食い詰め

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 貪っていた。ほとんど獣と変わらない勢いで、浪人の滑川佐次郎は目の前の食物を吸い込むように食べている。  椀が空くとすぐ、女将の美代がお代わりを持ってくる。何度、滑川と台所を往復したか分からないほどだったが、美代は嬉しそうな笑みを浮かべている。 「残り物ばかりで悪いね。もう、店じまいをと思っていたから」 「とんでもない。おかげで、命拾いしました」  ようやく箸の動きも落ち着いた滑川が、がらがら声で礼を言った。  先ほどまで、滑川は美代が切り盛りする一膳飯屋〔はらのむし〕の近くで倒れていた。小川の側で倒れているのを、店から出た客が見つけ、運んできたのである。 「お侍さん、どうしてあんなところに?」  滑川の膳に飯を盛った椀を置きながら尋ねる。 「情けない話だが、藩を追われてな。江戸なら仕事の口もあるかと来てみたが、思うようにいかず。いろいろな武家屋敷を訪ね歩いているうちに金もなくなった。せめて水をと川に近づいたところで、気が遠くなってしまったのだ」  恥ずかしげに俯く。 「じゃあ、行き場がないわけだ」 「そうなるな」  美代が細い腕を組んで、考える素振りをした。三十を少し過ぎたくらいに見える彼女以外に、店の者はいない。逞しい口調や眼差しとは対照的に、その体つきは心もとなく見える。 「なら、ここにいるといいよ。しばらく居候させてあげる」 「そこまで世話になるなど……」 「いいって。この辺の客、荒っぽいの多いし。お侍さんがいてくれれば、私も安心できるから」 「しかし……」 「いいから、さ。飢え死になんてされたら、目覚めが悪いから」  そう笑う美代に押し切られ、滑川は働き口が見つかるまでの間、〔はらのむし〕で厄介になることになった。  十日ほど、経った。朝は仕入れの手伝いをし、それから夕刻に店を開けるまでの間、藩邸を訪ねて回る。店が開いてからは、用心棒代わりに店の片隅でじっとしている。そして店が閉まってから、裏山で真剣での稽古を始める。 「刀」  様子を見に来た美代が言った。 「質に入れなかったのね。浪人してお金に困ると、刀を竹光に代えるのが普通じゃない?」 「これは、武士の、俺の魂だ。それを金に換えるくらいなら、一緒に死ぬ」  銘刀の部類だった。売れば、小さな店を一軒買えるだけの金は手に入るだろう。 「強情ね」 「それが武士だ」  月明かりを刃が反射して、その光が美代の白い肌を闇に浮かび上がらせる。ただ、美代を見ていた。  翌日。仕入れから帰ってくると、店の前に町方同心らしい男が立っていた。あら、と美代が声をあげる。 「中山さま、何かご用で?」  中山と呼ばれた同心は五十代くらいに見えた。深い皺が数本に、しみが三カ所。滑川を気にする様子で、 「頼まれていたことで、な」  小声で言うと、美代が飛びつくように走り寄った。目で滑川に待っているよう伝えると、二人は小声で言葉を交わした。それから、財布の中身を全て渡してしまった。仕入れの後だが、それでも見たところ、二分ほどはあるようだ。  何度も頭を下げる美代に手で応え、中山は去った。急いで美代の方へ行き、 「なんだ、今の役人は?」 「ああ。ちょっと世話になっていてね」  彼女らしくない歯切れの悪さに不審を覚えた滑川は、藩邸を廻ってくると嘘をついて、中山を探した。この辺りが持ち回りらしく、さほど歩かないうちに見つけることができた。 「おめえは、〔はらのむし〕の……」 「美代どのは、なぜ大金を払った。まさか、脅しているのではあるまいな?」 「馬鹿いうな。あれは、礼金さ。あいつの亭主を殺した男の居場所を、探してやったのさ」 「亭主が、殺された?」 「なんだ、知らねえのか」  滑川は美代の身の上について、彼女自身に尋ねることはしなかった。それが、恩人への礼儀だと思ったのだ。 「あの店は、もとは夫婦でやっていたんだよ。だが去年、酔っ払った客に亭主が斬り殺されてな。その客ってのが、大身旗本の三男坊で、目付もすぐには手が出せなかった。根回し、ってのが必要なんだ。そうこうしているうちに、三男坊はどこかに身を隠しやがった。目付も諦めたよ。内心じゃ、大物を相手にせずに済んで、喜んでいるかもな。  ただ、女将が納得するわけがねえ。そこで、俺が三男坊捜しを頼まれたってわけさ」 「それで、見つけたのか」 「ああ」 「教えろ」 「ただ、ってわけにはいかねえ」 「役人が、汚いことを言うものだな」 「世の中は金さ。金さえ積めば、人殺しを引き受けてくれる奴だっているって話だからな」  中山は諦観の滲んだ顔で笑った。 「ちっ」  苦々しい表情で、なけなしの金を出した。美代が持たせてくれた金だった。 「話が分かる」  舌なめずりをするような顔をして、中山が金を受け取った。三男坊は、矢柳要三郎というらしい。  その晩、店を閉めてから美代と滑川は堅い表情で向き合っていた。  美代が、店を閉めると言い出したのだ。 「なぜだ。亭主の仇を見つけたからか?」 「中山さまから聞いたの?でも、そんな理由じゃないの。単に、一人で店を続けるのが辛くなっただけ。深川の料亭で、雇ってくれる店が見つかったの。人に使われてる方が、私は楽」  蔭のある笑顔。信じることはできなかった。 「お店を売ったら、少しはお金が入るから。しばらくの宿代くらいは、餞別代わりにあげられる」 「そんなもの、いらん!」 「そう……」  虚ろな眼差し。疲弊。その奥に、妙に冷たい覚悟が見て取れた。  もしや。  頭の中に、嫌な想像が浮かぶ。  翌日、美代は店を売却する手続きを済ませ、日が落ちる頃に姿を消してしまった。  いよいよ、滑川が抱く不安が確度を増してきた。  美代は、仇を討つつもりだ。差し違える覚悟かもしれない。  駆けた。向かったのは、浅草寺近くにある寮だった。備中屋という蝋燭問屋の寮で、ここに矢柳要三郎が匿われていると、中山はいった。暗い竹林の中を進んでいくと、生け垣に囲まれた寮が見えてきた。明かりがついている。  低い姿勢で中を窺う。平凡な生活の気配がある。何人もいる、というかんじではない。まだ、美代は来ていないようだ。安堵と同時に、頭を悩ませ始めた。勢いでここまで来たが、どうすればいいのか。美代を止めるだけならば、ずっと待ち受けていればいい。だが、止めたところで解決する話だろうか。 「美代どのの恨みは、消えはしない」  腰に差したモノの重みを感じた。刀。どうせ武士として再起することは難しい。ならば、これは何のためにあるのか。  息を吸った。夜の空気。身体の中が冷えていく。代わりに、腹の底で熱が高まっていく。  できるだけ音を立てるように、門を蹴破った。すぐさま、身を陰に隠す。 「だ、誰だ!」  様子を見に来たのは、腰の曲がった老人だった。おそらく、要三郎の身の回りの世話を任されているのだろう。  顔を見られないように注意し、鞘に差したままの刀で鳩尾のあたりを突いた。苦しそうに息を漏らし、老人は気を失った。 「すまない」  庭に足を踏み入れる。手頃な大きさの石を拾う。明かりのついた部屋に向かって、投げつけた。障子に穴が開くのを確認してから、縁の下に身を隠した。 「な、何者だ!」  障子の開く音。踏み出してこい。破裂しそうな心臓を抑えながら、鞘を払った。  縁の上に来たら、刀で突き上げるつもりだ。  だが、 「うあっ」  小さな悲鳴。そして、重い物が落ちる音が響いた。まだ、何もしていないのにだ。 「何が起こった?」  おそるおそる縁から身を出すと、背後から布で目を塞がれた。右手に手刀のようなものを受け、刀を落としてしまう。 「悪いな。顔を見られたら、生かしておけなくなっちまうからよ」  男の声。布か何かで口を覆っているのか、くぐもった声だ。前方から聞こえる。だが、目を塞ぐ者は後ろに。二人組だ。 「誰でしょう、こいつ?」  後ろからの声。これも、男の声だ。 「同業か、私怨か。碌でもない男だったらしいからな。恨みの筋はいくらでもあるだろうよ。先を越されなくてよかった」 「お前たちは、誰なんだ?要三郎をどうした?」  声が、自分のものとは思えないほど震えている。 「生きていたければ、おとなしくしろ。無駄な殺しはしたくない」 「殺し?」 「三十だ。三十数えたら、目隠しを取っていい。だが、言うことを聞かなければ、お前もあの坊ちゃんと同じ目に遭うぞ」  背筋まで響く冷たい声。 「いいな?」  ふっと二人の気配が消えた。混乱する意識の中で三十数えると、ゆっくりと目隠しを取った。 「これは……」  部屋の中で、男が倒れている。要三郎だろう。息は、もうない。口もとに、泡が残っている。首筋には、小さな傷。 「あの二人の仕業か。しかし、なぜ」  そこで、中山の言葉を思い出した。「金さえ積めば、人殺しを引き受けてくれる奴だっている」。もしや、あの二人が。   三日後の昼、泉幻寺という寺のある墓の前に滑川はいた。一昨日からずっと通っている。  足音。見ると、目を丸くした美代がいた。墓は、美代の亭主のものだったのだ。 「どうして、ここに?」 「会えるとしたら、ここかと」  歩み寄り、懐から袱紗の包みを出した。美代の手を取り、掴ませる。包みの中身を見て、滑川を見上げる。中身は小判だった。それも、三十両ある。 「どうしたの、これ?」 「ふふ」  滑川は微笑みながら、刀を抜いた。竹製の刃が姿を現す。 「売ったの?」 「店を買い戻すくらいの金にはなるかと思ってな」  寮からの帰り道、美代が店を売った理由を考えた。手に入った金の使い道。見当はすぐついた。 「大切なものなのに、なんてことをしたの!」 「これしか、恩を返す術が思いつかなかった」  澄んだ笑み。それを見て、美代の肩からも力が抜けた。  要三郎を殺そうと決意したとき、すでに武士としての尊厳は諦めていた。いや、もしかしたらずっと前から。 「馬鹿ね」 「それも、武士だ」  言ってから、 「ああ、もう違うか」  目を細めて、水色の空を見上げた。
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