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猫のいる家
(序)
生まれた時から「それ」はいた。まだ両親ともに健在で兄と妹と祖父が同居する大家族で暮らしていた時のことである。
ミーという名だった。どんなモノなのかは記憶にない。しかし私がまだ生まれる前から居た。私はそれを抱えてよちよち歩いていたことを記憶の彼方にかすかに覚えている。私はまだ子供だったので、その生き物が象かカバのように巨大な生物に思えた。それを抱くというのでもなく、膝に乗せるのでもなく、後ろからその両腕を抱えて引きずって歩いていた。それは嫌な顔一つ見せなかった。それが猫という生き物でることはその後知った。
その猫がいなくなったのは家に犬が来てからだ。私には4歳上の兄がいたが、兄はなぜか犬好きで、一匹の真綿のように真っ白な雑種の雌犬をどこかから拾ってきて飼い始めた。その犬は「シロ」と名付けられた。
子供の頃の私の家には鍵というものがなかった。田舎の家というのは大抵がそうであった。こんな田舎に来る泥棒もいない。だから鍵をかける習慣もなかったのだ。のどかな段々畑と水田の広がった所に兵庫県では最も舗装状況が悪いという県道が家の前を通っていた。野良猫や野良犬は至る所にいた。そうして「シロ」がやってきたのだ。
どうもミーちゃんはそのシロに追いかけ回されて家を出て野良猫になってしまったらしい。それ以来、うちに来る猫は全て「ミー」と名付けられた。
「うちに来る猫」と言ったのは、どの猫も買ってきたわけでももらったわけでもなく、勝手に家に上がり込んできたものだったからだ。初代のミーちゃん以降、様々な猫が家にやって来ては住み着いた。どれもこれもミーと名付けた。ある時などは二匹の雌猫がやってきて、勝手にお産をし、十匹以上の猫がいたことがあった。当時は避妊手術など受ける猫なんか田舎にはおらず、こういうことになってしまったのだ。この十匹の猫には全て名前をつけて可愛がっていた。
私には幼い頃の記憶というものが全くない。おそらくは、トラウマになるような記憶ばかりだったので、意識の片隅に押しやってしまったのであろう。特に人間のことはほとんど記憶にないのだ。どんな友達がいて、どんな遊びをしていたかも定かではない。ただ、4歳下に妹がいた。そして、この妹とともに猫で遊んでいたことだけはあたかも昨日のことであったかのように明瞭に覚えている。
ある日のこと、どの猫か忘れたが、妹ととともに猫と遊んでいた。そこへ大きな犬がやってきた。庭先に侵入した犬は小さく開いた縁側の、ガラスの開き戸から鼻を入れて中を覗き込んだ。そこには猫がいたのだ。そして私と妹が見ていると猫が急にあの「ふー」という声で怒りだし、戸口から少し入っていた犬の鼻を引っ掻いた。たまらなくなった犬はキャンキャンと言いながら道路を横切り、段々畑を目指して一目散に逃げていった。私も妹もそれを見て大笑いした。子供の頃の楽しい思い出だった。
家で飼った猫の数はこれまでに何十匹もいたであろう。中には可哀想に一年で死んでしまった猫もいた。家族が小学校の運動会から帰宅すると玄関先で死んでいたのである。「あらあらミーちゃん、こんな所で寝て」と母親が言って近づくと息絶えていた。恐らく、当時はホリドールとか言った強烈な毒性を持つ農薬を平気で散布していた時代だったので、それにやられたのだろう。後に知ったことであるが、猫の死体の始末は母親がしていた。山の中へ分け入ると十字架が立っており、そこが猫や犬の墓場だったようである。なぜ十字架だったのかというと、母親がクリスチャンだったからだろう。その十字架の所在を兄や妹は知っているが、私は知らなかった。現在は母の後を継いだわけではないが、私もクリスチャンになっている。
(一)
家に猫が何十匹もいた時のことである。「鼻黒」と名付けた子猫が行方不明になった。そしてどこへ行ってしまったのか全く足どりが掴めなくなった。
とにかく田舎の家で猫を何十匹も飼うのはやはり無理があった。父親の職業は小学校の教師、母親はパートに出ている。祖父が一反七畝の小さな田んぼと猫の額のような畑を耕している。それが一家の生計を支えていた。そこで子猫をもらってくれる家を探したが見つからなかった。田舎のことだから、数匹の猫は何とかなったが、どうしてももらい手がつかない猫がいた。仕方なく両親は親猫とともに子猫も車のトランクに乗せて隣の村まで捨てに行った。そうして暫く家に猫がいない日が続いた。
そしてある日のことである。犬のシロに追われた「鼻黒」が舞い戻ってきて、犬から身を守るために玄関の軒先に登った。白黒斑の模様とその黒い色が鼻まで伸びているのはまさに鼻黒である。
「あ!鼻黒や!」
妹の声に私が飛んできた。両親も見に来た。行方不明になって「捨て猫」になることを免れたその「鼻黒」だった。これが第十代めのミーちゃんになった。
その後も猫はやってきた。やって来るたびに飼い、時に捨てることもあった。
そして、鼻黒を、何のためであったか忘れたが、捨てることになった。父親は猫を車のトランクに詰めて十キロ以上離れた町へ捨てに行った。その町から家に至るには小高い山をいくつも越えなくてはならなかった。だから戻るのは不可能だと思われた。
猫を捨てた父親はため息交じりに言った。
「何でも嫌な役をするのは俺や。やけんど、これで帰って来るようならば飼ってやるけどなあ」
そして私は大学生になって家を出た。兄もとっくに二浪して大学生になって家を出ている。
そして私が大学の一年生の時に奇跡が起こった。
*
私が下宿で休んでいると家から電話がかかってきた。下宿には一台しか電話がなかったので、同じ下宿の京大生が電話を取った。
「○○さん、家から電話ですよ」一階から大声で叫ぶ京大生の声に一抹の不安とともに「またか」という不穏当な感情が巻き起こった。両親は何の用事もないのに一人暮らしを始めた私に電話をかけてくることがよくあった。「いいかげんにしろ」と思うと同時に「もしかしたらじいさんか誰かが死んだのかも知れない」とも思った。「はーい」一階に降りてきて面倒くさそうに電話を取る私。そして電話口の向こうから父親の普段の声が聞こえてきた。
「猫がなあ、帰ってきたぞ」
「猫言うて、あの捨てた鼻黒か?」
「そうや。びっくりした」
この猫は車のトランクに詰めて十キロ以上離れた町へ捨てに行った猫である。そんな猫が戻ってくるなんてことがあるのだろうか?しかし、野を越え山を越え戻って来たというのだ。私は我が耳を疑ったが、どうも本当らしい。
「『戻って来たら飼ってやる』と言うてたから飼うんやな?」
「ああ、そりゃ飼う」
後で母親から聞いた話であるが、「鼻黒」のような声が家の中から聞こえたので行ってみると炬燵にちょこんと座っていたので驚いた母親は「ミーちゃん」と言って猫まんま(当時はキャットフードなんかなく、ご飯に味噌汁と魚の骨を混ぜたものを猫に与えていた)をあげるとガツガツと食べ始めたということだった。
その年の夏休みに私は帰省した。家は島にあるのでフェリーで帰り、父親の車で港から家へ帰ることになった。高校生になった妹も車の中にいた。見たこともない雑種の猫を連れていた。藤猫というのだろうか?茶色の毛並みの猫だった。
この茶色い猫からは私はどうも好かれていなかったようである。ある日、この猫を抱いて寝ようとしたら布団に入れた途端に嫌がって、私の腕を引っ掻いた。あまりに強く引っ掻いたためか肉までえぐれ、血が噴き出した。そこで私の愛情は鼻黒に注がれることになった。
この鼻黒が第十代のミーちゃんで、藤猫はちびニャンと家族の者が呼んでいた。残念ながら二代目から九代目までのミーちゃんはすぐに死んでしまっていたのであまり記憶にない。
ミーちゃんはどうもこの藤猫の「親分」だったらしい。猫としての生き方をちびニャンはミーちゃんから教わっていた。
ある日のことであった。裏庭に目白がやってきた。天然記念物である。こんな鳥が田舎の家にはよくやって来ていた。それをミーちゃんは台所の開き戸から眺めていた。チビも一緒に眺めていた。---と思った瞬間、ミーちゃんは韋駄天のごとく窓から出て行き、目白に襲いかかった。目白は絶命し、ミーちゃんとチビのご馳走になってしまった。猫というのは飼われていても野生を多く残している動物だとは聞いていたが、まさか天然記念物を夕餉の食卓にするとは思ってなかったので、私は驚き、かつ感心してしまった。
こんなことを言うとミーちゃんは勇猛果敢な猫のように聞こえるかも知れないが、実際は違った。
ある日、ミーちゃんは少しがらの大きな猫に追いかけられて門柱に登った。そしてその、恐らくは野良猫と暫く「うー」と唸り合いをしていたかと思った瞬間、ミーちゃんはお漏らしをしてしまっていた。そして、それ以来この野良猫はミーちゃんを追いかけるのが面白くなったのか、いくら追い払ってもやってきた。そして時たまミーちゃんと壮絶な死闘を繰り広げた。---と言っても情けのないことにミーちゃんは怖じ気づいて逃げるばかりであった。そしてある日、ミーちゃんの背中がぱっくりと野良猫の爪にやられて割れてしまったのだ。血が滲んで出ている。
猫の生命力というのは驚くべきもので、背中が割れて背骨を出したままミーちゃんは生きていた。そして、血を畳といわず土間といわずまき散らして寝るようになった。また、人間に構って欲しかったのか、その血をまき散らしながら私の足にスリスリをしてくることもあった。当然ズボンが汚れる。だから私はそれを避けていた。しかしミーちゃんは人なつこかった。それを家族の誰もが迷惑がっていた。特に父親の職業は教師である。人前で話をしなければいけないのにズボンが何者かの血で汚れているとなったら生徒や同僚の教師から何を言われるかわからない。父親は格別お洒落という程ではなかったが、服装などには気を遣っていたのだ。
そこで、この猫を初めて動物病院へ連れていくことになった。連れて行ったのは私の母親である。猫籠の中にミーちゃんを入れて車に乗せて町の動物病院へ連れていった。
動物病院に着くや否や人の良さそうな獣医が出てきた。犬猫病院の医者は白衣を着けていて、一見すると人間の医者と区別がつかない。
「うわー。これは喧嘩ですね。雄同士はよくやるのですよ。オシッコでマークをつけたりしていませんか?」
「いえ。この猫はもう一匹の雄と一緒に飼っているのですけど仲が良いですよ。喧嘩もしたことがありません。よその猫がきてやるのです」
「うーん。とにかくこの背中、骨まで見えてますねえ。こりゃひどい。とりあえず縫いましょうか?」
こうしてミーちゃんは背中を縫ってもらったが、二~三日すると糸が切れてまた背中から骨が飛び出す始末であった。こうなっては仕方がない。このまま飼ってやるか?
そう家族の者全員の賛成で事が決まり、背中の骨を出したまま飼うことになった。父親が「帰ってきたら飼ってやる」という約束を猫としていたのだから仕方がない。
しかし、この猫、大変頭脳明晰で、言われたことはきちんと覚えた。犬のように「お座り」や「お待ち」なども覚えたのである。
そんなある日、妹が鳥かごに小さなインコを入れて帰ってきた。すると、この猫、何度もインコに飛びかかろうとしたのだ。「いい餌を連れてきてくれた」と思ったのであろう。 また、この猫は猫のくせに犬のように「おすわり」や「お手」を覚えてしまっっていた。だからこのインコを鳥かごに入れて持ってくると余程欲しかったのか、いい夕餉だと思ったのか「おすわり」をしながらニャーニャー鳴いていた。家族の者はその猫のあさましさにほとほと困り果てているという感じであった。
*
やがて私は大学のある京都へ帰らなければならなくなった。後期試験か何かがあったのだろうと記憶している。
そして、また下宿の電話が鳴った。父親からである。今度は私が電話を取った。そして開口一番、父の声が言った。
「いやー。こんなこと言うたら縁起が悪いと思ったんやけどなあ---」
「(縁起が悪いで直感が働いた。猫が死んだのだろう)」
「ミーちゃん死んだわ」
そして春休みに帰郷した私は母親から事の次第を聞くことができた。ミーちゃんは老衰であった。台所で声をかけると「ミャー」と弱々しく鳴いていたが、やがて声もしなくなり、土間で亡くなっていたということであった。
しかし運命の悪戯というか、最初は逃げ出したことによって捨てられるのを免れ、二度目に車のトランクに入れて何十キロも離れた所へ捨ててきたというのに舞い戻り、そして背中に致命傷を負っても生きていたのだ。何とも業の深い猫であった。
やがてチビニャンもどこかへ姿を消してしまった。猫は死ぬ時は人に知られない所へ行くというが、どこで亡くなったかは分からなかった。
こうして我が家は「猫のいない家」になってしまった。その代わりに犬がやってきた。シェパードと雑種の混ざった犬で、もしも耳が立っていれば完全にシェパードだと言い張れるのだが、実際には耳が垂れており、雑種であった。雌なのに「タロー」という名がつけられた。
しかし、私にとっては猫がいてこその家であり、猫のいない家なんか考えたこともなかった。
私はかつて中国とエジプトに行ったことがあるが、この二つの国には大きな違いがあると感じていた。双方とも歴史の重みを感じる国なのだが、何かが違う。エジプトでは時はゆっくりと流れており、何か落ち着いた感じがしたのだが、中国は違った。拝金主義が横行し始めたためか、誰の顔を見ても忙しく立ち働いているという感じがした。最初は思い過ごしだと思ったのだが、やがてその理由がわかった。
「猫」である。
カイロの町にはいたる所に猫がいた。猫は古代エジプトの時代から神聖な動物であり、ミイラの入った棺の中には猫のミイラも収められていた。猫の彫刻も古代エジプトでは珍しくはない。だから、猫が市場の中を平然と闊歩していて、それを誰も追い払おうとはしていなかった。
一方の中国では猫は見かけなかった。どうも文化大革命の時に「食べるわけでもない猫を飼うのはブルジョアだ」と言って猫狩りが行われたらしい。それが原因か否かは不明だが、上海には猫がいなかった。世界最大のビジネス街では猫をついに発見することができなかった。だからみんな鶏のように忙しく立ち働いていて、本当に鶏が餌をついばむように「マネー、マネー」と土をあさっているように見えたのだろう。
とにかく、我が家から暫く猫が消えた。
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