飲み過ぎた夜

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飲み過ぎた夜

「先輩、一人で大丈夫ですか?足下かなりふらついてますけど……」 「大丈夫だって。心配してくれてありがとうね」  月末の金曜日、会社の飲み会が終わった。長らく続いた大仕事と残業からもようやく解放され心身共に気が抜けて、いつもより多くお酒を飲んでしまった。しかし部下もいる手前、若くしてチームリーダーを任された女はしゃんとした姿で自立していないと、という気持ちが強かった。  幸い家が近かった彼女は、駅で部下達と別れた後一人で帰路についた。  久しぶりに飲んだこと、元々アルコールに強くないこと、部下がいないことなど複数の条件が重なり、女はあまり周囲の目を気にしていなかった。顔は火照り首の根元まで赤くなっている。足は頼りなく上半身を支え、なんとか前に歩けている状態だった。 「あー、かえったら水飲も…それから、おふろ入って、コンタクトとって……」  帰宅後の予定が無意識に口から漏れ出す。思考にまとまりが無くなり、視点も定まらない。  時刻は既に0時を回っている。いつもの彼女なら駅から自宅まで10分で着くのに今日は15分経ってもまだ着かない。辺りの家々の窓は暗くなり、徐々に街灯の数もまばらになっていく。  生物を感じない静けさ、平熱なら肌寒く感じる夜風も今は頬を冷やして心地よい。たまにはこんな日があっても良いか、女はそんなことを思った。  ずいぶんとゆっくり歩いたせいで遅くなったが、もうすぐ彼女の住むマンションだ。  最後、あの角を左に曲がればもう目の前――と、女の足がにわかに止る。 「……ひと?」  周囲で一際明るい女のマンション。エントランスから放たれてるオレンジ色の光、それを遮る人影がなにやら建物正面に立っている。  そいつは頭の先から腕、胴体、両足まで波打ちのたうち、まるでミミズやイモムシが前進するような運動をし続けている。  酔った女は警戒心も無く、興味本位で近づいた。3mくらいの位置に来たとき、その人影が女の方へ体を向けた。  人影は全身真っ白で、顔は無かった。身長162cmの女より一回り大きい、頭頂部から足先まで厚みのある布か紙のようなぺらぺらの材質の体。足下は地面からわずかに浮いていた。女が近づいても相変わらず動きはやめない。 「きもちわるっ」  それなのに何故だが人型が滑稽に思えた。普段の彼女であれば即座に逃げ出していただろう。泥酔状態でさえなければ。  思わず発したこの一言が目の前の人型に聞こえたかどうかはわからない。ただその言葉の後、突然人型は動きを止めた。時が止ったかのように形が固まったのだ。 「おーい?どうしたー動けよー」  恐れを忘れた女がさらに近づき、人型の胸辺りを叩いた。生暖かいコンニャクみたいな感触だった。  叩けば直るという壊れた古いテレビの直し方、だがしかし人型に変化があった。足先から一気に頭部までブルーベリーの如き濃い紫色に変色した。 そして両手を頭上にかかげ停止前よりも激しく動き始めた。腕は高速で前後に振って体はドクンと脈動している。奇妙で不快な踊り。  女は立ち尽くした。酔いのせいでは無く訳のわからない事態に、もはやまともな思考は働かなかった。早く家に帰りたかったはずなのに、眼前の光景から目が離せない。 「あはははっははははあっは」  笑いが止まらない。 吐き気がしても笑うことを抑えられない。 涙を浮かべ心を恐怖と後悔が埋め尽くしても、女の笑いは深夜の住宅地に響き渡る。  紫の人型はダンスをやめない。 いつまでも、夜が明けても。 女が死んでも。
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