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その夜。
お風呂に入っていた咲は、湯船の中にいた。
ポトリ…ポトリ…温かい涙がお湯に溶けていく。
ーーあれ…
咲は、泣いたことなんて、もう何年もなかった。
思い出すまいとは思っても、次々に瞼の裏に浮かぶのは月島先輩と過ごした楽しい昼休みで…笑顔…声…触れた指先…震えた、唇…
ーーとっても、とってもいい夢を見ていたみたい…
昼休み、今まで楽しかったな…
小さくため息がこぼれた。
本当に、楽しかった。
ーー月島先輩、瑞穂さんと…ちゃんと幸せになってくれたら。
私はそれでいい…
『約束、守ってよね!』ーー去り際に言われた言葉。
あの時の瑞穂は、安心したのか、不安そうな様子がなくなって、笑っていた。
ーー自分の気持ちに正直で…ただ一生懸命な瑞穂さん…。
とても可愛くて、本気で怒ってて…
瑞穂さんは、ただ月島先輩が、とてもとても、好きなんだ…大事なんだ…愛しているんだ…
それは私にも伝わったから…
ポタ…また、どこから生まれるのか、涙が流れる。
自分が、こんなに、泣くなんてーー
…好き、だったな…
月島先輩を…
これは、私の、初めての、”恋”だった…
もう、会わない…
誰も、傷つけない…
元々、違う世界の人だったんだもん。
彼は…学校の”有名人”女子たちの”憧れ”ーー
何もなかったみたいに、また、明日から過ごせばいいんだから。
それで、いい…
いいんだ…
咲は湯船に顔をつけた。
ーーーーー
「咲、今日は長風呂だったね、のぼせてない?」
心配そうに言う『おとうさん』に、咲は元気に微笑んで見せる。
「うん!気持ちよくってつい…」
「そう…」
『おとうさん』は曖昧に微笑んだ。
ーー大丈夫、水で冷やしたし、泣いたのはバレてない…『おとうさん』に心配、かけたくない…
「髪、乾かそう」
「ありがとう」
『おとうさん』は咲の長い長い髪を丁寧に乾かしていく。
髪を触られるのは、とても気持ち良い。
ーー忘れよう。そのうちいつか、忘れられる。
いい思い出に昇華できる。そのうち…
きっと…
咲は目を閉じて、『おとうさん』の指先だけを意識して感じた。
「咲、そろそろ寝ようか」
いつも通りの、『おとうさん』とーー咲はベッドにもぐりこむ。
「おやすみなさい」
『おとうさん』は咲を抱きしめる。
今日はこのぬくもりが殊に身に染みた。
「咲、冷えてるな…
何か…あった?」
咲は一度閉じた目を少し開いた。
「………ううん」
「そう…」
『おとうさん』ーー『凌一』は咲を抱きしめる腕に力を込めた。
ーーここに咲はいるのに…まるでここにいないみたいだ…
「…咲、どこにも、行くな」
思わず不安に駆られて凌一は小さく囁く。
咲はもう一度、重たくなってきたまぶたを薄く開いた。
「うん、ここにいるよ…
私は…どこにも行かないよ、おとうさん」
そして、咲は、眠りについたーー
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