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偽家族
「……ッ!」
口惜しさと畏怖に近い気持ちが入り混じり、金之助の息がとつぜん荒くなる。
それを悟られまいと足早に、銀次の横を通り過ぎようとした時だった。
咄嗟に大きな手でグッと手首を掴まれて、金之助は振り返りざま面をあげた。
引き締まった顎を強く噛み締めた、憂い顔。
珍しく何か思い切った事を言う前の、この男の癖だった。
「……兄さん。また仁吉さんに会ってきたのか?」
急に図星をつかれたので、金之助は思わず言葉に詰まった。
銀次は野性の勘なのか、なんなのか。たまに確証をついてくる時がある。
鯨組で金之助が仁吉の情人である事は、周囲には暗黙の了解だった。
無論、金之助が自身の身体を仁吉に差し出す代わりに、三番隻に乗る権利を得ているという事も、組全員が知っている。
だが年功序列、捕鯨技術の優劣で格式が決まるこの組で、それに異を唱える者は殆ど居ない。
仁吉は今年四十を迎える古参の羽指で、その老練な銛突き技術は、他二人の親父を凌ぐと言われていた。
「やっぱり…。なぁ兄さん、仁吉さんは駄目だ。辞めとけよ。齢だって親子ほど違うし、何よりあの人には家族がある。きっと女将さんや子ども達も、陰で泣いていると思うンだ」
―——…は?
珍しく金之助の行く手を止めてまで、銀次が何を言い出すのかと思ったら。
なんだ蓋を開けてみたら、どうしようもないほど、くだらない説教だった。
それも、昔金之助家族の仲をぶち壊した妾の子が。
その妾の子が今、その言葉を俺に言うのか……?
カッとなった金之助は銀次の手を思い切り振り払うと、目の前の厚い胸板を渾身の力で叩きつけた。
「黙れ!この妾腹…ッ!」
年を経て大人になって、金之助も分かってきた。
あの頃の銀次も大人に翻弄された、金之助と同じ、哀れな子だった。
でもだからこそ、銀次は分かってくれていると思っていた。
心に同じ傷を負うもの同士。誰でもいいから求められたいというこの気持ちを、この男だけは。
―クソッ…!
目の前の銀次の身体は、金之助のやわな力で叩いても、微動だにしなかった。
一体何時から自分達は、こんなに違ってしまったのだろう?
つい数年前までは、自分がこの男を女にしていたはずだった。
「お前なんか…ッ!お前なんか…ッ!」
それでも金之助は、銀次の胸を叩き続けた。
ぱちぱちと魚が跳ねるみたいな軽快な音が、静かな土間に鳴り響く。
自分のせいで仁吉の妻子が地獄の苦しみに耐えている事など、とおの昔から知っている。
けれど仁吉に抱かれなくては、金之助は鯨取ではいられない。
羽指の才もなく、ひ弱で、女みたいな自分では、こうする事でしか海に出るのが叶わないのだ。
お前には分からないだろう?
鯨取りとして、ひなたの道を歩き続けてきたお前には――
「お前なんか、大っ嫌いだ」
気が済むまで叩き終えた金之助がそう言うと、銀次は顔色一つ変えず、切れ長な目を少しだけ眇めた。
「金蔵さん?金蔵さんはおらんかえ?」
不意にぺたぺたと廊下を歩く音がして、媚びる様な女の呼び声が聞こえた。
母だった。
母はこうやって夜中起きて誰も側に居ないと、家中を徘徊しだす。
銀次が咄嗟に、金之助の顔色を伺った。
実の息子より妾の息子を求める母の姿に、銀次なりに引け目を感じているようだった。
傍から見れば自分達は、二人兄弟と老いた母親の、どこにでもある普通の家族だ。
だがもしも今庖丁で腹に切り込みを入れたなら、三者三様どす黒い血が、とめどなく流れ出るに違いない。
「…—いいから、俺のことはいいから。早く返事してやれ」
金之助が頭を掻きむしりたくなるのを耐えてそう言うと、銀次の顔がほっと和らいだ。
「はい、——…お小夜さん。俺ぁここに居るぜ!」
銀次が土間を出て廊下に向かって叫ぶと、娘の様にはしゃぐ母の声が聞こえた。
「…じゃ、兄さん。おやすみなさい」
遠目で銀次が母の肩を抱いて、寝間へ戻ってゆく姿が見える。
金之助はその場にくずおれる様にしゃがみ込むと、銀次を叩いた拳から、黒々とした血が流れている事に気が付いた。
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