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今日は満月だ。そして良い匂いがする。  俺は鼻をヒクヒクさせて匂いを辿り、見られないように連なる屋根の上を軽々と渡って獲物を追いかけていた。今夜はご馳走にありつけそうだ。  もうかれこれ一ヶ月も何も口にしていない。いや、何もというのは語弊があるな。一週間前に鳥を捕まえて食べた。  だが大好物のそれに比べると鳥は量も少なくて、それだけで腹を満たすには何匹も捕まえなければいけないから結構苦労する。鳥は夜には寝てるから。  鳥を襲うなんてみっともない事してって、きっと仲間が知ったら飽きれるだろうけど腹が減っててどうにもこうにも我慢できなかったんだ。  俺には皆みたいに器用に人と付き合っていくなんて出来ないから…  だからこうやって無理やり襲うしかない。  絶対逃がすものかと俺は必死だったがそいつはゆっくり歩いていた。  夜の道を一人でとぼとぼと…。  ふと立ち止まり俺の存在に気付いたのか屋根を見上げた。  すばやく身を潜めると獲物は月を見ただけのようでまた歩き出した。住宅街を越えて川原へ向かう。しめしめ、好都合だ。  俺は屋根から音もなく飛び降り川原の土手を歩くそいつを尾けた。  よし、この川原で食おう。  獲物は土手を降りて、斜面に腰を下ろす。少し奥に雑草が覆い繫った場所があるから、とりあえず一噛みしてショックを与えたらそこへ引き摺り込もうと算段した。誰にも見られずに思う存分食べれる。俺はご馳走を前に涎が出そうな口元を袖で拭いた。  音を立てずに後ろから、そーっと、気付かれないようにがぶりと…。そう思って忍び寄ったのにそいつがいきなり喋った。 「僕に何か用かい?」  後ろから両肩を捉えようと手を伸ばした俺に振り返り、真っ直ぐ俺の目を見ている。 「…えっ。」  気配に気付かれたのは初めてで、俺はビックリしすぎて固まった。 「どうしたの?君喋れないの?」 「…ぇ…ぁ…何で…気付いた?」 「月が君の後ろにあるから君の影が僕の影を越えて見えているんだ。」  そいつは俺を見ても怖がりもせずに応えた。そう言われて見てみると小さなしゃがんだ影に輪を掛けて俺の影が被さり、襲おうとしている姿がバカバカしい程くっきりと写っていた。俺は恥ずかしくなった。 「僕をどうするの?殺すの?」 「ぅ…こ、殺すつもりは無い…が、結果的には死ぬかもしれない。」 「そうなの?僕の事殺してくれないの?」 「ぁ…ぅ…殺してくれないのって…お前死にたいのか?」  こくりと頷く。死にたいならボランティアしてもらおうじゃないか。気兼ねなく食べれる事がわかると俺は罪悪感から解放されて開き直った。殺してしまうなら正体がばれても構わない。 「俺は吸血鬼だ。血を吸っていかないと生きていけない。だからお前の血を頂く。」 「血を吸われると僕は吸血鬼になるの?」 「いや、吸血鬼になるには俺の血を吸う必要がある。沢山吸われたら失血死するだけだ。」 「ふーん。…だったら沢山吸っていいよ。僕もうそんなに長く生きていられないから。今死んでも一緒だよ。」 「本当か?!一杯吸わせてくれるのか?!」  俺の赤い目はきっと喜びでキラキラしていたのだろう、そいつはクスクスっと笑った。 「何か、吸血鬼ってもっと怖いんだと思ってた。全然怖くないんだね。」 「し、し、失礼な!俺はれっきとした吸血鬼で、これでも吸血鬼になってからは三百年は経つんだぞ!それに俺が本気で吸ったらお前は本当に死ぬんだぞ!怖いだろう?!」 「ううん。全然。どの道僕死んじゃうんだ。だから失血死して死ねるならこんなに楽な死に方はないよ。どうぞ?」  そう言ってそいつは右肩の服をずらして肌を差し出した。  う、美味そうだ。でも話が上手く進みすぎな気がして何だか俺が怖い。 「…ぉ、お前どうして死ぬんだ?」  獲物が逃げないと解って安心した俺は興味が沸いて聞いた。だってまともに人と話すのなんてここ何十年と無かった。昼間眠る俺達は夜に活動するが、俺は夜に活動する近代の人間が苦手でここ何十年と会話らしい会話はしていない。  仲間たちは上手く人間界に溶け込んで夜の世界で生きているが殺さずに血を掠め取るには多くの人間と接触し少しずつ摂食しなければならないから縄張り意識が強く、下手にテリトリーに入り込もうものなら言葉通り半殺しにされる。俺は人間から吸血鬼になったせいなのか人間を襲うことに違和感を感じながら、しかし人間の血でしか渇きを潤す事が出来ない為苦しい歳月を過していた。  この苦しみから逃れるためにはもう死ぬしかないと、太陽の下に身を投げ込もうと何度も思った。だから死にたいと思う獲物の気持ちが少しわかる様な気がした。 「僕、病気なんだって。ガンって聞いたことある?」 「ガン?本で読んだ事がある。悪い腫瘍だろう?」 「うん。全身に転移しているんだ。だからもう長くないんだって。」 「そうなのか…じゃぁ俺がお前の血を全部吸ってやるよ。」 「うん…そうして。僕、まずいかもしれないけど、お腹の足しにはなると思うから。」  そう言ってまた肩をむき出して差し出したから、腹ペコの俺は両肩を捕まえて差し出された肉に遠慮なく噛み付いた。 「痛っぅ…!」  獲物は痛がったが、その血は最高に美味かった。何だこれ?人間の血ってこんなに美味いもんだったか?こんなに美味しい血を飲むのは初めてだった。 「美味い…、お前どうしてこんなに美味いんだ…?」  俺はゴクゴクと血を飲みながら独り言のように呟いた。 「知らないよ。人間の血なんて飲んだこと無いもん。全部吸ってしまって。」  一週間元気に過せる程の量を腹に溜めると、今度は殺してしまうのが勿体ない気がしてきた。こいつは死にたがっててそして俺の事を怖がらずその体を差し出してくれる。こんな都合の良い獲物には出会ったことが無い。どうせならこいつがその寿命を迎えるまで吸わせてもらいたい。 「今日殺すのは止める。また来週同じ日の同じ時間にここに来い。その時に殺してやる。」  俺は週に一度そいつから血を分けてもらう事になった。  そいつの名前はカオルと言うらしい。俺達は俺の食事と呈して会い沢山話すようになった。家族のこと、俺が吸血鬼になったこと、カオルの病気のこと、カオルの学校のこと。俺は毎週楽しみで仕方なく、それはカオルも同じようだった。毎週が直ぐに週二になり、週二が週三になり、殆ど毎日会うようになり、カオルの血を飲まない日さえあった。カオルは毎回血を吸い尽くして殺してくれと願ったが、俺はその願いを叶える気がなかった。 「カオル、お前元気になったな。だけど血がまずくなってきた。どうしてだ?」 「知らないよ、そんなこと。それよりさ、吸血鬼はどうやったら死ぬの?」 「そうだな、十字の杭を心臓に突き刺して首をはねれば死ぬ。」 「杭を抜いたら?」 「血が通って動き出して首を探し出す。」 「げぇ、それって死んでないじゃん。」 「完全に殺す方法もある。」 「何?」 「日の出の太陽を浴びる事だ。」 「日の出じゃないとダメなの?」 「あぁ。正午でも夕日でも中途半端に燃えて回復していく。」 「それもえげつないね。」 「浴びたらどうなるの?」 「その形のまま灰と化す。」 「ふーん…。」  何でも話すようになり、お互い秘密なぞもう無いだろうと思うほど語りあって三ヶ月が経とうとしたその夜、またカオルが聞いた。 「ねぇ、吸血鬼になるには君の血を飲む必要があるんでしょう?」 「あぁ。俺の血を飲んでから、俺の唾液を体に入れれば直ぐには始まる。細胞が変化するのはあっという間だ。」 「直ぐに吸血鬼になっちゃうの?」 「あぁ。だが吸血鬼になるには吸血鬼の血が必要だから簡単になれるもんでもない。吸血鬼の協力が必要だからな。」 「合意の上なら簡単に吸血鬼になれるんだね。君はそうやって吸血鬼になったんだ?」 「…あぁ。そうだ。」 「僕も吸血鬼にしてよ。」 「ダメだ。」 「どうして?」 「吸血鬼は死ねない。不死身だ。ずっと喉が渇いて苦しい。」 「僕が吸血鬼になれば、血の飲みあいっこできるでしょ?」 「吸血鬼の血は不味い。腹は膨れるが人間の血とは比べ物にならん。」 「でも僕が吸血鬼になれば、君とずっと一緒に居れるよ?」  そう言われて心が揺らいだ。俺はカオルが好きだった。何でも話し合い、心を許し血を差し出してくれるカオルは俺にとって天使のような存在だった。  カオルと一緒に居れる…。ずっと…。  カオルは俺に抱きついて甘く囁いた。 「ねぇ…僕を吸血鬼にしてよ。不老不死になって君のそばに居たいんだ。」  カオルはそう言うと俺に口付け、舌を吸うとそのままがりっと噛んだ。口から零れる俺の血を舐めると、カオルはすぐに痙攣し出した。俺の血と唾液を同時に摂取して吸血化が始まったんだ。 「カオル!何の考えもなしにバカヤロウ!」 「…グァ…ガァアア…コウスルシカ…!ア"ア"ア"ア"!!」  叫びながら顔色がどんどん青白くなって苦しむ。痙攣する体を支えて俺は膝をついた。  嬉しいような哀しいような…でもこれでずっとカオルと一緒に居れるのだと思うと喜びの方が大きい気がした。  痙攣していた体がゆっくりと収まりを見せ始め、呼吸が落ち着くと肉体の変化に苦しんで閉じていた目蓋がゆっくりと開く。  見開いた瞳の色が真っ黒になりその光りを失ったかと思うと今度は中心が燃えるように赤く染まっていった。  俺と同じ目の色になった…。これでカオルは吸血鬼だ。 「お前はもう俺と同じだ。」 「…もう?もう終わり?本当に?」 「あぁ吸血化は完了した。目の色が赤い。」  カオルは自分の顔を触って確かめようとしていた。 「凄いね。内在する力の強さが違うのがわかる。」 「あぁ、身体の容量は同じだが筋肉の質も違うからな。」 「これで僕も君の仲間…。」 「あぁそうだ。」 「僕も不老不死?」 「あぁそうだ。」 「君、嬉しそう。嬉しいの?」 「まぁな。」  ふふっと笑ってカオルは走った。  土手を何度も人間とは思えぬスピードで行ったり来たりして吸血鬼の力を試す。 「こんなに早く走れるなんて!まるでスーパーマンじゃないか!こんな力を持っていながら何もしないなんて勿体無いよ!」 「あぁ、だが言っただろう?力を持っていても人間の血を飲まずに渇きを癒す事は出来ない。苦しいぞ?」 「大丈夫だよ、それは…。」 「大丈夫なもんか。渇きを経験すればわかる。」 「僕の血を吸っても喉は渇くのかな?」 「お前の血はもう吸血鬼の血だ。渇きは癒せない。もういい匂いがしなくなってしまった。けれどお前が居ればいい。」 「もういい匂いしないの?なんか一番ショック!いい匂いだって言われて血を飲まれるのが好きだったのに。」 「変な奴だな。もう帰ろう。日の出だ。」 「うん。帰ろうか。」  次の日、また会う約束をしてカオルは帰った。  だが次の日もその次の日もカオルは現れなかった。  俺はカオルを探して入院していると言っていた病院へ忍び込んだ。  カオルの病室を探しているとナースセンターで宿直の看護婦たちが喋っているのが聞こえた。 「それにしても五〇一号室の風間さん、変な失踪の仕方したよね。まだ若いのに…。ベッドの中に灰を一杯置いていったって聞いたわ。ご両親凄く心配して捜索願いだしてるけどちょっと気味悪いわよね。」 「ええ。でもまだそのままにして欲しいってご両親が言ってて。病室も長い間押さえられないから明日片付けますって今日説明したけど、なかなか踏ん切りがつかないみたい。治療頑張ってたもんね。あれだけの手術の後ものすごい量の抗がん剤を投与されて毎日苦しんでいたんだもの、生き地獄よね…。見てるこっちが辛いぐらいだったから、気持ち分からないでもないわ。」 「ちょっと…不謹慎よ。まだそうと決まった訳じゃないんだから…」 「そうよね、あんな若かったんだから…。」  どういうことだ?風間はカオルの上の名前だ。カオルは病院に居ない?元気になっていたんじゃないのか?だって最後の日だってあんなに走って…それにもう死ぬ必要なんて無い。だって死ねないんだから…。  俺は五〇一号室へ移動した。  個室のドアには立入禁止の札がぶら下げてあり、中が真っ暗だ。  ゆっくりとドアを開けて中に入る。 「カオル…。」  カオルは居なかった。その代わりベッドの上に人型を模したように灰が敷き詰めてある。それはカオルの華奢な体の形そのままだった。  その人型になっている灰の手がベッドサイドに掛かっていて、マットレスの下に紙端が見えた。俺はゆっくりとその紙を抜き取る。ぼそぼそっと灰が床に落ちた。  紙を開くと、それは手紙だと解った。俺宛だ。 「愛しの君へ。    一緒に居れて楽しかった。君と一緒に過す時間が楽しくて僕は頑張って色んな治療を試したんだよ。    ――でもね、やっぱりもうダメだったんだ。  この部屋はね、燦燦と朝日が差し込むんだ。だからいつも思ったよ、僕が君の仲間になったなら、この朝日を浴びて灰になって死ねるのにって。そしてね、もしかして君の仲間になったらこの痛みから解放されるかも、とそう思っていたんだ。でも不死身になっても僕の痛みは消えなかった。ガン細胞まで不死身になっちゃったんだ。がっかりしたよ。だからずっと考えていた事を実行する。   僕は君と居るのが好きだった。君が大好きだったよ。だから最後にあんなに凄い経験ができて僕は幸せだった。きっと生まれ変わったらまた君に会いに行く。本当だよ?   ありがとう   さようなら   カオル」  紙にポタポタと赤い雫が落ちた。俺は吸血鬼になって初めて泣いた。そして吸血鬼は血の涙を流すのだと知った。相応しい色だ。  周りが明るくなり出し燦然と輝く朝日が顔を出し始める。  俺は三百年ぶりに朝日を浴びた。  カオルの灰を抱きしめて強烈な熱に体が蒸発していく。 「カ…オル…。」  俺にも終止符が打てる。渇きを癒す必要もない。やっと自由だ。 「遭いに来なくていい。俺がお前を迎えに行く…。」  何十年かぶりに笑顔になった吸血鬼の形をした灰は音もなくベッドへ沈み、一人分の灰の形は二人分になった。  手紙を見つけた両親は全部の灰を纏めて一つの骨壷に入れ、大事に持って帰った。 ―FIN―
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