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美しい日本から美しい日本へ
頭の大きな漫画のキャラクターのような棒人間が立つ。手には三叉の杖。獣らしきものも彫られている。
ここは北海道の道央圏にある洞窟だ。最寄り駅から離れているので、貴重な歴史遺産だが観光地としては有名ではない。
札幌の大学で北海道論を学んでいる僕は、夏休みの課題を書くために洞窟を見に来た。道内の施設を見学してレポートを提出しなくてはいけない。おおかたの学生が市内か札幌近郊の施設で済ませるだろうと目論んだ僕は、片道五千円かけてこの地まで来た。
資料館のガラス越しに見た洞窟に彫られた人と獣らしきもの。
ああ、ただそれだけのために僕は金をはたいたのか。しかも、資料館係員は「彫られた理由はわからない」ときた。
「くそ、これならネットで調べても同じじゃないか!」
係員が去ったあと、資料館の床を蹴ろうとしたら滑った。
――客が来ないのに、綺麗に磨きあげるんじゃねぇよ!
文句は声にならない。天井が見える。そう気づいてすぐ。僕は後頭部を床に打ちつけた。
……固いものを削る音が聴こえる。
起き上がると、資料館はなかった。洞窟の壁面を人々――僕とそう変わらない服をまとっている――が尖ったもので削っている。
「線はあくまで単純に。そうだ、なにも知らない人間が作り上げたように。私たちの賢さが未来人に悟られないように!」
「はい!」
「あなたたちはなにをしているんですか?」
人々を先導していた男――僕と同じ二十歳前後くらいだろう――に声をかけた。
「きみも手伝ってくれないか? いま未来に残す遺産を作っている。みんな、文字は残すなよ。解読される恐れがあるからな。我々は未来に美しい日本を残すんだ! ほら、きみもこれでメッセージを残して」
男にナイフのようなものを手渡されて僕は困った。
「きみは使えないな。じゃあ、飛翔粒を飲んで削った土を運んで」
男はナイフのようなものを僕から取り上げると、ライチの種のような赤い粒をいくつかよこした。
「飛べなくなったときにまた飲み込むんだぞ」
粒をひとつ飲み込んだ。食道から胃に落ちたと思った途端、背中がかゆくなる。
服が破け、背中に羽根が生えた。
僕は空を飛んで土を運んだ。終わった直後に羽根が抜け落ちた。物陰に隠れ、彼らの様子を窺う。彼らのいる洞窟には、僕が資料館で見たメッセージはない。
夢か、タイムスリップか。後者と賭けた。余った粒を僕は洞窟の壁面に埋めた。あとはどうやって戻るかだ……そう考え込んでいたら、石に躓き僕は気絶した。
意識を失いつつも僕は笑った。
現代に戻った僕は、係員の隙をついて資料館のガラスを外した。くすんだ色の粒がよっつ洞窟の壁面に埋め込まれている。この粒を飲めば、札幌のアパートまで帰れる。五千円が浮く!
僕は粒をひとつ飲んだ。変化は起きない。ふたつ、みっつ、よっつ飲み込む。
……笑い声が頭に響く。
――やはりおまえは、遠くから来た者だったのか。
あの男の声だった。
――我々の文明を容易く盗む、同じ美しい日本に住む同志よ。
眉間が痛い。なにかが飛び出してきた。
――粒はすり替えた。おまえの住む美しい日本が真っ当な国ならば、おまえがどんな姿になっても人々は愛するだろう。みてくれの美だけを求める滑稽な美しい日本ならば、おまえを見る世間の目は……。
錆びついたような色の角が、僕の眉間から生えていく。サイのそれと同じくらいになると成長は止まった。
――未来人よ、おまえがいる日本は本当に美しい日本なのか? おまえがどんな目に遭っているか見られないのが残念だよ。
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