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1.丼の中の宇宙
その日、俺はとても疲れていた……。
ああ、折角だから軽く自己紹介をしておこうか。俺は、もうすぐ三十路になろうかという、一介の名も無き労働者だ。
毎日毎日ド田舎の、文字通り僻地にある食品工場に勤めては、時に地べたを這いずり、時に血ヘドを吐くように苦労しながらも懸命に働いている。
例の如く安い給料だけど、どうにかモチベーションを保ち、自分にできることは可能な限りやっている。確かに、俺も現状に多くの不満を抱いてはいるけれど、どうにか投げ出したりはせずに最善を尽くしているつもりだ。その事については、他の誰にも文句は言わせない。
まぁ、これもまた例のごとくだけど、ウチの職場。労働環境はあまりよくないわけだ。仕事はクレームだらけで、改善しようとしてもお偉いさん方のやる気が無いから、なかなかままならない。職場内はパワハラが横行し、人間関係には問題が多くて常にギスギスしている。会社も色々と、人様には言えないような際どいこともやったりしていて、法令遵守? は? 何それ? とか思っちゃっている。まさしく、とても残念な職場だ。
俺も、どうにかしてこの会社のそういったよろしくない体質を変えていきたいと思ってはいるんだが……。これがなかなか、一介の社員がいかに奮闘しようと、会社を大きく変えるってのは難しいことだ。無力さに、くじけそうになることがしばしばある。悲しい事だな。
当然、ストレスは相当に溜まる。溜まりまくる。人々の心にたまったストレスをエネルギーに変換できたとしたらきっと、発電所要らずの世の中になることだろうな。間違いない。
話のまとまらない無能な上司。
私、仕事してます! ってな感じに意識高い系でポーズばかりで、実際にはまともに仕事をしていねぇ馬鹿野郎な同僚。
こちらが時間を割いて必死にかみ砕いて、かなり下手に出て教えているのにも関わらず、礼儀正しいようでいて実は話をろくすっぽ聞いていないという、中途採用のおじさん。
そういった、見ているだけで怒りが込み上げ、舌打ちをしたくなるような手合いは全体からすれば数こそ多くないのだが、とにかくストレスの原因となる。悲しいことにそういう輩がクビにされずに野放しにされているものだからもう、たまらない。やりきれない。
人間関係に嫌気が差し、辞めていった人の数がなんと多いことだろう。その中にはなかなかの優秀な、得難い貴重な人材だって何人もいたはずなのに……。心底うんざりする。
離職者が多いということは、残っている者達にも多大なストレスを抱えさせる要因にもなるものだ。
え? あの人辞めちまったのかよ! おいおい、何考えてんだ! この会社大丈夫なんか? と、そんなように、大きな不安を抱かせるものだ。教育も無駄になるし、欠員を埋めるのはどのみち残った者の仕事だ。しわ寄せは全て末端に押しつけられる。いつの時代もな。
が、うちのお馬鹿な経営者連中にはそんな現状、全然わかりゃしねえんだろうな。代わりはいくらでもいるだなんて、未だに思っているのだから。そんなん、人が余っていた時代の、企業が図に乗っていた頃の話だ。本当にため息が出るほど前時代的な発想なのだ。まったく。
――あぁ、まぁいい。だいぶ愚痴っぽくなっちまったが、とにかく俺はこれからストレス解消と共に、空腹を満たそうと思っていたところなのだ。それも、格別のご馳走でな。
「こういうときはラーメンだ! ラーメンに限る!」
――ラーメンとは主に、小麦粉でできた麺と各種の具材に加え、醤油や塩、時に味噌や白湯といったしょっぱい系のスープで構成されている食品だ。
それは丼という名の小さな空間に凝縮された、一つの宇宙であるといえるだろう。間違いなく庶民の味方ではあるのだが、金持ちにとってもきっと、好きなものだろう。老若男女、貧乏人にも金持ちにも等しく愛を注いでくれるという、博愛主義の天使様といったところだ。
たかがラーメンだなどと言うなかれ。たとえ同じラーメンであっても、作り手によって、店によって、まるで違うものなのだ。まさに無限の可能性を秘めた桃源郷を、あの丼の中に再現していると言っても過言では無い。
「腹減ったな」
香ばしい醤油と、少々ジャンキーな油が混じりあった匂いが食欲をそそる。ほわほわと湯気をたてたそれはまさに、現世という名の永久地獄に救いをもたらす慈雨のような存在なのだ。食べたい。ああ、早く食べたい……。俺は心の底から、そう思っていた。
「ちっ。無駄によく降りやがる」
――時刻は午後七時を回っていた。俺は、職場の誰もいなくなった更衣室にて、白く、個性のない作業着から私服へと着替え、外へと出てみたところだ。外は真っ暗で、秋の陰鬱な、ザーザー降りの長雨だ。体が冷えてきて、気も滅入る。
俺は、少々ぬかるんだ地面を慎重に、暗い駐車場を端の方まで歩んでいく。そしてやがて、愛車の元に辿りついた。
そこには黒くてちっこい、ヴィヴィオという名の、古い軽自動車が停めてあった。昔の規格なので車高が低くて、更に天井も低い。見た目からして、小さな可愛い車だ。……だが、軽自動車だと侮るなかれ。こいつはスーパーチャージャーを搭載していて、走りはなかなかいい感じなんだ。……その分耐久性には少々難があるんだが、そこら辺はまあ、ご愛敬ってなところだな。
っと。車の話をしているのではなかった。
ドアを開けて傘を畳み車中に入る。キーを回すと共に、高鳴るエンジン音。俺はサイドブレーキを解除する。今時の、足で踏むタイプじゃなくて、左手で降ろすという懐かし仕様だ。
行き先は決まっている。バイパス沿いにあるごくありふれたラーメン屋だ。略してラーショとか呼ばれているそうだが、俺にとっての行きつけの店だ。
そのラーメン屋は、ネギラーメンが実に美味いのだ。自家製のネギがたっぷりと乗っかっていて、こいつがまたシャキシャキしていて甘みがあって、それでいて決して辛くない。ネギはあらかじめ特製の醤油たれと絡ませてあって、実に美味い。そしてしょっぱめの醤油スープと合わさって、素朴な味の中にどこかジャンキーなうま味を楽しませてくれるのだ。
(単品のネギブタもまた、美味いんだわこれが)
酒のつまみにしてもいい。……残念ながら車だから飲む事はできないが。想像しながら、俺は唾を飲む。
更に嬉しい事もあって、その店は餃子もまたいいのだ。具の中に、にんにくと共に細かく刻んだネギが入っており、小皿にたっぷりと醤油を注ぎ込んだ後で、多めのラー油と少々の酢を加え、醤油の池に餃子をたっぷりと、ちゃぽんと漬け込むようにしてから食うのだ。それが俺の流儀だ。
醤油のしょっぱさとニンニクのジャンクさ、そして糖度の高いネギの優しい甘さ。これら三点が密接に絡み合って、得も言われぬ満足感を与えてくれるのだ。俺はそのような状況を『体に油を差す』のだと理解している。
……食った後にブレケアとかでお口のケアが必須なのはまぁ、ご愛敬ってところだ。
「うめぇ」
何度そう思った事だろう。ああ、早く行こう。この俺の、荒んだ気持ちを癒してくれるのは今宵、お前しかいないんだ。今、会いにいくぞ。待っていてくれ。
悲しい事に、俺には好いてる女もいねぇし、それに風俗なんかで遊ぶような趣味は持ち合わせていないんだな。そのうち童貞のまま三十路を迎え、魔法を使えるようになるのだろうきっと。まあでも、いいさ。それならそれでさ。
――しかし、その日の俺は不運に見舞われていた。
「嘘だろ?」
確かに、不定期に休みをとることのある店ではあったのだが、のれんは下がっており、照明は消えていて真っ暗だった。ああ、もしかすると、店主の親父がくたびれてるのかもしれないな。歳食ってたじいさんだったし。
それにしても、何ということだ。車で近付いたときに遠目からでも気付いて、俺は途方に暮れた。身も心もこの店のネギラーメン大盛プラス餃子という気分になっていたのだから。今更代替案など浮かぶはずもない。
「あ~。参った」
確かに、頑張れば他にもラーメン屋は思い浮かぶ。お気に入りの店も何軒かあるけれど、ちゃちゃっと食ってさっさと帰りたいなと、そういう気分でもあったのだ。ぶっちゃけ、あまり遠くまで行きたくない。だとすれば、どうすればいい? どうにかして近場で済ませたい。
「……ラーメン屋、か」
その時俺は、思い出していた。
(あれ。そういえば)
そうだ。確か、あそこにも一軒あったなと。一度も入ったことはないけれども、俺はある店の存在を頭に思い浮かべていた。
魔が差した。というわけではなかった。ただ単に、何気なく車を走らせている時に『お? こんなとこにもラーメン屋があったんだ』と、いつかそんな風に知っただけの店だ。
それは、悪い意味で記憶に残る出来事の前触れなのだった。
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