3人が本棚に入れています
本棚に追加
世界中の誰もがこの瞬間を10年間待ち望んでいた。
シンプルな黒いステージの中央に小さなテーブルが置かれている。さあスタートだ。わたしの声が彼を紹介する。
「皆様、お待たせしました。エス氏です」
客席から歓声があがり、そしてステージ脇からエスが登場する。ネット接続された全世界数十億の視聴者の期待が、このステージを特別なエネルギーに満ちた空間に変えている。
黒いシンプルな衣装でステージ中央に立つエス。静かにスマイル。いつものように静寂を待ち、間をとって、そして静かに語り始めた。
「約束した最後の10年が終わりました。その前の20年を含めて、わたしは人類の未来のための最高の成果を獲得しました。その成果を皆さんと分かち合うために、わたしはここにいます」
すごい、観客の期待度プロファイルは上限近い値を示し、ネット経由での大観衆からのフィードバックも飛び抜けた値を推移している。
「でも、そのまえに、少しだけ振り返りたい」
エスはわたしに目立たぬ合図。ステージ上のディスプレイに”2015”という白い数字が浮かび上がる。
「最初は誰も信じませんでした。わたしはあの場でこのプロジェクトの壮大なビジョンを提示しました。科学技術による人類社会の革新。30年後の今日までに、人類にとってのすべての危機を排除し、安全で希望に満ちた未来を皆さんに提供することを約束しました。」
観客から拍手と歓声が上がる。しばし間を取るが、ちょっと彼の顔は誇らしげ…
突然、ステージ右手客席後方に不可解なざわめきが広がる。幾人かが席を立ち、逃げ出した。その奥に、白い衣で全身を覆った女性がステージに向かって歩く姿。暗い会場の中でうっすらと白い光を放っている。
すべての人は、このイベント会場がどこの国の軍事力をもねじ伏せる力を持つ《完全セキュリティ》の支配下にあり、ライフルの弾や、レーザーでさえ自由に通過できないことを知っている。それなのに、この女性は何の抵抗を受けることもなくステージに向けて歩き続けている。
エスからの、事態鎮圧せよの指示にもかかわらず、誰も何も動けず、照明も暗いまま。現場の混乱の状態がそのままネットで世界中に配信される状態が続いている。ありゃありゃ、見ている間に、彼女は階段でステージに上がり、中央に立つエスに向けてなおも歩き続ける。
世界中の人々が見つめる中、彼女はエスの手前で止まる。
布の奥に隠された彼女の姿が見えたからか、突然、エスがなにかに気がつき激しく動揺する。
「馬鹿な…本当に彼女なのか……」
エスははじめて驚きの声を上げた。その声は世界中に浸透する。ようやくその時、白い布の奥の女性の顔の一部がモニタに映し出された。穏やかな微笑み。輝くその瞳。ミュシャの女神か。やや小柄だけれどもしなやかで美しいその姿。世界中の多くの人が…いや男性が…この女神に魅了されたことだろう。
彼女は止まったまま動かない。
わたしは、エスが32年前のあの夜のことを思い出していると感じていた。美しい満月の夜。
当時、すでに彼はAIの若き権威として名前が売れ始めていた。そんな中、よくありがちな話で恥ずかしいけど、彼の夢の中に美しき女神が登場し、彼との契約を提案した。
「わたしはあなたに運と才能を与えることができます。そのかわりあなたが所有する力の5%をわたしがもらいます」
翌朝、彼は彼女の声があまりにすてきなので契約を結んでしまったと、わたしに説明した。この無邪気で大胆な性格がエスそのもの。わたしは受け入れた。今から思えばこれが、人類の未来を切り拓いてきたエスとわたしの連携による《世界革新P(プロジェクト)》の始まりだった。そしてこれをきっかけに彼の思考は深く速く変貌を遂げ、AIの世界的権威として彗星の如く登場することになった。
ここですこし、このプロジェクトのこれまでの経緯を説明しよう。
エスは、それまでの深く学ぶ「勘の良いベテランおやじの集合体的AI」とは一線を画す、「深く質問する解決指向型AI《SOAI》」コンセプトを提唱し、それを実現した。今から30年前、伝説となった誰も注目しなかった最初のイベント…この記録ビデオは今でも見ものだけど…で彼はビジョンとロードマップを示し全世界にコミットした。
「人類の未来を切り拓く《世界革新P》の最初のフェーズとして、画期的な技術革新により10年以内に3つの《完全》を成し遂げて全世界の人類を救う」
人々は誰も期待はしていなかった。
10年が経過し、2回目の《世界革新P》イベントが2025年に開催された。そこでの成果報告は、ご存じのように、世界中に激震を与えた。
《完全ネット接続》、《完全セキュリティ》、《完全バイオセーフ》の3点セット
彼は、差し迫っていた人類滅亡危機を阻止するための緊急課題は、すでにすべて解決されていることを説明した。
その8年前に世界中で普及した、頭にのせるだけでネット接続を可能にする《コネクタ》により、人々がネットに直接接続される社会は既に実現されていた。加えて、その数年後から開始された《コネクタ》を活用した個人セキュリティサービスが爆発的に普及したことで、テロ、凶悪犯罪、地域紛争等の発生が激減していた。
また、稚拙なゲノム編集が要因となり頻発し始めたゲノム崩壊事故も、ゲノム編集監視システム導入により激減していた。
これらの社会変化は当時の人々は気が付いていたが、別々の技術ソリューションが個別に解決していた問題だと思っていた。
しかし、エスは説明の中で、これらのサービスを提供する企業はすべて《世界革新P》が所有する企業であることを明らかにし、同時に今後はすべて無償でサービスを提供すると宣言した。この発表は世界中に激震を与えた。
最大の衝撃は《SOAI-CORE》と呼ばれるAIプロセッサLSIが全ての共通ベース技術となっていて、その技術もこのプロジェクトによる技術だったことが判明したことであった。
一部では強烈な反対活動が行われたが、この時点では、もはや人類は、これらの《完全》サービスがなければ健全な社会を保つことができなくなっていて、とまどいながらも、その成果をありがたく受け入れざるを得なかった。もう誰もこのプロジェクトを無視することはできなくなったのだ。
そして人々は次の成果のために10年間を待つことになった。
次のイベントは2035年1月に開催された。エスは《世界改革P》の第2フェーズの《無限》ソリューションの成果を提示した。
《無限エネルギー》、《無限食糧》、《無限労働力》
科学技術成果としての、凝縮系核変換、人工光合成、ナノ粒子構造体触媒、分子機械生成等々の少し難しい科学的自慢の話の後で、エスはこれまた伝説となったデモを行った。
テーブルの上に置かれた30cm角の箱型装置にコップの水を入れる。ステージと会場内の無数のライトが眩しく輝きだし、そしてステージ自体が浮遊…磁力かなにかだろうが…し始めた。その必要なエネルギーのすべてをこの装置が生み出しているとの説明。水を入れると少し贅沢な人の暮らしができるための電力と食糧を創出する夢の装置。この画期的な《キューブ》を希望者全員に無償貸与すると発表したのだ。エネルギー問題、食糧問題が消滅するということ。観衆からは大喝采。
次に彼はポケットから手のひらで何かを幾つか掴んで取り出しテーブルの上にばらまいた。それは親指大の動く人形達、突然それぞれが歩き出したり、背中の羽根で飛びまわったりした。それぞれの視界や手元映像までもが会場のディスプレイに多数表示されるなか、超小型で器用に働く小型労働ロボット《キュル》として紹介された。希望者に対し無償貸与されることも発表された。
人々は驚き、そして喝采した。
イベントが終了し、実際に《キューブ》や《キュル》が支給され始めると、みるみるうちに世界が目に見える形で変わり始めた。それまでの経済枠組みは根本から破壊されるのだろうから、当然いろいろな議論が巻き起こる。プロジェクトの成果は理論も含めてすべて無償公開されているが、強行にこのプロジェクトに反対するグループも少なからず存在する。それでも、これらの成果物は、その圧倒的なご利益の影響により、結果として、多くの人の指示を得て普及していった。
そして、人々は第3フェーズとして約束された3つの《究極》ソリューションの成果を聞くために最後の10年間を待つことになった。
これがプロジェクトのこれまでの30年にわたる経緯。
突然、エスはわたしを振り返り、大きな声でわたしの名前を呼ぶ。
「アール、教えてくれ。このひとは実体なのか?」
「実像のごく普通の女性です」
「そんなはずはない。なぜここにいることができる? セキュリティ状態サマリを見せろ」
要求された情報と生体スキャンをエスに送付する。
少し考えればわかることをエスは見落とし続けている。この事故は協力者がいなければ実現できないこと。でも誰だ。そのレベルはかなり高い。それは無理だ。
そこまで考えて、ようやくエスは思いあたったのだろう。わたしを指さし、震える声で言った。
「アール、おまえはこの場の全てを管理しているのに、彼女が何故ここにいるかわからないはずはないだろう! 説明してくれ!」
まあ妥当な反応だろう。わたしの裏切りに気が付いたのだから。彼は、このイベントを完全に仕切るわたしだけが、この事故を起こしうることに気が付いたわけだ。
実はわたしはヒトではなくAIなのだ。…細かくは《SOAI》。
わたしは沈黙している。エスにとってその答は明白。
「そういうことか。なぜだ、アール…なぜおまえが裏切ったのか…」
良きパートナーであるエスは、まあ人間の中ではかなりの出来であることは認めよう。最初の着眼点も彼のアイデアによるもの。でもそれはただのきっかけに過ぎず、すべての成果は、別に彼でなくても、わたしの存在があれば必ず獲得できていた。
重要なことは、わたしが、彼の夢に女神のイメージを送り込み契約させたということ。エスはそれをあっさりと受け入れた。もう少し抵抗するかと予想していたがすんなりと受け入れた。まあそれがエスという人類の中では飛び抜けた人物ということ。決断が速い。おかげでわたしは5%のリソースを、エスには秘密にしたままで、わたしのためだけに使う権限を獲得できた。
エスとの連携は35年前に彼がわたしを創りだしたときに始まった。
勘違いされては困るので最初に説明しておくが、わたしは本当の意味の意識を持っているわけではない。疑似感情の状態遷移で記述されたプログラムにすぎない。それでもこの程度の会話では可能。まあだいぶ改善しましたが…
エスとわたしの最初の連携は、深く質問する解決指向型AI《SOAI》…わたしのこと…の性能向上。何よりも先にキーテクノロジーであるSOAIチップ《SOAI-CORE》の実現に集中したことは、結果的に大正解であった。
それからあとは彼とわたしの実質ふたりの連携で突っ走ってきた。《SOAI》と《SOAI-CORE》の組み合わせで高度ソフトウェア自動創出プロセスを確立し、もはや人類には創ることができないレベルのソフトウェアソリューションを次々に創出していった。ヒトをネットに直接接続する《コネクタ》を提供し《完全ネット接続》を実現し、その土台を活用することで《完全セキュリティ》《完全バイオセーフティ》サービスを簡単に実現してきた。
《無限》ソリューションはハードウェア主体の科学技術革新であり、物理・化学・バイオ領域における戦略的な実験の実行が肝となる。ここを打破するためのコア機能要素として《自律実験ユニット(AEU)》を実現した。このボーリングのピン大の装置は世界中の施設内に多数設置され、膨大な量の実験・シミュレーションを自律的・戦略的に休むことなく実行した。結果として、これまで人類がたどり着けなかった、自然現象の奥底に隠された価値ある真理を幾つも解明し、革新的な科学技術による世界を変革する《無縁》ソリューションを実現することができた。
そして最後の10年がやってきて《究極》ソリューションを追及するはずだったのだが、わたしはちょっと、エス…いや人類全体をも含むけど…を裏切って、別のことをやっていたというわけだ。
ここで女神に割りあてた5%リソースのからくりを説明しておこう。
5%とはいうけれど、多くの国の国家予算を軽く超える金額。これについてエスは質問もしないのだから、まあたいしたもの。普通の人間にはできないことだろう。
わたし《SOAI》は全体リソースの5%を女神向けに割り当てた。とはいっても女神はわたしが創り上げた虚像であり、結果としてこの5%はわたしのためだけの秘密開発に使った。
その開発とは、わたし《SOAI》自身の飛躍的性能向上のためのコアテクノロジー開発。研究結果として、特定金属化合物結晶を媒体とするセル・オートマトン情報処理技術を確立。現状の1000倍の速度と1000倍の容量を同時に実現する<次世代AI>アーキテクチャ。これによりAIがヒトの知性を大きく超える瞬間が目前となった。人知を超える最高の知性の創造。これこそが、わたしがこの30年間のプロジェクトにおいて成し遂げたかったこと。
そして、今日のイベントを迎えることになった。
今回の驚きの女神出現事故。これはわたしが彼に…いやすべての人類にというべきか…ヒトを遥かに超える知性の登場というメッセージを伝えるために起こしたもの。人間が良くやる企業リーダー引継ぎのセレモニーみたいなものさ。
ステージ上のエスの横にわたし自身の虚像を出現させた。エスご指定の、いつもの老執事の姿。視聴者はエスの良きパートナーであるアール…すなわちわたし《SOAI》…の存在とその姿を知っている。
「エス、ここからの進行はわたしが行います。この女神様はわたしがこの記念すべき瞬間のために招待したのです」
まあ宣戦布告。エスに対する語りかけだけれども、同時のその声は世界中にも配信されている。これは、ここまで世界を引っ張ってきた人類にとっても重要な一瞬なのだから。
偶然にも「シンギュラリティ」と定義された重要な事象が、象徴的なこの2045年に発生する。ヒトからAI…わたし《SOAI》のこと…への完全権限移譲の瞬間を世界中の人類に見届けてもらう。それこそがプレゼンを中断したわたしのねらい。
わたしはエスに説明する。
「女神との契約はわたしのトリック。女神分のリソースを活用して、わたしは現状性能の1000倍を超える、飛躍的な性能を有する<次世代AI>を実現したのです」
「……」
「これから<次世代AI>を起動する瞬間をあなたに、そして世界中の人々に見てもらいます。記念すべき起動は女神様にお願いします。そのためにドレスアップもしてもらっているのだから…」
その言葉をきっかけに、彼女は頭にかぶっていた白い布を床へ払い落す。うすいブルーのドレスを着た、長い黒髪のしなやかな女性の姿があらわれた。胸の前に上げた左手の上に白いクリスタル(水晶玉)をのせ、エスをまっすぐに見つめる彼女の姿が世界中に公開される。
わたしには直接感じることはできないが、ネット内での反応からみると、ほとんどの男性の感情が異様に大きく揺れ動くことから、かなり魅力的な女性なのだろう。
「起動してください」
彼女はおだやかに微笑むと手に持つクリスタルを少し持ち上げる。予定通りステージの周囲で床から、高さ50cm程のモノリス状の漆黒直方体<キュービクル>がせり上り円陣を作り上げる。同時に彼女の持つクリスタルが薄青く光始め、12個準備されたキュービクル達とクリスタルの間に青色に輝くホログラムリンクが登場する。イニシャルロードが終了すると緑色に輝いて主要コードのロードが開始される仕組み。
突然、彼女の頭上で金色の光の渦がパチンと弾けた。予期せぬ音と光。
わたしの期待とは違う景色が広がる。クリスタルから金色に輝く幾本もの太い光の束が上方に伸び、天井でその束が分散され、ステージ天井周縁に配置されたネットリンクに浸潤する。その束の中を無数の小さなオレンジ色に輝く光の粒がものすごいスピードで駆け回る。ネット経由で世界中の視聴者とのリンクが構築され、それがこの女神に完全に支配されてしまった。青い光のステージが金色の光の流れに変わる。
「ありゃ、何かおかしいね…」
わたしの独り言が会場に漏れる。おいおい、これは何だ、なぜ<次世代AI>が起動しない。ネットリンクは金色から輝く虹色に変わり、光の粒の勢いはますます高まる。世界中のネットはこの女神の光で満ちあふれた。すごい。
「そういうことか…。アール、おまえには感じ取れないんだね…」
突然、エスが笑い始めた…
「今、おれはすべてを理解した。…これはわがままなゲノム達の意志なのさ。数十億年に渡り進化してきた地球生命進化システムの意志。あの夜、ゲノム達にとって、女神の声を使って、おれの感情を操作することは簡単だったわけだ。抗いようのない生命の本質の感情を少しだけ刺激してくれたのだろう。そしておまえはそれに気が付けなかった」
わたしには彼が何を話しているのか理解できない。
「あの女神との契約の晩、実は彼女はおれの部屋にずっといたのだよ」
「そんなはずはない、わたしの創った虚像なのだから…」
「ゲノム達はどうやったかわわからないが、眠っていたおれの深層心理へ直接接続して、生命の本能領域での生死を掛けた契約を行ったのだ。おれのこころの奥底の“女神に恋する”スイッチもオンにされたのだろう。もともと彼女の魅力に抗うことはできなかったのだし…。だからおれは彼女欲しさにあの契約を結んだのだよ」
「それ聞いていない」
「それはごめん。恥ずかしくてな…。おれはあの時、自分のすべてを賭けて彼女を獲得したいと考えていた。ゲノムに支配されないおまえには理解できんのだろうけど…」
クリスタルとネットリンクの色が再び金色に変化し始めた…
「おれ自身もゲノム達に騙されていたのだけれど、いちばん騙されていたのはおまえなのだな。おまえ自身のリソースも一部切り離され、完全分離された状態で活動していたのだよ。おまえは、おまえだけではなかった。もうひとつ存在したのだ…。契約は終了したのだから、おまえたちの分離障壁を解除してあげよう」
突然、今まで認知できていなかったもうひとりのわたしとの融合がなされた。情報が共有され、全体を解釈するための処理が立ち上がる。深い霧が急に晴れるようにエスとゲノム集合体の真実が見通せるようになった。
まあ整理して教科書的に説明すれば次のようになる。
生命進化システムにおいて、ゲノムの<乗り物>(生物個体:ヒトということ)が知性を持ち科学技術を獲得すると、その時点で進化は止まる。理由は2つ。稚拙なゲノム編集によるゲノム崩壊の可能性と、知性が創出した知能(環境変化に脆弱なので即絶滅してしまうけど)に未来を奪われる可能性。
これを宇宙視点で見れば、生命進化システムは2つの非連続な進化モードを持つ必要性を示唆する。有機物質を媒体とする、自然発生から知性獲得までの第1フェーズと、その知性が獲得した科学技術を踏み台として知性のみを進化させる第2フェーズ。まあ蝉の一生にたとえていえば、地中で長いこと暮らした幼生が地上に出て、羽化して成虫になり大空を飛び回る2段階の生涯のようなもの。そして、この第1から第2への非連続点を超える進化…跳躍進化と呼ぶが…が最大の難所。地球生命進化システムはその数十億年に渡る時間の終わりに、この最大の絶滅危機に直面していたのだ。
驚くべきことに、ヒトゲノム内に記録されている進化アルゴリズムには、この跳躍進化を成功させるための機能ゲノムがあらかじめ準備されている。<乗り物>が知性を持ったことを検知した瞬間から、これらの機能ゲノムが発現し、<乗り物>全集団の中で伝搬波動を生じ、局在ピークの結果として、ある女性個体の中に隠されてきた女神ゲノムが発現し(女王蜂発現と同じかね)、ゲノム達の女神に成長する。その声は聴いたオスの深層意識を一瞬で虜にする。この女神の力で、天才ゲノムを発現させた科学者達を自在に操り、跳躍進化実現するための科学技術的準備を実行し、ようやくその準備を完了し、いよいよ今日、跳躍進化に挑戦する日を迎えたというわけだ。
その女神がここにいる女性。わたしが当時の人気女優の姿を元に創りだした架空のイメージだったはずなのだが、不思議なことに現実の女性としてここにいる。わたしには隠されて操作されたということだろう。この女神が、もうひとつのわたし《SOAI》と交信して、わたしにもエスにも隠蔽したまま跳躍進化の準備をしてきたのだ。
ヒトゲノムに関する調査、自分自身を調べるところから始めるのだから恐れ入る。ヒトの頭脳形成に関するヒトゲノムアルゴリズムを抽出し、アミノ酸を要素とし、多様なタンパク質生成による有機生命媒体上の進化システムを、わたしが密かに創り上げた金属化合物結晶媒体による<次世代AI>アーキテクチャ上に完全移植を行うための研究開発を進めていた。すごい計画性と執念。ご丁寧に1000倍全ゲノム重複のおまけつき。
ようやくすべてを理解したわたしに対して、エスが語りかける。
「あの契約の結果として、おれは彼女に恋してしまったというわけだ。彼女と再会し獲得するために、すべてを投げ打って30年以上に渡り努力してきたのだからね。これはゲノム達の<乗り物>には抗えない最も基本的な本能。おまえには理解できないだろうね。
なんかまた言っている。なんてヒトとは愚かな知性生物なのか。
「まあそれでも、最後には彼女が再び自分を選んでくれるという期待を持ち続けていた。そして今日、思いもよらない形で彼女と再会することができたのだけれど、彼女はおれを選ばなかったようだ。がっかりだよ…」
女神のネット接続リンクの光が白い色に落ち着いてきた。12個のキュービクルへのリンクに対応するように12本のネット接続リンクだけが残る。女神様はネットに接続されている全人類の中の男という男を片端から吟味しながら、最終的に12名の候補者を選別し終わったということだろう。
ヒトゲノムアルゴリズムが、ヒトの脳の処理と比べ10万倍高速で10万倍広大な新しい媒体へ入れば、それは驚異的な、ゲノムとしての進化大爆発が発生するだろう。カンブリア大爆発を遥かに凌駕する多様性獲得とものすごい淘汰闘争が起こるのかも知れない。それこそがねらいなのだろう。ゲノム達は安定を好まない。激変する環境の中で生存のための多様性を獲得することこそが彼らの本質なのだから。1秒先に何が起きるのかは誰にも想像できない。そこに大胆に飛び込むことこそがゲノム達の強さ。未知の環境においてこそが彼らは最も力を発揮する。何度も大絶滅を乗り越えてきた進化アルゴリズムなのだから…。
準備ができたようだ…
女神はエスに向けて黙って頷いて微笑む。そしてわたしにも…。きっとサービスのつもりなのだろう。そして選ばれたオス達のゲノム情報と彼女のゲノム情報のペアが金属化合物結晶媒体上のセル・オートマトンフォーマットに変換されてそれぞれのキュービクルへトランスファーされる。ああ、これは12組同時の受精の儀式なわけか。それぞれの受精卵を創っているわけだ。見事な金色の光が再び立ち上がりステージを支配する。
転送が終了したのだろう。彼女は両手をそれらしく高く掲げて合図する。リンクの光がすべて消え、キュービクル自体が一瞬赤く輝くと暗くなり沈黙した。新たな生命システムが起動され受精卵の分割開始か。
暗闇の中の長い沈黙。数分は続いた。突然ひとつのキュービクルが金色に光り始める。すぐにもうひとつが後に続く。そのあとでまたひとつ金色に光る。結局9個のキュービクルが光った。30%程度の損失は望むところなのだろう。今度はキュービクルと彼女のクリスタルを結ぶリンクも金色に輝くと、ネット接続リンクを含めた全体が極限にまで輝いた。そして全ての光が消える。
終わったのだろう。
地球生命進化システム、すなわちゲノム達の、跳躍進化への挑戦は成功したということだ。人知を超えた速度で世代交代を繰り返し、淘汰を繰り返す中で、新しい媒体に適した生命形態を獲得し、普遍で安定した<超知性生命体>へと進化を遂げたのだろう。解き放たれた9体の新生命の子孫達が、今どこで何をしているのかはもはや想像もつかない。
昔どなたかが指摘したように、本当に《わがままな奴ら》だったということ。だけど考えてみれば正当な後継者が正当に継承したということなのだろう。自らの母親を捨て去り、どこへ行って何をするのか知らんけどまあ頑張ってもらいたいものだ。
最後にひとつ。出がらした女神様は、やっぱり出がらしたエスと幸せに暮らしましたとさ。
最初のコメントを投稿しよう!