気狂いの爪先に

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気狂いの爪先に

広い室内、豪華な家具と調度品。 壁には誰の趣味か分からないが、美しい夜の湖畔とぽっかりと浮かんだ月を描いた絵画。 あの夜とは似て似つかぬ部屋で、再び時は刻む。 「思い出したのか」 レミーの言葉に無言で頷く。 忌まわしい、痛みと恐怖と絶望に埋もれた記憶。 あの後、大量出血の為か気絶する刹那に目にしたのは血塗れになった小さな人狼。 それは彼自身のものでなく、全て返り血であったと瞬時に悟ったのは何故だったのか。 「君って案外強いんだなァ」 先程と逆に見下ろされた形で呟くと、ニヤリと笑った彼と視線が交わる。 「惚れ直したか」 「まさか」 わずかに細められた琥珀色の瞳。そこに朱が混じっているように見えるのは、単なる光の反射だろうか。 オレはそれが知りたくて、じっとその宝石のような双眸に見入る。 「何が見える」 「無駄に顔の良い犬っころが見えるね」 そんな憎まれ口を叩いても、オレの意識はやはりこの不思議な色に夢中だ。 ……綺麗だ。すごく、綺麗。ここに映り込んでいるのは、やっぱりオレなのだろうか。 「やれやれ。夫を犬呼ばわりする妻か」 「? ちょっと待て」 今聞き捨てなら無い言葉があったぞ。 「夫って……妻ってなんだ」 一旦視線を外して問いただした。 すると彼は大真面目な顔で妙なことを言い始める。 「夫は俺で、妻はお前だ」 「は?」 ……待て。本当に待ってくれ。オレは何か大きな壁にぶつかっているぞ。 この目の前の男が訳の分からない事を言うのだが。 やっぱり頭がイカれちまったのだろうか。 混乱と心配に心が塗りつぶされるオレに、あいつは出来の悪い子供に言い聞かせるような顔で言った。 「フィン、お前は俺と共に生きる覚悟をした。知らなかったとは言わせないぞ」 まぁそうだ。確かにそうだった。 魔女の言葉が垂れた頭に蘇る。 『記憶を取り戻し、彼と共に生きたいと願うのなら』 『その唇に口付けを』 『そしたら死がふたりを分かつまで……運命は共にあるでしょう』 「そりゃまぁ、キスはしたけどさァ」 だからってなんでオレが妻なわけ? 出来るわけないじゃん。結婚、なんて。性別的にも種族的にもさ。 良くて愛人……うーん。それは嫌だな。親友位で勘弁して欲しい。 現実を感じて閉まってほんの少し痛んだ胸を隠す。そして意識をしながらの呆れた声を出してやれば、レミーがわずかに目を見開く。 「……俺の事は遊びだったのか」 「ばっ、馬鹿じゃねーの!? 」 それはこっちのセリフだっての。オレのこと、散々弄んだじゃねーかよ。 こんなんじゃあ、オレもう女の子抱けないだろなァ。 ま、他の男に抱かれるのも真っ平御免だけど。 「お前って、案外馬鹿だったんだな」 「はァァ!?」 突然、喧嘩売られてオレは頭突きする勢いで起き上がり彼の胸ぐらを掴みあげた。 こちとら色々悩んでるんだよ! なーんにも分かってねぇボンボンの甘ちゃんが無責任なこと口走ってんじゃあないぞ。 「どーゆー言い草だっ! この犬っころッ 」 返答次第ではぶちのめしてやる。吸血鬼だってやる時はやるんだぜ。 振り上げ固めた拳で威嚇しながら、睨みつけて怒鳴りつける。 すると。 「……馬鹿野郎」 ―――そんな言葉が耳に入った時には既に、唇と共に言葉を封じられていた。
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