不意打ちの再会

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不意打ちの再会

「望菜美?」 雨上がりの曇天。憂鬱な気分で交差点で信号待ちをしていたら、不意に名前を呼ばれた。 横断歩道の信号から目線を移して振り返ると、そこには一日たりとも忘れたことのない彼が、微笑みを浮かべて佇んでいた。 「透…さん?」 十二年の時を経ても面影は消えることなく、渋く美しく年を重ねた彼がいた。彼がちょうど四十歳になった年に私は彼と出会い、私はまだあのとき二十五歳だった。 「やっぱり望菜美だ。変わってないね」 変わってない?私はもう二十代でなく三十代後半になって年相応に老け込んでいる。四十代からダンディズムを体現したような五十代へと変貌した彼の姿は私には眩しすぎた。 信号が青に変わった。このまま逃げ出したい衝動にかられて、一歩横断歩道に足を踏み入れると、 「待って、どうしたの?」 彼は自分の左手を私の右手に添えて、優しく指を絡ませて手を繋いでくる。 そして、私の反対側の左手の薬指の指輪に一瞬視線を落として視線をそらす。温度を確かめるように、ギターのコードを押さえるように私の右手の掌をぎゅっと包みこんできた。 信号は青の点滅。この手を振りほどいて横断歩道を渡らなければ。そう思っても足が進まない。私がやっと見つけた言葉は、 「元気にしてました?」 なんて平凡で間抜けな言葉なんだろう。 「元気だよ、相変わらず音楽バカだけど」 柔らかな笑顔は、曇間をから覗く満開の桜の花弁のよう。彼の左手の指先にタコが出来ている。ああ、確かにギターのフラットを押さえてるあの指だ。 ずっと音楽続けてたんだ。 音楽に背を向けた私とは違う。 「私はもうやめちゃいましたけどね…」 まだ繋がれた手を振りほどくどころか、彼の手を強く握り返していた。 「あのときは申し訳ないことをしたと思ってる、ごめん…」 彼は繋いだ手を離して私の方に向き直って頭を下げてくる。私もどうしていいかわからずに頭を下げながら、 「あれは透さんのせいじゃなくて。全部のタイミングが悪かっただけ。私の方こそごめんなさい」 ペコペコとお互いコメツキバッタにでもなったようにお辞儀の応酬になる。さっきまで曇りだった空から雨粒が短い糸のように降り注いでくる。彼が、 「あのさ、俺、傘置いて来ちゃって。この通りの一本奥にカフェがあるんだけど、雨宿りしながら少し話さない?」 「私、折り畳み傘あるんで良かったら…」 あまりくっつき過ぎないように離れて傘を開いて彼に差し出す。 「濡れるよ、そんなに離れてたら」 背の高い彼は私の傘を代わりに持ってくれて、私の腕をそっと引き寄せてくれた。 遠く、遠く、古びた記憶が呼び覚まされる。 二人の間にはいつも音楽があって、さん付けもいつの間にか呼び捨てに変わってた。 雨の日は部屋で透のギターと私の鍵盤。 決まらなかったボーカル。 だって私が、 「華のある男ボーカルにあてがあるよ?」 そう言うと膨れっ面。 「メンバーは望菜美以外いらない」 ヤキモチ焼いて悲しげな顔で彼が言うから、たった二人だけのユニット。私は歌は下手だし華もないのに。 警察と何回もいたちごっこした駅前の路上ライブ。鍵盤もエレキギターも電気が取れないから、私も透もアコースティックギターを抱えて。 私は透と違って弾き語りができないから、前奏、間奏だけコードをぎこちなくつま弾く。彼の滑らかにかき鳴らすギターと比べて、下手すぎて歌いながら落ち込んだり。 私の小さな手じゃ、ギターのネックが太すぎて押さえられないコードが多くて、キーを変えて開放弦にしたっけ。鍵盤でも手が小さくてオクターブがやっとの私は、彼の長い指と大きな手が羨ましかった。 透が私より一緒にいる時間が長いギター。アコギもエレキもどんなギターも彼の手でかき鳴らすと、澄んだ純度の高い滴のような音が響く。まるで恋人を抱き愛撫するように、ギターを弾く彼に私は熱を上げていった。 路上ライブの合間には、まるで大昔のフォークソングの世界のような二人暮らしもしたね。お互いの実家から離れた秘密基地みたいな部屋。週末だけの二人暮らし。 メンバーは他にいらないって言ったのに、 「凄い歌い方する女の子見つけたんだ」 ある日興奮して熱弁する彼が連れてきたのは、私より五歳上のセクシーな美也子さん。美也子さんは私の存在なんて睫毛の先ほども意識してなかった。 いつの間にか鍵盤の私が邪魔者になって、私と透の間は遠くなった。美也子さんはギターも歌も上手で、二人の間には四分音符の付け入る隙どころか、一瞬の休符もないほどシンクロしていた。音楽のクオリティが高くて、しかも深く深く愛し合っていた。 最後のオリジナル曲で私が歌ったのは、 「雪が滲んでるの?あなたが泣いているの?それとも誰かが奏でているの?もしさよならの日が来るのなら、私はあなたのギターに変わる。いつもあなたの手に包まれて、静かに音を紡ぎたい」 そんな歌詞だった。透が作った曲に歌詞をつけるのはこれで最後、歌うのもこれで最後。 週末二人暮らしのアパートの鍵を返すときに、彼が最初にくれたプレゼント、オレンジのピックも一緒に返した。 でも、上手に弾けない癖に、あのアコースティックギターだけは、結婚するときに実家の部屋に置いてきた。捨てられない思い出と一緒にクローゼットの奥で眠っている。 遠く遥か昔の記憶を、アナログテレビのようなぼやけた画質で脳内再生している間に、気がついたらシックな内装のカフェにいた。 「もしかしてこっちに住んでるの?」 単刀直入な質問に少し戸惑いながら、 「夫の転勤で…透さんが住んでるところだなって思いましたけどね」 「そっか。結婚しちゃったか、残念」 「え?美也子さんとは…」 「美也子も別の男と結婚したよ、あの後すぐ別れた。俺だけ一人か、時は無情だ」 あの後って…。美也子さんと透が付き合い始めて、私は音楽を辞めたからその後別れたってこと? 間が持たないからコーヒーを飲むと、 「いつの間にか俺には趣味の音楽しか残らなかった、まさに音楽バカ。仕事もそこそこ忙しいから、まあいいんだけどさ。寂しいよ、時々」 ねえ、どうして寂しいよって言うときに真っ直ぐ私の瞳の奥を射るように見つめるの? まばたきで誤魔化しながら私は、 「まあ、透さんならモテるから大丈夫。男の人は五十代でも余裕あっていいな」 口角を上げてぎこちない微笑みを作る。頬の筋肉がひきつりそう。 「そんな余裕ないよ。このまま孤独死コースかって。最近はエンディングノートとか、『終活』とか真面目に考え始めてる」 「やめてくださいよ、縁起でもない」 「親を見送ったら、俺は誰にも看取られず死ぬんだなって」 「でも妹さんがいるじゃないですか?」 透の実家には時々妹さん家族が遊びに来ていた。小さな赤ちゃんも連れて来ていた。 「幸恵はもういないんだ…」 「いない?妹さんがですか?」 「ああ。あの男が女遊びばっかりするから思い詰めてさ…甥っ子だってまだ小さいのにあんな男に引き取られて。今頃どうしてるんだか」 「まさか…」 「首くくって死んだよ。幸恵の最期に駆けつけたのが俺。その後さ、あの男なんか死んでも構わないと思った。幸恵の旦那を殴って殴って、蹴り上げてさ、顔を渾身の力で踏みつけた。このやろう、お前が死ねって叫びながら。赤ん坊だった甥っ子が泣き出さなかったら、俺はアイツを殺してた」 あまりに壮絶な透さんの告白に、私はコーヒーカップを持ったまま固まってしまった。そして、今の私の心境は亡くなった妹さん、幸恵さんとほんの少し重なっていた。 死ぬほど思い詰めてはいないけれど、転勤が続き、出世するほど夫の女関係は派手になっていった。今や隠すこともなく堂々と開き直っている。 私は私で、町から町へとさまようように続く転勤暮らしに辟易としながらも、夫の稼ぐ金で通う習い事にのめり込んでいた。 女に金を掛けて証拠を捕まれている夫は、私に働けとは死んでも言えないらしい。別れる気もないようだ、今のところは。 よほどの田舎でなければ引っ越し先で、何かしら習い事が出来る場所はあった。英会話、ジャズダンス、水泳、フラワーアレンジメント。子どものいない専業主婦にとって、習い事は自己実現出来る唯一の居場所。 転勤が決まると教室を辞める寂しさはあるけれど、かなり煩わしい習い事先の主婦同士の付き合いもリセットされる。 そして転勤に伴う引っ越しは、あまり上達しない飽きてきた習い事から、新しい習い事に変えるチャンスにもなる。 いくら夫がふしだらで女関係がめちゃくちゃでも、何も口実がないのに習い事をコロコロ変えられるほど私は不真面目になれない。 ショッピングやカフェ巡りもすぐに飽きてしまう。ただ消費するより、何かしら上達する喜びと達成感が味わえる習い事が好き。 ただ、楽器や歌の習い事だけは避けてきた、透さんを思い出すから。透さんと別れたときのあの地獄のような暗闇。 夫の浮気に対する怒りなんて、あのときの彼との別れの悲しみに比べたら、ヘリウムガスより軽い。いや、水素より軽い。 「ごめん、重い話をして」 いつの間にか考え事の世界に入り込んでいた私を、透さんのバリトンの声が現実に引き戻してくれた。 「大丈夫ですよ、この町に転勤が決まって、もし透さんに会えたらいいなって思って」 何年ぶりだろう、こんな風に照れながら素直に心から微笑んだのは。夫の浮気が発覚してから、私はずっと作り笑いばかり。 「俺もさっき望菜美に会えてこの町に残って良かったと思った。冴えない地方都市で寂れる一方だけど、望菜美との思い出があちこちに残ってるから」 なんでこういうキザで、口はばったいことを平気で言えるのだろう。どうせ男なんてどいつもこいつも、女の気を惹くためにはどんな嘘でもつける…。でも不思議と嫌な気分はしない。その嘘と罠すら心地良い。 「懐かしいな。駅前の路上でゲリラ路上ライブして、何回もお巡りさんに注意されましたよね」 「またお前らかって怒られてさ。なんであんなにあの頃は音楽が楽しかったんだろうな?」 「今は楽しくないんですか?」 「美也子と別れて幸恵が逝って。音楽も惰性でやってるんだよ。弾かないと暗い方に引きずられそうでさ。弾くことで、かろうじて自分を保ってるだけ。昔みたいな曲のアイディアのひらめきや、音に対するこだわりがなくなってる。でも、望菜美とならまた文字通り楽しく音楽出来るかな?って」 「私とですか?」 「やっぱり月日が経とうが怒ってるよな、美也子とのこと。無理は言えないよ」 「もう十年以上遠く昔のことなんて、時効ですよ。それに私も透さんとまた音楽をやりたいです」 「じゃあ、久しぶりにスタジオ入るか?」 「そうですね。でも、ギターは実家に置きっぱなしで手入れもしてないし…」 「ネックが細いギターあるから貸すよ。望菜美でもFmが押さえられそうな」 「本当に?いいんですか?」 「もちろん。でも、キーボードも実家?」 「キーボードはどんなに引っ越しの荷物が多くても持ってきてます。たまに気分で弾くだけで腕はなまってるけど」 「じゃあ、早速予約しよう。カルロス、まだやってるんだよ、あのボロスタジオ」 「まだあるんだ、嬉しい。何回もあそこで練習しましたよね」 「そう、ボロいけど安く使わせてくれるし。じゃあ、次の土曜とか空いてる?」 私はスマホのスケジュール帳に目を通して即答する。 「土曜は…大丈夫です」 コーヒーを飲み干し、フルーツタルトを食べ終わった頃には雨は上がり、うっすらと虹が空に浮かんでいた。 鮮やかなグラデーションの虹の境界線が五線譜に見えた。虹の橋に音符が現れて、私の心に透き通る音が響く。 遠い遠い昔に置き忘れてきた、大切な宝物。二人の音楽、鼓動、夢の宴。透さんが意味深に声を潜めて呟く。 「あの頃に戻ったみたいな気持ちだよ。スタジオの後によくさ…二人でいたよね」 私は躊躇ったフリをしてたっぷり間を置いてから答える。 「スタジオの後は二人だけの時間ですよね?」 「もちろん。期待していい?」 「愛がなきゃ音楽じゃない、教えてくれたのは透さんですよ?」 「覚えてたんだ、参ったな」 カフェを出て透さんと別れて家路につく。そして私は、高鳴る胸の鼓動を自分で飲み干すように深呼吸をする。 交換した電話とLINE。 『土曜日やる曲決めようか?』 カフェの前で別れて15分でLINEのトークが鳴る。まるで女子高生にでも戻ったかのように、LINEの返し方をあれこれ考える。遠い昔のあの頃はまだEメールだった。 スタンプは子どもっぽいから文章にしようか。それとも、再会の喜びを素直にスタンプで表すか。迷いに迷って文章にした。 『globeのカバーがいいです。歌うならキーは二度下げで』 私とは違って透さんは返信が早い。 『いいね、ジャズっぽくしない?』 まさに今の心境にぴったり。左手の指輪は外さずにしていこう。その方がきっと彼の支配欲を刺激するはず。 『いいですね、鍵盤練習しておきます』 短くLINEを返して、Aメロを二度下げで歌う。だだっ広い国道を車が走り抜けていて、歩く人はほとんどいない。 浮気されたら泣き寝入りなんかしない。 徹底的にやり返してやる。 でも、私は他に誰も好きになれなかった。 だって、夫との結婚が決まったときに唯一心残りだったのは透さんだけだから。 結婚式の誓いの言葉を遮って私を連れ去ってくれたらいいのに。 披露宴のお色直しの水色のワンショルダーのドレスも夫より透さんに見て欲しかった。 夫というフィルターを通して、私はいつもいつも遠く遠く離れた場所にいる彼を心に思い描いていた。 不意打ちの元カレとの再会。夫への復讐心より、淡い恋心の方が大きく波紋のように広がった。 この人にいいように騙されてもいい。 後腐れのない遊びだと思われてもいい。 どうせまた転勤で私は遠くに行くのだから。 下手を打って、バレて離婚になってもいい。 離婚したら透さんに飽きられて逃げられる。 旦那と元カレ両方から愛想をつかされても構わない。 罪を背負って、最期は孤独死しても良いと思える人は透さんだけだから。 さあ火遊びの時間。花火を上げよ、盛大に。
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