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・ハゲ丸はボールペンの先でノートの端のスヌーピーの絵を軽くつついてみた。数日前に同じクラスの美喜から借りたノートだ。
ハゲ丸という呼び名はもちろん本名でなく、彼の秘かに想いをよせている美喜が彼の胸の内を見透した、いたずらっぽい目の笑顔で一方的にそう名付けた。彼女は、ハゲ丸の中の名付けられたその名にあがらえない気持ちも、手にとって分かりつくした笑みを浮かべていた。しかし、その時の美喜の笑みには悪意でなく好意めいたものが漂っていた事も、ハゲ丸にあがらうのを野暮な気分にさせていた訳の一つだったんだろう。今なら自分でなんとなく解る。
・ハゲ丸は数日間、学校を休んでいた。
・何年か前に、似たような空気の匂いで似たような柔らかい陽の差し込んでくる机の上で今と同じようにボールペンの先でノートの端に描かれたポケモンの絵をつついていた自分をふと思い出す。叔父の家の叔父の部屋の叔父の机でだった。叔父のボールペンで自分のノートをつつきながら、母から向けられる理不尽な言動にやり場のない憤りをもてあましていた。母はいつもことごとく感情的で言うこと為すことに一貫性がなく周りの人間を振り回してもその度ごと反省の色など見せた事もない人間だった。母の弟である伯父は母とは正反対で、彼の部屋に差し込む日だまりや空気の匂いそのもののように気付けば周囲の人間の気持ちをほどかせる穏やかな気性の持ち主だった。
・今、目の前にあるスヌーピーの絵は、数日休んだ分の授業ノートを美喜から借りた物のだ。机に肘ついてコツ・・・コツ・・と何の気なしにスヌーピーの絵をつつきながら幼い頃を思い出す。
・暑くも寒くもない晴れた心地よい風の吹くあぜ道を伯父と二人で散歩した。幼いハゲ丸は伯父の横を歩きつつ、竹槍に見立てた拾った細い棒切れを荒々しく草むら向かって振り回しながら言った。
「タヌキ見つけて、しばいたんねん。タヌキおらんかな。タヌキを見つけて捕まえてタヌキ汁にして食べてもうたんねん!おかんはタヌキや!」
そう言いながら、なんの役にも立たなそうな細い棒切れを草むらにグサグサと刺していた。
・ハゲ丸の歩調に合わせて、ゆったりゆったりと歩きながら、抑揚のほとんどない口調でハゲ丸を包むような目で見て居ながら
「ここらへんにはなぁ、タヌキはなかなか出てけぇへんでぇ。」
笑いながら言い、少し離れた方向にある川を指差しながら、ハゲ丸の目線と同じくらいの背丈にしゃがんで見せて
「河童の方がおるかもしれんなぁ。せやけど、おっちゃんは泳ぎが苦手やさかい、河童も捕まえられへんなぁ。河童は・・・何の料理にして食べられるんやろ、カッパ巻きか?」
笑って見せて言った。ハゲ丸もつられて笑い
「おっちゃん、ホンマにアッホやなぁ」
と言っているうちに、それまで身体中にグスグスと蠢いて居た厭な感じがほどけていった。
・グスグスしたものが身体の中から消えていくと少し大人になったような気持ちでスルスルと言葉が口から出てきた。
「おかんは赤ン坊なんや。一生、赤ン坊や、きっと俺が大人になっても赤ン坊や。ずーっと心のオムツのとれん赤ン坊なんや。」
「せやったら、お前が、おかんのおかんになったらなぁ。」
「俺はおかんのおかんにはならへん!俺はな大人になったら『グソク虫』みたいな人になったろ思うてんねん。」
伯父は少し怪訝な顔をした。
「『グソク虫』?なんやそれ。」
「海底の掃除をする虫やねん。見た目はゴッツゥ不細工やで、せやけど迫力のある見た目とも言える。悪い事しそうなツラしとんのやけど掃除すんねんで。海底をやで。俺な、なんかスゴい事が出来てる生き物や思うてんねん。」
・伯父は穏やかな笑みに戻り
「おっちゃんにも難しい事、よう分からへん。せやけど、お前がそないな難しい事を考えられる、賢い子やいう事は、よう判る。・・いい・・・」
伯父は足元の草むらに目線を落とし、それをそのまま上げてから、さっきの川の方を眺め水面にチラチラと反射した陽光を見ながら
「・・・いいグソク虫になろう思うたら、ぎょうさん勉強せな、あかんのやろな。」
・スヌーピーのノートをボールペンでコツコツとつつきながら、そんな出来事を思い出していた。だからこそ、ハゲ丸は数日間、休んだ分の授業のノートを美喜から借りて書き写している。
・また、ハゲ丸は、狸のように丸く太った母が伯父の葬儀の時にも、感情に振り回され泣きわめき騒ぎ周囲の人を振り回し困らせていたその様子を傍らで他人事のように眺めつつ実際のところはグスグスとした母への憤りを抑えるので精一杯だった時の事も思い出された。
・最後の別れで見た伯父は痩せ細って笑ってもない顔であったが、棺桶の中の目を瞑っている伯父を見たら、自分の母への感覚はとてもつまらないものに思えてきて、楽な気持ちになれた。
・伯父が火葬されている時、ハゲ丸は
「おっちゃん、俺・・・これから、どないしたらええねん。」
と独りごちた。
・それなのに、不思議な事に数日ぶり学校で会った美喜の無頓着な笑顔を見た途端、なんの根拠もなく大丈夫な気がしてきた。
・たぶん、このところの自分はとても疲れていたのだろう。日だまりの部屋の椅子の背もたれに寄りかかり、ふぅっとため息をついてから、なぜか出できた言葉が
「なんか、バナナ食べたいな。」
~ f i n ~
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