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「あ、いけね、こんな時間。俺もう行くわ」
拓が慌てて、腰を上げた。
「バイト?」
舞は条件反射のように、拓に尋ねた。拓は居酒屋でバイトをしている。
拓は首を横に振った。
「いいや、飲み会。サークルの」
拓はテニスサークルに入っている。腕前は大したことないのだが、身体を動かしていないと、気持ち悪くなるそうだ。
「あんたんとこ、飲んでばっかりじゃない。どこで飲むの?」
静香が呆れたように言うと、拓は否定もせず、うーんと首をひねった。
「なんか初めてのとこ。あの桜町のさ、ドンキの向かい側にある…なんて店名だっけ」
「Dropsじゃない?」
口を出したのは、綺羅だった。拓の口が「おっ」という形になる。
「それそれ。綺羅知ってんの?」
拓が訊くと、綺羅は微笑んで頷いた。
「うん。このあいだ彼女と行った。美味しかったよ」
拓の目の色が変わった。つっかかるように、勢い込んで訊く。
「お前、彼女がいたのか。じゃあ、やっぱり……」
男だったんだな、と言おうとしたところで、綺羅はかぶせるように言った。
「そう、最近できたの。僕どっちもいけるから」
拓は口を開けたまま固まり、代わりに静香が確認する。
「どっちも?」
「そう、どっちも」
「つまり……」
「バイセクシャルってこと」
拓はあきらめなかった。むきになって綺羅につっかかっている。
「バイセクシャルってことは、男とも女とも、ヤれるってことか?」
綺羅は面白そうに笑って、頷く。
「ヤれるよ」
「じゃあ、どっちとどうやってか説明してみろよ。お前の体の……」
言い募る拓を、貴宏の冷めた声が遮った。
「拓、止めろ」
拓はもうほとんど綺羅に掴みかかっていた。そのままの体制で、貴宏を見る。
貴宏が落ち着いた声で言った。
「舞が固まってる」
舞は大きな目で二人を見つめていた。衝撃で目を閉じるのを忘れてしまったようだ。
「拓、時間は大丈夫なの?」
笑いをかみ殺したような顔で静香が言うと、魔法が解けたように、拓が動き出した。
「そうだった。やっべ」
ぎくしゃくとカバンを掴み、手を振りながら、走り出す。
「悪い!じゃあ、明日な!」
バタバタと去っていく拓の後ろ姿を見ながら、静香はもうこらえきれないという風に、笑い出した。
「綺羅、もう教えてやんなよー。いつまで引っ張っておくの?」
静香の言葉に、綺羅は涼しい顔で答える。
「え、やだよ。面白いのに」
二人のやり取りに、舞が夢から醒めたような顔になる。
「え、静香は知ってるの?」
綺羅はニヤリとして、舞の隣に座った。舞の肩に腕をまわし、耳元で囁く。
「舞、気になる?今日の夜、確認してみる?」
舞の顔が一瞬にして真っ赤になる。静香がグイっと綺羅から舞を引き離した。
「舞から離れろ、この色狂い」
今度は静香に抱しめられる形となり、舞は目を白黒させる。
「舞、綺羅に気を許しちゃだめだよ。すぐに食べられちゃうからね」
「舞、可愛いもんね」
綺羅が舌なめずりするのを見て、舞は「ひえぇぇ」と上ずった声を上げた。
「舞」
舞を呼ぶ声がして、三人は声の主を見た。
貴宏が立ち上がり、本をカバンにしまっている。
「そろそろ、時間だ。行くぞ」
「う、うん」
そう答えて、舞は静香の腕をするりと抜け出した。慌てて荷物をカバンに押し込み、貴宏の後に続く。
「バイト?」
綺羅にそう訊かれて、舞は「うん」とだけ答えて、二人に手を振った。貴宏と舞は同じスーパーでバイトをしているのだ。
「じゃ、明日」
貴宏は相変わらずの不愛想な顔で、おざなりの挨拶をして歩き出す。舞がその後に続く。
残された二人は、歩き去っていく二人の背中を見送った。
「いいとこ持っていかれちゃったね」
綺羅が笑いながら椅子の背もたれに、体を沈める。このカフェテリアの椅子は、何気に座り心地がいい。
静香はフンと鼻を鳴らした。
「ほんと、むかつく」
「でもさぁ」
綺羅は静香から顔を背けて言った。
「舞は貴宏のこと、絶対好きだよね」
静香は舌打ちすると、置きっぱなしでぬるくなったペットボトルの紅茶に口をつけた。
「あんな、なに考えてるか分かんない男、どこがいいのかしら」
綺羅は少し向こうの方で笑いあうカップルを、見るともなしに見る。幸せな空気がそこら中に漂っている。
「じゃあ、傷ついちゃうね、舞」
静香は深いため息をついた。
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