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「葵様 お茶が入りました。」
「うん、ありがとう。」
「葵様 お食事の準備が出来ました。」
「あぁ、すぐ行くよ。」
「葵様 お風呂が沸きました。」
「分かったよ。」
朔弥は素晴らしい寡夫であり、私の守り人である。彼は粗相をしないが今は言われた事しか出来なくなっていた。
我が国に西洋の文化が多く輸入されるようになった昨今、ロボーという小さな機械もこの国に持ち込まれた。なんにでも使える精密機器で科学者達は遅れを取るまいとこぞって研究を進めていた。
あらゆる実験が行われる中で、ロボーを使った人体実験も行われており人の体にそのロボーを埋込んで臓器機能を代替させる事が可能だという事が分かった。私はまだ実験段階であったその機械を朔弥の心臓に埋め込ませた。
戦いの最中敵から発砲の攻撃を受けた私の身を庇って心臓を撃ち抜かれ、瀕死の状態に陥った彼をどうしても諦める事が出来なかったからだ。
私は力を使って研究者達に命じて手術を行わせ、朔弥は一命を取り留めた。いや、本当に取り留めたと言っていいのか分からないけれど、その肉体はこの世に留まる事となった。
だが、私の血と自身の血を循環させて生きている機械仕掛けの心臓を持ち異質な存在となった朔弥は元の朔弥ではなかった。
一旦死にかけた所為なのか、ロボーという機械を通して身体を動かしているからなのか、感情というものが欠落していて、言われた事しか出来ない人間になっていた。
命じなければ何もしない朔弥に私は色んな事を命じなければならなかった。
寝間着から着物に着替えなさいと言わなければ着替えない。眠れと言われなければ眠らない。何時に起きなさいと言っておかなければ起きない。
何度も繰り返して、昨日と同様に過ごしなさいとそう命じる事で彼はやっと日常生活を過ごせるようになっていた。少しずつ感情を取り戻して行っているような、やはり何も変わらないような日々だが私は朔弥が居ればそれで良かった。
だが声や所作は今までと同じなのに、もう朔弥ではないようなその表情に私はいつまでも心を痛めた。
愛しいものを側において置きたい強欲から彼を死の淵に宙ぶらりんにしたままずっと苦しめているような罪悪感と、しかし傍に居るだけで感じる安心感に板挟みになりながら日々を過ごし、前の様に笑わない彼をどうにか笑顔にしたかった。
「朔弥、笑ってみなさい。」
「はい、葵様。」
筋肉は動き口角が上がるがそれは本当に只の筋肉の動きだけで、笑うという事を認識出来ていない。
「もっとこう、自然に!」
「はい、葵様。」
だが何度試しても笑うという事が出来ずにいる。
彼は笑えと言わなければずっと憂いた顔をしていて、なんとも言えない寂寥感に襲われて辛い。
果てるべき命を引き止められ醜い世界に居る事がさぞ辛いのだと言わんばかりにいつでも憂いている。
いや、それは私がそう思っているだけなのだろうか。
*
「今日は一緒に研究室へ向かう。車を呼びなさい。」
「はい、葵様。」
月に一度、研究室で私の血を輸血しなければ朔弥の血色が濁る。今日は輸血をする日だ。
誰の血でも良いのだと言われたのだが、私は私の血でなければ嫌だった。
血を抜かれるとふらふらするが、その代わり新しい血を入れられた朔弥は元気になる。
それが堪らなく嬉しかった。
私の血で彼は生きている。
私の所為で奪われようとした命を、私の血で救っている。
私の欺瞞は満たされていた。
そして今日も研究室のベッドでそれぞれ横になり、輸血用の針が刺され、チューブを通して私の血が彼に流れて行く。
私は横になったまま朔弥を見た。
よかった、彼の血色が如実に良くなって行く。良くなるのだと分かっていても毎回彼の様子が心配だった。
天井を見る彼の目からふと一筋涙がポロリと溢れた。
「朔弥!どうした?痛むのか?」
朔弥は頭だけをこちらに向けた。
「いえ、葵様、痛くはありません。」
泣いた朔弥を不思議に思った。今まで涙を流した事はなかったから。
「葵様、私がいないと寂しいですか?」
「朔弥?!お前…感情が戻ったのか?!」
「私が居ないとお辛いですか?」
「あぁ、朔弥、お前が居ないと私は生きた心地がしない。傍に居てくれ。」
「葵様、これ以上お身体を犠牲にしないでください。」
「何も犠牲になどしていない。私はお前に血を分けているだけではないか。血は毎日作られるのだぞ。心配するな。」
「いえ、葵様の血はどんどん薄くなっております。一ヶ月ごとに大量に分け与えるものではありません。」
「だが、そうしないとお前が腐って行くではないか。」
「私は一度死んだ身です。どうして守ろうとした人の命を食い潰しながら己が生きたいと思うでしょう。」
朔弥は初めて自分の意思で動いた。腕に刺さる注射針を抜いて、そして立ち上がると俺の注射針もそっと抜いた。
「何を!?まだ輸血は完了して居ないぞ!」
「葵様、私はもう十二分に生かして頂きました。どうかお身体を、私が守ろうとした命を無駄にしないで下さい。」
「この命、私がどう使おうと私の自由だ。」
「いえ、あなたは伊集院家の当主。その血は守らねばなりません。どうか、どうか、生きのびて下さい。私の為に命を無駄にしてはなりませぬ。私が守ろうとした命を貴方が守らずしてどうするのですか。」
「だが、朔弥、お前が居なければ、お前が居なければ…私は…。」
「葵様…小さな頃から貴方だけを見つめて過ごしてまいりました。そして貴方の命を守れた事を誇りに思います。
今日、貴方の血が毛細血管の隅々にまで行き渡り、全身を巡り、私は心を取り戻したようです。だからもう輸血はいりません。どうぞこれからは安心して過ごしてください。」
「本当に?朔弥、本当にずっと傍に居てくれるのか?死んだりしないか?」
「死ぬか死なないかは私には保証できませんが、ロボーという機械の心臓は私の肉と血管に完全に繋がったようです。」
そう言って針跡から血を滴らせたまま、自分の心臓を指刺した。
「本当か?おい、医師を呼べ!」
「葵様…。」
「いやだ、朔弥、お前嘘をついているんじゃないだろうな?この葵に嘘や気休めなど許さんぞ!」
「葵様、貴方に嘘などつきません。さぁ、帰りましょう。」
朔弥は私を宥め体を支えながら研究所を後にした。
*
葵の寝床の傍に座る朔弥は憂いた顔をしていた。
「葵様…。」
「朔弥…。もう私も長くない…。世話になった。」
「葵様、嫌です!置いて行かないで下さい。」
「実にお前が長生きしてくれて良かった。私の血を分け与えただけの事はあったな…。笑ってくれ、朔弥。お前の笑顔が見たい」
「はい、葵様…。」
朔弥はゆったりと涙を流しながら微笑んだ。
「ありがとう、朔弥…。お前が居てくれて私は…。」
葵はゆっくり目を閉じてそれ以上喋る事はなかった。
「葵様、葵様!目をお開け下さい!私を一人にしないで下さい!葵様!」
握った手が力を失い、だらりと垂れる。
皺の寄ったその手に頬を擦り寄せ、その手を握りしめる自分の手の若さにゾッとしながら、朔弥は慟哭した。
*
朔弥は殆ど歳をとらなかった。血と酸素を循環させ滞る事なく精密に脈を打つ心臓は、肉体の老化を最小限に留め、止まることがない。
主人の墓石の前でこれから始まる孤独の長さを憂いて朔弥は溜息をついた。
だが守らねばならぬ者が居た。葵の孫だ。小さな手を握りしめて朔弥は呟く。
「葵様、私の心の臓はいつまで動くのでしょうか…。」
「さくや?…おじぃちゃま、ここに寝てゆ?」
「ええ、橙樹様のお爺様はこちらでお眠りになっています。」
「さくや、さみしぃ?」
「ええ、とても…。」
「とうぎ、いっしょにいたげゆ。なかないで。」
「ありがとうございます、橙樹様。」
「やくしょく!とうぎ、ずっとさくやといゆ!」
「それは嬉しいお言葉ですね。」
「やくしょく!」
「ええ、約束致しましょう。きっとあなたがお爺様の元へ行く時まで、私は生きているでしょうから。」
「ほんとう?」
「恐らく…。」
苦笑いしながら、機械仕掛けの心臓に手を当てて、体の中に葵の血が流れている事に温かさを感じ、その温もりよりもさらに温かな小さな手をきっと最後まで見守る事が出来る己の運命に想いを馳せるのであった。
END
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