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「マルティン=ルター」
(序章)
マルティンの父はドイツの炭鉱夫であった。だから炭鉱の町アイスレーベンで生まれた。時代は15世紀。ルネサンスが花開き、大航海時代が始まった頃である。しかしこの田舎町にはルネサンスも大航海時代の恩恵もやっては来なかった。そこはまだ「中世」だったのである。事実、聖書にはないニンフ(妖精)や人魚や怪物が本当に存在すると考えられていたのである。また、ペストなどが流行したためか、悪魔が子供を掠っていく絵画(死の舞踏)なんかが描かれた。そこにはゲーテの「魔王」の世界が存在していた。さらに中世で盛んに行われた聖遺物崇拝も行われていた。聖遺物崇拝とは、聖者と呼ばれている人が亡くなると、その人の体を切り刻んで手や足などを有り難く思って崇拝することである。実際、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルも死後体を切り刻まれ、肋骨はリスボンにあり、手は東京にある。この聖遺物がエルサレムには沢山あるというのが十字軍の動機となったとも言われている。だから、キリストが十字架についた時の十字架の木片とか、キリストが割礼を受けた時の包皮とか言った怪しげなものが高値で取引されていた。そして、そのような物を扱っていた商人がアウグスブルクの大富豪のフッガー家であった。
マルティンは出生後すぐにマンスフェルトに両親とともに移り住んだ。アイスレーベンもマンスフェルトもともに神聖ローマ帝国のザクセン選帝侯の領地であった。選帝侯というのは神聖ローマ帝国の皇帝を選べる七人の諸侯につけられた称号で、事実上はザクセン国のお殿様である。
父親のハンスは子供達にはきちんとした教育を受けさせたいと考えていた。彼は炭鉱業で成功したのだが、学がなかったので周りの者から疎んじられていたからだ。事実、長じてからルターは「私の父は百姓で祖父も百姓だった」と言っている。そこで子供達は司教座付属学校へ入れた。この学校は元々は貴族の子弟しか入れなかったが、マルティンが入る頃には庶民にも門戸が開かれていた。そして父親のハンスは二人の子供にラテン語の教育を受けさせた。当時、ヨーロッパには大学がいくつもあり、そこではラテン語で教育が行われていた。だからラテン語の知識があるか否かはその後の人生にとってきわめて重要な意義を持つことであった。また聖書もラテン語で書かれたものしかなかった。元々聖書は旧約がヘブライ語、新約はギリシア語で書かれていた。しかしローマカトリック教会はラテン語で聖書を読んでいた。
幼少期のマルティンは、あまり活発な性格ではなかったが、深く思索することがよくあった。そして、父親は彼を法律家にしたかったのだが、彼は哲学や宗教が好きだった。特に学校には「最後の審判」の絵が描かれており、これになぜかマルティンは興味を持ち、何時間もそれを見ていた。その絵では、最後の審判の時に聖職者だけが船に乗って助かり、他の人々は海へ投げ出される様子が描かれていた。早熟だった彼はラテン語の教師であったハインリヒに尋ねた。
「先生、僕達はこの船に乗れないのですか?」
「わからないねえ、それは神の決めることだからねえ」
「僧侶になると船に乗れるのですか?」
「それは乗れるのだろう。神に生涯を捧げたのだからねえ」
「生涯を神に捧げるというのはどういうことですか?」
「君は生涯を神に捧げるのかね?それならば結婚もできないし、厳しい修行の日々が待っているぞ。そうしたら間違いなく最後の審判でもこのように船に乗って助かるだろうけれどね」
しかしマルティンは納得できなかった。「誰だって地獄へは行きたくない。でも、そのために妻子も持たずに全てを神に捧げるというのだったら、人間は滅亡してしまうではないか?」そう思った。
(一)先駆者達とドイツの状況。
当時のローマ=カトリック教会は退廃しきっていた。僧侶の身分を売買する聖職売買が行われ、結婚してはいけないはずの教皇に子がいたりして、それを甥として届け出て次の教皇にするネポティズムなどが横行していた。また、サン=ピエトロ大寺院の中では毎日のように宴会が催され、一種の娯楽としての「戦争」に教皇も明け暮れていたのだった。その費用を補うための資金源となっていたのが、教会の十分の一税や初収入税、袈裟代、贖宥状(免罪符)であった。免罪符はレオ十世が初めて売り出したように世界史の教科書などでは書かれているが、既に以前の教皇も売買していた。
このようなローマ教会に異を唱えたのがイギリスのオクスフォード大学の教授であったウィクリフと、彼の影響を受けたベーメン(現在のチェコ)のフスであった。
先ず、イギリスのオクスフォード大学の教授であったウィクリフがローマ教会の教義や制度、富の所有に対して異を唱えた。彼が攻撃したのは、ローマ教皇の権力、修道士の制度、化体説(プロテスタントでは聖餐式、カトリックではミサという儀式で、信者はパンを食べ、葡萄酒を飲む。これはキリストの最後の晩餐の時に定められた制度であるが、カトリック教会では、このパンと葡萄酒が本当にキリストの血と肉になると考えられていた(化体説)。これに対し、ルターによって始まるプロテスタント教会では、これはキリストの血と肉の「象徴」だとしている)、聖遺物の崇拝、免罪符などであった。彼はローマ教会によって異端とされるが、イギリス王の保護で天寿を全うした。
このウィクリフからオクスフォード大学で学び、後に故郷のプラハでプラハ大学学長になったのがヨハン=フスであった。彼の考えはウィクリフの考えをそのまま継承したものである。ただ一点だけ違うところは、かれは化体説を支持していたことだけであった。すなわち、パンと葡萄酒が本当にキリストの血と肉になると考えていた。この化体説をめぐってヨーロッパでは本当の戦争まで起こる。ただ、ミサの時にパンは一般信者にも与えられるが、葡萄酒は聖職者しか飲むことができなかった。フスはこれに対しては異を唱え、一般信者も葡萄酒を飲むことが出来ると主張した。彼の説はチェコ人に受け入れられたが、一四一五年のコンスタンツの宗教会議で異端とされ、彼は悪魔の帽子を被せられて火刑になった。彼の主張の多くは後にルターに影響を与える。
実は当時のヨーロッパは王権が伸張し、教皇権が衰退していく途上にあった。統一国家の形成を目指すイギリスやフランスの王にとって、教皇という宗教的権威者が存在することは邪魔以外の何物でもなかった。実際にフランスでは、国王フィリップ四世が教皇ボニファティウス八世を捕らえるという所謂アナーニ事件が起こり、その後百年間、教皇庁がフランスのアビニヨンに移されて教皇がフランス王の干渉を受けるという「教皇のバビロン捕囚」という事件も起こっている。
しかし、ドイツだけは違っていた。---と言っても、当時はドイツなんていう国はなかった。正確には神聖ローマ帝国である。これは今のドイツ・オーストリア・チェコなんかを含む帝国であり、そこには一応形ばかりの皇帝がいた。実質的にはドイツは約三百の領邦と呼ばれる国家に分かれ、そこをユンカーと呼ばれる殿様が支配していた。ユンカーとは文字通り日本語で「殿様」というくらいの意味である。これは、江戸時代の日本を考えると分かりやすい。領邦とは、日本で言うならば「藩」である。明治以前には日本国などという国家は存在せず、藩こそが「国」であった。そしてそこを大名(ユンカー)が統治していた。そして皇帝に該当する者として将軍様がいた。これは俗権の話であり、聖権としての教皇がヨーロッパにはいた。教皇ほどの力はなかったが、日本にも天皇がいたのと似ている。また、諸侯の下にはそれを支える多くの騎士がいた。
イギリスやフランスなどで王権が伸張してきたのとは違って、神聖ローマ帝国(ドイツ)では、皇帝になるためには教皇の塗油が必要であった。だから依然として教皇の権威が残っていたのである。だからユンカー達は教会からの搾取を嫌っていた。農民も騎士もそうであった。そのためにドイツは「ローマの乳牛」と呼ばれていた。
ドイツでは何年かに一度帝国議会が開かれたが、開かれるたびに諸侯(ユンカー)や帝国都市から苦情が寄せられた。それは聖職者の贅沢や免罪符のこと、初収入税や外国人の聖職者への任命のことなど、ローマの教皇の支配に対するものであった。
(二)修道士。
多感な少年時代を過ごしたマルティンは、やがて自宅から離れ、マルデブルク、そしてアイゼナハへ移り、そして十七歳の時に名門エルフルト大学に入った。父の意向通り法学を学ぶためであった。それが立身出世の近道だったからである。成績も優秀であった。そして一五〇五年にはロースクールに入学した。こうして法律を学んで役人になろうとしていたマルティンに、同じ年の夏、事件が起こった。
マルティンは人文学部修了の休みを利用して郷里に両親を訪ね、エルフルトへ帰る途上で雷に遭った。雷はマルティンの近くで光ったと思いきや、間もなく大音量で鳴り出した。馬に乗っていた彼は直ちに馬から降りて近くの木陰に避難した。しかし雷は鳴り止まず、徐々に近くで聞こえてきた。そして落雷が一本の大木をなぎ倒した。あまりの恐ろしさのためにマルティンは「聖アンナ様、お助け下さい。私は修道院へ入りますから」と言った。するとしばらくして森の天気が変わり、雲は雲散霧消して太陽の光が見え始めた。こうしてマルティンは父親の反対を押し切って修道院へ入ってしまう。
ルターはこのように述懐しているが、それだけではなかった。彼はとにかく最後の審判で地獄へ行くことを避けたかったのである。それは彼が少年時代に受けた両親の影響もあった。両親は信仰深い人間であり、鉱山の守り神であった聖アンナを崇拝していた。聖アンナは聖母マリアの母であったが、それは聖書には登場しない。全くの迷信であったのだ。しかし、その両親の影響からマルティンは神を畏れる青年へと変貌していた。特に司教座付属学校で見た船の絵が彼に恐怖を植え付けていた。先述したように、最後の審判で聖職者だけが船に乗って助かり、庶民はみんな海へ沈んでしまうというものであった。
当時のカトリック教会では正しい行い(勿論、それは贖宥状(免罪符)を買ったりすることも含まれていた)をしなければ天国へは入れないと考えられていたのだ。
元々のキリスト教はそう言った教えではない。我々人間は生まれながらにして罪を犯しているが、イエス=キリストを信じて洗礼(バプテスマ)を受けたら誰でもが救われ、天国へ行けるのである。しかし、当時のカトリックの教えは違っていた。ことさらに「行い」が重視されていたのである。
こうしてマルティンはエルフルトにあるアウグスチィヌス派のきわめて厳格な規律で知られる修道院に入る。
彼には今で言う精神疾患があった。強迫性障害だったと思われている。特に彼の宗教上の不安は大きく、自分が地獄へ行くのではないかという強迫観念に絶えず怯えていた。これは一種の罪業恐怖であり、普通では抱かないような些末なことにも恐怖を抱いた。それは彼が修道院にいる時に最も顕著であった。
マルティンは祈祷と断食とミサに明け暮れた。これでもかこれでもかと言わんばかりに修行に心血を注いだ。祈祷するとなったら何時間でも祈祷室で祈ったし、断食の時には何日も本当に飲まず食わずだった。しかし、彼は救いの確信に到達することができなかった。
修道院には厳格な規律が多くある。彼はそれらを守り通した。徹夜・祈り・朗読、どれをとってみても他の修道士にひけはとらなかった。そして、一年の見習い修行期間を終えて翌年には正式な修道士になった。そして順調に助祭・司祭へと進んでいった。
この当時の彼の師はシュタウピッツであり、マルティンは彼に事細かに自分の犯した罪を懺悔した。懺悔(告解)は罪が許されるためには重要なことであった。聖書的には「もしもあなたが罪を告白するならば神は真実で正しい方ですから全ての罪から私達を清めて下さいます(第一ヨハネ1章9節)」から来ている。
礼拝堂の一角に懺悔室がある。ここでは懺悔しやすいように司祭と修道士との間が壁で隔てられており、そこに窓があって、その窓から司祭は懺悔を聞くようになっていた。
懺悔室に入るとマルティンはシュタウピッツに申し上げた。
「司祭様、私は夢の中で妙齢の女の人を犯してしまいました」
シュタウピッツは「またか」と思った。殺人や姦淫の罪を持ってくるなら分かるが、そんな些末なことはどうでも良かったのである。この男は本当に些末なことまで罪だと思って告解しに来るのだ。しかしマルティンは真剣だったのである。何としてでも地獄へは行かず、救いにあずかりたかったからである。
シュタウピッツは「夢の中で行ったことなど神は罰し給わないから安心しなさい」と言って追い返した。
しかし、しばらく時が経つとマルティンは懲りずにやって来た。
「司祭様、私は昨日調理中にパンを一個盗み食いしてしまいました。余りに空腹だったのです。神はお許し下さるでしょうか?」
「そんな些細なことは神は咎め立てしない」
しかし、マルティンが頻繁に懺悔室にやって来るのには理由があった。中世のカトリックの神は愛の神ではなく、罰する神だったのである。旧約聖書の律法の神だったのだ。それがマルティンには怖かった。「髪の毛一本まで数えられる神(新約聖書に本当にそう書かれている)は、私の些細な罪まで罰する神なのだ」と真剣に考えていた。そして呆れたシュタウピッツはある日、マルティンに言った。
「いいかい、もし神に許して頂きたいのなら親殺しとか姦通とか瀆神の罪なんかをもってきたまえ」
後にルターは述懐している。
「もしも行いによって義とされるならば、この修道士であった頃の自分は完全に義とされていたであろう」
また、マルティンは貪るように聖書を読んだ。法科の学生だった頃には手に取ることさえあまりなかった聖書であったが、人間はどうしたら最後の審判から救われて天国へ入れるのか知りたかったからである。
そして聖書を読むようになってくると一つの疑問が芽生え始めた。それは聖書のどこを見ても「人は信仰によって義とされるのであって、行いによるのではない」と書いてあることであった。これは新約聖書のいたる所に書かれている。例えばヘブル人への手紙十一章では「信仰によってアベルはカインよりも優れた生け贄を神に捧げ---信仰によってエノクは死を経験しないように天に移され---信仰によってノアは---信仰によってアブラハムは---信仰によってサラは---信仰によってヤコブは---信仰によってヨセフは---信仰によってモーセは---信仰によってラハブは---」と信仰によって神から認められた先人のことが事細かく記されている。元々人間は罪深く(それも「義人はいない。一人もいない」とローマ書に書かれているように全ての人間は罪深い。また、律法によっては決して義とされない)、そのままでは天国へ入れないものであったが、キリストが人間の全ての罪を背負って十字架にかけられ、三日後によみがえり、そしてそのことを信じる信仰によって罪が許されて天国へ行けるのではなかったのか?
そう思うようになってきた。所謂「信仰義認説」である。このような考えがマルティンには既に修道士時代から形成されつつあったのである。
ここで誤解を避けるように言うわけであるが、信仰さえあれば行いなどどうでもよいと聖書が言っている(勿論ルターも)わけではなく、先ずは信仰があって、行いはそれに付随するということである。また、行いに関しても当時のカトリック教会が言っていた行いとはローマ教会のために善行を積むことであった。例えば修道院に入って祈祷と断食と徹夜などに時を費やすこと、贖宥状(免罪符)を買ったり初穂税を教会に納めたりして金銭的に教会のためにお金を費やすことなどがそれであった。
しかし、聖書で言う「行い」とはそういったことではなかった。神への愛と隣人愛に基づいて姦淫・わいせつ・好色・魔術・偶像礼拝・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・妬み・泥酔などから遠ざかり、喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制などに心を尽くすことである(ガラテヤ5章)。戦争や賭け事にうつつを抜かしているローマ教会のために多額の献金をすることではない。そんなことは聖書のどこにも書かれていない。贖宥状を買ってローマ教会を潤す余裕があるならば、貧しい人々を助けた方が主イエスはお喜びになるはずだ。
そのように考えるようになってきた。
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