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夜遅く、病棟の面会時間を過ぎた頃に、やつの母親があらわれた。流行りのスーツを着こなす、スタイルのいい美人だった。
「突然、電話してくるから、本当に驚いたわよ。どうしたの、一体。なにがあったの」
「ごめんなさい」
「あら? こちらの方は?」
「あの、塾のほうで、」
「まあ、塾の先生でしたか。この度は娘が、ご迷惑をおかけして」
「いえ、そんなことは全然」
塾の先生なんかじゃない。が、やつは小さく舌を出しているから、俺も曖昧に笑うしかなかった。
「お母さん、とてもお忙しいんですね」
「いえ、お恥ずかしいですわ。行き届かないことばかりですのよ。だから、せめて食べるものだけでも、手をかけてやりたくて。それなのに、この子は拒食症だなんて。一体、なにが悪かったのか」
拒食症とは言われていない。ただ、母親の料理を避けていただけ。でも、このままでは、この母親へは伝わらない。
「お母さん。そうじゃないです。悪くなんか、ない」
やつの母親は不思議そうに首を傾げている。
「なにがおいしくて、なにがおいしくないのかは、自分にしか決められないもの、ではありませんか?」
あの子が、はっとして顔をあげた。余計なことを言うな、と視線を送っているのを無視して続けた。
「添加物いっぱいだとわかっていても、カップラーメンやコンビニのおにぎりが食べたくなる日だってある。いつでも、正しいことばかり求められたら、窮屈で息苦しいじゃないですか」
やつの母親は怪訝な顔になった。夢中でしゃべりすぎていたことに気づく。詮索されるわけにはいかない。ボロが出る。先生なんかじゃないことが、バレてしまう。
俺は逃げるようにその場を離れた。
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