84人が本棚に入れています
本棚に追加
「なぁ。悠介」
呼びかけた哲平の声に、悠介がズボンのポケットから取り出した家の鍵がその返事のようにチャリと音を立てた。
「こうして会うの久々だし、一緒にゆっくり飯食わねぇ?」
哲平は電気の消えた真っ暗な自宅を顎で指し示すように言った。だが、誘いに乗ってくれそうな雰囲気さえあった悠介の顔が一瞬曇った。
どうしてなのだろう。どうして自分は悠介にこんな顔しかさせられなくなってしまったのだろう。
「──いや、やめとく。いま母さん一人にしとけないしな」
「そっか。そうだな」
哲平はただ引き下がるしかなかった。
「しばらくいんの?」
「うん。ずっとじゃないけど、しばらくは母さんの様子見に。来週親父の手術もあるし、落ち着くまではちょいちょい顔出すつもり」
「悠介って、いまどこ住んでんの?」
「言ってなかったっけ? ずっと松浜だよ」
「──え? 俺、職場松浜……」
そう答えると、悠介が驚いた顔をした。
「どこ勤めてんだっけ?」
なんという今更感。哲平は悠介が大学卒業後隣町のシティーホテルに就職したことを母親づてに聞いていたが、悠介のほうはそれすら知らなかったという事実。
「駅北の大通り沿いのアイコンシェルジュって店なんだけど」
「ああ。あの眼鏡屋か!」
「知ってんの?」
「や。店だけな? 哲平の職場ってのは初耳。地元に就職して家から通ってるっつーことしか」
昔は知らないことなどなかったというのに。あれから十数年経ったいま、お互いに対する情報量がこの程度だったということに愕然とする。
「悠介」
「ん?」
「また──会えるよな?」
そう訊ねたのは自分の希望。あの頃に戻れるとは思わない。けれど、あれほど仲の良かった幼馴染みとまたこのまま疎遠になってしまうのは嫌だと思った。
「はは。何だよ、それ? 会えんだろ? 家だって隣同士だし」
悠介が笑った。
「……そういうんじゃなくて」
哲平は唇を噛んだ。
「昔みたいに。普通に、友達としてって意味だよ」
なぜ、避けられたのか。どうして悠介は自分から離れて行ったのか。
理由があったのだとしたら、それを知りたい。自分が何かしたのならそれを改めたいし、ここからまた悠介との時間を取り戻せるものなら取り戻したいと思っていた。
「俺、あの頃悠介に何かしたか?」
それとなく悠介に訊ねたことがある。けれど、悠介は「何も」と少し悲し気に微笑むだけだった。
「……」
「なぁ! 何かしたかよ?」
哲平の言葉に悠介が困ったように微笑む。あのときと同じ顔。あれから随分月日が流れているというのに、また悠介に同じ顔をさせてしまう原因は一体何なのだろう。
「何もしてないって、昔から言ってるだろ? 俺もあの頃受験とか考えなきゃなんない時期だったし、高校行ったらそっちの友達とつるむようになるのも自然な事だろう? 家出たのは、早く自立したかっただけだし、そんなの普通の事だろ? 幼馴染みだからっていつまでも一緒ってほうがおかしいだろ」
悠介の言っていることは尤もだった。頭では分かっていた。分かっていた事だが、どこか自分の中で消化できない思いがあった。
もともと何かに執着するような性格ではなかったはずだった。
趣味でもスポーツでもハマれば精一杯取り組むほうだが、何をおいてでも譲れないものなどなかったはずだ。友人関係も恋人も、来るものは拒まず、去る者は追わず。それでいいと思っていたし、それを後悔することもなかった。
なのに、何年たってもここに拘ってしまうのは、ある種の執着なのか。
「だったら、連絡先教えろよ」
哲平が言うと、悠介が一瞬驚いた顔をしてから静かに目を伏せた。
──まただ。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「何で、そこで困った顔すんだよ? 俺が迷惑?」
「そうじゃない」
「んじゃ、いいだろ。携帯教えろよ」
自分でも不思議だと思う。どうして悠介に執着してしまうのか。
離れて行ったことを、まぁ仕方ないといつものように済ませてしまえないのはなぜだろう。
「……分かったよ」
そう答えた悠介が羽織ったブルゾンのポケットからスマホを取り出した。それからまるで呪文のように早口で携帯番号を口にする。
「──ちょい、待てって!!」
哲平もスーツのポケットからスマホを取り出して、ダイヤル画面を出して悠介の口から吐き出される番号を慌てて指でタップしていくが、途中で分からなくなった。
「だぁっ! ……もう一回最初から!」
「すぐ覚えろよ、たかが十一桁の数字くらい」
「るさいっての。悠介ほど頭良くねぇの、俺は!」
言い訳のように口にすると、悠介の表情がふっと緩んだ。
「……何だよ?」
「いや? 懐かしいなって思って。哲平、昔から数字弱かったもんな」
悠介が仲が良かった当時の事を思い出したかのように呟いた。哲平は悠介を見つめながらそうだな、と言いかけた言葉を敢えて呑み込んで、スマホに入力した数字の羅列からダイヤルをタップした。
するとすぐに悠介の手の中のスマホがピリリと鳴り、青白い光を放つ。
「ははっ。もう一回とか言ってたくせにちゃんと聞き取れてんじゃん」
悠介がスマホの画面を哲平に向けて、クスと笑う。画面に表示されているのは間違いなく哲平の携帯番号だ。悠介はしばらく画面を見つめていたが、やがて鳴り続けている電話を切るとスマホをブルゾンのポケットに戻した。
「哲平。ほんと強引な、昔から」
そう言った悠介の言葉は、決して哲平を咎めているようではなかった。
昔からそうだった。小さい頃はよく喧嘩もした──が、最終的に折れてくれるのはいつだって悠介のほうだった。
「……それじゃ、またな」
別れ際、哲平は敢えて念を押すように言った。
「ああ」
悠介が少し困ったような呆れたような表情で返事をすると、玄関の鍵を開けて家へと入って行った。
哲平はそんな悠介を見送ってから門戸に手を掛け、玄関先でスーツのポケットから煙草を取り出して火を点けた。家に誰もいないのが分かっていてもこうして律儀に玄関先の喫煙所で煙草を吸うのは、すっかり染み付いたある種の習慣だ。
手に提げたままのコンビニの袋がガサ、と音を立てる。
無理矢理連絡先を聞き出したこと。多少強引であったのは認めるが、拒絶はされなかった。
長年途切れたままになっていた自分と悠介を繋ぐ糸を、どうにか手繰り寄せたことに無意識に頬が緩んだ。
「……ガキみたいだな」
そうだ。自分は寂しかったのだ。
ずっと続いていくと信じて疑いもしなかった悠介との友人関係が、まさかあんなにもあっけなく途切れてしまうなんて事を、あの時までは想像もしていなかった。
離れて行った悠介に恨みがましい気持ちを持ったことはなかった。
ただ、どうしてなのだろう? 自分が何かしたのだろうか? できるならあの頃みたいに、ごく自然な友人関係を取り戻したい、ただそれだけを願っていた哲平だった。
ぼんやりと手にした煙草の先の煙を眺めていると、サワサワと髪を撫でる夜風とともに、どこからともなく桜の花びらが舞った。
哲平の家から数メートル離れたところにある小さな公園に、桜の木が一本植えられているのを思い出した。
小学校低学年くらいの頃だっただろうか。不格好に突き出た幹を足場に、どちらが早く上まで登れるかなどと無邪気に競い合った思い出が蘇る。
「はは……」
悠介のことが大好きだった。それは出会った頃から今までずっと。
仲のいい友達はそれなりにいたが、哲平にとって悠介は特別だった。たぶん、それは今でも──。
最初のコメントを投稿しよう!