スター選手は一味違う

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スター選手は一味違う

 満員のアジサイ球場は、一際大きな歓声に包まれていた。バッターボックスに入った江藤武司(えとうたけし)は、センター方向にある電光掲示板を見る。  九回ツーアウト。四対一と自チームは負けていた。ただ、塁はすべて埋まり、一発が出れば逆転の場面だった。  相手チームの捕手が「武司さん。手加減しませんからね」とぼそりと呟いた。武司も同じ気持ちだ。例え彼と長い付き合いがあろうと、プロの世界は喰うか喰われるか。目の前の勝利に貪欲になれない者は、プロの資格はない。  武司はファンが自分の名前を懸命に呼ぶ声が聞こえてくる。それは武司にとって見慣れた光景だ。幾度となく逆境を経験し、何度も味わっているが、張り詰めた緊張感はけして慣れることはなかった。  ピッチャーが振りかぶって投げる。武司は外角の変化球に手を出して空振りする。主審が大きな声でストライクを告げた。  武司の今日の成績は、三打数無安打。ここまでいいところはない。この打席が見返すチャンスだった。  しかし、今日の武司は変だった。思ったようにバッドが振れず、フォームも崩れていた。武司自身も異様に体が重いと感じていた。  主審にタイムを告げて、一度打席を外す。素振りを二度してから、打席に戻り、バッドを構える。  不振の原因は相手のピッチャーにもあった。昨年新人王を獲得し、今年も二桁勝利を上げている疑いのない実力の持ち主だ。  二投目は先程と同じコースのストレート。が、ストライクゾーンから離れていた。武司は開く体を抑えて、バッドを止める。なんとかボール球に手を出さなかった。  気持ちは熱く、それでいて頭は冷静だった。いつも通りの感覚だ。自分が最後のバッターになるかもしれない恐怖が体を震わせるが、それもいつものこと。武司にとって些細なことだった。  三投目は内角低めのストレート。外角を予想していたので、一瞬反応が遅れ、空振りになる。  二つ目のストライク。あと一つでゲームは終了だ。  気持ちも頭も感覚も、全てがいつも通りのはずなのに、体だけが妙に重いのは変わらなかった。何かが自分を押しつぶすような力がかけられる。足には枷がついているのではと錯覚するほどだ。  武司はピンチの状況は何度も跳ねのけてきた。だから、この状況をひっくり返す力に、ファンはみな期待している。武司もその想いに応えたい。長年プロとして野球を続けてこられたのは、応援してくれる人たちのおかげでもある。  ただ、武司の力はすでに全盛期を過ぎていた。今年で三十六歳を迎える体はあちこちガタが来ていた。  それでも、ピンチのチームを救ってくれる武司は、ファンにとってスター選手であるのは変わらない。  カウントはボールが重なり、フルカウント。声援は最高潮を迎えた。  武司は後悔だけはしたくなかった。彼にとって今日の試合は特別なものだった。  まず今日は自分の誕生日。いい誕生日にするためにも一発が欲しい。それから、五歳になる息子との約束。家を出る前に必ずホームランを打つと誓った。それから、最愛の妻。分娩室で陣痛に苦しんでいる今、勝ちを届けたい。それから、病気で入院している(まさる)君。手術を控え、ホームランを打って勇気づけたい。それから、球場に足を運んでいる台風で被災した方たち。今日のためにチケットを自腹で用意した。彼らの気持ちを少しでも前向きにしたい。それから、今日亡くなられた高校時代の恩師。活躍して花を添えたい。  たった一日にこれだけの出来事や想いが積み重なる。今日という日が武司にとって最高のものにするかどうかは、次の投球にかかっていた。  監督も全てを託すと言ってくれた。体はなぜか重いが、スター選手の矜持(きょうじ)として、武司は負けるわけにはいかなかった。  ピッチャーが投球の動作に入り、武司はバッドに力を込める。球を離すその瞬間をけして見逃さない。  来る!  風に乗った球は渾身の一球だった。力の入ったストレート。少しでも振り遅れれば、バッドにかすりもしないだろう。コースは外角高め。ボールになりそうな際どい所だ。一瞬の迷いが命取りだ。  しかし、武司はそれを読んでいた。最初からバッドを振ることは決まっていた。バッドは球を真芯で捉えた。ぐんぐん遠くに飛んでいく打球に、歓声は歓喜に変わった。球が場外へ消えていく姿を見送り、武司はベースをゆっくりと回った。途端に重かったはずの体が軽くなる。  武司はどこか悪いのかもしれないと、試合が終わったらトレーナーに相談してみようと思った。                             終わり    
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