紅顔の悪魔

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「は、離しやがれ、このゴーストがッ!」 「無駄ですって。……彼に声は聞こえません。ボク以外の、ね」 なんて。恍惚の色を滲ませて笑う悪魔は、どこか彼に似ている。 ……そう。あれは支配者であり、支配された者の目だと本能的に悟った。 確かに男は何も言葉も発さないし、あるんだかないんだか分からない焦点は間違いなくこちらを向いていない。 空虚、という言葉が良く似合う男だった。 「ノア、ほんの少しだけ力を緩めておやりなさい……彼が痛がっているだろう」 穏やかだが有無を言わせぬ力の声はボーイソプラノ。そしてゴースト男の手の力は少し緩み、手首に感じていた痺れはマシになる。 「失礼しました。彼は少し手加減が出来ませんので……ふふっ、不器用な男なのですよ」 「ノアって言うのか、こいつ」 虚ろで美しい顔を見上げながら問う。 「ええ。良い名前でしょう。人間の頃からボクはこの名前が好きだった……」 最後はため息をつくように呟くローガンの声は、わずかに震えていた。 それは単なる魂を搾取した相手に対するものにしては、ひどく感傷的に思える。 「……さて。貴方のその呪い、ですが」 「呪い?」 呪いなんてかけられた覚えはないぜ。 話の方向が分からず首を傾げるオレに、ローガンは驚きと呆れの表情を見せた。 「気付いてなかったんですか! その『物忘れ』は間違いなく呪いの一部ですよ。しかもかなりクセのある掛け方をされている……これはもしや。ははぁ、なるほど」 「ンだよ! 自分だけ納得するな」 間抜けな格好をしたオレを置いてきぼりに、彼は一人でしきりと頷いたり考え込んだりしている。 「貴方にこの呪いを掛けた魔女、1人だけ心当たりがありますよ」 「誰だそりゃあ……」 なんの為に。それも忘れさせられたってことか。 しかしローガンが神妙な顔をしてかぶりを振る。 「それは悪いですがお答えしかねます。ボクが無闇に口にして良い名前じゃない。しかも恐らく貴方に教えた瞬間、ボクの首が飛びます」 「と、飛ぶ……?」 「そ。物理的に」 左手で自らの首を掻っ切る真似をしてみせる。 そんなおどけた態度にも関わらず、その顔には笑みは無くうっすら汗をかいていた。 「貴方、こう言ってはナンですが……えらい方に喧嘩売ったんですねぇ」 「はァ!? オレなんにも知らないぞ! あ、だから記憶ないのか……でもガキの頃だろ」 「さぁ。でもこのかけられた呪いを解く方法……嗚呼、これも駄目か」 「なんなんだよッ!」 困り果てたように息をついて肩を竦めた彼を怒鳴りつける。 「この先言ったら……ボクの心臓が消し飛びます」 「物理的に?」 「そ、物理的に」 「ま、マジか……」 魔女、怖ぇよ。っていうかオレ、魔女にだけはコナ掛けたことないぞ。 まぁ女関係は派手過ぎず地味過ぎずって、そこそここなしてきたが。 もしかしてうっかりそっちに手ぇ出しちまったんだろうか。でもガキの頃だろ? あの頃はレミーが居たし……。 「これはボクの出る幕はなさそうだ……おいで、ノア」 「ちょ、ちょっと待て!」 手を押さえていたゴーストを戻し引き連れるようにベッドを降りた彼に、オレは声を荒らげ呼び止める。 「何も出来ないって……オレを見殺しにするつもりかよ!」 「やれやれ。見殺しって。別に殺されませんよ」 「このままじゃあの絶倫狼にヤり殺されるわッ!」 「……あー。死因としては、まぁまぁ幸せなんじゃないですか」 「おいっ、なんだよその投げやりッ!」 こいつ鼻で笑いやがった! オレがどんな苦しみであの気が狂うような快楽地獄を味わってんのか分からんだろうなぁ! クソがッ! 「ボクだって残念なんですよ。貴方の魂が欲しかったのに」 「そんなに吸血鬼の魂って貴重なのかよ」 「いいえ。そうじゃなくて……」 ピタリと足を止めて、再び滑るようにこちらに急接近してきた悪魔はオレ耳に唇を寄せて一言。 「……貴方が、欲しい」 耳に掛かる吐息の熱さに、ヒュッと息をのむ。 この熱もだ。あいつと同じ、強い執着の感覚。唇が恐怖と期待に震え、身体から力が抜けるのが分かる。 腰が砕け全身が鎖に繋がれたようだ。 「そうだ。ここから出して差し上げることなら出来るみたいですよ……どうします? 対価は勿論」 「お、『お気持ち』か……」 「ええ。お安くしておきましょう」 ここから。逃げ出したいかと聞かれれば、間違いなくYesだ。というより、逃げ出さなければ。 このままの状態は駄目だ。あいつが救われない。レミーには婚約者がいて、そして次期一族の王になる奴だ。 魔界の隅で呑気して生きる吸血鬼と一緒にいてはいけない。 ……オレはあの時だって、あいつを諦められた。だから今回だって。戻さなきゃいけないんだ。正しい道に。あるべき場所に。 豪奢な牢獄を見渡した。素晴らしい絵画や調度品。家具も一つ一つきっと高価なものだろう。 しかし、ここはオレが居ても良い場所じゃあない。 ―――考えながらも口を開いた、その時。 「お前ら……何をしている」 ドアが乱暴に開け放たれ、重々しく冷たい声がオレを震撼させた。
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