第一話 宴の始まり

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第一話 宴の始まり

 柔らかな長調のメロディがスピーカーがら流れだすとともに、電光掲示板に車両到着の文字が現れた。  わたしは思わず駅舎の出入り口に目を遣った。ぞろぞろと姿を現す乗客の中に、私の求める顔はなかった。  ――今日はこの時間じゃないのか。  わたしは訝りつつ、携帯を取りだした。スライドショーのトップは制服姿の少女だった。  この少女と、私は今日中に「たまたま偶然の悪戯で」出逢わなければならないのだった。  足元に微細な振動を感じて線路に目を遣ると、ホームに近づいてくる車両の鼻先が見えた。わたしは幾分、焦りを覚えた。たとえ電車が来ても肝心の「彼女」が来ないのでは意味がないのだ。  わたしが「彼女」に関するデータをあらためようと、携帯を取りだした、その時だった。  駅舎の出入り口から、束ねた髪を揺らしながら、若い女性がホームに飛びだしてきた。  視野の片隅に飛び込んできた姿を見て、わたしは心の中で「来た!」と叫んでいた。  資料写真より二年ほど成長していて、装いも私服ではあったが、まぎれもなく「彼女」だった。わたしはさりげなく乗車待ちの列から離れると、視界の隅で彼女の挙動を伺った。  駆け込み乗車であれば、いつもの車両には乗らない可能性もある。だが、彼女はわたしのいる乗車口に迷うことなく進むと、荒い息を吐きながら列の最後尾に連なった。  ――よかった。これで彼女と「偶然」出逢うことができる。  わたしは彼女の後ろから車内に乗りこむと、ごく自然に隣の座席に座った。  彼女がリュックを、わたしがトートバッグを抱きかかえる形で席に収まると、電車はゆっくりと走り始めた。  彼女の名は塚本瑠美。N医療大学に通う女子大生だ。彼女にとってわたしは見知らぬOL風の女だが、わたしは彼女のことを知っていた。  もっとも知っているといっても、わたしが彼女について知っているのは名前と年齢、そしてどこにどうやって通っているか、それだけだ。それだけを頼りにわたしは彼女とすみやかに「知り会わねば」ならないのだった。  わたしの名は松井沙羅。本名かどうかはわたしにもわからない。わたしの現在の後見人である通称「王」から賜った名前だ。  瑠美と知り合うという任務をわたしに下したのも、「王」だった。それがわたしと「王」との契約であり、わたしがわたしである証拠――「王」と知り会う前の記憶を返してもらう「条件」なのだった。  これからわたしは、塚本瑠美が関係している「事件」について彼女から聞き出し、ごく自然な形で「事件」に関わらなければならない。そして「事件」の首謀者を炙りだし、さらに「首謀者」を陰で操っている人間――通称「災厄の王子」を捕えねばならないのだ。  わたしの携帯についている、ナイフの形のアクセサリーが赤く点灯したのは、ほんの三日前のことだった。わたしはイヤホンジャックからアクセサリーを外すと、代わりにマイク付きのヘッドフォンを接続した。自宅に設置されたわたし専用の高性能PC「オスカー」から「指令」を受け取るためだ。 「指令」は必要な情報と共にわたしの後見人である「王」からもたらされる。 「王」は壮年の男性で、本名はわからない。わたしはこの「王」に命を救われ、その代わりに生殺与奪を握られているのだ。  わたしの現在の「人生」が始まったのは数年前、とある人里離れた山中でだった。  何一つ所持せず、下着と全身を覆うボディストッキングだけの姿でわたしは林の中に放置され、意識が戻ったところを「王」と称する見知らぬ壮年男性に救助されたのだった。  わたしはそれ以前のすべての記憶を失っており、事情の一部を知っているらしい「王」からは何も教えてもらえなかった。自我が脆くなったわたしは自分について調べる代わりに、「王」から提示された奇妙な取引に応じることを決めた。  取り引きの内容は、ある人物を探し出すことを条件に失われた記憶を返してもらえる、というものだった。  わたしは当然のように「王」に強い不信感を抱いた。わたしの過去を知っているということは、わたしを山中に放置したのもまた、この「王」ではないのか。  それでもわたしが「王」の提示する条件を受け入れたのは、なぜかそれが私に取って最も「正しく」過去を知るルートであるように思えたことと、「王」が得体の知れぬ人物であるようにわたしもまた、自分自身の過去を「まともではない」と感じていたからだった。  「指令」の内容はある人物――人の心を乱し、事件を起こすことに快感を覚える通称「災厄の王子」を見つけ出し、特殊な薬品を塗った唇でキスをすることにあった。その結果、「災厄の王子」は人格を矯正させられ、わたしは記憶を返してもらえる、ということらしい。 「災厄の王子」は不定期にどこかで事件を起こしており、動きだすと「王」から事件のキーマンとなる人物の写真とデータを渡される。私はそのデータをもとに速やかにキーマンと知り合いになり、事件に関係者として潜入するのだ。  ちなみに「災厄の王子」の外見は目を瞠るような美少年であり、変装の名人でもある。「災厄の王子」は名前を変えて事件の関係者となっているのが通例だった。  わたしは過去、何度か目的を果たそうとしてミッションに挑み、失敗していた。  事件の真犯人を炙りだし、「災厄の王子」を指摘するところまでは何度か行っていたが、あと少しのところで唇を奪うことができずに逃げられていたのだった。  わたしは「王」から特殊な専用PC「オスカー」を支給され、「指令」を受け取るたびに薬品を含んだ口紅と共に事件の現場に飛び込んでゆく。   今回のキーマンは女子大生で、高校時代の写真を見る限り真面目そうな、それでいて強い意志を秘めていそうな女の子だった。資料を一目見た瞬間、わたしは「ラッキーだ」と思った。  塚本瑠美は少なくとも外見上は――どちらかというとわたしの「好み」だったからだ。
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