マルティン=ルター

2/4
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
(三)ローマでの改心。  そんなある日のこと、マルティンは修道会の用務でローマを訪れ、約一ヶ月滞在した。一五一一年の冬のことであった。  ローマには聖所と言われる所がいたる所にある。当時は十字軍が終わった後で、聖所への巡礼が盛んに行われていた。ペテロとパウロの殉教の地であるローマには聖所に事欠かなかった。そんな聖所をマルティンはほとんど回った。そんな中である日、ピラトの階段という所を訪れた。この階段は、膝で登ると全ての罪が許されると考えられていた。マルティンは登ることを決意した。  「罪が許されて天国へ行けるのならどんな難行苦行でもしてみせる」  そんな意気込みで階段を登り始めた。最初は楽々とこなせたのだが、やがて膝が痛くなってきた。皮まですりむけてきた。若かったといえ、無謀である。そして階段の中腹まで登った所で声が聞こえてきた。それはローマ書の一節であった。  「人は信仰によって義とされる」  そう。聖書を読むようになって(当時、聖書は全てラテン語で書かれており、一般人には読めなかった。しかし聖職者となったルターには読めたのだ)、またギリシア語などの聖書の原典も読むようになってマルティンは「行いによって救われる」というローマ教会の教えに疑問を抱き始めたのである。新約聖書のいたる所に「信仰によって義とされた」と書いてあるのに、ローマ教会はどうしてこうも「行い」を強調するのだろうか?というのがマルチィンの疑問であった。その時にこの声が聞こえてきたのだ。  「空耳だろうか?しかし聖書的である。私は何かローマ教会によって間違ったことを教えられてきたのかも知れない」そう思った。  声はもう一度聞こえてきた。  「人は信仰によって義とされる」  意を決したマルティンは、それまで膝で階段を登っていたのだが、急に立ち上がり、言った。  「そうか。その通りだ。これは天の声だ」そう思って階段を一気に駆け下りた。こうしてマルティンは、当時の「行いによって義とされる」という考えにに疑問を抱き始める。    その後、マルティンはこのローマという歴史的な町で様々な退廃を目にすることになる。 無所有のはずの教会が広大な土地を持ち、ネポチィズムや聖職売買が公然と行われている。また、免罪符や聖職売買で潤う教皇、これらのものが「信仰による義」とはかけ離れたものに思えてきた。  特に贖宥状(免罪符)に関しては彼が最も聖書的ではないと考えるものであった。  「主イエスは、教皇様がドンチャン騒ぎをするためのお金を贖宥状を買うことによって払ったとしても、そんなことをお喜びになるであろうか?そんなお金があれば貧しい人に施しをした方が主は喜ばれるのではなかろうか」  事実、中世のヨーロッパには厳として貧富の差が存在し、路上で物乞いをしながら食いつないでいる人々が多くいた。それはルネサンスの花が咲いて華やかなイタリアでも、マルチィンのいたドイツでも同じであった。  ---かといって、マルティンは教皇の権威そのものを否定していたわけではない。彼が教皇権まで否定するようになるのは、まだまだ時間が経ってからであった。  しかし、トルコに対する十字軍の派遣のために教皇が大金を納めようとした時、「真の敵はトルコではなく、ローマにいる犬達である」なんて言う声も聞こえてくることがあった。  その頃、マルティンは既にシュタウピッツの推薦によってウィッテンベルク大学で哲学と神学を教えていた。そして、大学教授とともに聖職者にも任命されたのだ。ここで、マルティンは告解(懺悔)をする立場から聞く立場になったのである。  彼のもとには学生達がしょっちゅう告解にやってきた。それをマルティンは聞いて 時に適当な助言を与えることもあった。  ある日、彼のもとを若い修道士が訪れた。小さな窓の向こうでマルティンは告解を聞く。  「司祭様、私は女の人を見ると矢も立ても溜まらなくなるんです。これは悪い癖です。修道士になってもこの癖は直りません」  マルティンはゆっくりと聞き、おもむろに助言を与える。  「兄弟、そんなことは男なら当たり前のことですよ」  「でも司祭様、イエス=キリストは言ってます。『見て姦淫を犯すものは既に姦淫を犯したのだ』と」  「そうです。我々は弱いのです。でもイエス様は我々の弱さに同情できないような方ではありません。ローマ書に書いてあります。『義人はいない。一人もいない』と」  「では、一体誰が救われるのでしょうか?教皇様ですか?」  「いや、イエス様はそのような我々の罪のために犠牲になって下さったのです。だからイエス様を信じる者が救われるのです」  そのやり取りは、まさにカウンセリングであった。良い行いをしないと救われないという当時の教会に対するアンチテーゼであった。マルティンに告解した学生はみんな驚いた。  また、こんなこともあった。ある日、断食中にこそっとパンを食べたという修道士が告解に来た。  「司祭様、私は神の法に反してしまいました。聖なる断食を汚し、パンを盗み食いしてしまいました」  マルティンは答えた。  「あなたはイエスの弟子達が空腹であったので安息日に畑の麦の穂を積んで食べたということを知ってますね。あなたは何も悪いことはしていません」  「でも、修道士が戒律を破れば地獄行きでしょう?」  「そういう風に書いてある聖書の箇所はどこですか?」  「司祭様、知りません」  「当然だ。そんなことは書かれていない」  こういったやり取りから明らかなように、マルティンは教会の権威よりも聖書の権威を重んじたのであった。それは世俗化した教会に対して、「イエスの時代に戻れ」と言っているように修道士達には聞こえた。そして、彼は徐々に確信を深めていったのである。  「行いによって義とされることはないんだ。なぜならば『義人はいない。誰もいない』と書いてある通り、人間は元々罪深いんだ。それは教皇や司祭であっても同じだ。ならば人間はどうしたら救われて天国へ行けるのか?審判の日に裁きに会うことがなくなるのか?それは行いによるのではなく、信仰によるのではないだろうか?」  これが彼の一種の「悟り」だったのである。そして、それは懺悔を聞く身になって初めて確信に変わっていったのだ。   (四)九十五箇条の論題。  一五一三年のことであった。教皇ユリウス二世が亡くなって新教皇にレオ十世が選ばれた。彼はフィレンツェの大富豪メディチ家の出身で、戦争とドンチャン騒ぎと博打と狩猟に財を費やすしか能のなかった男だ。彼は前教皇が着工してそのままになっていたサン=ピエトロ大聖堂(教皇の居館)の修築をするために贖宥状(免罪符)の販売を計画した。これに関わっていたのがマグデブルク大司教であったアルブレヒトであった。彼は一五一四年にマインツ大司教の地位も手に入れた。しかし、マインツ大司教になるためには初収入税を教皇に納めなければならない。その金額は三万フローリンという莫大なお金であった。アルブレヒトはアウグスブルクの富豪であったフッガー家からこの資金を借りて支払った。フッガー家はベネチィア商人から胡椒を買い、それをヨーロッパ中に売りさばき、またドイツの銀や銅の鉱山を経営し、金融業も営んでいたドイツの大商人であった。だから、ルターの活躍した頃はフッガー時代とも呼ばれていた。そこからアルブレヒトは借金をしていたわけである。  アルブレヒトは、贖宥状(免罪符)の販売を引き受け、その金はフッガー家に渡る仕組みになっていた。すなわち、免罪符での収入は一旦はフッガー家に入り、その半分が教皇のもとへ届く仕組みになっていた。マルティンは勿論そんなカラクリがあることを知らなかった。  そして免罪符の販売人がドイツにやってきた。免罪符説教師と呼ばれる司祭が言葉巧みに免罪符の効能を述べ、ドイツの民衆に免罪符を売りつけに来たのだ。  免罪符説教師は次のように述べる。  「さて、お聞きなされ。神と聖ペテロが呼んでいらっしゃるのだ。あなた方の霊魂や、亡くなった愛する人達の霊魂の救いについてよく考えなされ(この免罪符は買えば自分の罪が許されて天国へ行けるのみならず、既に死亡した人達も天国へ行けるというものであった)。」そして免罪符を買えば罪が許されて天国へ入れるという口上が延々と続き、最後にこう締めくくられる。  「お金が箱の中でチャリンと音がするやいなや煉獄から霊魂が飛んでくる。お前さん達は四分の一フローリンでこれを買いたくはないのか?このお札によって、あなた方は神聖な不死の魂をパラダイスに連れ込むことができるのですぞ」  この説教士はマルティンのいたウィッテンベルクにもやってきた。ウィッテンベルクはザクセンの北部にあり、エルベ川に面していて人口は二千人の小さな町であったが、ザクセン選帝侯の居城があり、マルティンの勤めていたウィッテンベルク大学があった。  マルティンのいたウィッテンベルク大学の学生達もわれ先に贖宥状(免罪符)を買い求めた。これで罪が許されるというのなら四分の一フローリンなんて安いものだ。  贖宥状が販売され始めるとマルティンの下に告解に訪れる学生の数も急激に減っていった。それでも告解に来る学生はいた。  「先生、私は贖宥状を買いました。これで罪は許されるのですね」  それに対してマルティンは誰もが予想だにしていなかった解答を渡したのだ。  「それをいくらで買ったのですか?」  「私の先祖の分も含めて二十フローリンで買いました」  「一学生が、よくもそんな大金を持っていたものだ」  「いや、私の親が買ってくるようにお金をもらったのです」  「それでは親御さんにこう言ってあげなさい。『贖宥状を買ったら天国へ行けるなんて聖書のどこにも書いていません。そんなお金があるのだったら、この町にも物乞いや黒死病で親を亡くした孤児達もいる。そんな人達に施してあげた方が主イエスはお喜びになるはずだ』とね」  学生は不満げに聞き返した。  「それでは教皇様は何のためにこんなものを売り出したのですか?」  「それは教皇様が戦争をしたり狩りに行ったりするのにお金がいるからだよ。大体、贖宥状を買ったら煉獄にいる死者まで救われるなんて聖書のどこに書いてあるのかね?いいかい。天国へ行けるか否かはただ信仰によると聖書に書いてはいないかい?」  とんでもないことを言う司祭である。もうこの司祭に告解するのはやめようと、当の学生は思った。しかし、そんな中でもマルティンの答えに共鳴する学生も多くいた。  そして一五一七年の十月三十一日、ウィッテベルク城教会に印刷された一枚の大きな紙が貼られた。ラテン語で免罪符を攻撃する文章が書かれていた。そして、これを書いたのがウィッテンベルク大学の教授であった当のマルティン=ルターであった。所謂「九十五箇条の論題」である。  この一五一七年が宗教改革の年とされているが、マルティンはそんなだいそれたことをやるつもりは毛頭なかった。彼はただ贖宥状(免罪符)について討論がしたかっただけのことであった。事実、教会の扉に紙を貼るという行為は、単に討論をする時だけに使われていたのだ。しかし、やがてこれがドイツ語に翻訳されて折からグーテンベルクの印刷術の発明に伴ってドイツ中に波紋を広がる結果となっていったのである。  では、この九十五箇条にはどんなことが書いてあったのであろうか?    ・「序文。真理への愛、そしてその真理を探究したいという熱情から、これから記す事柄について、文学と神学の修士であり、この地の神学正教授であるマルティン=ルターが司会をしてウィッテンベルクで討論を行いたい。これに参加できないなら不在者として書面をもって討論に参加して欲しいと願っている」  ・「私達の主であり、また教師であるイエス=キリストが『悔い改めのサクラメント(秘蹟)を受けよ』と宣した時、イエス=キリストは信じる者たちの生涯の全てが悔い改めであることを願った」  ・「教皇は、神によって罪が許されたと宣言すること、あるいは承認すること以外、どのような罪も許すことはできない」  ・「それゆえ教皇の贖宥によって人間は全ての罰から解放され、救われるとする贖宥の説教は間違っている」  ・「お金が箱の中に投げ入れられ、そのお金がチャリンと音を立てるや否や、魂が飛び立つ(とともに煉獄を去る)と教える人達は神の教えでなく、人間の教えを説いている」  ・「お金が箱の中に投げ入れられ、そのお金がチャリンと音を立てることで、利益と貪りは確かに増して加わるに違いないが、教会のとりなしはただ神の御心に基づいている」  ・「真に痛悔したキリスト者であれば、贖宥の証明(免罪符)がなくても、その人が当然得ることができるはずの罪と罪過からの十分な赦しをもつ」  ・「真のキリスト者になった者であれば、生きている時も、死んでも贖宥の証明書なしに、神から与えられるキリストとその教会のあらゆる宝に与ることができる」  ・「貧しい者に与え、困っている人に貸し与える者は、贖宥をお金で買うよりもよい行いをなしているとキリスト者は教えられるものである」  ・「愛は愛の行いによって増し加えられ、人は良い者となる。しかし、贖宥によっては人は良い者とはならず、むしろ罰から(無責任な仕方で)解放されてしまうだけである」  ・「困っている人を知っているのに、その人を見ず、贖宥のためにお金を使う人があるとすれば、その人は贖宥を手に入れることはなく、神の怒りを自らに招くものとなると、キリスト者は教えられるべきである」  このように、マルティンは教皇レオ十世が贖宥状(免罪符)を販売していることを鋭く批判して討論を挑んだのである。勿論、これがこんなに大騒ぎになるとは予想もしていなかった。  「九十五箇条」は教皇に反発する人々の共感を呼んだ。先ず搾取されていた農民、皇帝と教皇に圧迫されていた諸侯(ユンカー)、騎士、そして商工業者などがわれ先にマルティンを支持した。そしてそれはドイツ語に訳されてわずか二週間の間にドイツ中に知れ渡った。   この事態に最も驚いたのは当のマルティン=ルターその人であった。元々、マルティンはこの「九十五箇条」がこれほどの反響を呼ぶとは予想だにしていなかったのだ。  マルティンにこのことを伝えたのは同じウィッテンベルク大学の同僚であったカールシュタットとメランヒトンであった。カールシュタットは後に急進化していってルターとは対立するが、メランヒトンはルターの著作を世に出すのに尽力することになる。  カールシュタットとメランヒトンはマルティンが大学の神学研究室にいる所へ入ってくるなり、口を揃えて言った。  「ルター先生、大変なことになっていますよ」  「何がですか?」  「何がって---『九十五箇条』ですよ。あれは本当に先生が書いたものですか?」  「間違うことなく私が書いた。それがどうかしたのかね?」  「信仰深い先生が贖宥状(免罪符)についてあんな風に思っていたとは知らなかったです。これは大変なことになりますよ」  「大変な事って、私はこれで討論を呼びかけただけだ」  「討論どころか、あれは印刷されてドイツ中に広まってしまってるよ」  「こんな短期間でか?」マルティンは信じられないといった表情で目を丸くした。  「先生はグーテンベルク博士の印刷術を知らないのですか?」  そうメランヒトンが言った後、マルティンは毅然として言い放った。  「広まったならばそれはそれでいい。討論をする者が増えるだろう。大体君達もそうは思わないかね?贖宥状を買うようなお金があれば困っている人に与えた方が主イエスはお喜びになるはずだと---」  間髪を入れずカールシュタットが答えた。  「全く同意見です。でも、これは下手をすると教皇様に逆らって、あのフスのようになってしまいますよ」  フスは身の安全を保障されながらも火刑になって、それどころか彼の師のウィクリフは墓まで暴かれて遺体をテムズ川に捨てられたのだ。これ以後マルティンは、ライプチヒ討論まで、自分の確信を貫かねばならなくなった。   (五)ライプチヒ討論。  このような事態になっても、ローマ教皇レオ十世はルターのことを「酔っ払いのドイツ人」と呼んで相手にしなかった。しかしルターはやがてドイツの農民や諸侯からあたかも英雄であるかのように扱われだすと、教皇もその存在を無視できなくなってきた。  元々はマルティンは論争を挑んだのである。それならば最も適当な論争相手を送って論争させるべきだと教皇は考えた。そして、そのような教皇の腹の中には、ある意図があった。それはルターは元々教皇権を否定しようとしたわけではなく、ただ贖宥状の販売に異を唱えただけであったが、これを誘導尋問して、あの異端の烙印を押されたフスと同じような目に遭わせようということであった。もしもルターが自分の考えがフスと同じだと認めれば、堂々と異端にし、その息の根を止めることが出来ると考えていた。そしてそのような誘導尋問をするのに最も適当な論争相手を探していた。そして見つかったのがヨハン=エックであった。  エックはインゴルシュタット大学の神学教授であり、非常に記憶力がよく、雄弁で論理力も優れていた。既にルターに反論するための論争集を著していた。ドイツでは自他共に認める第一級の神学者である。そして、ルターの免罪符批判の裏に教皇批判が秘められていることを既に見抜いていたのである。従って彼の責務はルターにフスと同じ考えであることを認めさせて、あわよくば異端の烙印を押してしまおうと考え、討論を挑んできたのである。一五一九年の六月のことであった。  これが史上有名なライプチヒ討論である。  ヨハン=エックに論争を挑まれたマルティンは武装した二百人の学生とカールシュタットやメランヒトンに付き添われてドイツ東部のライプチヒまで赴いた。既に法衣に身を包んだエックが待ち構えていた。仲介者はザクセン候のゲオルク、パリ大学とエルフルト大学の神学者が審判をした。  最初の一週間はエックとカールシュタットが討論を行った。  「わざわざ遠方からライプチヒまでご足労をかけてありがとうございます。例の『九十五箇条』の件で討論をしたく思います。あなたは?」  「私はルター先生の同僚のカールシュタットです。教皇様の贖宥状の販売に関してルター先生と同じく異を唱える者です」  「わかりました。この九十五箇条では贖宥状への反論ばかりではなく、教皇様のなさりように異を唱えているように思えますが---」  「そんなことは決してありません。贖宥状の弊害と、それを買ったからと言って救われるということではないと言いたいのです」  「しかし教皇様のなさることに異を唱えることには違いないでしょう。教皇様の権威はキリストより託されたものであります。そこのことをどのようにお考えですか?」  「---」  「教皇権がキリストより託されたものである限りは、全てのキリスト信者はそれに服すのが筋だと思いますが---」  こうしてエックの優勢のまま討論は開始された。そして一八日間の討論で六日目からはルターが直接討論を行った。  「あなたは教皇様の権威が神から委託されたものであると思ってないのですか?」  先述したようにマルティンは聖書を読んでいた。当時の聖書はラテン語で書かれていて、一般人は読むことができなかったが、マルチィンはラテン語はおろか、原典のギリシア語やヘブライ語で読んだのである。そして、どこを見ても教皇の権威が神から委託されたものであるという記述は見いだせなかった。そこでマルティンは答えた。  「そのような証拠はどこにもない」  すかさずエックは尋ねる。  「聖ペテロの墓の上に教皇庁は建てられている。それは認めますね」  「確かに、聖書には書いてないが、教皇庁は聖ペテロの墓の上に建っている。しかし、それが教皇の地位を認めるものであるとの聖書の記述はない」  「それでは、博士はキリスト教徒は教皇に服従しなくてもよいと言うおつもりか?」  「その通りである。大体、そのような証拠はどこにもないし、また、初代の教会ではローマの権力は他の地域の教会には及んでいなかった」  ここでエックは伝家の宝刀を抜いたのである。元々エックはルターから、異端者であるフスと同じ見解を引き出したかったのだ。そこでエックは言った。  「それはフスと同じ見解ではないのか?」  エックの勝利である。ここでルター一派に一四一四年のコンスタンツの宗教会議の記憶が蘇る。それから百年経っていたが、フスの名は「異端」を意味していた。そしてフスは悪魔の帽子を被らされて火刑になったのだ。マルティンは言った。  「それは濡れ衣だ。フスと私は違う」  しかし、休憩時間にマルティンはコンスタンツ宗教会議に関する資料を読みあさった。そして自分の考えの中にフスと同じものを多く見つけ出す。そしてマルティンは決然として言ったのである。  「ヨハン=フスの信条の中に私はキリスト教的で福音的なものを多く見いだす」  こうしてマルティン=ルターは教皇の権威そのものまで否定してしまったのである。エックの勝利であった。しかし、それはその場ではエックの勝利であったが、長い目で見るとルターの勝利であった。彼はその後多くの著作物を通じてドイツ人を味方につけていったのである。  彼がこの頃著した著作でも、特に読まれたのが、「ドイツ国民のキリスト教貴族に与う」・「教会のバビロン捕囚」・「キリスト者の自由」である。この三つの文書が宗教改革三大文書と呼ばれているものである。    先ず、「ドイツ国民のキリスト教貴族に与える」はドイツに対して教皇が行った横暴とローマ教会の弊害について書かれたものである。そして、教会の改善を貴族に訴えている。 「教会のバビロン捕囚」では、カトリック教会が行っている秘蹟(洗礼・堅振・聖体・改悛・終油・品級・婚姻)のうち、聖餐と洗礼以外を廃止するように言っている。また、聖餐も信者はパンのみしか与えられず、葡萄酒は聖職者のみが与えられていたが、信者も双方に与れると説いた。  そして「キリスト者の自由」はルターの考えを平易に要約し、またこの中に教皇批判があるとして教皇によって破門される契機になった書である。ここで、この「キリスト者の自由」からルターの根本的な考えを探ってみたい。  先ず、ルターは「キリスト者は全ての者の上に立つ自由な君主であって,何人にも従属しない」かつ「キリスト者は全ての者に奉仕する僕であって、何人にも従属する」という背反する命題を提起する。これはキリスト教徒には分かるが、そうでない人々には少々難解なテーゼである。では、「自由」とは何で「僕」とは何かを見てみよう。  ・自由---これは身体的な自由のことではなく、霊的な自由のことである。すなわち、キリスト者は信仰のみで義とされるのであり、いかなる行いも要しないということである。その行いの中には、例えば贖宥状の購入などのことも含まれる。だからキリスト者は勝手気ままにふるまってよいということではなく、カトリック教会と教会の権威や規則、強制された行いから自由であるということである。これが有名な信仰義認説である。  ・僕---パウロが言ったように、他の人々に愛をあらわし、互いに仕え合うことを「僕」と表現したものである。キリスト者は、キリストがしたように互いに愛し合い、互いに仕え合わなくてはならないということである。  ・教会批判---だから、ローマ教会によって強いられた善行は誤っているのである。  以上のことからルターの考えは原始キリスト教の原点に帰れということだと容易に想像がつく。すなわち、信仰と隣人愛こそが真の自由だと言うのである。  ルターの考えは彼独自のものではなく、聖書を根拠にしている。すなわち、それが聖書的か否かを問うているのである。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!