光の場所、社会人二年目 ~早瀬由衣~

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光の場所、社会人二年目 ~早瀬由衣~

 瞼の向こうの暗闇が、いつまでも続くのなら、ずっとこのままだとしても構わない。けれど、夜が明けないことをいくら願っても、そんなことは当然叶わなかった。だったら、一刻も早く、何も感じないところに行かなければ。  怒鳴り声を受け止めた鼓膜の震え。首の後ろを伝う汗の冷たさと、伏せた目の奥の熱。身体の末端の強張り。手のひらの柔らかいところを圧迫した痛み。鼻腔を通り抜ける空気だけは、やけに甘くて優しかった。やわらかい布団の上で、タオルケットを抱え込むこの身体には、もうなんにも残っていないはずなのに、頭蓋骨の向こうや肌の裏側が、その感覚を忘れてくれない。  祈るように目を瞑り続けても、どれひとつとして消えてくれない。深く息を吐くのと同時に、瞼を開いた。光のないその空間に慣れてしまった目は、天井のざらざらとした模様や、カーテンのゆったりとしたドレープ、そして投げ出した手が白く浮かび上がる様を丁寧に写し取る。彷徨う視線が、枕元の時計の縁を捕えたときには、その瞬間に瞼を閉じて、身体ごと顔を背ける。もしも、無機質なデジタルの数字を見てしまったなら、既に過ごした暗闇の長さと、それを手放せるかもしれない時間の短さに茫然としてしまうから。  アラーム音がして、脳が小刻みに揺れるような頭痛を感じたとき、束の間、暗闇を忘れていたことを知る。暗闇は過ぎた。今からは光の時間。けれど、闇の対極に位置する光が、心地よいものだとは限らない。  布団から上半身だけを起こした体勢で、目の前の空間を瞳に映す。うすぼんやりとしたカーテン越しの陽光。フローリングの床の上に積み上がった本と書類。その隣、カゴからあふれた洗濯物の山。散乱した空のペットボトル。中途半端につぶれているダンボールは、先月か先々月かに実家からトマトが届いたときのもの。その光景を、ただそのまま見つめ続けた。二度目のアラーム音がふたたび頭痛をもたらしてようやく、のろのろと立ち上がる。ペットボトルを踏み越えるとき、ふらついた身体の中で、胃がその質量を主張した。  制服のポロシャツを、緩慢な動作で頭からかぶった。メイクをして、バッグを持って、スニーカーを履いた。ドアの錠前に手を掛ける。かちゃっと高い金属音。体重を預けるようにしてドアを開けた。細く差し込んでくる光に目を細める。だんだんと太くなる光の幕が、身体全体を覆う。  光は、自身がもたらす恩恵を絶対的なものと信じて、きっと、ほんのひとかけらも自らを疑ったことなんてない。圧倒的な眩さに恐れをなして、後じさって、何かの陰に逃げ込んだとしても、それは意気揚々と追ってくる。私を覆うものを手加減なく焼き尽くして、私の居場所を――私がちゃんと息を吸える場所を、奪ってゆく。  ひっ、と喉の奥が音を立てた。どうにか空気を取り込んで、細かく震える身体に、大丈夫だと言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。昨日菜穂(なお)ちゃんといっぱい話した。私は元気だった。だから、大丈夫。深く息を吐いて、吸って、強張った足をどうにか進めて、アパートの敷地から道路に出た。  そのときに、よみがえった。
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