Home Sweet Home

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「ひどい状況なんだよ。政府と、マフィア。そんな中でおちおち生きていられない。だからメキシコを出たんだ」  やっと彼の声のトーンが戻ってくる。 「俺はメキシコの人が好きだし、メキシコが好きなんだが、いい生活がしたいなら、外へ出ないといけない。メキシコ人の毎日の問題は“今日どうやって生き延びるか”だからな。……ジョークじゃないぜ」  Still aliveという言葉の意味が、こんなにも重い。 「ペルーがどんな状況かは知らないが、メキシコの移民が多いのはこういう理由からなんだと思う。……ひどい顔だな、お前。……大丈夫か?」  僕は絶句したまま、こくこくと首を縦に振った。 「そんなんと比べればアメリカは俺にとって充分だ。少なくとも命の危険を考えずに生活できる。選択肢も沢山ある。向こうじゃ2択だ。マフィアに加担するか、警察につくか」  大きな溜息。その中に燻っているのは苛立ちだろうか、諦めだろうか。 「うちの娘は今5歳だけどな。若い女が1人で出歩くことなんざ、向こうじゃできねぇ。犯罪の被害者はいつも女だ。……もし、うちのがそうなったらって思うと、な」  そんなこと、想像するだけで胸が張り裂けそうになる。僕の子どもが……なんて。 「もう少し、いい場所だったならなぁ……ここまで遠くに来なくても良かったんだけどな」  寂しそうな声音と陽気な笑み。それを見ていると、聞いていると。 「でも遠くへ行かなくちゃいけないのさ」  ……苦しくなる。 「ここで育つことができたのは幸運だ。そしてここで生きられることも。……お前はいい星の下に生まれてきてるな」  神様に感謝する代わりに、僕はマグカップを掲げた。彼もカップを掲げ返す。無言の乾杯。 「違う場所に行くとよくわかる。……自分がいた場所がどれだけいいか、どれだけ悪いか」  彼はいたずらっぽく笑ってドーナツを食べる。 「遠くへ行くっていうことは大切だけど、自分の生まれた場所に、愛する場所にいられるっていうのもまた幸せなことなんだ」 「なら、僕は本当に幸せものです。愛する場所が2つもあるし、その1つに住んでいられるのですからね」  父がここに居場所を作ってくれたから、僕はこうして幸せに生きていられる。 「今いる場所が、お前にとって幸せだっていうなら、もう何もいらないな。そこがお前の『楽園』だ」 「ええ。……僕の『シャングリラ』です」  窓の外を見る。サンフランシスコの暖かい太陽。 「洒落た言い方だなぁ。小説かなんかに出てくる理想郷だっけか。シャングリラ、ねぇ」  けらけらと肩を揺らして、彼は楽しそうに僕を見つめた。 「俺も……そうだな。ここに来て良かった。未練がないと言ったら嘘だが、ここに骨を埋めるぜ。……メキシコ系、アメリカ人として」  彼は晴れやかに笑って、コーヒーを飲み干し、立ち上がる。 「知らない場所で受け入れられて、そこを居場所にできるっていうのは、すげぇことなんだ。渡ってきた奴も、受け入れた現地の人も。時々、自分がここにいられることに感謝しないとな」 「それなら、僕は僕の役目を果たしに行きますね。僕が必要とされることをしないといけません」  僕も立ち上がった。 「あぁ。そろそろ休憩時間も終わるし、俺も戻るぜ」 「ええ。……ああ言いましたが、やはり溜まった仕事を片付けるのは苦痛ですね」 「はっはっは! だがやるしかねぇぞ。それがお前のここにいる理由なんだ。目的なんだ。楽園を守るため、戦わないとな」  僕はですね、と苦笑した。それに笑い返した彼は、じゃあなと自分の持ち場に戻っていった。
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