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偽家族
家に戻ると、炊事場のある土間に未だ明かりがついていた。
また母の小夜が徘徊しているのだと思い、勝手口の帯戸を開けると、窯の前で立ったまま飯を掻っ込む銀次が居た。
「……なんだ、お前か」
何となくバツが悪くて金之助が顔を背けると、頭上で「おかえんなさい」いう銀次の太い声がした。
母屋から二間離れた妾宅が、荒波に飲まれて跡形もなくなったのは、今から丁度三年前の、大しけの夜だった。
その際奇跡的に母屋は事なきを得た為、金之助と母は命拾いし、銀次は波が迫る気配を即座に感じて家を離れたので助かった。
だが深酒をして妾宅で寝ていたおはると金蔵だけは家屋と共に流されて、二人の身体はその時海の藻屑となった。
その出来事が、母の繊細な心を打ち砕くのに、さほど時間はかからなかった。
母はしばしば徘徊や妙な言動を繰り返すようになり、かつて太地一の器量よしと謳われた面影もなくなった。
「おっかさんは?」
「さっき寝た。日が暮れるまでは太地浦の周りを、一緒に散歩していたのだけど」
「……そっか」
父が妾と死んだ現実を未だ受け入れられない母は、金蔵の生き写しである銀次に、往年の父の姿を重ねるようになった。
今や銀次を「金蔵さん」と呼ぶようになり、銀次が漁場から戻ると片時も側を離れない。
まるで生前の父とは過ごせないでいた時間を、母は今取り戻しているかのように見えた。
「…お前また、*ちぢくりで飯食ってンのか?どんだけ鯨が好きなんだ」
殺伐とした空気を一蹴したくて軽口を叩くと、銀次の黒々とした眸が戸惑う様に少し揺れた。
「—鯨は、べつだん其れほど好きじゃねぇ。ただ…もっと、太りてぇから」
「はぁ!?何言ってンだよ。そんないい体躯して」
銀次が似てきたのは、父の面差しばかりではない。
高い身の丈。肩甲骨が盛り上がった鋼のような強い身体。皮をなめしたような、艶めく赤銅色の肌—
昔から金之助が、喉から手が出る程欲しかったもの。それらは全て銀次が譲り受けていた。
「チッ、何だよ。もしかしておれへの当てつけか?相変わらず、いけ好かねぇ野郎だな」
金之助は笑いながら土間へ降り、柄杓をすくって水瓶の水をがぶ飲みした。
口の端から嚥下しきれなかった水が零れ、片手で縊れそうなほど細い首筋を通ってゆく。
じりじりと焼け付く様な、痛みを感じるほどの熱い眼差し。
金之助がそれに気づいて振り返ると、いつの間にか銀次がすぐ側まで来ていた。
「…なんだよ。言いてぇ事があるのなら、はいっきり言え」
口が重い分、その時々に向けられる眼差しが、銀次の心根を物語っていると思う時がある。
銀次は昔から、こういう熱に浮かされている様な熱い眼差しを、よく金之助に向けて来る。
それは幼い頃から好き勝手に振舞う兄に対しての、怒りからくるものに違いない。
だがその切れ長な目で、射抜くように見詰められると、まるで銛に刺さった鯨の様に身体が痺れて動けなくなる。
父と、同じ目をしているからだと思った。
視界に鯨を捉えた時の、野獣のような獰猛な目。
|羽指《はざしとして生まれるべくして生まれた男のみが持つ野性の目を、この男も持っていた。
*ちぢくり…塩漬けにした鯨の皮を湯がいて、ちぢんだ白身を酢味噌で食べる料理
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