これ以上ない幸せ

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これ以上ない幸せ

「ねぇ、パパ」娘はそう俺に呼びかけながら、身長の倍はあるベッドのなかにもぞもぞと入り込んだ。もうおねむの時間だ。 「ん? あぁ、またお話して欲しいのか?」俺は娘の前髪をそっと撫でながら言った。  このところ娘は寝る前に絵本の読み聞かせをせびってくる。そういう年齢になった、ということなのだろう。 「うん、でももうおうちにあるのは飽きた」  俺は苦笑する。  確かに最近は仕事が忙しくて新しいおもちゃや絵本を買ってやれていない。パパ失格だ。 「そうか……。でもパパ、ほかにお話しなんて知らないぞ――」  あ。そういえば。  娘が小首を傾げた。「? パパ?」  俺はまたも笑った。可愛らしい仕草を覚えたものだ。パパ以外の男の前でやっちゃダメだぞ。絶対。パパとの約束だ。 「あ、いや、うん。絵本にないお話をしてあげよう」   ひとつだけ記憶にあったのだ。  そうだ。あれは。あの話は。  子供のころ誰かから聞いた、あの素敵な話を教えてあげよう。 「やった。やった。それってどんなお話なの?」娘の澄んだ目が訊いた。  そうだな、あれは確か……。    どこか不思議な、それでいていまの俺と同じくらい満ち足りている、そんなお話だ。 *  これはいつかの時代の物語。  科学が大きく進歩した、けれど小さな西の国の物語。 「なあヴィオ、いいかげん外に出してくれよ」暗闇の広がる部屋の中に紅い二つの瞳が弱々しく浮かんでいた。  呼びかけられたヴィオ――ヴァイオレット――は、扉の外でその肩にかかる銀髪をさらりと払う。「だから夜まで待たないと、アル。まだ日が昇っているもの」 「……人間が吸血鬼(・・・)を監禁するなんてな」 「そうは言うけどね、そもそも招き入れてください、なんて言ったのは誰だったかしら?」  伝説の吸血鬼アル――アルバート――は部屋の中でひとりため息をついた。  確かにアルはそうお願いした。  しかしそれはもう十年以上前のことだった。  ――ロボットみたいなやつだ。  アルはそう思った。  まるで機械であるかのように融通が利かないことも多いし、なにより物事を寸分違わず正確に覚えている。 「ヴィオ。キミの記憶力は素晴らしい。それを何かに活かしたらどうだい?」 「そうね。アルに構ってないでなにか仕事を探そうかしら」 「ひどい言い様だ。血も涙もない」 「……冗談よ。私がついていてあげるわ」  ヴィオのは扉の表面をそっと撫でながら、消え入りそうな声で言った。  不老不死であるはずの吸血鬼の体力は明らかに底を尽きかけていた。  アル一人ではもうなにも出来ないといっていい。 「……ぼくはどうせ長くない。ヴィオの負担になるくらいだったらもう」アルは分厚く鋭い八重歯を自らの唇に押しつけた。深く傷つくが血は出ない。 「――ごめんなさい、そういう意味じゃないの。それに……。何度も言っているでしょ。別に負担なんかじゃない。死なれたほうが迷惑なの」 「ならいまここから出してくれ。昼間じゃないと……ヴィオの顔が見えないんだ」  なぜ吸血鬼が死にかけているのか。  答えは簡単で、長い間生命エネルギー、つまり血を食べていないからだ。  弱っていた。それもだいぶ。  死はアルを待ち構えている。  ここ数年は日光はおろかどんな光にも弱くなり、アルとヴィオが会うのは真っ暗な場所でだけ。  頼るものはお互いの声しかないような、そんな世界でのみ。  アルはどうしても最期にヴィオの笑顔を見たかった。  それがアルのたったひとつの願いだった。 「――じゃあ私の血でも食べて元気になる?」 「……やめてくれ」 「あっそ。じゃあまた夜になったら来るからね」  キシキシと廊下の軋む音が遠ざかっていく。  アルは長く息を吐きながら目を閉じる。  いつも思う。  待ち焦がれていると夜はなかなか訪れてくれない。  欲しいものはなかなか手に入らない。  手持無沙汰につい、昔話を思い出してしまう。 *  アルは何百年も前から血を吸わなくなっていた。  どうしてか?  その理由はアル自身もうまく言葉に出来ない。  なんだか人間を食べたくなくなったのだ。  吸血鬼であることを隠して生活し、町を転々と回った。一つの町に長くいると吸血鬼であることがばれてしまうからだ。  アルはどの町でも愛され、自身も人間を愛した。  ここ最近では急速に科学が発展し正体を隠すことが難しくなってきたことも事実だった。それでも自分は上手くやっている。そう思っていた。  ところがある日。  そんな誰からにでも愛されるアルを気に入らない連中が彼の正体を見破った。  それだけだった。それだけで、アルの居場所はどこにもなくなった。  アルは逃げ回った末に、人里離れた山の麓で豪奢なお屋敷を見つけた。そのお屋敷はどこか寂しそうで――まるで誰かをずっと待ち続けている、そんな雰囲気があった。  アルは目の前の馬の頭をかたどったノッカーをじっと見つめた。  こんな旧式のノッカーなんて珍しかった。いまどきは町に機械掛けの馬車だってあるし、ロボットだっている……。こんな辺鄙なところにある屋敷だからだろうか? いや、由緒ある家柄は伝統を重んじるものなのだ。そうなるとアルを入れてくれる可能性はとても低い。  吸血鬼は自分から新しい家に入ることが出来ない。必ず誰かに招き入れてもらわなければいけないのだ。  アルは逡巡しながらも一縷の望みをかけてノッカーを鳴らした。  すぐさま中から声がする。  こんな広いお屋敷なのに、とアルは思った。女性の声だ。  そして重厚な音をたてて扉が開いた。 「はい、どなたでしょう」半身だけ出て来たのは丸っこい目が印象的な銀髪の少女だった。その華奢な肩からスラリと伸びる両腕を一生懸命に使って扉を支えている。  アルは代わりに扉を掴む。「急にすみません。あの……招き入れて頂きたいのですが」  少女はきょとんとした。「招き……入れる?」 「そうです……なにかおかしいでしょうか?」  少女の緩やかな曲線を描く眉がさも愉快そうに動いた。 「そりゃあ、いきなり尋ねておいて招くもなにもないでしょう」 「…………それも……そうですね」アルは(うつむ)いた。  その様子を見て少女がふう、と息を吐いた。 「――まあいいわ。どうぞ。中に入って。なにも出せませんけどね」 「いいんですか?」アルは顔を上げた。 「あら、頼んできたのは貴方じゃない。悪い人じゃなさそうだし」  少女はアルが支えている扉をちらりと見やった。 「私はヴァイオレット。貴方は?」 「……アルバートです」  そうして屋敷に入り込んだアルだったが、予想もしていなかったことが立て続けに起きた。  まずこの大きなお屋敷には意外にもヴィオしか住んでいなかった。  アルの思惑も上手くいかなかった。  この少女に頼んで誰かを紹介してもらい、家を転々とする。そしていずれはどこか遠くの町に住めばいい、そういう思惑があったのだ。  しかし箱入り娘だったらしいヴィオは屋敷の外から数百メートルくらい歩くと充電が切れたみたいに疲れ果ててしまい、屋敷で休まなくてはならなかった。  遠くへ行くことは出来なかった。  そうこうしているうちに、いつの間にか吸血鬼であることも露見した。  ヴィオはそれをあっさりと受け入れた。  そして勧められるままにアルはこの屋敷に住み着いた。  住んでいるうちになんだか居心地が良くなってしまった。  ――もうアルは一人でどこかに行こうとは思わなくなっていた。 *  アルは遠い思い出から目を覚ます。  約束の夜が来た。  ヴィオに連れられて屋敷内の庭園に出る。もちろん庭園に出るまでも、出てからも周りに明かりというものは一切ない。星も出ていない。真っ暗だ。  もしひとつだけ色があるとするならば深紅と表現するべきアルの二つの瞳のみ。  庭園内に漂ってくるのは花の香り。バラのちょっと強い匂い。そして虫の声。  パラソルがついている二人掛けのガーデンチェアに座る。 「で? 調子はどう、アル」 「とてもいいよ。昼間だって外に出られる」 「またそんなこと言って……でもまあ今日はよく我慢できたね」 「そんなの、あの頃に比べれば」  あの頃、とは逃げ回っていたときのことだろう。 「……きっとアルは優しすぎたのよ。誰にでも良い顔をし過ぎた」 「吸血鬼なんて悪いやつばっかりだ」 「ほかの吸血鬼を見たことがないわ」 「吸血鬼は人間を食べる。食べられるのはみんな嫌い。だからぼくは嫌われた」  その言葉はヴィオの心をちくりと刺す。  アルはもう血を吸わない。  血を吸えば生きていられるはずなのに。 「なんで」ヴィオの語気が強くなる。「なんで食べることをやめちゃったの……?」  アルはひとつ息を吐いていう。またそのことか、と。 「飽きたんだよ、血の味に。あの人間臭い味に」  嘘だ。ヴィオは即座にそう思った。  アルは人間が大好きなのだ。  人間臭いのはむしろアルの方なのだ。  ヴィオはもう何度目かわからないその言葉を吐き出す。 「――ねえ、アル。私を食べて」 「……それだけは出来ない」アルは俯いて言った。 「どうして?」 「もう血は吸わないって決めているんだ」 「でも……でも、このままだとアルが」 「ぼくだって同じ気持ちなんだ。キミならわかってくれると思う。ヴィオを殺したくない」  人間は吸血鬼に食べられたとき二通りの反応を示す。  耐え切れず死に至るか、もしくは奇跡的に生き残り同族となるかだ。  しかし感染して吸血鬼となった例をアルは一度も見たことがなかった。  それくらい確率は低い。 「――私を殺す? いいえ、アル。それは間違っているわ」 「間違っている?」 「そう。私はね、とっくに死んでいたのよ」 「……なにを言っている?」 「死んだも同然だったの。こんな広いお屋敷でひとり。家族も友達もいない。ずっとひとり。それって生きているっていうかしら?」 「……生きているだろう。少なくともぼくよりは」アルは萎んでいく風船のように言った。 「いいえ、誰かに見られていないというのは死と同じ。だからアルが来てくれたときに私は生き返ったの」 「仮にそうだとしてもヴィオを食べる理由にはならない」 「なるわ。もともと死んでいたんだもの。アルのために死ぬならそれでいい」 「そんなの、屁理屈だ」  アルはもう限界がきている。  ヴィオがここで引いたらもう助かる見込みはなかった。 「アル。私は本気よ……お願い、ちゃんと考えて。私は考えたから」ヴィオはアルの目を、その深紅の双眸を見つめた。  二人はじっと見つめていた。  真っ暗でお互いの顔もよく見えないのに、二人は見つめ合った。  アルは思い出す。  出会ったときのこと。  そして出会ってからのこと。  じゃあこれからのことは?  もしヴィオとこれからも一緒に居られたなら、それはどんなに素敵なことだろう?  ――そして。  アルも覚悟した。覚悟を決めた。  ヴィオのその決意を、二人が積み上げてきたものを不意にすることは絶対に出来なかった。  だけれどもしもダメだったなら。  万が一ヴィオが死ぬことがあれば。  ぼくも死のう。ただそう誓った。 「わかった……。じゃあ明日の昼間、この庭園でキミの血を吸う。……ヴィオを食べる」  ヴィオの目が見開いた。そして静かに微笑んだ。 「ありがとう――でも昼間? どうして?」 「昼間じゃないと、人間の血は吸えないんだ」  それは嘘だった。  夜に住む吸血鬼なのにそんなわけがなかった。  これは願掛けだ。  アルのわがままだ。  太陽の下で血を吸ったほうがいい気がしたのだ。  ヴィオはそう感じさせてくれる、お日様みたいな存在なのだ。 「……いいわ。明日の昼間にこの庭園で会いましょう」 「ああ、必ず」  静かに頷き合う。 「じゃあ今日は戻りましょう。身体に障るわ」  二人は手を取り合いながら屋敷に戻る。  運命は夜が明けたこの場所で決まる。  二人が過ごしてきた、この場所で。 *  翌日。  アルはガーデンチェアに座って待っていた。  太陽は高く昇っていて雲はただの一つもない。  この明るさが辛くないと言えばそれは嘘になるが、ヴィオの顔を見られると思えばなんてことはなかった。  この日を待ち焦がれていたのだ。  そしてその時は来る。  屋敷の方からゆっくりと近づいてくる影。そのシルエットはアルがよく知っているものだ。  それはやがてガーデンテーブルの前で機械のようにピタリと止まると、逆光に照らされて姿が浮き彫りとなった。  ――綺麗だ。  アルはただただそう思った。  あの頃とまったく変わらない。出会ったあの頃と。  肩までの銀髪。丸っこい優しそうな目。華奢な肩。すらりと伸びる手足。  それらを際立たせるのはヴィオが自作したスカーフとワンピースだ。  スカーフと腕の部分は楚々とした白。前面――胸から下とスカートは濃紺色で、それが膝下まで伸びている。袖口はふわりと膨らんでいてヴィオと同じ優しい印象。  見惚れないほうが無理というものだった。 「……なによ、そんなにじろじろと見て」 「相変わらず綺麗だ」 「――やめてよ、照れるでしょ」すでにヴィオの頬はアルの瞳みたいに真っ赤だった。  そしてヴィオはアルの顔をそっと見た。 「……アルはちょっとやつれたね」  以前と比べても頬はこけ、目は窪み、皺が増えた。  それはアルがもう長くないことを代弁している。 「そうだな……ちょっと疲れたよ」 「……うん、じゃあすぐに始めましょうか」  そういうヴィオの肩は強張っている。  どう転ぶにせよ、今まで通りの生活は出来なくなる。  生きたままの人間ではなくなるのだ。  ……しかしそんなヴィオをよそに、アルには先ほどからどこか引っ掛かる部分があった。  考えているがどうもわからない。  自分はどこに違和感を覚えているのだろうか――。 「さあ、いいわ。やって。私を、食べて」ヴィオの真っ直ぐな目線がアルを射抜く。  アルは邪念を振り払うかのように無言で頷いた。  ヴィオのふわりとした袖をまくると、王様が持つ陶器よりも白く滑らかな右腕が露わになる。  アルが深呼吸をする。  ゆっくりと大きく息を吸って、長く吐き出す。  そしてヴィオの右腕を、ゆっくりと口元に引き寄せた。  一瞬だけ時が止まったよう。  そして八重歯が柔い肌に触れる。  ヴィオがぎゅっと目を瞑った。  ――ごめんな、ヴィオ。  キミを食べるよ。  徐々に食い込んでいく鋭い八重歯。  傷つくヴィオの右腕。  そして――その牙が充分な位置に到達したそのとき。  アルの背筋がぞくりと凍った。  気づいた。気がついてしまった。  そういうことか、と。  違和感の正体も、なにもかもわかった。  アルはすべてを理解した。  八重歯を抜く。  アルはまだ目を伏せているヴィオを見つめ、そして髪を優しく撫でた。  賽は投げられた。あと数秒もすれば結果がわかる。  ヴィオがどちら側なのか。  死に至るか、吸血鬼になるのか。  ――もっとも、アルはもう知っている。  ゆっくりとヴィオの目が開いた。  少なくとも死んではいない。  ではヴィオは吸血鬼になったのか?  ……いや、答えは違った。  ヴィオは死んでいない。吸血鬼にもなっていない。  ヴィオはそのどちらでもなかったのだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。 「気分はどうだい」 「……なんだか不思議。まるで何事もなかったみたいに平気なの」 「ならよかった」アルは微笑んだ。 「――ねえ、本当に私を食べたの?」 「ああ、この自慢の八重歯をヴィオの腕に入れたとも」  ヴィオは自分の右腕を見る。「確かに……傷がついているわ」 「ごめんよ」 「ううん、いいの。それになんだか嬉しい――」  言いながらヴィオも気がついた。  なにに?  自分の腕から血が流れていないことに。  そして死にも至らず、体の感覚は今までと何も変わっていない。  吸血鬼になったような感じは一切しない。  いったいどういうことなのだろうか? 「……ねえアル。私は生きている。ということはつまり、吸血鬼に、アルと同じになったのかしら?」  しかしアルは答えない。  答えたくなかった。  ――今までのヴィオを思い返せばその節(・・・)はあったのだ  正確すぎる記憶力。  家から出ると充電が切れたように尽きる体力。  そしていま。  八重歯を入れたその身体には驚くべきことに血が一切流れていなかった。  もう一つある。アルが覚えた違和感の正体。  それは、数年ぶりに明るい陽の下で見たヴィオの容姿は。  出会った頃と寸分違わず同じだった。  さすがに変わらなすぎた。  まるで――そう、まるでロボットであるかのように同じだった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。  ヴィオは死にもせず、吸血鬼にもならなかった。  つまりそれは――。  ヴィオが生物ではないことを意味する。 「……私は人間じゃないのね」  アルは答えない。 「どうしてあのとき……私の血を吸おうとしたとき、教えてくれなかったの? 気づいていたんでしょう!」  ヴィオは右腕をテーブルに叩きつけた。 「……ああ、気づいたとも」 「ならなんで」 「そんなこと、些末な問題じゃないか」 「そんなことって――」 「ぼくはね。ヴィオ。自分が幸運だと思ったんだよ。幸せだと思ったんだ」  ヴィオの動きが止まる。「なに……言っているの? 私はアルに血の一滴も、あげられないのに」 「そんなことは関係ないよ。だってそうだろう? ぼくは初めて見送られる側になるかもしれないからね」 「私が見送る? アルのことを?」 「そうとも。ぼくは今まで多くの人間を見送ってきた。そしてぼくは誰にも見送られないと思っていた」  吸血鬼は不老不死だ。本来ならば。  誰かを見送ることはあっても、見送られることなどない。  アルは言葉を続ける。「そこでヴィオだ。ヴィオならぼくを見送れる」 「なにを言って――」 「ヴィオ。ぼくはもう充分なんだ。たくさんの幸せを受け取ったんだ」  ヴィオは怒っているような、咎めるような、そんな瞳でアルを見た。  しかしそれも一瞬。  アルの本当に幸福そうな紅くて優しい目を見ると、ヴィオは子どもを宥める母親のように、『しょうがないなあ』とでも言うかのように、満ち足りた顔をした。  そしてヴィオはおもむろに立ち上がると歩き出した。 「――ねえ、アル。青いバラは人間が作ったって知っている?」ヴィオは青バラの輪郭にそっと触れた。  アルは頭を振る。「なんだい、急に……いや知らないな。自然のものじゃないのか?」  それを見て青というよりは薄い紫に近いな、とアルは思った。 「そう。まるで魔法よね。もともと存在しないものなのに、こんなに美しいんだから」  存在しないもの。  本当はそこになかったもの。 「……そうだな。まるでヴィオみたいだ」 ヴィオはきょとんとする。「私? どうして?」 「ぼくにとっては魔法だ。……ヴィオは人間じゃなかった。もともと存在しなかったのかもしれない。でも……でも、そんなことはどうだっていい。だってぼくはヴィオを愛し、ヴィオもぼくを愛してくれた。それだけで充分じゃないか」  ――それを聞いた途端、ヴィオの綺麗な顔はくしゃくしゃになった。  そして両手でその顔を覆うと言葉にならない声を漏らしながら、その場にペタンと座り込んだ。  血は流れていない。涙だって流れない。  でもアルにはわかる。  ――きっといま心の中で泣いているのだ。でも悲しい涙じゃない。その涙はきっと。  アルは晴れ渡った青空を眺めながら、こうつけ加えた。 「それにぼくはなんだか、『いま自分は生きている』って感じがするんだ」  二人は人間ではなかった。  しかしそれがなんだというのだろう。  二人はどこまでも人間らしく、いつまでも幸せだった。 *  それから。  二人は時間の許す限りいつまでも庭園で過ごした。  いつの日もいつの時も、ずっと庭園で過ごした。  魔法の時間を一緒に過ごした。  ――時が経ち、気がつくとヴィオはひとりになっていた。  ひとりは寂しかった。  だから、いつかアルに言われた通りにしようと思った。だって記憶力には自信がある。声は掠れて上手く発声すら出来ないけど、そんなことはお構いなしだ。  ヴィオは時の経過とともに壊れていく自分の身体が愛おしかった。  なかでも右腕の傷は一等お気に入りだ。  ヴィオは今日も子供たちに語り聞かせる。  アルと過ごした最後の日々を、暖かい太陽のもとで過ごした魔法の思い出を、胸いっぱいに抱えながら。  いつか、この子供たちが大きくなって自分の子供たちに語り継いでくれたら、これ以上ない幸せだなんて思いながら。 「ソレハ、アルハレタヒノコト、デシタ……」
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