 先生方が、氷山先輩を、そして俺たちを信じてくれるのはありがたいが、そんな風に世間はお人よしばかりではないだろう。ちょっとでも臭ければ蓋をするに違いない。何らかの事件に氷山先輩が巻き込まれたのが事実なら(そう思いたくはなかったが)、きっと蓋をされるんだ。 「氷山の野郎」 そう言って怒りを露わにする3年生もいたが、俺はそこまでは考えなかった。いや、それより、既にあきらめていたのかも知れない。先輩さえ無事に帰ってくれば、またいつだってやり直せるさ。とにかく明日の決勝はないだろうから、萎えた心のまま、気合の入らない練習を続けていた。いつもなら怒鳴りちらし威張りちらすキャプテンですら、黙りこんでいたから、他のメンバーだって気合は乗らないよなあ。あ? あれ? ざぶん。 1塁でぼんやりしていたキャプテンが、横川先輩にいきなりバケツで水をかけられた。 「ばかやろう、何をするんだ!」 キャプテンは踊りあがるように飛び跳ねて怒鳴った。 みな、唖然としてなりゆきを見守った。 横川先輩まで壊れたのか? 「ばかやろうは、どっちよ!」 本当に壊れたようだ。 「どっからそんなバケツを持ってきたんだ!」 あの、キャプテン。食いつくとこ、違います。 「どこからだって、いいでしょう」 その通り。 「先ずキャプテンが氷山くんを信じて、先生方を信じて、大声あげてみんなを引っ張るべきでしょう!それが何よ!お通夜みたいな顔して!」 「それが、バケツとどう関係あるんだ」 だから、そこ、違いますって。 バケツの話じゃあないでしょう。 「まだ足りないの?吉永、もう一杯くんできて」 そばで吉永はおろおろしていた。 キャプテンも、動きを止めてわかったような分からないような表情をしていた。 「わかった」 「わかったの?」 「部室の掃除道具だな」 だめだこりゃ。 キャプテンの方が深刻なまでに壊れている。 「神崎ィ!あんたにも気合を入れてあげようか!次期副キャプテンなんだから!」 そう叫ぶ横川先輩を見て、外野にいた神崎先輩はあきらかに困惑していた。 「そうだよ」 そう言い出したのは、次々期キャプテン予定のはるちゃんではなく、新田だった。 キャッチャーを始めてからの新田は積極的だった。 「僕たちが信じないでどうするのさ。僕たちを信じてくれている先生方の気持ちを踏みにじるってことだよ。確かにけんかだったかも知れないけれど、反撃も防戦もしないで一方的な被害者になった氷山先輩の気持ちさえ、裏切ることになるんだよ」 「ま、あれだな」 そう言い出したのはまっちゃんだ。 「先輩は手出しをしなかったんだ。たぶんそれは、手出しをしないことで、加害者、被害者の立場をはっきりさせるってことだよな」 「先輩は頭がいいからな」 田中が食いついた。 「でも、それを誰が証明するんだ?」 雑魚キャラの一人がそう言った。 「ワルの方も、殴られたって言えばいいことだしな。仮に誰かが見ていても後難を恐れて何も言わないさ」 別の雑魚キャラがそう言った。 「結局、俺たちはもう終わったんだ」 さらに別の雑魚キャラが嘆息まじりにそう言った。 確かにそうかも知れないが、「しかし」「でも」と言う気持ちが俺の心の底から湧き上がっては、蒸発してしまった。 「はぁ」 そんな、ため息しか出なかった。 俺は投球練習を中断して、そのまま腰をおろした。というか、仰向けに寝転んだ。 空の青さが目に痛かった。 思えば、初めてのマウンドで見上げた空も青くて広かった。あの頃はがむしゃらに前に進むことだけ考えていた。遠い昔のことのように思える。ふと見ると、グランドの隅で、田原が俺を見つめていた。何だろう?いつもは俺なんて見ていないくせに。そして1塁では、キャプテンがもう1杯の水を浴びていた。 結局、朗報なんて来なかった。 練習後、昨日のように部室でたむろしている俺たちは、結局丸1日何も手につかないような状況で、まったく無駄に過ごしたようなものだ。あちこちからため息が聞こえる。 俺らは、既に空中分解したようなものだった。やはり、チーム一丸なんて奇麗事なんだ。みな考え方も、捉え方も違うし。少なくても小学生よりは複雑だ。 「もう、終わったんだ」 誰かが言ったそんな言葉を受け入れざるを得ないかも知れないと、時間の経過とともに、その思いが強くなってきた。 もう、タイムアウトだ。 ばたん。 勢い良く部室のドアを開けたのは小島先生だった。 「みんな、認められたわよ!明日は決勝よ!」 みなが、驚きと喜びでどよめいたのは、3秒くらい後だった。 何が何だか良く分からないが、知らないところでいろいろと動きがあり、解決したってことだよな。 小島先生に寄り添って吉永がうれし泣きした。 「でも、どうして?」 先生は吉永の肩を抱きながら、満面の笑みで答えた。 「相手の人たちが一方的に暴行したって認めたの。だから、氷山君は被害者だって。加害者でも喧嘩でもないって」 3年生が言った。 「よく連盟が認めましたね。こんなに急に」 「確かに、警察の正式な調べが終わるまで、ふつう認めないでしょう」 「う~ん、先生もその辺りは詳しく分からないけれど、連盟の偉い先生が、正式とか手続きとかにこだわり過ぎて、もし、懸命に努力している生徒たちの心に傷を負わせたら、教育者として一生後悔する。だから決勝は予定通り。後で問題が見つかれば、その時また対処すればいいし、責任は自分がとるって、強引に決めてくれたらしいの」 小島先生の後ろからやってきた六家先生が、ニカッと笑った。 「まあ、連盟も鬼じゃないってことだ。新聞作戦が効いたのさ」 続いて鬼柴田が入ってきた。 「まあ、あれだ。丸2日間気が気ではなかったかもしれんが、やるからには恥ずかしくない戦いをしろ。信じてくれた連盟のためにも、そして氷山のためにも。そうそう、校長先生にも、そして小川先生のためにもだ。先生、そんなところにいないで、部室にお入りください」 え?あの奇天烈先生も来ているのか? 軽くどよめきが起こった。 先生は不機嫌そうな表情で部室に入ってきた。 そんな表情さえしなければ、美人なのにな。この先生は。 「まったく。面倒ばかりかけないで」 小川先生はそう言ったが、鬼柴田は笑いながら受け流し、みなに知らせた。 「まあ、そういうことだ。でもな、小川先生は真っ先に氷山を信じたし、連盟でも熱弁を振るってくれたらしいぞ。小川先生は才女だからな。感謝しろよ」 小川先生は真っ赤な顔してやや上ずったような声で言った。 「とにかく。明日は勝ちなさい!以上!」 意外とその言葉は効いた。 心に、すっと染みこんだと言うか、よし、やるぞ!という気持ちになった。 「はい!」 多くの部員が、そう答えた。 ともあれ。空中分解していたみんなの心が再結集を始めていた。 後に「氷山事件」と呼ばれたこの騒動が急速に解決へ向かった裏には、実は氷山先輩の叔父さんや、白石の親父さんの影がかかわっていた。しかし詳細は、また機会があれば語ることにしよう。 第十五章 決 勝 いつものことだったので、決勝の相手が中島ではないことに微妙な違和感があった。他のメンバーは決勝の舞台に立てる喜びだけを感じているようで、他のことは何も考えていないようだが、とにかく俺は先発だから、いろんなことをつい考えてしまう。相手ブルペンでは、あのナンバーワンピッチャーが小気味良い音を立てていて、あいつに勝たなければならないのかと思うと、ちょっとブルーになる。でも、俺は俺だ。これまで積み上げてきたことを信じよう。 さて、グランドでの練習後、監督である鬼柴田から指示があった。 「あの投手からは、そうそう点は取れない。ロースコアの戦いになるだろう。1点の重みを心しておけ。守備ではエラーしないこと。打撃ではつなぐこと。いいな」 まあ、そんなところだろう。でも、できれば具体的な指示が欲しいところではあるが、とにかく俺が何とかすればいいんだ。 泉川は、先攻だった。 先頭打者は当然ガンちゃん。 いけると見たら初球から仕掛けていくのがガンちゃんの持ち味だが、この時は見送った。手を出さなかったのではない。出なかったのだ。それくらいナンバーワンの調子が良かった。そして1球の遊びもなしに、あいつはガンちゃんを3球三振に討ちとったんだ。俺は心の中で、ため息をついた。もちろんマウンドに立つ者としてそんな感情を表に出すわけにはいかないが、氷山先輩がいない今日は俺が一人で受けて立つしかない。ふと興味を覚えたのでスコアボードに掲げられているその名前を見た。葛城。それがあいつの名前だ。川上が俺を意識するように、俺は葛城さんを意識せざるをえないだろう。キレの良い直球に、落差のあるカーブ、横スライダー。それらはいずれも惚れ惚れするような球で、つい見とれた訳でもないだろうが、3者三振で1回表が終わった。 やっかいな相手だ。 俺はマウンドにあがった。 今日は氷山親衛隊はおらず、谷山ファンクラブだけのようだった。中学になってから保護者の応援もめっきり減っているし、決勝というには、あまり記憶にないほど寂しい感じだった。恵ちゃんも練習試合のはずだからいる訳ないし、あれ、でも美咲ちゃんはきてくれているのか。皆勤賞だな。今度また一緒にどこかへ行くことがあれば、何か買ってあげよう。 投球練習が終わった。 はるちゃんが2塁へ送球し、まっちゃんがタッチの練習をして、キャプテンに送球した。キャプテンはやまちゃんに、やまちゃんは、定位置に戻ったまっちゃんに、まっちゃんは田中に。それから俺に球が戻り、はるちゃんが掛け声をかけた。 「プレイ!」 主審の号令だ。 初球のサインは、伝家の宝刀カーブだ。 え?そうなの?ちょっと意外だった。 俺だって葛城さんほどではないが、落ちるカーブやスライダーの精度も上がってきているのに、よりによって一番未完成なあれか?もう。知らないぞ。 案の定、打者の手前でワンバンし、冷静に見送られた。 次は、まってましたのクロスだ。 びしっと決まり、3球目は横スライダー。 それも決まってカウント2-1。 フィニッシュは、外角低め遅い球。 まんまとひっかかり、ボテボテのセカンドゴロ。 まあ、はるちゃんは今日も打たせてとることを選択したってことだな。 右でも、しばしば打たせてとることをやっていたから、そう違和感はないし、豪速球に匹敵するクロスだってある。今日の出来もそんなに悪くないので何とかなるだろう。 2番打者もショートフライにうちとって、3番打者。そうニヤついた男だ。そう言えばこいつの名前は何というのか。ちょっと興味が湧いたので、スコアボードを見ると、浦上と掲げられていた。さあ、浦上。勝負だ。はるちゃんの指示は低めボール球。しかも真ん中。それはどういう意味があるのか。理解は出来なかったが、その通り投げた。見られてボール。次は。落ちるカーブで真ん中ボール球。その通りに投げたが、やはり見られた。0-2のここからが勝負のようで、外角高め。ちょっとひやっとするくらい真ん中に行ったが、空振り。次はクロス。浦上は手を出せずにストライク。2-2だ。さて、フィニッシュは。あ、そうかここが勝負なんだ。直球2つの後の落ちるカーブ。引っかかってくれれば儲けもの。そうでないなら、最後はまたクロスなんだと予想がついた。はたして。浦上はまんまと引っかかり、体勢を崩すほどの大きな空振りに倒れた。はるちゃんはボールをこぼしたので慌ててタッチにいったが、早々と踵を返し、浦上はベンチに引きあげていた。 葛城さんほどの鮮やかさはなかったが、俺も3人で抑えることができた。 また前回のようにビシビシの葛城さん対のらりくらりの俺という図式のようだ。 葛城さんは、おそろしいくらいにキレのある球で、ぐいぐい押してきた。 4番の俺ですら、振り遅れの大きな空振り。と同時に三振。 雄たけびをあげる葛城さんが憎らしく見える。 5番キャプテンも、6番神崎先輩もあっけなく撃沈。 う~ん、確かに点は取れないぞ。これじゃあな。 そうなると、先に点を与える訳にはいかず、俺も何とか抑え続けるしかなかった。ランナーを出しても慌てず次を切り、相手に流れがいかないようにした。もちろん、はるちゃんの好リードに救われているのだが、気持ちを切らず、まるでか細い糸を丁寧につむぐような慎重さを保ち続けることができた。  うん。今日の俺はリズムに乗れている。そう、まるで葛城さんの良いリズムに引っ張られているかのようでもある。 5回表。 打順は俺からだ。 ふたまわり目なのでそろそろ何とかしたいと思った。でも、簡単に打てる球ではないから、欲をかいても仕方ない。とにかくファールでも何でも粘って、センター前へはじき返すような基本を心がけよう。俺はそう思って打席に入ったのだが、葛城さんは力勝負を選択したような、恐ろしく力のある直球でぐいぐい押してきた。察するに、俺を力を押しこんで、ナンバーワン投手であることを誇示したいのかも知れない。それが本当なら、そう思ってもらえるだけでも光栄です。でもね、こんな真剣勝負の場で欲をかくと思わぬしっぺ返しだってありますよ。 十球目だった。 葛城さんは、どうしても俺を直球でねじ伏せたかったようで、全く変化球は投げてこなかった。俺は何球もファールで粘ってだんだんタイミングが合ってきた。それでも、胃酸があがってきそうなくらいのしびれる戦いで、ついに俺は葛城さんの球を捉えた。 甲高い金属バットの打撃音とともに、ボールはセンターの頭上をはるかに越えてバックスクリーンに飛び込んだ。 打った俺ですら驚いた。 小学時代は仮設フェンスが組んであり、それを越えるホームランは何度か見たが、中学生の、しかも1年である俺が、プロ野球にも使われるこの広い県営球場のバックスクリーンに叩き込むなど、あり得ない話だ。しかし、線審の腕はぐるぐる回ってホームランを告げているし、スタンドの数少ない観客からは大声援が湧きあがっているし、チームメイトもダッグアウトで大はしゃぎしている。1塁までは全力疾走していたが、それらを確かめてスピードを落とした。ガッツポーズでもと思ったが、マウンドでうなだれる葛城さんの姿が目に入ったのでやめた。 さすがの葛城さんもちょっと動揺したようで、次のキャプテンには四球を与えた。 そのままずるずると行ってくれれば、こっちも楽だったが、そこはさすがに持ちこたえ、キャプテンは1塁残塁でこの回の攻撃を終えた。 泉川のメンバーが声を出し合って守備に散った時。 北峰中は円陣を組んで、大声で確認していた。 「いいか、とにかく粘れ。谷山は1年だ。9回通しの経験はない。氷山がいない今、あいつをつぶせば勝てるんだ。いいか、とにかく粘れ!」 そんな風に言っているようだった。 まあ、確かにその通りだ。猛者を相手に9回を一人で投げ切った経験はない。しかも左なんだから余計にそうだ。そうか。わざと俺に聞こえるように大声で言って、プレッシャーをかけてきたんだな。俺だけでなく、チームメイトにも不安材料を埋め込んだんだ。 確かに、彼らは粘った。 この先どうなるかは分らないが、俺も粘るしかない。根くらべだ。 先頭打者には七球、次は十二球、最後は六球。5回の裏は二十五球かかった。 6回表。 俺たちの攻撃も3者凡退だ。 その裏はランナーを一人出したから三十一球かかった。 7回も攻防も同じようなかたちだった。 打順は俺にも回ってきたが今度は変化球をうまく取り入れられて凡打に終わった。 投球では、とにかく気持ちを切らず、粘り強く、丁寧に。そう自分に言い聞かせた。 8回。 俺の握力はだんだんなくなってきていた。 おまけに手のまめが痛む。右はとうの昔につぶして固めたが、左は固まるまでには至っていなかった。だいじょうぶか? そんな不安が投球練習を終えた時頭をかすめたが、とにかく俺が踏ん張るしか勝つ道はない。実際に投げて見るとやはり変化球は危なっかしく、直球系ならまだ何とかなりそうだった。はるちゃんもそれを察し、直球主体のリードに切り替えていた。しかしまあ、球の出所を隠す練習をしていて良かった。そのおかげで打者のタイミングを狂わすことができているのだから。二十三球かかったが、それなりに球の出し入れもしている訳だし、仕方ない。 さあ、最終回。 打順は9番はるちゃんから。 葛城さんはこの期に及んでもその球威が衰えないどころか、140kは出ているんじゃないかと思えるような超中学級の球をバンバン投げ込んできていた。 はるちゃんも何とか当ててファールで粘っていたが、最後はキレのある高め直球で三振。ガンちゃんにいたっては得意のセーフティですらさせてもらえない状況で、まっちゃんは内角球の後の外角低めを見送って三振だった。葛城さんは投げる時帽子がずれたがそれを直すことなく雄たけびをあげた。俺はブルペンからその様子を見ていたが、何ともならないもどかしさを感じた。左手のマメは痛むが仕方ない。とにかく点をやらなければ勝ちなんだと自分に言い聞かせた時、鬼柴田に呼ばれた。 「谷山、お前はライトに入れ。ピッチャーは吉岡だ」 へっ?なぜですか監督?いいんですか? 「左手を見せてみろ」 そうか。鬼柴田は気づいているんだ。そう思って、俺は左手を開いて見せた。 鬼柴田は眉間にしわを寄せて言った。 「こんなになるまで、よくがんばった。あと1回だ。楽な展開ではないが、吉岡にまかせよう」 「しかし、先生」 「こんな状態なら、吉岡の方が勝てる確率が高い。あきらめた訳じゃない。あくまでも勝つためだ」 俺は不承不承ながらも、マウンドを譲ることにした。まあ確かに疲れもない吉岡の方が、眼先も変わるし、いいかも知れない。それにしてもトップレベルの戦いで、9回までもたせるのは大変だな。もっともっと鍛えなきゃ。ともあれ、そういう次第で、俺は白石に替ってライトに入り、吉岡がマウンドに上がった。心配なのは吉岡の心理状態だ。力はあるが、ここ一番の経験が乏しい。小学時代も3回戦以上の経験はなかったと聞いているし、先日のこともある。さて、あれからどれだけ成長しているのか。 小走りにマウンドへ駆け上がった吉岡は、そのまますぐに投球練習を始めた。 やはり、かなり緊張しているようだ。 「もっと落ち着け!」 他人が掘り返したマウンドだ。地ならしをしたり状況を確認したり、始めにすることは他にある。俺はそう思って声をはりあげたのだが、吉岡の耳には届かなかったようで、次々と球を放っている。それも心ここにあらずといった感じでただ義務的に投げている。非常にまずい状況だ。さすがに、はるちゃんも気づいたようで投球練習の後、すかさずマウンドに駆け寄り二言三言話をしていた。 あ~あ、やっぱり外野からの眺めは何とももどかしい。最後までマウンドに立っていたかったな。でも、テーピングの上に軍手をして、グラブをはめているこの左手は、やはりズキズキと痛む。どうあっても無理だったろう。 いや、待て。 俺にはまだ右がある。 左で通すと決めた俺のプライドさえ捨てれば、右でいけたんじゃないか。 しかし。 俺のプライドを考えて鬼柴田は交代を命じたのだろうから、仕方のないことじゃないか。 でも。 仕方がないで負けるのか。 例えプライドを捨てても、我武者羅に勝つことのみに突進するのが、俺の本当のプライドなんじゃないか。 そんなことを考えていると、北峰の3番打者、そう。あのニヤついた男、今日から改め浦上のバットが快音を発し、その打球は俺のはるか頭上を越え右翼スタンドまで飛んで行った。 同点ホームランだ。 ローボールヒッターである浦上の、行ってはいけない低目へ、すっぽ抜けのような甘いカーブが行ってしまった。 北峰ベンチの大騒ぎが見える。 マウンドには内野陣が集まって相談していた。 少なくとも今は個人的なプライドうんぬんは置いておこう。 負けるんじゃねぇぞ、吉岡。これ以上失点するなよ。 しかし、続く葛城さんには四球を与え、5番打者にはレフト前ヒットを許した。 肩で息をしている吉岡の様子がみてとれた。 まだだ。吉岡。お前にマウンドを譲った以上、俺にも責任がある。とにかくまだ負けてねぇ。がんばれ。 9回裏。同点。ノーアウト1・2塁。 どう考えても絶体絶命のような危機だ。 でも、これくらい俺たち東原は何度も乗り越えてきたんだ。お前だって常勝神話をつくりたいのなら、とにかく今は踏ん張ってくれ。 神が舞い降りたのか、それとも開き直ったのか。 吉岡はようやく、本来の力を発揮した。 一番欲しい三振を6番打者からもぎ取った。 マウンド上で、吉岡は吼えた。 よし、それでこそ俺たちの仲間だ。 しかし、野球は筋書きのないドラマなんだ。 大した打者じゃない7番の打球が、センター前へ抜けて行った。 と、思えた。 抜けていたら2塁ランナーが生還し、俺たちの初めての敗戦だった。 でも。 吉岡はあきらめなかった。 大きく左へ流れた体の、右足を放り出して打球にぶつけることでその軌道を変えた。 職人田中が機敏に反応し、その軌道の変わった打球を押さえ、三塁へ走る葛城さんにタッチへ行った。しかしやや遠く、すぐに見切って2塁へ送球。フォースアウト。1塁へ転送。 判定は? ギリギリ間に合わず、セーフ。 すかさずホームを狙う葛城さんに対し、キャプテンが本塁送球の構え。 葛城さんは自重し、流れが一旦止まった。 ふぅ。危ないところだった。 俺は1塁カバーからライトへ戻ろうとしていると、主審がタイムをとって吉岡に駆け寄った。内野陣もそれを見て駆け寄って行った。 吉岡が倒れていた。 死に物狂いで打球を蹴ったものの、当たり所が悪かったようだ。 くるぶしあたりを押さえて脂汗を流しながら苦しんでいた。 外野のメンバーも、鬼監督も、マウンドへ駆け寄ってきた。 救急箱を抱えて新田もやってきた。 「だいじょうぶか、君」 主審の問いかけに吉岡は「大丈夫です」と答えた。 でも、どう見ても大丈夫じゃない。 「骨が折れているかも知れないね」 新田が低いトーンでそう言った。 「軟球くらいで骨折するかよ」 まっちゃんが、吉岡のためにそう言った。 「とにかく、投球続行は不可。泉川中は、代わりの投手を出しなさい。そして吉岡君はただちに医務室へ」 それが、主審の指示だった。 吉岡は新田の肩を借り、小島先生に付き添われて医務室へ向かった。 その姿を見送ると、田中が言った。 「代わりって誰?」 まっちゃんがすかさず言葉をつないだ。 「あれ?」 その視線の先にはベンチの本田先輩がおり、皆の視線が一斉に向かうと、本田先輩は、何をビビったのか、顔を赤らめ、ひょいとベンチの背もたれに隠れた。 「だめだろ、あれは」 やまちゃんがそう言った。 皆の視線は自然と俺に集まった。 俺か? さっきは確かに右投げも考えたが、氷山事件もあり、ここのところ右の練習をサボっていたのも事実だ。いけるのか?本当に。わずかな時間、俺は自問自答した。しかし、鬼柴田の「いけるか?」という問いに、「いきます」と答えていた。 はるちゃんが言った。 「左は無理だよ。マメがつぶれてボールが血まみれだったじゃないか」 まっちゃんが聞いた。 「右か?」 やまちゃんがあきれたように言った。 「大丈夫かよ、こんな場面で。右なんて最近練習してなかったろう」 ああ。確かにそうさ。でも、俺はいくって決めたんだ。 不思議と笑みがこぼれた。 「ああ。大丈夫さ。まかせろ俺に」 キャプテンが言った。 「よし、谷山を信じよう。しかしな谷山。俺たちも信じてくれ。バックがいることを忘れるな」 うわぁ~、キャプテンカッコ良すぎじゃないですか。入部以来初めて聞きましたよ。そんなセリフ。 「そういうことだ。みんなヘマすんじゃねぇぞ」 そう言ったのは意外にも神崎先輩だった。 さて状況を整理すると、9回裏、2アウト1・3塁。ライトには新田が入る。中学野球は延長十五回まで。代わりの投手はもういないから、ここを抑えても、最長あと6回1/3イニング投げなければならない。小学野球ならフルイニングに近い。最近は氷山先輩と吉岡がいて、分担していたからそんなに投げた記憶はない。しかし、今は俺一人。しびれるような成り行きだが、おもしろい。行けるところまで行ってやる。 俺はマウンドを慣らし、投球練習を始めた。 絶好調とは言い難いが、悪くもない。 投球練習が終わった時、俺はいつものように天を仰いだ。 そして大きく息を吸い、深く吐き出した。 よし! 「プレイ!」という主審の号令とともに、俺は豪速球を投げた。 パーンという快音を発し、はるちゃんのミットに収まる球を見て、8番打者の目が点になっていた。 ふん、雑魚キャラなんて目じゃないぜ。 豪速球で3球三振をとった。 俺は野手の祝福ハイタッチを受けながらベンチへ戻った。 「すごいね、谷山君は」 そう新田が話しかけてきた。 「でも、無理はしないでよ。何とかして早めに点をとるからさ。吉岡君のためにも」 「そうだな。吉岡のためにも勝たなきゃな」 側にいたガンちゃんがそう言った。俺もそう思う。 十回表の攻撃は3番のやまちゃんからだ。 マウンドには相変わらず葛城さんが立っている。 球威が衰えるどころか、俺の豪速球にまるで触発されたかのような速球をどんどん投げ込んできた。やまちゃんも懸命に粘っていた。 ネクストサークルから見ていると、葛城さんの球の秘密が何となく分ったような気がした。あくまでも俺の豪速球との比較だが、もう既に球にキレがない。そう。速くはあっても棒球なんだ。速さに惑わされず、きっちり捉えれば必ず打てる。さっき俺はそれを無意識にやってホームランできたんだ。1、2の3でリズムをつかめればいけそうな気がした。よし。狙いはあの速球だ。とすれば、それを投げさせる方向にもっていかないといけない。カーブ狙いに見せかけるか・・・とまあ考えはしたものの具体策がまとまる前にやまちゃんが倒れ、打席がまわってきた。仕方ない。この打席は捨てよう。とにかくカーブに手を出して速球は見送る。そうすればカーブ狙いなんだと思わせられるんじゃないかな。とにかく次の打席が勝負だ。そうそう。速球も一度は大きな空振りをして、全く合っていないところを見せておくような演技も必要だ。ということで、俺はカーブを何とか叩いていい当たりはしたのだが、残念ながらショートライナーに倒れた。しかし2球きた速球を観察することはできたから、よしとしよう。いくら棒球と言っても、それは俺の豪速球と比較した場合であって、本来、そうそう打てる球じゃないんだ。 続くキャプテンもあえなく三振し、攻守交替。 俺は、ゆっくりと歩いてマウンドに向かった。すると、「ゆうちゃーん、かんばれー」という美咲ちゃんの声が聞こえた。その方向を見ると、真剣な表情で手を振る美咲ちゃんがいた。 不思議だ。何でそんなに応援してくれるんだろう。 ふと、そう思った。 さあ、この回から上位打線に回る。浦上と葛城さんの前にランナーを出さないことが大切だ。投球練習にも気合が入った。 ひとまず、先頭の9番を無難に抑え、1番を迎える頃には俺の右肩にも油がまわってきたように調子が上がってきた。絶好調時には及ばないが、いけるだろう。 はるちゃんの頭脳的なリードに助けられ、目論見通り、浦上の前で切ることができた。 ひょっとすると、久々の豪速球で、はるちゃんも調子に乗っているのかな。 十一回表。 6番の神崎先輩が打席に入った。 7番の田中はネクストサークルへ。 俺はベンチに腰をおろし、タオルで汗を拭きながら、そんな当たり前の光景をぼんやりと眺めていた。 「谷山君、大丈夫かい?」 そう聞いてきたのも新田だった。彼はヘルメットをかぶり、バットをにぎって打席の準備をしながらも、俺に気を遣っていた。対する俺は、自分でも最近ヘソ曲がりになってきたと感じているが、素直に答えず 「あ?何がだ?」と、思わず口から出ていた。 「結局、続投になったからさ。きつくないかな、なんて思って」 不思議だが、気が張っているせいか疲れは感じていなかった。 「別に」 「そう。そう言ってくれると僕も安心だよ。延長戦はサドンデスのようなものだからね」 「ふん、俺が右で投げているんだ。サドンデスなんてないさ」 新田は笑った。 「そうだね。頼んだよ。僕も頑張るからさ」 そう言い終わる頃、神崎先輩はうちとられ、新田はネクストサークルへ向かった。 ああ。まかせろ。俺に。 新田の後ろ姿を見送りながら、俺は静かに闘志を燃やしていた。 そこへ、にこにこしながら佐伯先輩がやってきた。 「疲れていないなら、キャッチボール、する?」 結局、新田の粘りは大したものだったが、三者凡退に終わった。 さあ、マウンドへ行こう。 そしてとっとと終わらせるんだ。 豪速球は、速さだけなら葛城さんといい勝負だ。でも、キレが違う。そこが豪たる所以なんだ。そう自分でも確信できるくらいの出来だった。効果的な球の出し入れと相まって、浦上だろうが、葛城さんだろうが、ばったばったとバッターを討ちとった。 十二回表。 こう言ってしまっては、チームメイトに悪いが、おそらくこの回も三者凡退だろうと思っていた。勝負は俺に回る次の回だ。だから俺はベンチから葛城さんの速球に的を絞ってリズムをつかむ観察をしていた。しかし、ついにガンちゃんがつかまえた。低目の速球を見事ライト前へ。 一休みしていたかのような観客席が久々にわいた。 ワンアウト1塁。 いいぞ。とにかくつないで俺に回ってくれば、そのまま決めてやる。 北峰は内野陣がマウンドに集まった。たぶん、葛城さんの体力を心配したんだろう。ここまで一人で投げてきたのだから。 さて、試合再開。 まっちゃんは、はじめバントを試みたがいずれも失敗。それから2-3まで粘った後、甲高い金属音とともに、猛烈な打球を放った。 抜けるか? が、残念。盗塁を警戒して2塁近くにいたショートが2塁後方でキャッチ。2塁上のセカンドへトス。1塁転送。1塁もアウト。ゲッツー、3アウトだ。 うちの高速コンビからゲッツーなんてそうそうあることじゃあない。球足の速さもあったが、勝利の女神の天秤はまだ大きく振れている。そしてそれは、多少なりとも期待した俺の心理にダメージを与えた。残念さや悔しさをひきずったままマウンドにあがった俺は、その速球を打たれてしまった。 ノーアウト1塁。 ふんばれるか?俺。なんて考えていると、はるちゃんは思いがけないサインを出した。 カーブだ。 は?右でカーブなんて、俺のサービスメニューにはないぜ? 事態が呑み込めずぼんやりしていると、はるちゃんがタイムをとって駆け寄ってきた。 「見せ球なんだよ」 はるちゃんはそう言った。 「いいかい、彼らはそろそろ合わせてきている。だからカーブもあるぞって思わせることが必要なんだ。すると警戒の幅が広がって的が絞りにくくなる」 そうは言っても、右でカーブなんて。そりゃあ練習ではやったことあっても、試合ではないし、未完成だし。 「大丈夫だよ。練習であれだけうまくいったんだから。それにまだ1塁だし、何があっても絶対僕が止めるから」 そうは言っても。 「いいから。自分を信じなよ。そして僕のことも信じろよ、だいじょうぶって言ってるんだ」 珍しくはるちゃんが声を荒げた。それだけ真剣なんだ。勝つために必死なんだ。だったら、俺だけ逃げる訳にはいかないな。 そこが、大人であるヨッパライや鬼柴田と当時の俺たちの経験の差なのだった。高みから俯瞰してより遠くの先行きを見通す大人たちに比べ、眼に映る地平線をひたすら驀進することしか出来ないのが、はるちゃんも含めた俺たちだったんだ。 「ああ。わかったよ」 「じゃあ、頼むよ。見せ球でいいから。うまくいくって。たぶん」 そう言ってはるちゃんは戻った。 「たぶんって言うな。いまさら」 心の中でそうツッこみながら、俺は握りを変えた。 右の場合のカーブは、速い球と緩い球の中間くらいの、中途半端なスピードになる。しかし曲がりと落差は大きく、練習ではわかっていても誰も打てなかった。急な要求ではあるが、とにかくやってみよう。 俺はセットから、思い切ってカーブを投げた。 こまかな制球はできないから、真ん中めがけて投げ込むと、うまいぐあいに外へ逃げ、空振りをさそった。 よし。いけるぞ。 「ナイスピー」 はるちゃんがそう言いながら返球した。 俺たちの驀進にどれだけの意味があったのだろう。大人たちから見ると危なっかしくて仕方なかったのかも知れない。でも、成功にせよ失敗にせよ、ひとつひとつをやってみて積み重ねていくことは、やはり大切なことだと思う。 さて、今のところ北峰ベンチにざわめきはない。直球だけだった小学時代を知っている浦上は驚いたかも知れないが、他のメンバーにはカーブなんて当たり前だったのかも知れないな。 2球目。はるちゃんは内角高め速球を要求。 その前に1球牽制球を入れ、要求どおりに投げた。 ストライク。 打者は外へのカーブの後だけに手が出ないようで見送った。 次の要求は。 ここではるちゃんは豪速球を要求してきた。 こんなところでいくのなら、はじめからいけばいいのに。半信半疑のまま、俺は要求通りに投げた。 すると。 ランナーが走った。 ランエンドヒット?それとも盗塁?こんなところで? 俺は全く無警戒だった。 どうすんだ。おい。なんて思った瞬間、はるちゃんはまるで分っていたように、捕球と同時に素早く、しかも冷静に2塁へ送球。 当然、まっちゃんも、田中も冷静に対応。 ランナーがスライディングしたその先に、まっちゃんのグラブが待ち構えていた。 難なくタッチアウト。 一気に2アウトだ。 外角、内角ときて、1球外角へ外し球が来ると見た北峰ベンチが仕掛けてきたものの、それは、はるちゃんが描いたシナリオにまんまと乗せられた形になった。豪速球プラスはるちゃんの強肩なら最速ガンちゃんだってわからない。しかしまあ、三振ゲッツーなんて痛快この上ない。俺は自然と笑みがこぼれた。 「よっしゃー」と吼え、右腕を突き上げるはるちゃんが頼もしく見えた。 十三回表。 この回が勝負だ。 俺が決めてやる。そんな思いだけが沸騰していた。 ベンチの奥から「頼むぜ。谷山」という声が聞こえた。三年生の川野先輩だ。ひょうきんなところのある外野の控えで、時々凍りつくようなギャグを飛ばしているから名前だけは憶えている。また何かギャグのひとつも口走るのかと思いきや、その表情は苦虫を噛み潰したように真剣そのものだ。みんな、この重苦しい試合展開の重圧に耐えているんだ。何とかしなきゃ。そう思いながらネクストサークルへ向かった。 打席では、やまちゃんが懸命に粘っていた。とにかく粘るのは、旧東原のお家芸だ。 しかし残念ながらセカンドゴロに倒れた。まったく、葛城さんは無限体力なのか? 俺は打席に入った。 秘策はある。 カーブ狙いと見せかけてひたすら粘る。そのうち必ずどこかで直球を挟んでくるから、それを見逃さず仕留めることだ。ベンチからの観察で、カーブと直球のリズムの違いも大体分っていた。俺はその見極めを間違うまいとそのことだけで頭が一杯だった。 1球目。大きなカーブだ。当たってもファールだから、わざと空振りした。 2球目。苦手の内角を速球で決められた。さすがに手が出なかった。 さて、1球外すか、それとも勝負か。さっきの例でいうと勝負だ。 ズバンと外角へ速球が決まったが、外れているからバットをギリギリ止めた。でも、判定は? ボールだ。 ふう。一安心だ。それくらいくさい球だった。 4球目は大きく落ちるカーブ。慌ててカット。 5球目。高め速球。でも明らかにボールだから見送った。 6球目。スライダー。カットしてボールはバックネットへ。 7球目。内角高め速球。外れているから、バットを止めて、俺は体勢を崩した。 ふ~う。今のは危ないぞ。入っていたら肘をたたんでも俺には打てないだろう。ひょっとすると、しつこく内角にくるかもな。 8球目。外角低め。これは外してきた見せ球だ。 カウント2-3。 息詰まる対戦に、いつのまにか球場が静まりかえっていた。 さて、次が勝負だ。おそらく苦手な内角。俺はそれを打たなければならない。 葛城さんは一旦外し、帽子をとって汗をぬぐい、再び構えて捕手のサインを覗き込むと、しばらく考えたような間があり、俺は内角速球だと確信した。内角勝負はリスクが高いから瞬間迷ったんだ。さあ、こい! 葛城さんがリリースする時。その手からボールがすっぽ抜けたのが見えた。外れるかも知れない。でも、打たなきゃ。俺が打たなければ勝てない。そんな使命感が、俺の判断を狂わせ、同時に思いもしないシュート回転の変な球の軌跡を見誤った。そしてそれは、ズドンと、俺のみぞおち辺りに鈍くて重い衝撃を加えた。デッドボールだ。最後の瞬間にわずかながらも回避しようとしたのが仇となり、余計おかしなところに食らった。 やべぇ。息ができねぇぞ。こりゃまいった。 そう思いながら一瞬意識が切れ、体勢を崩して倒れた。 気がつくと、左手をつき、無様にへたりこむ自分の姿があった。 主審がタイムを宣告し、新田が救急箱を持って駆け寄ってくるのがスローモーションのように見えた。 俺は両手を後ろ手について、座り込んだ。 マジ苦しい。呼吸できない。 「だいじょうぶ?谷山君」 新田がそばでそう言うが、口をパクパクさせるだけで俺は精いっぱいだ。 「おおきく、おおきくゆっくり深呼吸してみて」 俺は新田の言うとおりにしてみて、やっと呼吸が戻った。 助かった。逝ってしまうかと思った。 「他は大丈夫かい?」 他はとりあえず大丈夫そうだ。もし骨折しているなら、たしか飛び上がるくらいに痛むはずだが、それはない。 「じゃあ、スプレーしておこう」 「自分でやるよ」 俺はスプレー缶を受け取って、アンダーシャツの下に潜り込ませて直接スプレーした。 ちょっと痛むか?いや、まあこれくらい大丈夫だろう。 いつの間にか鬼柴田も来ていて、主審と一緒に様子を気にしていた。 やべ。ここで沈痛な表情なんて見せたら、それこそ交代させられる。つとめて明るく振る舞わないと。 「あ、もう大丈夫ッスから」 俺はそう言ってシャツをなおし、立ち上がった。 「大丈夫だね?」 そう聞く主審に笑顔で「はい」と答えたものの、その瞬間鈍痛が走った。いかん。ここに長居をしたら見破られるかもと思い、そのまま1塁へ走った。ランニングの上下動でも痛みは走る。しかし何とか踏ん張らないと、本田先輩に交代したら、先輩には悪いがその時点で負け決定だ。 1塁上の俺を見て、葛城さんは帽子をとって深々と頭を下げた。 へぇ、葛城さんは意外と律儀だ。俺は、彼に対して特に悪く思っていなかった。確かに前にも同じような死球をもらったので今回が2回目だが、それは真剣勝負の結果であり、そこまでナンバーワン投手を追い詰めたってことでもある。しかしこの打席に賭けていたのにはぐらかされたようで、その巡りあわせというか、間の悪さに無性に腹が立ってきた。そしてそれは誰も打てそうにない味方へのいらだちとか不信感の芽生えでもあった。 続くキャプテンは、まるでへっぴり腰で、いいようにあしらわれていた。それほどすごい変化球も、葛城さんの持ち味だ。でも、負けたくないのなら何とかするしかないだろう。 「何とかしろよ」 俺は、いらだちからくる心の声を表に出さないように努めていた。 何球か粘ってはいたが、まるで合っておらず、俺はあきらめ、自力で盗塁でもしようかと思いはじめた時、キャプテンは、思いがけない選択をした。 バントだ。 2-2から、まさかのタイミングだった。 うまい具合に内野手の裏をかいた。 3塁手が懸命に前進する。 キャプテンも走る。 むろん俺も一目散にセカンドへ走った。 3塁手は、ちらっと2塁を見たが、もう間に合わない。 1塁送球。 1塁は? アウト。 残念ながらキャプテンは1歩及ばなかった。セーフティ気味に狙っていく意図と、2ストライクから実行する勇気は大したものだが、やはり右打者のセーフティは分が悪い。 とにかく。 俺は2塁にいる。 2アウトだが、ワンヒットでホームを狙える。 激走のせいかデッドボールを食らった胸が痛む。でも、そんなことに構っていられない。今はホーム突入だけ考えたい。どんなかたちでもいい。とにかく1点だ。 次は神崎先輩。 何でもいいから、とにかく内野の頭を越えてくれ。身もだえするほど、切に願った。 十三回も投げているのに、いまだ健在の葛城さんは鉄人なのかもしれない。しかし、この状況でランナー2塁では、投げられる球種は決まっている。高めは長打の危険があり、内角は間違って真ん中、あるいはさっきみたいに死球のリスクがある。落ちるカーブは後ろにそらすこともあるから、差し引き、そう。外角低めだ。神崎先輩は東原の出身で、4~5年生の頃、鬼監督の指導を受けている。そこが勝負だということは十分理解しているはずだ。 2-2からの5球目。 外角の速球がやや甘いところに行った。 「いける!」 俺はそう思ってダッシュした。 神崎先輩も捉えた。 キンという短い金属音を残し、打球はセカンド塁上を越えた。 ランナーコーチ長尾の腕がぐるぐる回っている。 センターは浦上だが、ここは勝負だ。俺は上々のスタートを切っている。負けるもんか!負けるもんか!みぞおちは痛むが、知ったことか!俺は頭から飛び込みブロックの隙間へ左手を差し込んだ。 「痛て」 差し込んだ左手をまるで押し潰すように捕手のタッチがあった。 砂埃が舞い上がった。 判定は。 見上げると主審の腕は天に伸び、「アウト!」の声が聞こえた。 うそだろう。 そんなこと、信じられるか。 しかし、それは間違いなくアウトの判定だ。 俺は悔しかった。 悔しくて、恥ずかしくて、みぞおちが痛くて。 しばらく伏せたまま、起き上がれなかった。 「大丈夫か?君」 そういう主審の声に促されて、ゆっくり起き上がると、ハイタッチでベンチに迎えられている浦上の姿が見えた。 しかたねぇ。こうなったらとことんつきあってやるよ。 俺は左手で握りしめた砂を投げ捨てた。 何をやっても弾き返される。 こんな大きな壁の記憶はあの一軍戦以来だ。圧倒的な王者だった小学時代、俺たちは押して押して道を開いた。しかし今は何とももどかしいおしあいへしあいだ。氷山先輩もいない、中1主体の俺たちが、中3主体でナンバーワン投手を擁する北峰と渡り合っているだけでも本来は奇跡なのだと謙虚に受け止める必要がある。とにかくあと2回。持てる全ての力を出し切るしかない。十三回、十四回と回を重ね、とうとう十五回まできた。 打順は1番、ガンちゃんから。 何かのはじまりを期待するにはうってつけの切り込み隊長だ。 初球。 ガンちゃんは、それに全てを賭けていた。 一方、疲れの見えてきた葛城さんは、やや軽率だったと言える。簡単にカウントを稼ぎにきた。 神業セーフティ。 それが、ガンちゃんの回答だった。 三塁手が驚いた様子でダッシュして塁線上の打球をおさえ、1塁へ送球しようとすると、義務的に打球を追ってきた葛城さんが、その送球線上に立っていた。三塁手は葛城さんを避け、送球したが、ガンちゃんの速さに焦ったのか、暴投となって一塁手の足が塁から離れた。 よし!成功だ。 俺らのベンチだけでなく、応援席からも大歓声が起こった。 いけるぞ! そんな声がそこかしこから聞こえてきた。 北峰内野陣がマウンドに集まった。 なじりあいでも始まらないかと心配したが、やはり北峰は中島とは違う。みんな笑顔を見せ、互いに詫びながら前向きな話をしているようだ。ここまできて内紛なんて、中島ならやりかねないが、そんなお粗末な結果は見たくない。今のは、ガンちゃんの決意と確かな技術が手繰り寄せた、わずかな幸運だった。俺たちはそれを点に結び付けたいし、北峰は我に返ったかのように立ち直って全力で阻止するだろう。 まっちゃんが、スパイク裏の土を落とすかのようにコツコツと2回叩いた。 「よっしゃー!」 そう声をあげ、バットを3回まわした。 2球目バントの合図だ。 この長い試合の中で忘れかけていた俺たちの本来のかたちだ。 その最も得意とするかたちで、この勝負をものにできなければ、素直に負けを認めざるを得ない。でも、まだだ。まだ試合は終わっていない。頼むぞ、ガンちゃん、まっちゃん。 セットから、ちらっとガンちゃんを見た葛城さんは、第1球を投げた。 その時。 いや、正確には葛城さんが目線を打者に向けた時から、ガンちゃんの戦いが始まっていたんだ。 そう。ガンちゃんは葛城さんのクセを見切っていた。 初球から、走った。 まっちゃんは、とっさにバントの構えをした。 あれ?1球目だっけ?いや、違う。捕手の目線の高さにバットを置いている。捕手の目の前でバットをブラブラさせて、その集中力を削いでいる。何ともいやらしい、まっちゃんらしいプレイだ。そして葛城さんがボールをリリースした時、ガンちゃんはダッシュから、全力疾走の状態にあった。さすがに葛城さんもそのスタートに気づいて途中から外角高めにウェストした。まっちゃんはバットをひいて、ボールを稼ぐとともに、ガンちゃんの結果を見守った。 捕手の送球がやや高めに行ったため、2塁手が伸びあがって捕球し、タッチにいく頃、ガンちゃんの足は2塁に到達していた。 セーフだ。 すげぇ。 俺は、わずか数秒の間にそれだけのことをやった味方が頼もしく思えた。さっきまで、なじる気持ちがほんのちょっとではあっても芽生えていた自分が恥ずかしくなった。 2球目。 まっちゃんも、葛城さんの球にやっと慣れてきたようで、そのスライダーをうまく追いかけてバントした。 ボールは1塁線へ転がった。 今度は葛城さんも気合の入ったダッシュで捕球に走り、自らキャッチした。 振り返って3塁を見る。 間に合わない。 再び振り返って1塁送球。1塁はアウト。 捕手が1本指を突き立てて「ワンダン、ワンダン」と声掛けしているが、これが俺たちのかたちなんだ。ようやく、本来のかたちができるようになった。 3番。やまちゃん。 リキむなよ。今まで何度も遭遇してきた場面なんだから。 見方によってはゴリラにも見えるその端正な顔立ちは、やや紅潮していた。確かに、何度やってもこんな場面で意識するなという方が無理だろう。しかしそれでも、軸回転打法で、何とかつなぎたいという気持ちは見えた。 「3番を打ちたいか?」 あの夏の合宿で、鬼柴田はやまちゃんにそう言った。 「あたりまえだ。それが俺の居場所だ」 やまちゃんの答えはそんな感じだった。 「ならば打率をもっと意識しろ。お前のコンパクトなスィングを見れば、お前が何を考え、どう立ち向かおうとしているのかは想像がつく」 ふん、俺たちの苦悩と苦闘の歴史がそんなに簡単に分るものかと、その時俺はそう思った。しかし、鬼柴田の眼は確かだった。 「せっかく大きいのを捨ててそういうフォームをしているのだから、魂を込めろ」 「は?何言ってるんだ?気合なら十分だぜ」 「気合は必要だが、そんな話じゃない。技術的なことだ。もっと水平にバットを振れ。レベルスィングを意識しろ。それで率はあがるはずだ」 やまちゃんが居残りで素振りをするようになったのは、そう。あの日以降のことだった。 でも結局、葛城さんの方が一枚上手だった。 やまちゃんは、セカンドフライに倒れた。 よし。俺か。俺が決めてやる。 そういう思いをたぎらせて打席に立つと、捕手も立ちあがった。 まじ?敬遠? また気持ちの空回りだ。こうなったらボールでも何でも打ってやろうかとも思ったが、大人げないことはやめて、俺はキャプテンに全てを託した。 え?そうなの? キャプテンも敬遠された。 満塁策だ。 その様子を茫然と見ていたのは神崎先輩だ。無理もない。今日の先輩は当たっているのに、何故か勝負を挑まれたんだ。それとも、さっきヒットが出たから、確率から言ってもうここらで打てないだろうと見切られたのか。確かに2打席連続ヒットなんてあまりないから、何をしてくるか分らないキャプテンよりは料理しやすいだろう。 キャプテンが1塁へ歩くと、神崎先輩はネクストサークルでロジンバッグをバットのグリップにパンパンと押しあて、握りの感触を確かめ、その目線はバットを見つめた。 全ては神崎先輩に託された。 いや、待て。 こんな風景は前にも一度見た記憶がある。 そう。あれは俺が5年生だった秋季大会最後の試合。7回裏ツーアウト満塁、その最後の打席に立ったのは、他でもない神崎先輩だ。あの日の思い出を、あの涙を、力に変える覚悟を今、先輩は決めているのだろうか。 初球。 先輩の闘志とバットが空回りして、ワンストライク。それもバットとボールに大きな開きがあった。 2球目。 スライダーに合わず、また空振り。 あっという間に追い込まれた。 3球目。 外角低目の外し球だ。 4球目。 内角速球を、何とかカット。 5球目。 外角高め釣り球。これも、カット。 先輩は先輩なりに闘志をむき出しにしている。「がんばれ」そう思ったのは俺だけではないだろう。 6球目。 大きなカーブ。 とにかく、当てに行って、ファール。 7球目。 外角低目。これもファール。 8球目。 また外角低目。ドキッとしたが、外れた。ふう。息が詰まる。重苦しい。 あきらめるのは簡単だった。負けを想像するのもやさしい道だった。ここまで頑張った俺たちを、誰も責めたりしないだろう。でも先輩は、まだあきらめていない。 9球目。 内角高め。外れてボール。 さすがの葛城さんも息苦しい様子だった。 2アウト2-3だから、次は全ランナーが自動スタート。 いよいよ大詰め。俺はリードをとり、腰を落としてダッシュの姿勢をとった。 十球目。 それは、これまでの組み立てから言っても、十分予測できるスライダーだった。 芯を外し、ゴロかポップフライに討ちとる作戦だろう。あるいは三振狙いか。 キン。 甲高い金属音が短く響いた。 確かに芯ではなかったし、当たりそこねの感はあったが、先輩は足を踏み込み、強くひっぱたいた分、強烈なゴロが、三遊間を破って行った。 「わぁっ」と、泉川サイドが沸いた。 ガンちゃんが万歳しながらホームを踏んだ。 ようやく、ようやく追加点が取れた。1点勝ち越し。 俺は3塁まわってストップ。1塁上では神崎先輩が満面の笑顔で何度も何度も拳を突き上げていた。 先輩は、あの日の涙を振り切ることが出来たのだ。 一方、帽子を目深にかぶりなおした葛城さんの様子が印象的だった。 続く田中は、初球を簡単に打ち上げてしまって3アウト。 さあ、俺の番だ。この1点は守りきる。 その、つもりだった。 マウンドへ向かう俺に、控えの選手たちが口ぐちに「頼むぞ、谷山」と言った。 十五回裏。 泣いても笑っても最後の攻撃で、俺の気持ち以上に北峰の選手は我武者羅だった。 先頭の浦上、続く葛城さんと、俺はあっけなく連打を許してしまった。 まずい。俺は帽子をとって汗をぬぐった。 心配したはるちゃんがタイムをとってマウンドにやってきた。内野陣も集まった。 「死球のあとが痛むのか?」 やまちゃんはそう言った。 「疲れもあるだろう」 まっちゃんがそう言った。 そう。どっちもなんだ。さっきまでの押せ押せムードではあまり感じていなかったが、こんなピンチでは、そのどちらも重くのしかかってくる。でも、そんなことを口はにできない。みんなの不安を増幅させるだけだ。 「大丈夫だ」 とにかく俺は、そう答えるしなかった。 「もうだいぶキレがないね。仕方ないけど」 はるちゃんがそう言いだした。 「だから、 これから全部豪速球でいこう」 はるちゃんの提案に田中が聞き返した。 「大丈夫なのか?キレがないのに」 「わからない」 「わからないって・・・」 「でもね、もう球の出し入れをする余裕はないんだ。それに出し入れの球は捕まるよ。だったら、ここは一番得意な球で正面から勝負するんだ。これからは下位に回るし」 「最短距離で行こうってことだな」 「急がば回れって言うけどな」 「だから、回る道はもうないんだよ」 みんなは思い思いのことを口にしていた。 すると、それまで沈黙していたキャプテンがおもむろに言った。 「やかましい」 みんな唖然としてキャプテンを見つめた。 「ここまで来て小賢しい真似はいらん。いいかお前ら覚悟を決めろ。谷山と心中だ」 そうは言っても。 そういう顔色が皆の表情から窺えた。 「いいか。ここまできたからには強くて折れない心を持つことが大切だ。あの鬼柴田ですら打てなかった豪速球と谷山を信じて、力勝負だ。絶対勝つって思え。いいな?」 みんながキャプテンの気迫に気圧される中、田中が口をはさんだ。 「おことばですが」 「何だ?」 「谷山も、俺たちを信じて欲しいです」 「どういう意味だ?」 「さっきキャプテンが言ったじゃないですか、バックを信じろって」 もうずいぶん前のことのように感じるけど、確かにそう言っていた。 「そうさ。もしまぐれ当たりが来ても俺たちが絶対何とかするさ」 まっちゃんがそう言った。 「ああ。だから谷山は安心して豪速球を決めてくれ」 やまちゃんが言った。 例え嘘でも、今はそう言ってくれて素直に勇気づけられたし、気持ちが軽くなった。 「よし。確かに今の球威では、かわそうとか、打たせてとろうなんてスマートなことはできない。泥臭くてもみんながそれぞれ今できることを確実にやろう。そして僕らの力と、その先にある勝利を信じよう」 はるちゃんがそう言った。 みんな、気合を入れなおし、守備に散っていった。 さっきまでは俺が何とかしなきゃ勝てないって思っていた。でも今は違う。仲間たちが絶対勝つって気持ちをだぎらせてくれている。俺一人じゃなかったんだ。 とにかく。 今俺にできることは、豪速球を投げること。その先は、みんなの力を信じることだ。 試合再開。 あ、やばい。デッドボールを食らったみぞおちが痛みがひどくなってきた。 チッ、こんな時に。 俺は一旦プレートを外して2~3回深呼吸した。 豪速球のイメージで頭の中を一杯にしたいのに、とてもそんな余裕はなさそうだ。 でも、やるしかないんだ。 何度も繰り返して叩き込んだ身体を信じて、豪速球を投げた。 パーンという小気味良い音が響いた。 しかしどうしても胸が痛む。このまましゃがみこみたいくらいだ。頼む、あと8球。 2球目。 うわずってボールになった。 身体に力が入らない。このままずるずるいくのか、俺。そんなのは嫌だ。絶対嫌だ。 3球目。 今度はワンバンするような球になったが、はるちゃんが体で止めた。 本当にやばい。目もかすんできた。立っているのが精いっぱいだ。何でいきなりこうなるんだ? 結局、四球を与えてしまった。 ノーアウト満塁。 息詰まる展開。静まりかえる場内の真ん中で、俺は泣きたくなった。 「ちくしょう、ここまできて」 絶望の涙っていうのか、そういうのを。 胸が痛くて、力が入らなくて。それに血豆の左手も、胸と交互に痛い。足も腰も腕も、いろんなところが悲鳴をあげている。こんなのは初めてだ。 トップレベルの戦いで、十五回を投げるなんて、こんなにも遠い道程だったんだ。俺にはまだ無理だったのかも知れない。信じてくれたみんなを裏切るようで、涙がこぼれそうになった。 俺は慌てて天を仰いだ。 帽子を目深にかぶり直した。 いつものように空の青さを見渡す余裕なんてとてもなかった。 場内がざわめき出し、俺の異変に誰彼となく気づいたようだ。しかし、もうマウンドには集まれないルールだ。俺は懸命に涙を抑えようとしていた。 そんな時。 「ばかやろう!」 という声が聞こえた。 ベンチの方を見ると、最前列に身を乗り出した川野先輩の姿が見えた。 「一人相撲するんじゃねぇ!」 いつも朗らかな先輩が初めて見せる形相で怒鳴っていた。 「てめえ、本当に仲間の力を信じているのか!バックを信じて、とにかく投げろ!」 誰もが唖然とし、成り行きを見つめているようだ。静まりかえるグランドで、もう一人声をあげた。 「ゆうちゃーん、がんばれー!」 スタンドにいる美咲ちゃんだった。 立ち上がってまた叫んだ。 「ゆうちゃーん、がんばれー!」 「ゆうちゃーん、がんばれー!」 普段はクールな美咲ちゃんが、あんなに感情をむき出しに叫ぶなんて、不思議な気がした。 すると、今度は新田が美咲ちゃんの叫びに呼応するかのように叫んだ。 「谷山君、がんばれ!」 そして、まっちゃんが、やまちゃんが、キャプテンが口々に俺を励ましてくれた。 チッ。お前ら、恥かしいからやめろよな。 でも、先輩の言う通りだ。 とにかく。 今、俺は俺の仕事をする。その先は仲間を信じよう。 あわてるな。 深呼吸しろ。 焦る心をおさえろ。 痛みなんて当然と思え。 泣いても笑ってもあと1回。とにかく自分を落ち着かせようと、もうろうとする頭をフル回転させて思いつく言葉を並べ、そしてそれらを打ち消して投球に集中した。 1球目。 よし。豪速球が決まった。 ひとまず幸運と言えるのは、満塁となったことで、不得意なセットではなく、大きく振りかぶって投げられるということだった。今の状態ではそれしか球威を稼ぐ方法がないから、ランナーのリードが大きくても仕方ない。この時、3塁ランナーがあまりに大きなリードをとっていたので、はるちゃんがすかさず3塁へ牽制球を投げた。はるちゃんも疲れているはずなのに、やるべきことをきちんとやってくれている。頼りになる男だ。俺だって負けられない。やるべきことをやらないと。 2球目、3球目。 よし!空振り三振! 泉川サイドから拍手が沸いた。 あと二人。 俺は帽子をとって汗を拭い、次打者を見た。 あまり大した打者じゃない7番だ。さっきの当たりはまぐれだろう。そう思った俺は神崎先輩を軽く見た北峰と同じ過ちを犯していたことに気づいていなかった。そんな余裕もなかった訳だが。しかし、6球、7球と粘られるうちに分った。こいつのスィングは速い。タイミングが合えばやっかいな打者だったんだ。どうしてこいつが7番なんだ? キンという甲高い金属音が響いた時、俺はそのことを思い知らされた。 痛烈なゴロが俺の足元をかすめ真っすぐセンターへ向かっていった。 「やられた」 俺は、そう思って振り返った。 全てがスローモーションのようだった。 同点は覚悟した。 逆転もあるかも知れない。 「1球の重みを知れ」 かつて鬼監督はそう教えてくれた。 「1球に泣く」そんな言葉も頭をかすめた。 しかし。 俺の目に映ったのは、2塁後方、頭から飛び込んで捕球したまっちゃんの姿だった。 客席のあちこちから歓声と悲鳴が沸き起こる中、まっちゃんは倒れこみながらも素早く田中へグラブトス。駆け込んできた田中は2塁を踏み、ランナーをかわして1塁へ送球。 あの中島1軍戦以来、あいつらがいつも練習している連携プレイだ。 1塁は? キャプテンは、少しでも早くキャッチするため、これでもかというくらいに身体を伸ばした。 クロス気味だ。 判定は? アウト!アウトだ! 試合終了を告げるゲッツーの完成に、泉川サイドが沸きあがった。 「勝った」 そう思うと、俺は全身の力が抜けた。 はるちゃんが、やまちゃんが、キャプテンが、そしてみんながマウンドに駆け寄って来てもみくちゃにされた。 痛て。 誰だ蹴りを入れたのは。 でも、犯人探しはできない。 何故かって? それは、うれし涙を見られたくなかったからさ。 最終章 まだまだ 明くる月曜日。 校内新聞を目当てに掲示板へ行ってみたが、貼り出してなかった。 ちょっと肩すかしをくらったが、まあ、ないものは仕方ない。 みぞおちの痛みは多少残っていたが、足取りも軽く教室へ向かった。 ちなみに俺は大会MVPとなった。ベストナインもほとんどが泉川から選出され、葛城さんは敢闘賞だった。正直言って、ほとんどの試合を一人で投げ抜いた葛城さんこそMVPにふさわしいと思う。でも優勝チームから選ばれる決まりなのだから仕方がない。表彰式のあと、浦上が訪ねてきて、「不戦勝なんかにならなくて良かったよ。次は必ず勝つからな」と言って笑った。そして「高校で待っている」という葛城さんの言葉を伝えてくれた。 「高校か」 あまりにも遥かな未来のような気がした。俺はそこまでにやらないといけないことがたくさんあると気づいたからだ。恐縮ではあるが、延長十五回で燃え尽きた白石の親父さんの苦闘が、ほんのちょっとだけ分ったような気がする。 もっともっと強くならないと。 球場からの帰り道。 みんなは、意気あがりっぱなしのハイテンションだったし、小島先生と吉永は泣きっぱなしだったし、鬼柴田は「まあまあだな」なんてぬかしていた。俺は試合の重圧から解放されると同時にうそのように痛みが軽くなっていた。 最寄りのバス停でバスを降りる頃には、辺り一面黄金色の夕日に包まれていた。 一歩一歩学校へと向かうその足取りに、俺は甲子園という夢の舞台への道のりを重ね合わせていた。 一足飛びなんてないんだ。こうして一歩一歩だな。 始業前、いつものクラスの風景。 登校してきたクラスメイト達とあいさつを交わしていると、校内放送があった。 『これより予定を変更して体育館で野球部の優勝報告会を行います。全校生徒は体育館に集合してください』 クラス中が沸いた。 「おう、谷山。また優勝かよ。すげぇな」 クラスメイトの関内がそう言った。 「谷山くん。おめでとー」 そう言って笑顔を見せたのは隣の席にいるクラス委員の浅倉だ。 そうしてみんなの輪ができて、口々に言いたい放題だった。 今回は、正直あまりカッコイイ勝ち方ではなかったが、みんなが笑顔になれるなら、それはそれでいい。 さて、事前に聞かされていない報告会だったので手順について多少戸惑ったが、キャプテンが報告し、校長先生から「努力精進」をテーマにした講話があり、つつがなく終了した。 とにかく、やりぬいたんだという充実感でいっぱいだった。 昼休み。 購買部へパンを買いに行った帰り、掲示板の前に人だかりができていた。 ひょっとして。そう思ってのぞいて見ると、案の定校内新聞が貼り出されていた。 今回は田原のデビュー作のはずで、その見出しはこうだ。 “泉川中学校野球部 仲間たちの絆がつむいだ優勝(エピローグ)” 阿部先輩はパーンと前面に飛び出すような見出しをつけるが、田原のは何だか内にこもったような印象だ。しかしそれは田原の持ち味なんだろう。内容としては正鵠を得ている。確かにみんなの気持ちが優勝に結び付いたんだ。 いつもならあっという間になくなる積み置きの新聞は、今回も次々になくなっていったが、イレギュラーな時間だったこともあり、何とか1部もらうことができた。 さて、夏以降あれだけ頑張った田原のデビュー作はどんな記事なのか、じっくり読ませてもらうとしよう。 でもな、田原。ひとつだけ言わせてくれ。 俺たちの物語は、まだまだこれからなんだぜ。                                   了
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