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──そう、思っていた。今、この瞬間までは。
──まるで漫画で使い古した展開だ。夕焼け空が差す踊り場。黒い髪がなびき、白い紙を散らしながら、足を踏み外した水羊阿梨花が、落ちてくる。
「……落ち、」
「──させるか!」
なんの関わりも無ければ、義理もない。もし街ですれ違ったとしても、声を掛けることもしないだろう。
そんな、今後とも関わる理由のない相手だった鉄仮面の少女を前にして、何かに突き動かされるように、考えるより先に身体が動いた。
自分でも疑問を覚えながら、しかしそれを一考する間も無く手を広げて、固いタイルと彼女の間に自分を滑り込ませる。
その直後、女子1人分の全体重がのし掛かる。ドッジボールの比ではない、命の重さが衝撃として伝わる。
受け止めた衝撃に耐えきれず倒れ込み、後頭部を打ち付けてしまう。
「…ってぇ!」
咄嗟に手を回してみると、幸いなことに血が出ているみたいな大怪我ではないようだ。
自分のダメージを確認し終えると、あらためて自分の目線は、胸の内へ落ちる。自らをクッションとして、無傷で済んだ一人の少女。
荒い息が掛かる。密着しているから、心臓の鼓動が伝播する。何より、触れあう肌が、この世のものとは思えないほど柔らかい。
腕の中にいる一人の異性の存在に、呼吸を一瞬忘れてしまうほどに意識を傾けていた。
…その一方で、無傷である事に強い安堵を覚えていた。初めて、人の為になった。それが誇らしい気持ちを覚えさせる。
「……あの、大丈夫、ですか?」
絞り出した相手を気を遣う台詞を受けると、水羊は徐に起き上がる。
こちらを見下ろす形になる彼女の表情は、鉄仮面なんて名前の似合わない、どこか懐かしむような、暖かみに満ちていた。
「……遅いんだから」
「──え」
その言葉の意味に、俺が理解が追い付くより早く、水羊は立ち上がるとひらひらと舞うプリントたちを拾い集める。
思考が麻痺している。頭を打ったからではない。過剰な情報に処理が追い付いてこないのだ。
俺がまごついているうちに、散らばったプリントは彼女の手元に戻っていた。
「…ありがとう、──くん」
うろんだ頭に、またノイズが走る。そうして、水羊阿梨花は何事もなかったかのように階段を、今度は一歩ずつ丁寧に歩きながら、踊り場を去っていった。
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