【 Miss the last opportunity】

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【 Miss the last opportunity】

 量子力学の範囲内ではあるが、[量子テレポーテーション]という物理的現象を表す言葉がある。  所謂、実際の瞬間移動としてのテレポーテーションの言葉の意味ではないが、量子力学ではそのような用語が存在する。  量子エンタングルメント(量子もつれ)やEPRパラドックスなどの、ミクロの世界における物理的作用をもってして、情報の送信を「超」光速化する現象を備えた装置の中で起こりうるフェノミナン。  つまり、そのデバイスこそが量子コンピューター。  国際宇宙研究所はそのような精度の高い量子コンピューターの発明、完成を目指したプロジェクトを始めた。  まず第一として、光よりも速く(早く)情報を伝えること。  量子力学の奇妙な現象で、同時に同じ場所を測定できない、という一言すると摩訶不思議な論がある。その原理に従いこの量子テレポーテーションを解釈すると、とある測定(ベル測定)をすると、送信者の情報は送ったと同時に破壊(消滅)され、受信者にのみその情報は残るという事になる。  そのような量子テレポーテーションの原理的なシステムの確証に近い実験をするために、海王星有人宇宙飛行計画は始まり、光速度により近いロケットにより実験はなされていた。  光速度以上の通信は可能か、と。  ただ、そのような事よりもボブとアリスは出会いたかった。  アリスは国際宇宙研究所で働く女性技術者。  ボブは海王星有人宇宙飛行計画のロケットに乗る唯一のパイロット。  アリスが一定間隔で情報を送信し、ボブがその情報を受け取る受信側。その際の量子テレポーテーションによる伝達の正確性が、今回のプロジェクトの肝であり、ボブとアリスの意思の疎通、つまり、「声」を媒介にして伝達して、それは試されていた。言ってしまえば、他愛のないお喋り、程度の事ではあるが。  だが、時にその情報、つまり、声、の伝達速度が光速以下である事があれば、時に量子テレポーテーションの論理に従い、情報を超光速で伝わる事もあった。量子力学は古典物理学の基礎の、必然、ではなく、その土台は、確率、によって敷かれている。量子テレポーテーションの効果も絶対性が無いという部分では同じだった。  しかし、二人にとってはもはや実験の成功の合否よりも、二人のこれからの人生の合否の方に気持ちは傾いていた。  アリスはボブの許嫁だった。二人はそんな仲だった。だからこそ二人早く再会し抱きしめ合いたかった。  そんな願いも通じて、ボブの長かった宇宙旅行も復路に向かい、着実に地球へとロケットは戻って行っていた。  プロジェクトの終わりは近い。  ボブもアリスもそう感じていた。  ボブの乗るロケットが地球に近づくにつれ、光速度で伝わる情報は時間的に送受信が早くなり、また、量子テレポーテーションで繋がる情報は一瞬のタイムラグもなくリアルタイムで届く。国際宇宙研究所とボブの乗るロケットは量子テレポーテーションと電磁波、つまり、光の通信の両方を駆使しながら連絡を取っていた。 「そうなのよ、ボブ。あのクレアに彼氏が出来たのよ。信じられないわよね。勉強一筋のお堅い女教授を地でいき、疎い男はバカにして、さらにはジェラシーの塊のような彼女が」 「きっと彼氏の方が知性があって寛容で真面目なんだろ」 「あの我の強いクレアが、そんな素敵な男の人を見つけられると思うの?」 「何言ってるんだい。[あの]クレアだからこそ見つけられるんじゃないか」 「そうか。そうか。うふふ」 「あはは」  まさしく井戸端的会話。だが、この会話がスムーズに行われる時は、量子テレポーテーション通信がほぼ成功している証左となる。つまり、距離と時間のラグのない超光速通話。  だが、一方で途中で通信のテンポがおかしくなったり、途中で止まったりすると、量子テレポーテーションがうまく機能してないという事を不確実性で示し、改めて光速通信、所謂、通常の電磁波の光によって通話し直し、時間差のある会話をする。  要は量子テレポーテーションを介してのコミュニケーションはあくまで確率的で、実際には単なる一時的な機械トラブルなのかも知れないが、それすらも実験の「確率」の想定内の事象なので、原因や真実は分からない。  詰まる所、この壮大な実験は、量子テレポーテーションの確実性、精度の信頼性を追認し、量子コンピューターの特化型ではない汎用性を広く敷衍する事であって、量子テレポーテーションの効用云々がどうよりも、量子コンピューター自体の現時点での性能の尺度を計っているいる事が、最重要課題。  しかし、結局は未知数始まりのプロジェクトであるが故に、何の基準や目的があって成功か否かは、とりあえず無事に、宇宙飛行士のボブが地球にたどり着けば、実験の成就の要件は満たしている、と国際宇宙研究所サイドとしては考えていた。  事実、今回の宇宙飛行自体には何のトラブルもなく、プロジェクトも終盤を迎え、各々の所員もだいぶ緊張がほぐれ、むしろボブの帰還パーティを計画する事に躍起になって、和気あいあいの様相を呈していた。もうすぐ国家規模の一大プロジェクトが終わる。そんな達成感と自負が、プロジェクト終了を先回って、関係者各位の脳裏によぎっていた。  それはボブもアリスも他ではなく。 「近所のSマートが移転しちゃって、もう車じゃないと行けない距離になっちゃったのよ」 「驚いちゃった! クレアがテニュアの資格を取ったのよ。私も勉強してMBAの資格でも取ってみようかしら。うふふ」 「最近、野良のネコちゃんが家の周りに増えちゃってさ、可愛いんだけどバイクのシートの上とかにおしっこしたりするのよ。暖かくて居心地が良いのか分からないけど、ちょっと臭って困ってるのよね」  日常の些末な出来事を、さも子供に絵本を読む母親のように、声音も抑揚をつけて楽し気に話すアリス。量子テレポーテーションの通信が調子良ければ、リアルタイムで二人は会話できるので、ボブも僅かながらの臨場感をもって笑顔で聞きながら相槌を打つ。  一方で、そんなアリスが無邪気にお喋りに腐心する中、ボブは時折別の思考を働かせていた。  地球に到着したら、真剣にアリスとの結婚を考えなければならない、と。  まだ具体的な求婚をしたわけではないので、マリッジ・ブルーという意味ではないが、自分自身が本当にアリスを一生愛し続けられるかが不安だった。実は内省的で口下手なボブは、アリスとは長い付き合いとはいえ、愛してる、と今まで面と向かって言った事がなかった。  愛してる。その一言すら告げられない自分が、真にアリスを愛してるのか?  情けない話だ、とボブは自嘲気味になりつつも、それがボブにとってのアリスへの想いの枷となっていた。こんな男が彼女にプロポーズなど出来るのか、とも。  兎に角、ボブはアリスと話す度に、地球に近づくにつれて、宇宙飛行の達成の如何とは関係のない、一抹の不安を抱いていた。機微ほどの事ではあるが。  だが、そんなボブの胸襟とは他所に、ボブの宇宙飛行、というよりもプロジェクト以外の事で僅かな、揺れ、が始まった。 「……こんな事を今言うのは何だけど、ちょっと私、病気に罹っちゃって入院して、今は研究所にいないのよ。病室から小型の通信機を私が使って、それを研究所の通信室に繋げて話してるの。いったんワンクッションをして、私たちは会話してるという事ね。あ、でもプロジェクトには支障ないから大丈夫。私の病気? まだよく分かってはいないけど、大丈夫よ。たいした事ないわ」  突然のアリスからの入院の告白。  大事ではない、とボブはアリスから聞くも、その後の通信会話でも、どうにも気を張って無理しているような声がに聞こえる。呼吸が乱れている感がある。ボブは幾度も会話の中で、気遣いをしているが、アリスはかたくなに、大丈夫、といって自分の病気や病状を詳しく話す事はなかった。ボブが時に執拗に尋ねてみても、アリスは言葉を濁すだけで自らの病に係る余計な話はしなかった。  さすがにボブも気づき始めた。顔は見えずともその話す態度や弱々しい声音で、アリスは大病を抱えている。しかもそれは命に関わるほどである、と。さらにボブは最悪の想像をした。アリスは不治の病に罹り、今まさに余命を削ってるのではないか、とも。 「アリス……」  ボブは独り言を呟き、何もアリスに出来ないでいる自分に憤った。そして、アリスの病状に失望している悲観的な自身にも悔悟した。  だが、アリスとの会話の回数は減り、いつしかアリスとの会話は途切れ、代わりに所長がボブの通信相手になった。所長が言うには、アリスは集中治療室に今は入っているので、そこから退室したら、また元通りアリスと会話が出来るようになる、と言うだけでアリスの具体的な状況については細かく答えてくれなかった。  もはやボブ自身も自らの最悪な勘が現実化し始める事に確信を持ち始めた。  アリスには時間が無い。間に合わないかも知れない。  地球には確実に近づいている。だが、まだ時間はかかる。もしかすると自分が地球に着く頃には、アリスは既に……。  ボブは暗黒空間を切り裂く超高速のロケットの中で、世界の科学の英知を集結させたプロジェクト実行している中で、自らの矮小さと無力さを覚えた。  愛する人が苦しんでいるのに、その人の側にすらいる事が出来ない自分を。  苦悶、煩悶、そして、懊悩するボブ。  どうすれば良い? 何が今の俺にはアリスに出来る? しかし、この宇宙空間では何も出来ない。  ジレンマ。ボブは急ぐ思い、焦れる思いとともに、自分が今なすべき事を考え、見つめ直した。  そんな時だった。アリスからの通信が来たのは。 「ボブ……もうすぐ地球に着くわね。凄いわよ、あなたは。私の誇りです。ただ、ちょっと私はあなたを出迎える事が出来そうにないの。ごめんなさいね。だけど、私はあなたに会えて本当に幸せだった。何よりも楽しかった。人生が変わった、と言っても大袈裟ではないわ。だから、あなたはあなたのこれからの人生を大切して……私の事は思い出に……いえ、しばらくは私があなたの思い出になれたら嬉しいな。時々、思い出してくれれば。そして、いずれ私の事を忘れた時に……」  そのアリスの独白の途中に通信は途切れた。台詞の後尾は涙声だった。  ボブはすぐさまアリスへの応答をした。量子テレポーテーションが機能すれば、タイムラグなく自分の声が伝わる、と一縷の望みを賭けて。 「アリス! アリス!」  ボブの悲痛な叫び。だが、応答はなかった。つまり、光速度通信によるアリスの言葉であって、その言葉はだいぶ前の地球時間のアリスの伝言であった。 「アリス……」  その時、ボブの元に送信会話を受信した。 「アリスか!」  ボブは感情を抑えきれずマイクに唾も露わに付けて吠えるように吐いた。 「私だ」  聞き置覚えのある、野太く低く貫禄のある声。ボブは肩の力が抜けるとともに、緊張感が緩む自身を覚えながら口を開いた。 「所長、ですか」 「ああ、任務の方は順調に進んでいるようだな」 「そうですね。今している通信は量子テレポーテーションを介しての通信ですから、そちらの方も精度が上がっているようですね」 「うむ」 「実は先ほどアリスから連絡がありましてね。ただ話の最中で途切れてしまって。だけど通信が出来るようになったという事は、アリスは退院でもしたんですか」 「何? アリス君から送信があった、だと。そんな馬鹿な……」 「いえ、量子テレポーテーションでの通信ではなく、光通信によるものだと思うので、かなり前のアリスからの送信を受信した、つまり、過去のアリスの言葉を受け取った、と」 「そうか……じゃあ、恐らく手術前のほんの僅かな時間の中で……」 「手術?」 「あ、いや……」 「アリスは言ってましたよ。俺を出迎えそうにない、と」 「…………」 「所長……」 「このような時に、言うような、いや、言えるような事ではないんだが、実は……」 「待って下さい、所長。それ以上言わないで下さい」 「え?」 「ただアリスに伝えてくれませんか……愛していた、いえ、愛している、と」 「…………」 「お願いします」 「了解した」  短い沈黙の後、互いの交信は終わった。  ボブは大きく深呼吸をすると、殺風景な操縦室に座っているイスに深く背をもたれて、アリスとの思い出を頭の中で起こそうとした。  だが、とめどなくボブの瞳から流れる涙が、なかなか彼の脳裏にアリスの風姿を浮かべさせない事を余儀なくさせた。                           了
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