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私が中学の頃、母方の祖父母は相次いで亡くなった。
生前の二人を、あまり覚えてはいない。田舎は飛行機でないと行けない遠方で、最後に会ったのは小学校に上がる前だったはずだ。
母の生家は、そのあと売りに出されたが、この夏ようやく買い手が見つかった。
高校三年、受験を控えた夏休みに、遠出をしたくないと訴えたものの、母に却下される。
「玲美も、一度くらい故郷を見ときなさい。葬儀も欠席したでしょ」
「お葬式も高校受験に重なったんだもん、仕方ないじゃん。大体、知らない田舎を故郷って言われても――」
「あなただって、白雲町で生まれたのよ。半年は過ごしたんだから。盆の里帰りだってしたでしょ?」
「幼稚園の頃のことなんて、これっぽっちも覚えてないもん」
更地にされない内に、実家を今一度見たいという母の気持ちは理解できた。娘に付き合わせたいというのも、理屈では分かる。
それでも渋ったのは、田舎が嫌いだからだ。
必要なものは何も無く、あるのは緑と青空だけ。流れ飛ぶ雲を日がな一日眺めて、何が楽しいというのか。
覚えてなどいなくても、田舎なんてどこも同じだ。
新鮮な空気には肥料の臭いが混じり、爽やかな風には飛虫が乗ってやって来る。
田舎体験なんて動画で楽しめば十分だし、それだって三分も見ていれば飽きてしまう。
しかしながら、そういう偏見を正すためにも、最後の帰郷を果たすべきだと説得された。
「母さんと出会ったのも、あの町だった。何かと縁のある場所なんだよ」
「そんなの初耳。お父さんはなんであんな所へ?」
「さあ、なぜだったかなあ」
はぐらかす父は、困り顔で母へ視線を向ける。過去を都合よく忘れるのも、夫婦円満の秘訣だと二人は納得し合っていた。
馴れ初めを尋ねられた親は、どこもこんな感じなのだろう。
いつまでも若々しく美しい母に、父はことさら甘い。
案の定、母側で参戦した挙げ句に、定年後は引っ越したいとまで言い出した。
長寿で美人の多い土地柄か知らないけど、冗談じゃないって。
結局、宿泊はホテルにするという条件で、実家行きを呑まざるを得なかった。
母は家に泊まりたかったようだ。だが、手入れもしていない埃まみれの部屋で寝るのは、父も反対してくれた。
今の家から飛行機で一時間半、空港からレンタカーで一時間。
夏休みの一日を潰し、私と両親は山間の村へと向かう。そう、名前は町だろうが、古い映画の舞台に似つかわしい村だ。
アスファルトは土で汚れて黄土色に変わり、タイヤは砂利を弾き飛ばす。
道中、畑がたまに見えはしても、大半は広葉樹が茂る林道が続いた。
そのうち道路端に、地蔵とも石碑ともつかない石の塊がポツポツと並びだす。
百メートル間隔くらいに置かれたそれらには、参る人間がいるらしい。ミカンや団子のような供え物が、石の前にあった。
「あれ、何?」
「え? ああ、白雲さんね。家はもうすぐよ」
それ以上語らない母に代わって、運転中の父が説明してくれる。
母の故郷は、古い城址にある町だそうだ。戦国よりずっと昔の話で、現在は石垣の一部が残っているくらいだとか。
丸から放射状に光条が伸びた城主の家紋は、旭日を模したものだろう。石像にもその模様が刻まれている。
信心深い町なんだ、罰当たりなことするなよ――父は笑ってそう忠告する。
因習深い田舎の印象が強まり、小さく溜め息が口をついた。
石像が八を数えた時、道の先に集落が現れる。
田畑がパッチワークを描き、その間に瓦葺きの大きな家が点在していた。
正面奥が小高く、確かに石垣らしきものも見える。目的の家は、その石垣のすぐ手前に建っていた。
車を前庭へ停め、割合にすっきりした玄関先へ歩んで行く。
雑草が見当たらないのは、誰かが掃除してくれているのだろうか。
今も誰かが住んでいそうな家の扉を、母は躊躇わずに引き開けた。
鍵なんて掛かっていないのが、いかにも田舎らしい。
ちゃんと靴を脱いで上がる母を真似て、私と父も後に続く。
懐かしい――居間に入った母が、そう呟いた気がした。
「父さんも懐かしい?」
「いやあ、さすがに覚えてないよ。昔のことだし」
それもそうかと前に向き直すと、母が妙な顔でこちらを見ていた。
白く、感情を殺したような能面で。
「……何?」
「踏まないようにね」
「踏む?」
言葉を理解するのに、数瞬を要した。
母の視線の先を追い、畳に注目して、ごく小さな蜘蛛に気づく。
爪先に触れんばかりの位置に、二匹の真っ白な子蜘蛛が這っていた。
放置された家のこと、蜘蛛が入り込むのも当たり前。これで悲鳴を上げるほど、ヤワではない。
真横に軌道修正して、水場に向かう母を追いかけようとした時だ。
鴨居が揺れた――白い鴨居が、波を打った。
木彫り装飾を隠すほどに、蜘蛛の集団が層を成して粟立つ。
蜘蛛たちが僅かに身をよじらせると、さざ波が部屋の端まで広がった。
その蜘蛛の下を、母は気にもせずに奥へと進む。
これに倣うのは無理だった。
「イヤ……」
「昔の釜戸が残ってるのよ。玲美は見たこと無いでしょ?」
「見なくていい。外に出る」
踵を返して、小走りで玄関へと急ぐ。二人から呼び止められたが、振り向くつもりも無い。
これだから田舎は嫌なんだ。
黴臭くて、虫だらけ。
庭に飛び出すと、青空に浮かぶはぐれ雲が目に映った。
白い雲も大嫌い。
白いのも不愉快だし、雲も気味が悪く感じる。
蜘蛛と同じ響きだから、そんな理由だったかもしれない。
馬鹿らしいけど、大量の蜘蛛に遭遇したあとでは尤もらしく思えた。
陽の当たる場所が疎ましく、陰を探して家の横手に移動する。
暗い場所には、また虫が潜んでいそうだと分かっていても、足を動かし続けた。
暑いから、それも確かだし、家の側面の方が何だか心をざわつかせるから。
夢でよく見る光景が、こんな薄暗い家陰だった。
縁側の傍を抜けて、裏手にまで回ると、景色に覚えがあると確信する。
私はここに来たことがあった。母の言葉だけでなく、実体験として脳裡に映像がちらつく。
生まれたばかりの日々ではなく、もっと成長してからのこと。
雲はここで見た。
窓の無い裏壁、砂利敷きの地面。
ぽっかりと空いた丸い井戸。
――井戸?
井戸の縁は、背の低い石で囲われていて、それ以外に何も存在しない。
桶も滑車も無く、うっかりすれば落ちてしまいそうな丸穴だ。夜は危険な落とし穴になろう。
近寄って穴を覗き込むと、白い綿を透かして底が見えた。
深さは二メートルもなく、直径は八十センチほど。綿に見えたのは白い繊維の集まりで、どうしても蜘蛛の巣を連想させた。
おそらく、その印象は正しい。
嵌まり込んでも、今の私なら自力で抜け出せる。
蜘蛛の巣まみれになるのに目をつむれば、壁に手足を踏ん張って攀じ登れる高さだ。
幼い自分でも出来たのだから、恐れることなんてないはず。
記憶の残滓が、吐瀉物も斯くやと喉元に込み上げた。
私は、この落とし穴を知っている。
穴の底から見上げた空に、覚えがあった。
脂汗を額に浮かべて、穴を見つめたまま膝を突く。
懐かしい? ――違う。
恐い? ――そうじゃない。
雲? ――たぶん、そう。
背中が破裂したかと思ったのは、その瞬間だ。
思い切り前へとバランスを崩し、穴の上に倒れ込む。
咄嗟に向かいの縁に指を掛けたが、勢いに負けて、頭から穴へ落ちていった。
もつれた手足が穴の壁にぶち当たり、ブレーキ代わりを務めてくれる。そうでなかったら、首を痛めて重傷を負っていただろう。
ただ、底は思ったより柔らかく、多少のクッションにはなった。
打ち付けた肩が、一拍置いて激痛を訴える。
口を大きく開けて酸素を求めると、蜘蛛の巣が舌に絡んできた。
逆向いた身体を天地正しく戻す際に、また新しい打撲痛が腰を襲う。
なんとか体勢を整え、顔や腕に絡まる蜘蛛糸を払おうとすると、割れた指の爪が血を滴らせた。
底でへたりつつも、穴を登るべく、顔を真上に向ける。
そうだ。あの時も、雲が見えた。
泣き叫んで助けを乞うた真っ白な雲が。
「助けて……」
言われるがまま夜中に連れ出され、石に躓き穴に落ちた。
幼少の思い出が、やっと形を取り戻す。
小さな自分には、穴はもっと深く、出口は遥か頭上に感じた。
白雲は嫌いだ。
夜に浮かぶ白雲は、特に最悪だ。
月の光を浴びて、白く光る顔に見えるから。
「途中で止めたのは、間違いだった」
「どうして……」
「お父さんも、お母さんも、もっと長く天寿を全うできたはずなのに。白蜘蛛さんの機嫌を損ねたんだわ」
「何の話よ!」
「納得しなくてもいい。そういうものなの」
理不尽を押し付ける母も、泣く私にかつては手を差し伸ばしてくれた。
それが誤りだったと言う。
父が身代わりになってみたものの、町の血を継いでいないために大して食べてもらえなかったと。
「私を食べさせるつもり?」
「思い出を齧られるだけよ。共生って、学校でも習ったでしょ」
これは、思い直した母による再演だ。
城蜘蛛はこうやって人と結び、町は八脚の蜘蛛を紋様として掲げ、共に千年を経てきた。
これからも理は変わらない。
少し我慢すればいいだけだと、母は諭すように告げた。
「今度は食べ尽くしてもらいましょう。いっぱい食べてもらえるといいわね」
母の眦から、雫のように子蜘蛛が垂れる。
それを契機として、穴の側面から無数の蜘蛛が噴き出した。
地の底からも蜘蛛が現れ、巣穴はあっという間に白い蟲が埋め尽くす。
新たな宿主の身体を得た城蜘蛛の歓喜が、私の皮膚を這い、侵した。
隙間という隙間に。
私の身体にある穴という穴へ。
痛みは消え、恍惚が私を満たしたのだった。
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