好きな食べもの何ですか?

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 昨晩何食べたっけ?  私は昼休み、コンビニで適当な物を買おうとしている時にふと思った。  今朝は?  散らかってるワンケーの部屋なら思い出せるのに。  最近自分が何を食べたかを忘れている。  レジで精算して、事務所に戻る。自席ではなく、食事もとれるスペースの目立たないところに座って、黙々と食べた。 「佐伯さんて、好きな食べものはないんですか?」  尋ねられたことがあった。私は首を傾げ、答えようとしたが、答えられなかった。 「えっと、急になんで?」  尋ねた彼女は少し躊躇って、 「佐伯さん、あまり美味しそうに食べていないから」  と言った。それ以来私は人と食べるのをやめた。  食べるという行為。それは生きていく上で必要なこと。  うちは父子家庭で家が貧しく、兄妹争って少ない食べものを食べて育った。父の料理はお世辞にも美味いとはいえなかったし、味わう余裕すらなく食べていた感じだった。でも今はそれすら懐かしい。  父の元を離れて働き出した時、自分の稼いだ金で食べものを買えることに私は歓喜した。反動で様々なものを買って食べる日々が続いた。  初めのうちは、そこそこ美味しく食べていたと思う。  ところが会社での人間関係に悩むようになり、それからは美味しく食べるというより、食べることそのものに執着するようになった。食べていれば不安が紛れる。  私はとにかく会社帰りに大量のお菓子などを買い込んで、夜食べるようになった。食べればなんとかなる。不安で眠れない夜も去っていく。でも、翌日、大量のゴミを見て、こんなに食べてしまったのかと後悔する。  その頃から味が分からなくなっていった。食べるものも、手っ取り早く食べられるならなんでもいい。時には豆腐や缶詰めを食べていたときもあった。何を食べたかなんて覚えていない日が増えた。  昼ごはんをコンビニで買うとき、少ない量でおさめるのがとても苦痛になった。もっと買いたい。もっと食べたい。でも同僚に変な目で見られないように自分を抑えた。  会社帰りの今日も、私はスーパーに居た。  買わないと。私の心の声がする。とにかくたくさん買わないと。  アパートに帰ってきて、靴を脱ぐのももどかしく、玄関で食べた。  食べないと。もっとたくさん食べないと。  なんで食べないといけないんだっけ?  食べたいからだよ。食べて不安を紛らわすためだよ。  でも最近、食べても不安が紛れない。きっと量が足りないのだ。もっともっと食べないと。 「佐伯さん」  声をかけられて、私はビクッとしながら振り返った。同期の小山さんだった。 「あの、体調悪そうだけど、大丈夫?」 「そう、みえる? 大丈夫だよ」 「でも最近痩せたよね?」 「そうかな? 食べてはいるんだよ」 「そう……ならいいんだけど……」  小山さんはまだ何か言いたそうだったが、私はそれを聞く余裕さえなかった。  その数日後。  私は営業先で倒れた。  気がついたらベッドの上で点滴を受けていた。 「気がつきましたか? 栄養失調で倒れたんですよ」 「栄養失調?」  私は怪訝な顔で医者を見た。 「たくさん食べているのに?」 「食べてるだけじゃないでしょう? その手のたこ。吐きだこだね」  医師に指摘されて私は手を隠そうとした。 「過食嘔吐してるね? 体重は今何キロぐらいかな?」 「……38キロです」 「君は分かっていないみたいだけれど、このまま過食嘔吐を続ければ死ぬ可能性だってあるんだよ」  私は愕然とする。 「しばらく栄養点滴と病人食を食べてもらうから」 「私、仕事があるんです! こんなところで寝てられません!」  私が立ち上がろうとすると、医師はやんわりと私をベッドへ押し戻した。 「課長さんとは話をして、しばらく有給使って休んでもらうことになっているから」  私は大きなため息をついた。なんとなく会社に見捨てられたような気になった。 「元気になれば働けるから。今はしっかり休むときだよ。それから食べても吐いてはだめだからね」  そう言われてしまっては何もできない。  私はベッドに背をつけた。  食事の時間になって、病人食が運ばれてきた。質素だけれど栄養計算のしてある食事。  私にとっては久しぶりのまともな食事だった。いつもの私だったら数分で食べてしまう量。 「ゆっくり召し上がってくださいね」  看護師に言われて、私はのろのろと箸を動かした。  口に入れてゆっくりと咀嚼する。 「美味しい……」  なんだか涙が出た。  誰もたくさん食べろなんてことは言ってない。自分で自分に言ってたのだ。  そして過食をしたって何も解決はしない。  食べるという行為は生きるための行為。  私はその大切な行為をめちゃくちゃに汚していたのかもしれない。  その後私の過食嘔吐はすぐに治ったわけではない。  でも、そんな自分に嫌気がさすとき、私は入院した時に食べた病人食を思い出す。     あんなに味気なさそうな食事だったのに、美味しいと感じたあの味。  人は食べものに生かされているのであって、振り回されるものではない。  ゆっくり噛んで、味を感じて。  いつか好きな食べものが何か答えられる日がくるといい。             了
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